20. 彼岸過迄 3

  「閑静な膳に慣れた母は、此賑やかさの中に実際叔父の言葉通り愉快らしい顔をしてゐた。母は内気な癖に斯ういふ陽気な席が好きなのである。」
 これは高木に対する「嫉妬」と同じである。須永は自分が不愉快な気分に悩まされている時に母が陽気にしているのが気に入らない。そして須永は自分が陽気になれないことを否定的に観察している。
  「気楽さうに見える叔父は其内大きな鼾声をかき始めた。吾一もすやすや寐入つた。たゞ僕丈は開いてゐる眼をわざと閉ぢて、更ける迄色々な事を考へた。」
 須永に色々なことを考えるのは和歌山に行った時の二郎と同じである。現実との関係が確定していないために生ずる非現実的な妄想の展開がインテリには思索的に見える。須永は自分の思索に価値を認めていない。こういう無力な心理的葛藤を逃れたいと考えている。思索を誇りながら一方で不毛な思索に疲れて端的な心理や人間関係を求めていた初期作品では、矛盾を避けること、ないと思い込むこと、都合よく解釈することが解決策とされていた。これは矛盾をなくすことではなく粉飾することであるから、再び激化した矛盾が現実化する。矛盾を取り込み展開することによって矛盾をより高度な矛盾に発展させる須永の方法が唯一の現実的な方法である。
  「僕は一度振り返つて見たが、二人は後れた事に一向頓着しない様子で、毫も追ひ付かうとする努力を示さなかつた。僕には夫がわざと後から来る高木を待ち合せる為の様にしか取れなかつた。それは誘つた人に対する礼儀として、彼等の取るべき当然の所作だつたのだらう。然し其時の僕にはさう思へなかつた。さう思ふ余地があつても、さうは感ぜられなかつた。早く来いといふ合図をしやうといふ考で振り向いた僕は、合図を止めて又叔父と歩き出した。」
  「彼は突然彼の体格に相応した大きな声を出して姉妹を呼んだ。自白するが、僕は夫迄に何度も後を振り返つて見やうとしたのである。けれども気が咎めると云ふのか、自尊心が許さないと云ふのか、振り向かうとする毎に、首が猪の様に堅くなつて後へ回らなかつたのである。・・・
  叔父と僕は崖の鼻に立つて彼等の近寄るのを待つた。彼等は叔父に呼ばれた後も呼ばれない前と同じ遅い歩調で、何か話しながら上つて来た。僕には夫が尋常でなくつて、大いに巫山戯てゐる様に見えた。・・・」
  「僕は此呑気な教へ方と、同じく呑気な聞き方を、如何にも余裕なくこせついてゐる自分と比べて見て、妙に羨ましく思つた。」
 須永は下らない心理的経験を蓄積すると同時に対照的な端的な心理を観察することでも自分の葛藤に対する否定的評価を蓄積している。プチブルに見られるこの下らない心理を誤魔化すことなく自己の本質として直視するのが須永の精神の真摯さでありレベルの高さである。
  「同時に此無意味な行動のうちに、意味ある劇の大切な一幕が、ある男とある女の間に暗に演ぜられつゝあるのでは無からうかと疑ぐつた。さうして其一幕の中で、自分の務めなければならない役割が若し有るとすれば、穏かな顔をした運命に、軽く翻弄される役割より外にあるまいと考へた。最後に何事も打算しないで唯無雑作に遣つて除ける叔父が、人に気の付かないうちに、此幕を完成するとしたら、彼こそ比類のない巧妙な手際を有つた作者と云はなければなるまいといふ気を起した。」
 田口にも母にも千代子にも須永が想定する心理はない。高木や田口や千代子と接することで常に沸きだす憶測はインテリに特有の二重性である。須永はこの心理が無意味で非現実的であり、対象と関係しないことをすでに理解して苦しんでいる。しかし須永の葛藤はそれが無意味であることを理解しても解消されない。この心理を解消するには自己肯定的な意識に決定的な打撃を与えなければならない。須永はこの打撃を回避しようとする自己保身的な精神と闘いながらこの打撃を受け入れる努力をしている。
  「僕は始めから千代子と一つ薄縁の上に坐るのを快よく思はなかつた。僕の高木に対して嫉妬を起した事は既に明かに自白して置いた。其嫉妬は程度に於て昨日も今日も同じだつたかも知れないが、それと共に競争心は未だ甞て微塵も僕の胸に萌さなかつたのである。僕も男だから是から先いつ何んな女を的に劇烈な恋に陥らないとも限らない。然し僕は断言する。若し其恋と同じ度合の劇烈な競争を敢てしなければ思ふ人が手に入らないなら、僕は何んな苦痛と犠牲を忍んでも、超然と手を懐ろにして恋人を見棄てゝ仕舞ふ積でゐる。男らしくないとも、勇気に乏しいとも、意志が薄弱だとも、他から評したら何うにでも評されるだらう。けれども夫程切ない競争をしなければ吾有に出来にくい程、何方へ動いても好い女なら、夫程切ない競争に価しない女だとしか僕には認められないのである。僕には自分に靡かない女を無理に抱く喜こびよりは、相手の恋を自由の野に放つて遣つた時の男らしい気分で、わが失恋の瘡痕を淋しく見詰めてゐる方が、何の位良心に対して満足が多いか分らないのである。」
 高木に対して競争心が起こらないこと、さらに一般に競争をするより敗北を選ぶことは須永の基本的傾向である。競争による積極的な関係の意義を経験できず、またその能力を蓄積しなかった須永は競争を否定的に評価し競争を回避している。競争を回避する理由は須永の思いつきに過ぎない。須永は自分の能力が競争において検証されることを恐れ、現状を維持することをそのままで認め合える人間関係を望んでいる。自分の価値を疑問を持つ須永には自分の価値に少しでも疑問を持つような女はいらないという自尊心が生まれる。「超然と手を懐ろにして」、自分が犠牲を忍び、相手を自由にしているという肯定的評価で自分の無力に耐えること、それを男らしいと呼ぶこと、こうした心理は多くの軟弱なインテリの苦しい自己弁護である。現実的敗北を経験することを避けるために敗北を自分の選択と解釈するのが彼らの自衛的自尊心である。須永が競争という言葉で否定的に表現している人間関係は一般に矛盾の中で発展する。人間関係は自分の価値や能力を発揮し発展させる場所である。資本主義的な競争が生み出す矛盾は須永の認識などまったく届かない遠い課題であり、須永はまず自分か競争に敗北する地位にあることを認識しなければならない。しかも財産によって社会的に孤立している須永は自分の無力を現実に接する機会を失ったままの状態で認識しなければならない。財産の庇護下で瑣末で不毛な葛藤の展開によって自己を破滅に導き、財産によって社会から隔離されている限り積極性を獲得できないという結論を得ることが須永の自己認識の発展過程である。
  「僕は何故母が彼等の勧める儘に、人を好く落ち付いてゐるのだらうと、鋭どく磨がれた自分の神経から推して、悠長過ぎる彼女を歯痒く思つた。
  高木には夫から以後ついぞ顔を合せた事がなかつた。千代子と僕に高木を加へて三つ巴を描いた一種の関係が、夫限発展しないで、其中の劣敗者に当る僕が、恰も運命の先途を予知した如き態度で、中途から渦巻の外に逃れたのは、此話を聞くものに取つて、定めし不本意であらう。僕自身も幾分か火の手のまだ収まらないうちに、取り急いで纏を撤した様な心持がする。と云ふと、僕に始からある目論見があつて、わざわざ鎌倉へ出掛けたとも取れるが、嫉妬心だけあつて競争心を有たない僕にも相応の己惚は陰気な暗い胸の何処かで時々ちらちら陽炎つたのである。僕は自分の矛盾をよく研究した。さうして千代子に対する己惚を飽迄積極的に利用し切らせない為に、他の思想やら感情やらが、入れ代り立ち替り雑然として吾心を奪ひに来る煩らはしさに悩んだのである。」
 母は須永と同じ葛藤を持たない。千代子と須永と高木が三つ巴の関係になったこともない。中途から渦巻きの外に逃れたというのは須永が自分の内的葛藤から逃れたことだけを意味する。客観的にはブルジョア的財産に関わる結婚において高木と須永が競争することはあり得ない。高木や田口は須永を問題にしていない。高木との競争も競争の回避も須永の空想の中でのみ生じる。須永は自分の内的葛藤に耐えきれなかったことを不本意と感じている。しかしいくら物足りなくても須永には千代子との関係をこれ以上進展させることはできない。須永には千代子に接近するための具体的な欲望も、したがって具体的な行動もない。須永は千代子との接近で可能な葛藤をすべて経験し、しかもそれ以上の展開がないことを理解して東京に帰ったことになる。
 ブルジョア的果実に望みを持たない須永を悩ますのは須永の精神に反映したブルジョア的価値観である。千代子との結婚をめぐるブルジョア的競争で須永が優位に立つことはあり得ない。須永の課題は彼の内部に存在する高木や千代子、即ちブルジョア的価値観の払拭である。しかしブルジョア的価値観における自己否定は田口や千代子との分離を意味しており、その結果は自己の社会的価値の否定であり社会的孤立である。だから動揺は必然である。この動揺の意義を理解できずに、単に動揺として批判するのは代助ないし初期作品への後退である。初期作品の人物が自己確信を持っていたのは自己とブルジョアの関係についての無知による。自己の没落を自己の本質として受け入れることが「門」を前にした漱石の覚悟であった。自己内のブルジョア的な価値観を否定することが全的な自己否定となるためにプチブルの立場からブルジョアを批判するのは非常に困難である。しかしこの困難な課題の後に始めてプチブルの自己肯定が可能になる。
  「彼女は時によると、天下に只一人の僕を愛してゐる様に見えた。僕は夫でも進む訳に行かないのである。然し未来に眼を塞いで、思ひ切つた態度に出やうかと思案してゐるうちに、彼女は忽ち僕の手から逃れて、全くの他人と違はない顔になつて仕舞ふのが常であつた。僕が鎌倉で暮した二日の間に、斯ういふ潮の満干は既に二三度あつた。或時は自分の意志で此変化を支配しつゝ、わざと近寄つたり、わざと遠退いたりするのでなからうかといふ微かな疑惑をさへ、僕の胸に烟らせた。それ許ではない。僕は彼女の言行を、一の意味に解釈し終つたすぐ後から、丸で反対の意味に同じものを又解釈して、其実何方が正しいのか分らない徒づらな忌々しさを感じた例も少なくはなかつた。
  僕は此二日間に娶る積のない女に釣られさうになつた。さうして高木といふ男が苟しくも眼の前に出没する限りは、厭でも仕舞迄釣られて行きさうな心持がした。僕は高木に対して競争心を有たないと先に断つたが、誤解を防ぐために、もう一度同じ言葉を繰り返したい。もし千代子と高木と僕と三人が巴になつて恋か愛か人情かの旋風の中に狂ふならば、其時僕を動かす力は高木に勝たうといふ競争心でない事を僕は断言する。夫は高い塔の上から下を見た時、恐ろしくなると共に、飛び下りなければ居られない神経作用と同じ物だと断言する。結果が高木に対して勝つか負けるかに帰着する上部から云へば、競争と見えるかも知れないが、動力は全く独立した一種の働きである。しかも其動力は高木が居さへしなければ決して僕を襲つて来ないのである。僕は其二日間に、此怪しい力の閃を物凄く感じた。さうして強い決心と共にすぐ鎌倉を去つた。」
 高木は現実の高木ではなく須永の内部にある高木であり、彼が問題にしているのは自分自身である。須永が無意識的に問題にしているのはブルジョアにとっての自分の価値であり、彼の屈折した心理は高木や千代子との関係によってのみ生ずるから、その心理の正体を理解しようとする須永には高木や千代子は自己認識の契機として必要である。客観的には千代子が須永を愛しているという根拠はないし須永も千代子の愛情を求めていない。だから彼は偶然によって千代子が自分を愛していると感じても、彼女が自分を愛していないという想定が現れて実践的な力を削ぐことになる。須永も時にはこの動揺が千代子の意図した態度によるのではないかと馬鹿げた解釈を下すことはあるが、それはすでに須永にとってもっとも説得力を持たない偶然的な思いつきの一つである。
 須永が言明しているように須永に高木との競争心はない。したがって「もし千代子と高木と僕と三人が巴になって恋か愛か人情かの旋風の中に狂ふならば」というのは非現実的な想定である。須永の認識内部においても高木との競争などあり得ないほど勝敗ははっきりしている。須永は自分の内面で競争の危機を想定することで自己内の高木との競争心を解消する以外にない。須永には高木との現実的な競争の機会はない。競争を経験できない者だけが非現実的な激しい競争を想定し、その激しさを自分が避けていると想定する。須永が経験している不毛な葛藤は激しい競争を経験できる場合は生じない。須永の不幸は財産の庇護下にあるために激しい競争に追い込まれる可能性がなく、その能力を形成する機会を持たなかったことである。激しい競争内部で生じる矛盾の解決は激しい競争を経験し、その必然的な否定形式を発見することによってのみ可能であり、競争から外れている須永の課題ではない。
  「僕は強い刺戟に充ちた小説を読むに堪へない程弱い男である。強い刺戟に充ちた小説を実行する事は猶更出来ない男である。僕は自分の気分が小説になり掛けた刹那に驚ろいて、東京へ引き返したのである。だから汽車の中の僕は、半分は優者で半分は劣者であつた。比較的乗客の少ない中等列車のうちで、僕は自分と書き出して自分と裂き棄てた様な此小説の続きを色々に想像した。其所には海があり、月があり、磯があつた。若い男の影と若い女の影があつた。始めは男が激して女が泣いた。後では女が激して男が宥めた。終には二人手を引き合つて音のしない砂の上を歩いた。或は額があり、畳があり、凉しい風が吹いた。二人の若い男が其所で意味のない口論をした。それが段々熱い血を頬に呼び寄せて、終には二人共自分の人格に拘はる様な言葉使ひをしなければ済まなくなつた。果は立ち上つて拳を揮ひ合つた。或は……。芝居に似た光景は幾幕となく眼の前に描かれた。僕は其何れをも甞め試ろみる機会を失つて却つて自分の為に喜んだ。人は僕を老人見た様だと云つて嘲けるだらう。もし詩に訴へてのみ世の中を渡らないのが老人なら、僕は嘲けられても満足である。けれども若し詩に涸れて乾びたのが老人なら、僕は此品評に甘んじたくない。僕は始終詩を求めて藻掻いてゐるのである。」
 強い刺戟とか弱い男といった形式規定には自分の具体的規定を避けようとする消極性が現れている。須永は自分の社会的特徴を規定できない。高木と千代子と須永には須永が想定するような関係は生じておらず、彼が空想するような対立関係もあり得ない。これは現実的矛盾に塗れることができない者の、自分を肯定するための想定である。無為な代助が処刑の場面を空想するのと同じ傾向である。こうした事態を避けるために身を引いたのではなく、身を引いたことを弁護するためにこうした空想を生み出した。須永には守るべき具体的な利益がなく、闘う必要がなく、したがって対立を闘い抜く勇気がない。千代子を愛しておらず、千代子との結婚を利害としても必要としていない須永に高木と激しく闘う意志も能力もあり得ない。須永の弱点は彼が危険を冒して闘って守るべき利益と、それを反映した具体的欲望、情熱を持たないことである。激しい対立を回避したことを自分の為に喜ぶのは実際憐れむべき心理である。そして須永がまだ干からびた老人ではなく、まだ詩を求めてもがいている段階にあることがこうした空想に現れているが、同時にそれは彼が干からびた老人になりつつあること、それ以外に可能性が残されていないことを物語っている。詩を求めてもがくことは干からびた老人でないことを証明するのではなく干からびた老人になる過程にあることを示している。誰もがこのようにもがきつつ精神を干からびさせて行く。
  「僕は東京へ帰つてからの気分を想像して、或は刺戟を眼の前に控へた鎌倉にゐるよりも却つて焦燥つきはしまいかと心配した。さうして相手もなく一人焦燥つく事の甚しい苦痛を徒らに胸の中に描いて見た。偶然にも結果は他の一方に外れた。僕は僕の希望した通り、平生に近い落付と冷静と無頓着とを、比較的容易に、淋しいわが二階の上に齎らし帰る事が出来た。」
 須永が鎌倉に刺激を求めて行ったことがここに書かれている。刺激に疲れた結果孤独な生活が平安に感じられる。須永は人間関係に接するとき不毛な葛藤に苦しめられる。だから人間関係から逃れることで葛藤のない平安を得られる。しかしこの冷静と無頓着は鎌倉での屈折した感情と同一である。人間関係を喪失した孤立状態の中で平安の不安から必然的に鎌倉での対立を望む心理が形成される。この繰り返しは須永が高木や千代子を相手に繰り返す葛藤の波長を大きくしただけで本質的には同じである。須永の精神の展開の形式は非常に限定されている。
  「僕はかつて此男と小説の話をして、思慮の勝つたものは、万事に考へ込む丈で、一向華やかな行動を仕切る勇気がないから、小説に書いても詰らないだらうと云つた。僕の平生からあまり小説を愛読しないのは、僕に小説中の人物になる資格が乏しいので、資格が乏しいのは、考へ々々して愚図つく所為だらうと兼々思つてゐたから、僕はつい斯ういふ質問が掛けて見たくなつたのである。」
 現実と積極的関係を形成し得ず現実から遊離した内的葛藤を引き起こすだけの人物を小説にしても詰まらないだろうという須永の感想は漱石のこの時期の小説の意義を示している。非現実的なインテリ精神が現実的影響力を持つと考えていた初期作品ではインテリ精神の社会的な影響力を構成する必要があった。その場合インテリの社会的積極性を強く想定するほど小説は滑稽になり芸術的価値を失う。インテリ精神の無力を理解した漱石は現実社会と分離した内省的な精神の展開を描写しなければならなくなった。漱石の作品の発展はインテリ精神の非現実性を描くことにおいて現実性と歴史性を獲得している。
  「僕の頭は僕の胸を抑える為に出来てゐた。行動の結果から見て、甚しい悔を遺さない過去を顧みると、是が人間の常体かとも思ふ。けれども胸が熱しかける度に、厳粛な頭の威力を無理に加へられるのは、普通誰でも経験する通り、甚しい苦痛である。僕は意地張といふ点に於て、何方かといふと寧ろ陰性の癇癪持だから、発作に心を襲はれた人が急に理性の為に喰ひ留められて、劇しい自動車の速力を即時に殺す様な苦痛は滅多に嘗めた事がない。夫ですら或場合には命の心棒を無理に曲げられるとでも云はなければ形容しやうのない活力の燃焼を内に感じた。二つの争ひが起る度に、常に頭の命令に屈従して来た僕は、或時は僕の頭が強いから屈従させ得るのだと思ひ、或時は僕の胸が弱いから屈従するのだとも思つたが、何うしても此争ひは生活の為の争ひでありながら、人知れず、わが命を削る争ひだといふ畏怖の念から解脱する事が出来なかつた。」
 これは人間一般の常態ではない。頭と胸の対立は現実と積極的関係を持ち得ないインテリ的精神に特有の葛藤である。現実社会から孤立した無力な彼らは現実社会に実践的に対処する前に形式的にのみ激しい頭と胸の葛藤に苦しむ。現実社会から遊離し孤立した彼らの理性も情熱も現実的な内容を持たず、実践的な力を持たない。彼らの頭と胸の葛藤の全体が現実と対立している。現実的な精神においては頭と胸、情熱と理性は一致しており対立関係にない。頭と胸の対立の苦悩の本質は現実に対する無力である。
  「親友の命を虫の息の様に軽く見る彼は、理と情との間に何等の矛盾をも扞格をも認めなかつた。彼の有する凡ての知力は、悉く復讐の燃料となつて、残忍な凶行を手際よく仕遂げる方便に供せられながら、豪も悔ゆる事を知らなかつた。・・・僕は平生の自分と比較して、斯う顧慮なく一心に振舞へるゲダンケの主人公が大いに羨ましかつた。同時に汗の滴る程恐ろしかつた。出来たら嘸痛快だらうと思つた。出来した後は定めし堪へがたい良心の拷問に逢ふだらうと思つた。」
 理と情の一致した状態が親友の命を虫の息の様に軽く見ることであることが彼らの理と情の非現実性を示している。親友の命を虫の息のように軽く見る主人公を想定するのは作家の精神の貧しさを示している。別の男を愛した女に復讐することは現実的でも実践的もない。現実との積極的な関係を失った陰気で臆病な精神だけが、現実になんら積極的な意義を持たない残忍な個人的復讐心を育てることができる。下らない非現実的な空想を現実化することはいっそう非現実的な精神である。プチブル的な陰気な空想を小説化したゲダンケのロマン主義的な小説に芸術的な価値はない。「非常に目覚しい思慮と、恐ろしく凄まじい思ひ切つた行動」を描いたゲダンケの小説は十分準備した上で冷静に復讐するだけの非現実的な空想小説である。歴史的法則を反映している須永の葛藤を描写したこの小説の意義はゲダンケのような空想的な展開に身を任せないことにある。漱石は現実に存在するプチブルの葛藤の法則を描いている。無行動の須永の描写の方が現実的であり、歴史的な意義を持っている。
  「けれども若し僕の高木に対する嫉妬がある不可思議の経路を取つて、向後今の数十倍に烈敷身を焼くなら何うだらうと僕は考へた。然し僕は其時の自分を自分で想像する事が出来なかつた。始めは人間の元来からの作りが違ふんだから、到底も斯んな真似は為得まいといふ見地から、直此問題を棄却しやうとした。次には、僕でも同じ程度の復讐が充分遣つて除けられるに違ひないといふ気がし出した。最後には、僕の様に平生は頭と胸の争ひに悩んで愚図ついてゐるものにして始めて斯んな猛烈な凶行を、冷静に打算的に、且つ組織的に、逞ましうするのだと思ひ出した。僕は最後に何故斯う思つたのか自分にも分らない。たゞ斯う思つた時に急に変な心持に襲はれた。其心持は純然たる恐怖でも不安でも不快でもなく、夫等よりは遙かに複雑なものに見えた。が、纏つて心に現はれた状態から云へば、丁度大人なしい人が酒の為に大胆になつて、是なら何でも遣れるといふ満足を感じつゝ、同時に酔に打ち勝たれた自分は、品性の上に於て平生の自分より遙に堕落したのだと気が付いて、さうして堕落は酒の影響だから何処へ何う避けても人間として到底も逃れる事は出来ないのだと沈痛に諦らめを付けたと同じ様な変な心持であつた。」
 須永はゲダンケの小説で引き起こされた自分の印象を分析してゲダンケとそれを肯定する自分を本質的に否定する結論に達している。須永はまず自分がゲダンケの小説の主人公と同じ行動をとれないと感じ、次には可能だと感じ、最後には愚図ついた精神だけがこうした空想を逞しくするのだと考え、この葛藤全体を自分の無力との同一性において否定的に評価している。理性を肯定するか情熱を肯定するかという葛藤に価値を認めること自体が非現実的な精神の肯定である。この葛藤全体が下らないものだとすることだけが自己否定的認識である。平生から愚図ついている精神は猛烈な凶行を想像することを好むと同時に下らない凶行を実践する可能性がある。危機に追い込まれた臆病な精神は自分の行為の現実的意義を理解できないために、現実的精神にはあり得ない凶行を実践する。彼らには無為でいるか馬鹿げた行動をとるかの選択肢しかない。無為を理性的だと評価し、下らない行動を情熱的だと評価するのは彼らの精神と行動の自己弁護である。彼らは理性的であることも情熱的であることもできない。
  「今しがたゲダンケを読んだ自分と、今黒塗の盆を持つて畏まつてゐる彼女とを比較して、自分の腹は何故斯う執濃い油絵の様に複雑なのだらうと呆れたからである。白状すると僕は高等教育を受けた証拠として、今日迄自分の頭が他より複雑に働らくのを自慢にしてゐた。所が何時か其働らきに疲れてゐた。何の因果で斯う迄事を細かに刻まなければ生きて行かれないのかと考へて情なかつた。僕は茶碗を膳の上に置きながら、作の顔を見て尊とい感じを起した。」
 須永はゲダンケを読む自分の心理が陰気でしつこいことを理解している。作にはこうした陰気でしつこい心理がない。それは作の精神が単純だからではなく現実的だからである。作の運命も精神も実際は須永が考えるほど単純ではない。作のような女には自分自身の生活と大抵の場合親や兄弟の運命がかかっている。現実的で深刻な人間関係の中に生きている作には具体的な判断力と欲望が形成される。人間関係の希薄な須永には現実的な意味を持たない単なる「考え」が生まれる。須永が教育によって蓄積した知識と知的能力は現実の人間関係から隔離された場合は、非現実的な空想を生み出す材料になるだけである。漱石は作に「あつても知慧が御座いませんから、筋道が立ちません。全く駄目で御座います」と作らしくない理屈っぽい言葉を言わせている。作がどれほど複雑な問題を労苦をもってこなしているかを須永は理解できない。須永にとって作は森本同様遠い存在である。須永と高木や千代子の対立の背後に森本や作がいる。作との階級的分離ははっきりしており、人間関係を生ずる可能性がない。したがって作は須永にとって遠い理想であり、現実的で切実な意味を持たない。作の印象による平安は千代子の登場によって簡単に廃棄される。須永にとって千代子との関係の方が積極的で重要な意義を持っている。森本や作が視野にあって初めて須永が高木と分離して自己認識を課題にできる。社会において高木や田口と現実的に対立しているのは森本であり、須永ではない。森本が視野にないとき高木と須永が対立していると誤解される。
  「自白すれば僕は其所へ坐つて十分と経たないうちに、又眼の前にゐる彼女の言語動作を一種の立場から観察したり、評価したり、解釈したりしなければならない様になつたのである。僕はそこに気が付いた時、非常な不愉快を感じた。又さういふ努力には自分の神経が疲れ切つてゐる事も感じた。僕は自分が自分に逆らつて余儀なく斯う心を働かすのか。或は千代子が厭がる僕を無理に強ひて動く様にするのか。何方にしても僕は腹立たしかつた。」
 須永は千代子との関係で生ずる葛藤に疲れている。それは彼自身が生み出す心理であるが、作や母や松本との関係によってではなく、千代子との関係によって初めて生じるので千代子が須永に強制しているように感じられる。しかも作との関係で平安を得た直後であるために平穏な心理に対照されて葛藤が非常に大きくなっている。作との関係による平安はこの葛藤の中へ踏み込む力を溜める意義を持っている。
  「『高木は何うしたらう」といふ問が僕の口元迄屡出た。けれども単なる消息の興味以外に、何か為にする不純なものが自分を前に押し出すので、其都度卑怯だと遠くで罵られる為か、つい聞くのを屑よしとしなくなつた。夫に千代子が帰つて母丈になりさへすれば、彼の話は遠慮なく出来るのだからとも考へた。然し実を云ふと、僕は千代子の口から直下に高木の事を聞きたかつたのである。さうして彼女が彼を何う思つてゐるか、夫を判切胸に畳み込んで置きたかつたのである。是は嫉妬の作用なのだらうか。もし此話を聞くものが、嫉妬だといふなら、僕には少しも異存がない。今の料簡で考へて見ても、何うも外の名は付け悪いやうである。それなら僕が夫程千代子に恋してゐたのだらうか。問題がさう推移すると、僕も返事に窮するより外に仕方がなくなる。僕は実際彼女に対して、そんなに熱烈な愛を脈拍の上に感じてゐなかつたからである。すると僕は人より二倍も三倍も嫉妬深い訳になるが、或はさうかも知れない。然しもつと適当に評したら、恐らく僕本来の我儘が源因なのだらうと思ふ。たゞ僕は一言それに付け加へて置きたい。僕から云はせると、既に鎌倉を去つた後猶高木に対しての嫉妬心が斯う燃えるなら、それは僕の性情に欠陥があつたばかりでなく、千代子自身に重い責任があつたのである。相手が千代子だから、僕の弱点が是程に濃く胸を染めたのだと僕は明言して憚らない。では千代子の何の部分が僕の人格を堕落させるのだらうか。夫は到底も分らない。或は彼女の親切ぢやないかとも考へてゐる。」
 千代子に対して自分の価値を守ろうとする自尊心が高木について端的に口にだすことを押し止めている。高木についての質問が彼にとって不純に見えるのは須永に不純な意図があるからではなく、高木と千代子に対して具体的利害や関心を持たないからである。須永は高木や千代子に対して具体的な欲望も具体的な関心も持たないにもかかわらず自己認識の契機として彼らに関わっている。しかも自分の行動の意味を自分で理解していないために「何か為にする不純なもの」をあれこれと想定しなければならない。相手に対する具体的関心がないにもかかわらず関心が生じていることに不純さが感じられる。
 須永は自分と現実の関係、自分と田口家との関係を認識するために千代子の判断を直接聞く必要がある。千代子の高木に対する判断は須永自身に対する判断である。須永は千代子の自分に対する千代子の判断を恐れると同時に求めている。自分と千代子との客観的な関係を知ることが須永の関心である。愛情がないのであるから千代子に対する関心は嫉妬ではない。愛していないのに嫉妬するのはそれだけ嫉妬が強いなどというのは人間関係を説明する範疇として愛情という主観の形態しか知らない無能である。
 須永が自分の心理を自分の本来の我儘だというのは、須永個人の関心であるという意味で正しい自己認識である。須永は自分を千代子から分離する過程で高木との比較を必要としている。分離の確定が客観的必然であり、それとの一致に須永の認識は進んでいる。高木との関係で生ずる葛藤は須永の客観的な姿と幻想の矛盾であり、高木との比較によって自分が決定的に否定されて、自分の置かれた客観的状況と意識が一致することで不毛な葛藤は解消される。自己の存在と自己の意識を一致させて二重性を解消するには現実の無力を自己認識として定着させねばならない。自分の無力を理解した須永にとって虚飾は無駄な労力を必要とする。インテリの優位を非現実的と理解し、虚飾と感じる能力を持つ段階で初めて須永の苦悩が始まる。
 須永は千代子や田口家の財産と関係する可能性がないことを理解している。だから須永の葛藤の責任が千代子の親切にあるというのは正しい。千代子の親切とは千代子が自分の地位によって須永を拒否しないことである。千代子は須永の能力に幻想を持ち、財産関係の対立を意識しない純粋さによって須永に自己肯定的幻想を抱かせる。それが須永の独立を妨げている。「虞美人草」に見られたように同情は対象の独立性を否定する意識であり同情を受け入れるのは独立性を失い依存的精神を持つことである。千代子との関係では須永が同情を受ける弱い立場にいる。千代子の親切は須永の独立性を否定する。分離と独立を望む段階にいる須永は千代子の同情的精神と対立している。田口が社交家でなく、千代子が純粋でなく、ブルジョア的に厳しく須永を拒絶するなら須永に幻想はあり得ず葛藤もあり得ないという観点からは、千代子の親切は害悪になる。須永に対するブルジョアの厳しい態度が須永が田口や千代子に依存せずに独立して生きていくための条件である。あるいはインテリの精神的独立性とは客観的に存在するブルジョアとの厳しい対立の認識である。同情の果実を拒否する精神の独立性は道徳的決意によってではなくて、ブルジョアと現実的に厳しく分離されており、果実が現実にあり得ないことを具体的に認識することによって得られる。道徳的拒否は欲しいが我慢するという禁欲である。あるいはどうせ貰えないものを拒否という自分の意志の形式に変える負け惜しみである。初期作品で分離的、独立的精神を想定した漱石は段階的にその精神を克服し、現実的独立に近づいている。須永は田口家に対する批判、自己内にあるブルジョア的価値観を払拭して自己自身のもとに回帰しようとしている。須永に必要なのは残存するプチブル的幻想を破る最後の一撃である。須永の苦悩にはプチブルが独立的思想を持つために必要なブルジョアとの厳しい現実的対立関係が日本では形成されておらず、望んでも自然には与えられないことが描写されている。プチブルに幻想を持たせる要素が現実に多く存在し、非現実的で不生産的な精神レベルにおいても多数のプチブルが自己肯定しやすい点で日本の現実は厳しい。したがって幻想を破るには主体的な勇気が必要となり、したがってその勇気は容易に形成されないという悪循環に須永は苦しんでいる。

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