21. 彼岸過迄 4


  「ふと縁側の椅子に腰を掛けてゐる僕を顧みて、市さんもさう云ふ御転婆は嫌でせうと聞いた。僕は唯、あんまり好きぢやないと云つて、月の光の隈なく落ちる表を眺めてゐた。もし僕が自分の品格に対して尊敬を払ふ事を忘れたなら、「然し高木さんには気に入るんだらう」といふ言葉を其後に屹度付け加へたに違ない。其所迄引き摺られなかつたのは、僕の体面上まだ仕合せであつた。」
 「然し高木さんには気に入るんだらう」という言葉は高木との競争があり得ない力関係の中では客観的にも馬鹿げており、須永の体面を失わせる内容を持っている。この馬鹿げた言葉を言わせない須永の品格は自己保身的な精神である。体面や品格とは須永の場合千代子、田口に肯定的に評価されることである。この品格に反する言葉を口にしようとするのが須永の自己否定的精神である。この言葉を口にすれば須永の信頼は失われる。あるいはすでに信頼関係が失われていることが明らかになる。品格は千代子の軽蔑を受け入れる勇気と対立する保守的精神である。須永は自己内のこの対立関係を意識している。
  「千代子は斯くの如く明けつ放しであつた。けれども…高木の事をとうとう一口も話題に上せなかつた。其所に僕は甚だしい故意を認めた。…鎌倉へ行く迄千代子を天下の女性のうちで、最も純粋な一人と信じてゐた僕は、鎌倉で暮した僅か二日の間に、始めて彼女の技巧を疑ひ出したのである。」
 須永は高木に対する関心を言葉にすることができずに千代子が言いだすのを待っている。しかし須永と同じ関心を持たない千代子には高木のことを話題にする必然性はない。この状況下で須永が千代子の技巧を疑い「甚だしい故意を認め」るのは、千代子に対する否定的評価の始まりではなく自己否定の最終段階である。須永の品格からすれは千代子の技巧を疑うのは堕落である。須永は千代子が開放的な率直な性格であることを理解した上で千代子を疑っている。これは千代子との関係で生まれるもっとも下らない心理であり、それが須永を苦しめている。そしてこの苦しみを押し進めることが彼の苦しみを克服する唯一の方法である。
  「僕が斯うして同じ問題を色々に考へてゐるうちに、同じ問題が僕には色々に見えた。高木の名前を口へ出さないのは、全く彼女の僕に対する好意に過ぎない。僕に気を悪くさせまいと思ふ親切から彼女はわざとそれ丈を遠慮したのである。斯う解釈すると鎌倉にゐた時の僕は、あれ程単純な彼女をして、僕の前に高木の二字を公けにする勇気を失はしめた程、不合理に機嫌を悪く振舞つたのだらう。もし左様だとすれば、自分は人の気を悪くする為に、人の中へ出る、不愉快な動物である。宅へ引込んで交際さへ為なければ夫で宜い。けれども若し親切を冠らない技巧が彼女の本義なら……。僕は技巧といふ二字を細かに割つて考へた。高木を媒鳥に僕を釣る積か。釣るのは、最後の目的もない癖に、唯僕の彼女に対する愛情を一時的に刺戟して楽しむ積か。或は僕にある意味で高木の様になれといふ積か。さうすれば僕を愛しても好いといふ積か。或は高木と僕と戦ふ所を眺めて面白かつたといふ積か。又は高木を僕の眼の前に出して、斯ういふ人がゐるのだから、早く思ひ切れといふ積か。--僕は技巧の二字を何処迄も割つて考へた。さうして技巧なら戦争だと考へた。戦争なら何うしても勝負に終るべきだと考へた。
  僕は寐付かれないで負けてゐる自分を口惜しく思つた。・・・僕は眼の見えない所に眼を明けて頭丈働らかす苦痛に堪へなくなつた。寐返りさへ慎んで我慢してゐた僕は、急に起つて室を明るくした。」
 須永は一つの問題を反芻することで堅固な自尊心を破壊するための精神的エネルギーを蓄積している。須永の葛藤は千代子がもっとも開放的な性格を発揮しているときに蓄積される。自分と千代子との関係についての須永の予測には根拠がない。あるいは同じことであるが須永にとってはすべてに根拠を想定できる。須永の葛藤は千代子と関係のない自己矛盾である。このような葛藤の繰り返し自体が葛藤の非現実性と無意義を示している。客観的には須永と千代子の関係を認識するための条件は揃っている。須永の地位と能力と、田口の地位とその地位が必要とする能力を冷静に判断すれば、他のどのような条件があろうと千代子との結婚は成立しない。だから問題は須永が田口家から拒否され、社会に対して積極的に働きかける能力を失っているという客観的な事実を、最終的な人生の結論としてどのように受け入れるかである。須永の苦しみは自分の現実における客観的な位置を受け入れることにあり、千代子が須永を苦しめようとしているわけではない。千代子の善意のために厳しい現実を受け入れられないことが須永の苦悩である。須永は自己肯定や粉飾を否定しており、常に矛盾を蓄積し展開することを自己矛盾の解決としている。須永の葛藤の肯定的側面を発見している漱石は須永の否定的な現象形態を確信をもって描いている。
  「母は何処へ行つたのかと聞いたが、後から、色沢が好くないよ、何うか御仕かいと尋ねた。
  「昨夕好く寐られなかつたんでせう」
   僕は千代子の此言葉に対して答ふべき術を知らなかつた。実を云ふと、昂然としてなに好く寐られたよと云ひたかつたのである。不幸にして僕は夫程の技巧家でなかつた。と云つて、正直に寐られなかつたと自白するには余り自尊心が強過ぎた。僕は遂に何も答へなかつた。」
 須永は昨夜千代子の態度に対する下らない憶測で寝られなかった。須永は自分の様子に対する千代子の自然な言葉によって再び下らない葛藤を引き起こしている。インテリが想定する昂然とか、技巧家でないとか、自尊心が強い等々の言葉の現実的な意味がここに描写されている。ここでの須永の葛藤は鎌倉での葛藤を引き継いでいっそう下らなく、消耗的になっている。須永の精神の必然によれば「昨夕好く寐られなかったんでしよう」という平凡な言葉にどう答えても、答えなくても矛盾を生ずることになる。
  「此場合何時もの僕なら、千代ちやんも序に結つて御貰ひなと屹度勧める所であつた。然し今の僕にはそんな親しげな要求を彼女に向つて投げ掛ける気が出悪かつた。・・・
  「貴方何が好き」
  「旦那様も島田が好きだと屹度仰しやいますよ」
   僕はぎくりとした。千代子は丸で平気の様に見えた。わざと僕の方を振り返つて、「ぢや島田に結つて見せたげませうか」と笑つた。「好いだらう」と答へた僕の声は如何にも鈍に聞こえた。」
 千代子の親切な言葉によって須永の葛藤が非常に緊迫し始めている。これは漱石の小説家としての才能である。瑣末な現象に反応し始めた須永は葛藤の激化に耐えきれずに鎌倉から逃れたのと同じように二階に逃れている。漱石はここで須永の瑣末に見える葛藤の弁明をさせている。
  「僕は自分で自分の事を彼是取り繕ろつて好く聞えるやうに話したくない。然し僕如きものでも長火鉢の傍で起るこんな戦術よりはもう少し高尚な問題に頭を使ひ得る積でゐる。たゞ其所迄引き摺り落された時、僕の弱点として何うしても脱線する気になれないのである。僕は自分でその詰らなさ加減をよく心得てゐた丈に、それを敢てする僕を自分で憎み自分で鞭うつた。
  僕は空威張を卑劣と同じく嫌ふ人間であるから、低くても小さくても、自分らしい自分を話すのを名誉と信じて成るべく隠さない。けれども、世の中で認めてゐる偉い人とか高い人とかいふものは、悉く長火鉢や台所の卑しい人生の葛藤を超越してゐるのだらうか。・・・恐らくそんな偉い人高い人は何時の世にも存在してゐないのではなからうか」
 「高尚な問題に頭を使」うというのは初期作品を思い出させる。初期作品に見られた高尚な問題は須永の瑣末な苦悩より非現実的であり低レベルである。須永の瑣末な苦悩はより現実的で一般的価値を持っている。自分の苦悩のつまらなさを理解できることとそれををあえてし、さらにその自分を憎み自分で鞭打つのが須永の必然である。瑣末な苦悩に塗れることがプチブル的限界を越える方法である。「卑しい人生の葛藤を超越して」いる初期作品の人物は自分の無力を理解できず、自分の無力を証明される機会を持たない安全な地位にいた。この作品では松本がその特徴を継承している。より高度の精神を持つ須永は松本の特徴を的確に捉えている。
  「僕は松本の叔父を尊敬してゐる。けれども露骨な事を云へば、あの叔父の様なのは偉く見える人、高く見せる人と評すれば夫で足りてゐると思ふ。僕は僕の敬愛する叔父に対しては偽物贋物の名を加へる非礼と僻見とを憚かりたい。が、事実上彼は世俗に拘泥しない顔をして、腹の中で拘泥してゐるのである。小事に齷齪しない手を拱ぬいで、頭の奥で齷齪してゐるのである。外へ出さない丈が、普通より品が好いと云つて僕は讃辞を呈したく思つてゐる。さうして其外へ出さないのは財産の御蔭、年齢の御蔭、学問と見識と修養の御蔭である。が、最後に彼と彼の家庭の調子が程好く取れてゐるからでもあり、彼と社会の関係が逆な様で実は順に行くからでもある。−−話がつい横道へ外れた。僕は僕の屑々した所を余り長く弁護し過ぎたかも知れない。」
 須永はここで自分の精神的特徴を肯定的、発展的に位置づけている。須永は松本と自分がインテリとして本質的に同一であるという観点の上で自分との違いを分析している。須永によれば松本と須永の精神の違いは彼らの階級的本質を自己認識できるかできないかである。漱石はまず自分の階級に必然的な拘泥を解消することを課題とし、初期作品では拘泥をなくした状態を小説に描こうとしていた。しかし初期作品に描かれた余裕や非人情や道徳的決意や哲学的思索等々の形式は、拘泥がないと自他に見せかけていたのであって拘泥を解消したわけではなかつた。拘泥の解消と見えたのは生活状態の安定と、家庭的順境への満足であった。安定している間彼らの本質である拘泥は他の階級に対象化されていた。初期作品では自己の本質は対象化されて高木の属性とされており、自己の姿は見失われていた。須永は外界に対する批判意識を解消し、批判意識を自己に取り込むことで、深刻な拘泥を経験している。高木や千代子と対立し、独立しているという意識の非現実性を意識することが須永の拘泥である。この作品ではこの階級に特徴的な拘泥がこの階級の危機の反映であり、自己否定的な発展的な意識である側面が発見されている。須永の課題は自己の否定性を認識すること、つまり拘泥を徹底することで拘泥を解消することである。この自己回帰は歴史的にはインテリの相対的弱化の時代に繰り返し強制される。
 精神の拘泥と動揺はプチブルの本質である。資本主義の発展によってこの階級は分解され破壊される。須永は自分の階級的な動揺と不安定性を自己の本質として意識し、それを克服しようとしている。松本的方法は必然性の一時的粉飾である。真の解決は無力の認識としての自己否定である。須永の葛藤は矛盾の解消、悟り、回避、逃避ではなく矛盾の発展を真理とする立場への移行によって得られた積極的な精神である。
 須永が松本と区別された後、この作品の到達点である矛盾が描写されている。千代子が二階に上がってきた時、須永には「僕は斯う盆槍屈托してゐる所を千代子に見られるのを屈辱の様に感じた。同時に傍にあつた書物を開けて、先刻から読んでゐた振をする程器用な機転を用ひるのを好まなかつた。」という小さな葛藤が生じている。そのあと一致の感情が起こる。そして最終的な対立が生じる。
  「斯んな事を聞いたり答へたり三四返してゐるうちに、僕は何時の間にか昔と同じ様に美くしい素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がし出した。…もし此気易い状態が一二時間も長く続いたなら、或は僕の彼女に対して抱いた変な疑惑を、過去に溯ぼつて当初から真直に黒い棒で誤解といふ名の下に消し去る事が出来たかも知れない。所が僕はつい不味い事をしたのである。」
 「素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がした」というのは、須永自身が素直な気分になったということである。須永がこの心理状態のまま何もしなければこれまでの状態が繰り返される。つい不味いことをするのは須永のこれまでの葛藤の自然な結末である。須永は千代子との関係に社会的地位の対立がなかった昔には戻れない。過去からの千代子との関係で生じる幻想と自分の現状との二重性に苦しんでいる須永はまさに彼らが形式的な一致に達したときに不毛な葛藤の根であるその一致を破壊した。須永は鎌倉に行くことで矛盾を蓄積し、矛盾は飛躍的な展開をすべき時期に来ていた。
  「夫は外でもない。少時千代子と話してゐるうちに、彼女が単に頭を見せに上つて来た許でなく、今日是から鎌倉へ帰るので、其左様ならを云ひに一寸顔を出したのだと云ふ事を知つた時、僕はつい用意の足りない躓づき方をしたのである。
  …「まだみんな鎌倉に居るのかい」と僕が聞いた。
  「えゝ。何故」と千代子が聞き返した。
  「高木さんも」と僕が又聞いた。
   高木といふ名前は今迄千代子も口にせず、僕も話頭に上すのをわざと憚かつてゐたのである。が、何かの機会で、平生通りの打ち解けた遠慮のない気分が復活したので、其中に引き込まれた矢先、つい何の気も付かずに使つて仕舞つたのである。僕はふらふらと此問を掛けて彼女の顔を見た時忽ち後悔した。
  僕が煮え切らない又捌けない男として彼女から一種の軽蔑を受けてゐる事は、僕の疾うに話した通りで、実を云へば二人の交際は此黙許を認め合つた上の親しみに過ぎなかつた。其代り千代子が常に畏れる点を、幸にして僕はたゞ一つ有つてゐた。夫は僕の無口である。彼女の様に万事明けつ放しに腹を見せなければ気の済まない者から云ふと、何時でも、しんねりむつつりと構へてゐる僕などの態度は、決して気に入る筈がないのだが、其所に又妙に見透かせない心の存在が仄めくので、彼女は昔から僕を全然知り抜く事の出来ない、従つて軽蔑しながらも何処かに恐ろしい所を有つた男として、或る意味の尊敬を払つてゐたのである。」
 「夫は外でもない」という言葉に須永の必然が現れている。須永が品格を保つために唯一言ってならないのは高木という言葉である。したがって唯一言われなければならないのも高木という言葉である。千代子との関係は鎌倉で高木が登場したことで決着される可能性が生じた。須永の不愉快な葛藤を前進させるかどうかは須永が高木を問題にするかどうかにかかっていた。須永は千代子が鎌倉に帰る瞬間に、千代子との矛盾を高木との関係で進展させる最後の機会を捉えて「用意の足りない躓づき方」をする勇気を出した。体面を失うこの「躓づき」を逃せば鎌倉で得た葛藤は無意味に終わる。須永はまだ自分の葛藤を前進させることの積極的意義を理解しているわけではなく、内的衝動として持つだけであるために、偶然的なつまづきという形式で勇気を出した。須永を苦しめていたのは千代子が須永に持つ幻想であった。須永は自分の無口が千代子に幻想を与えていたことを理解するほどすでに自己否定的な認識を得ている。現実との接触の機会を失っている須永の精神は現実に対して無力化し、無力が暴露される危機感を内包している。無力が暴露される恐怖は暴露されることでのみ解消される。幻想を維持することは危機を維持し増大することであり不安や恐怖を蓄積することである。須永の不安や恐怖は自分の言葉に対する千代子の反応を理解しているから生じたのであり、彼に不用意な言葉を吐かせたのもこの理解による不安と恐怖である。須永に高木の一言を避けさせる臆病さと言わせる勇気は同じである。
  「所が偶然高木の名前を口にした時、僕は忽ち此尊敬を永久千代子に奪ひ返された様な心持がした。と云ふのは、「高木さんも」といふ僕の問を聞いた千代子の表情が急に変化したのである。僕はそれを強ちに勝利の表情とは認めたくない。けれども彼女の眼のうちに、今迄僕が未だ甞て彼女に見出した試しのない、一種の侮蔑が輝やいたのは疑ひもない事実であつた。僕は予期しない瞬間に、平手で横面を力任せに打たれた人の如くにぴたりと止まつた。
  「あなた夫程高木さんの事が気になるの」
   彼女は斯う云つて、僕が両手で耳を抑へたい位な高笑ひをした。僕は其時鋭どい侮辱を感じた。けれども咄嗟  の場合何といふ返事も出し得なかつた。」
 須永は高木の名前を口にすることが千代子にどんな結果をもたらすかを理解し、その結果を受け入れる勇気を出している。この矛盾の推進と受容に須永の能力がある。須永には千代子や母の自分に対する肯定的な評価を維持することが負担になっている。自分自身の幻想を払拭するには自分に対する千代子や母の幻想をなくさなければならない。千代子の軽蔑に身をさらすことが幻想を破壊する現実的で効果的な方法である。須永にとってこの現実をいつ受け入れるかだけが問題であった。幻想を持たれること自体が須永にとっては苦痛であった。幻想を維持する無駄な努力をするより自分の現実にあった意識を持つことで葛藤を解消することが須永の内的な欲望である。須永はすでに偶然を契機にいつでも幻想的な信頼関係を破壊する状態にあった。幻想を幻想と理解する力がない初期作品や松本にこういう衝動はない。須永の内的苦悩にとっては突然平手で打たれるほどの衝撃は現実との接触による真実の獲得であり、非現実的な葛藤の解消である。しかし勇気を持った実践による成果は幻想の解消に止まらない。
  「『貴方は卑怯だ」と彼女が次に云つた。此突然な形容詞にも僕は全く驚ろかされた。僕は、御前こそ卑怯だ、呼ばないでもの所へわざわざ人を呼び付けて、と云つて遣りたかつた。けれども年弱な女に対して、向ふと同じ程度の激語を使ふのはまだ早過ぎると思つて我慢した。千代子もそれなり黙つた。僕は漸くにして「何故」といふ僅か二字の問を掛けた。すると千代子の濃い眉が動いた。彼女は、僕自身で僕の卑怯な意味を充分自覚してゐながら、たまたま他の指摘を受けると、自分の弱点を相手に隠す為に、取り繕ろつて空つ遠惚けるものと此問を解釈したらしい。」
 須永のいじけた態度が千代子に軽蔑されることは須永の内的な認識の現実的確認である。しかし自分が卑怯だという規定は彼の自己認識になかった。他の階級に属する千代子は須永が意識していた弱点を問題にせず須永の自己認識を越える否定的評価を下している。須永は千代子の予想外の驚くべき否定的規定を非常な恐怖と期待を持って誘発している。千代子のこの本質的に新しい批判的規定は須永の自己否定的認識に基づく行動の成果である。千代子の言葉は須永の行動の高度化を物語っている。高木の名前を口にした須永にはさらに「何故」という勇気がある。千代子に激語を使わなかったことの理由を須永がどのように考えていようと、彼の本質的関心は千代子の言葉である。彼にとってこの「何故」が必要である。千代子がそれを誤魔化しだと考えるのは彼女が須永を理解できないからである。千代子が須永を軽蔑する瞬間に千代子に対する須永の優位が現象化している。
  「『千代ちやんの様な活溌な人から見たら、僕見たいに引込思案なものは無論卑怯なんだらう。僕は思つた事をすぐ口へ出したり、又は其儘所作にあらはしたりする勇気のない、極めて因循な男なんだから。其点で卑怯だと云ふなら云はれても仕方がないが……」
  「そんな事を誰が卑怯と云ふもんですか」
  「然し軽蔑はしてゐるだらう。僕はちやんと知つてる」
  「貴方こそ妾を軽蔑してゐるぢやありませんか。妾の方が余つ程よく知つてるわ」
   僕は殊更に彼女の此言葉を肯定する必要を認めなかつたから、わざと返事を控えた。
 「貴方は妾を学問のない、理屈の解らない、取るに足らない女だと思つて、腹の中で馬鹿にし切つてるんです」
  「それは御前が僕を愚図と見縊つてるのと同じ事だよ。僕は御前から卑怯と云はれても構はない積だが、苟しくも徳義上の意味で卑怯といふなら、そりや御前の方が間違つてゐる。僕は少なくとも千代ちやんに関係ある事柄に就いて、道徳上卑怯な振舞をした覚はない筈だ。愚図とか煮え切らないとかいふべき所に、卑怯といふ言葉を使はれては、何だか道義的勇気を欠いた−−といふより、徳義を解しない下劣な人物の様に聞えて甚だ心持が悪いから訂正して貰ひたい。夫とも今いつた意味で、僕が何か千代ちやんに対して済まない事でもしたのなら遠慮なく話して貰はう』」
 須永は千代子の言う卑怯が自分の引っ込み思案や煮え切らないことを批判しているのでないことを理解できる。インテリの精神に度胸がないことは初期から指摘されていた単純な現象である。他を無教育の点で軽蔑するインテリの愚かさもインテリの真摯な道徳的批判意識によっても得られる自己認識である。しかし人間関係を持たず、無為で内的反省を事とするインテリが人を傷付け道義的卑怯になることはあり得ないと思われる。道義は無為なインテリの自己肯定の最後の拠り所であり、インテリの自己否定的認識の限界点である。自己否定はこの点にまで踏み込むことで初めて本質的である。漱石は須永の精神のあらゆる瑣末な弱点を展開し、それを自己認識として蓄積した後、最後にもっとも困難な道徳性の矛盾を突いている。これを破壊することがプチブル性からの思想的開放である。須永の精神は自己否定を徹底し発展させることで道徳性の破壊にまで進む必然性を持っている。「つい用意の足りない躓づき方をした」須永の言葉と行動がそれを示している。無能で臆病なインテリにはこの「躓づき」ができない。逆に体裁を守り千代子の評価を得るために腐心することで道徳的な精神の限界に止まるのがインテリ一般の生き方である。
  「『ぢや卑怯の意味を話して上げます」と云つて千代子は泣き出した。僕は是迄千代子を自分より強い女と認めてゐた。けれども彼女の強さは単に優しい一図から出る女気の凝り塊りとのみ解釈してゐた。所が今僕の前に現はれた彼女は、唯勝気に充ちた丈の、世間に有りふれた、俗つぽい婦人としか見えなかつた。僕は心を動かす所なく、彼女の涙の間から如何なる説明が出るだらうと待ち設けた。彼女の唇を洩れるものは、自己の体面を飾る強弁より外に何も有る筈がないと、僕は固く信じてゐたからである。」
 須永は思想的限界点において自分の弱点を意識することなく露呈している。これはすでに漱石が須永の限界を越えていることを示している。須永のこの言葉に自己否定的精神はない。自分の弱点の認識の対立物として千代子を強い女だと認めていたが、自分を卑怯と言う千代子の精神を須永は肯定できない。自分が卑怯だとは考えつかない須永は自分の判断能力の外に出た千代子に対して、初期作品のように余裕と軽蔑をもって対応している。須永の無理解による横着な態度はこれまでの軽蔑的な態度の延長として千代子に悔しい思いをさせ、対立を激化させる。ここに千代子との本当の対立点がある。これは須永が自分の意識より先行している行動によって獲得したものである。
  「『そんなら夫で宜う御座んす。何も貰つて下さいとは云やしません。唯何故愛してもゐず、細君にもしやうと思つてゐない妾に対して……」
  
 彼女は此所へ来て急に口籠つた。不敏な僕は其後へ何が出て来るのか、まだ覚れなかつた。「御前に対して」と半ば彼女を促がす様に問を掛けた。彼女は突然物を衝き破つた風に、「何故嫉妬なさるんです」と云ひ切つて、前よりは劇しく泣き出した。僕はさつと血が顔に上る時の熱りを両方の頬に感じた。彼女は殆んど夫を注意しないかの如くに見えた。
  「貴方は卑怯です、徳義的に卑怯です。妾が叔母さんと貴方を鎌倉へ招待した料簡さへ貴方は既に疑つて居らつしやる。それが既に卑怯です。が、それは問題ぢやありません。貴方は他の招待に応じて置きながら、何故平生の様に愉快にして下さる事が出来ないんです。妾は貴方を招待した為に恥を掻いたも同じ事です。貴方は妾の宅の客に侮辱を与へた結果、妾にも侮辱を与へてゐます」
  「侮辱を与へた覚はない」
  「あります。言葉や仕打は何うでも構はないんです。貴方の態度が侮辱を与へてゐるんです。態度が与へてゐないでも、貴方の心が与へてゐるんです」
  「そんな立ち入つた批評を受ける義務は僕にないよ」
 「男は卑怯だから、さう云ふ下らない挨拶が出来るんです。高木さんは紳士だから貴方を容れる雅量が幾何でもあるのに、貴方は高木さんを容れる事が決して出来ない。卑怯だからです」・・・」
 言葉や仕打ちではなく須永の態度というのは、須永の意図ではなく全体的特徴を指している。愛してないのに何故嫉妬するのかは須永自身が不可解な自己として問題にしてきたことである。それが千代子によって卑怯だと指摘された。須永にどうしてもわからなかった自分の特徴は彼自身がまったく自己否定の要素と考えなかった自分の道徳性に関わっていた。この連関は須永にとってまったく意外である。これは作品の展開における漱石の発見であろう。須永のこの疑問は初期作品のすべてに通ずる疑問である。一般的に言えば現実に分離しており、積極的関係の可能性がなく、それを具体的に望んでいないものに対して何故関心を示すのか、勝つ見込みも能力もない場所に出てきて対立するのは何故か、近づくと遠ざかる、遠ざかると近づくという矛盾した態度をとるのは何故か、あるいはこれはどういう態度か、どういう社会的内容を表しているかである。これは苦沙弥が肯定的結果を引き起こす力もなく鼻子や金田に口出しをし、坊ちゃんが赤シャツとマドンナの関係に口出しをし、関係を持つ気もないのに画工が那美さんに関心を持ち、道也が実際は妻だけと対立しながら天下国家を相手にし、甲野が天下を見下しながら、責任を持つ気もないのに藤尾に下らない教訓を与えたのと同じである。「虞美人草」では宗近が下らない思想を現実化する勇気を持ったために馬鹿げた結果をもたらし小説としても俗な結末に終わった。この精神形態が須永の行動に集約されて総括されている。
 彼らはすべて現実と積極的に関わっていない。関わる能力がなく、現実社会から分離したものに特有の内的葛藤を引き起こすだけである。初期作品では須永と違ってそれが内的な葛藤に過ぎないことを理解できないために楽天的であった。彼らは現実との接触を回避している自分を理解できずに逆に積極的だと幻想していた。須永は外界に対する積極的関係を形成できないことを理解している。須永が千代子や高木に接触するのはその認識を徹底するためである。須永にとって千代子や高木は自己認識の、しかも彼らとの分離を認識するための契機にすぎず、関係を結ぶことに具体的利益や欲望がまったくないにもかかわらず自己のためにのみ関わっている。須永の場合は関係を断絶するために接触するという関係がはっきりしている。須永の言動の非道徳性、非合理性は千代子にも理解できるほど明確になっている。須永自身も自己認識の直前に到達していた。
 初期作品の人物にも須永にも悪意はない。無力で善良な彼らに悪意はあり得なかった。無知な彼らにとっては悪意こそ批判の対象であり、自己内に見出せないものであり、道徳性、人格性こそ彼らの優位であった。しかし彼らの言動は道義に反する。卑怯である。彼らが主観の二重性を対象化して他人の了見を疑うことも彼らに必然的な卑怯であるが、それは彼等の主観内部だけに生ずる瑣末な問題である。彼らが彼らの範疇で実際に道徳的で善良であっても彼らは卑怯である。招待に応じながら愉快にできないのは道義的に卑怯である。現実に接触する場合に必要な勇気、責任がないのに関心を示す。しかもそれは関心ではないという態度で、破れた場合の弁護を常に用意している。その臆病な用心が卑怯であり、他を侮辱する。積極性に応えて積極性を示すとすぐに臆病風に吹かれて逃げだす。積極的関係によって自分の能力が検証されることを恐れる代助や須永の対応は積極性を求める人間に侮辱を与える。彼らの行動は相手にとっては、逃げるための、消極的な、関係を結ばないために関係を結ぼうとする無意味な行動である。須永よりはるかに遠い地点から関わる道徳的批判意識は、より臆病で自己保身的で自己満足的であり、したがってより卑怯である。自己否定を実践している須永と品格の上で区別され、自尊心を保っているほど千代子の言う卑怯の度合いは大きくなる。
 須永を卑怯とする千代子は高木に無批判的であり高木の視点から須永を批判している。初期作品ではブルジョアに対するインテリの精神的な優位が描かれた。ブルジョア的な地位や財力による社会的な力がインテリにないのは明らかである。物質的な富や地位を反映した精神と対立しその観点による軽蔑に身をさらすことはインテリの名誉とされていた。しかしこの作品ではこうした価値観自体が精神的・道徳的な堕落であることが示されている。現実との関係が価値基準となった「三四郎」からはインテリの精神的弱点として度胸のなさが描写された。「それから」では無為に伴う精神的弱点が描写され、須永では自分の弱点を認識した人物の行動に内在する弱点が描写され、この段階に至って初期作品での精神的拠り所であった道徳性が対立物に転化する必然性の端緒が発見された。
 「三四郎」から導入された現実との関係を価値基準とすることの必然的な結果として須永に至すべての人物の言動が卑怯と規定される。現実との接触を回避する無力な精神が人間関係と接触することは客観的に卑怯な関係になる。それは無力な人間が人を愚弄することである。現実に対する責任ある態度とは、現実に積極的に関係し、それによって生ずる必然的な矛盾に現実的連続的に対処することである。現実と関係する場合は一つのこの個別に対する勇気では片付かない。現実の人間関係は連続的な過程である。その過程に積極的に関与する能力を蓄積する機会を失った須永は、現実に対する関心を持つものの、責任ある対応ができない。彼らは矛盾の展開に耐えられない。しかし一般に自分の社会的存在価値を否定できない場合彼らは現実に対して臆病な関心を示し、しかも関係が生ずると責任を回避する。これは現実との関係ではもっとも自己保身的な卑怯な態度である。
 展開の過程を見ればこの卑怯は道徳性に内在していること、インテリの道徳性が卑怯に転化する必然が理解できる。現実との積極的関係である実践においては道徳性を守ることはできない。あらゆる形態の利害が対立している現実社会に実践的に身を投じる場合は一方に対する道徳性は他方に対する非道徳である。人間関係は矛盾しており、それが本質であり力であり内容であるからこそ無力なインテリはそれを避け、関係の回避を道徳的な対応として肯定的に評価している。無為は悪ではなく善であり道徳的であると考えられる。厳しい批判精神を持つこの作品では無為な生活とそれを反映した精神こそが非道徳的であり卑怯であるとされている。悪を回避するという意味での完全な道徳性とは社会からの完全な分離、隠遁である。しかし道徳性は一般的社会的規範としてのみ意味があるのだからそれは道徳性の社会的価値を廃棄するものでありやはり矛盾する。その矛盾が須永の心理や行動として現象する。
 このように須永の到達点はインテリの精神の発展によって彼らの本質的価値である道徳性がその対立物に転化すること、道徳性が非道徳性と同一であることを示している。「行人」、「こころ」ではこの転化の具体的過程が描写される。この作品までは現実との関係での自己肯定の幻想を破壊することを課題にしていた。次の作品からはブルジョアとの関係、須永にある内的ブルジョアとの関係もなくなり、インテリの世界の矛盾がインテリの世界内部で、インテリの意識がインテリの意識において純粋に展開され、その本質が明らかにされる。

彼岸過迄 5    漱石目次へ          home