22. 彼岸過迄 5


  〔松本の話〕   

 須永はインテリ階級の没落を自己意識化した高度の意識を持つ特殊な人物である。須永の精神に対立する自己肯定的な精神が松本に描写されている。松本は初期作品より高度な精神が設定されているが、須永の精神構造をまったく理解できない教養的で平凡なインテリの限界を示しており、その点が須永と対照されている。
 松本は高等遊民を自認している。彼は雨の降る日に客を断ることを余裕と考え、世の中に求めることのある田口にはその余裕がないと言う。「いくら他の感情を害したつて、困りやしないといふ」高等遊民の余裕とは世間に期待せず世間に期待されないことである。彼らが社会とか人生観とかについて妙な理屈を並べるのを好みながら「高等遊民は田口などよりも家庭的なものですよ」とされているのは、彼らが社会から孤立していく無為無力な階級であることの生活的な証明である。松本の社会批評、人物批評は敬太郎にとっても松本自身にとっても社会的な意義を持たない。社会から孤立した彼の批評は人間関係に影響を及ぼす内容を持たない。松本の須永についての説明は田口や自分についての説明と同じレベルにあり、須永の矛盾の深さにまったく届かない。
  「夫から市蔵と千代子との間が何うなつたか僕は知らない。別に何うもならないんだらう。少なくとも傍で見てゐると、二人の関係は昔から今日に至る迄全く変らない様だ。二人に聞けば色々な事を云ふだらうが、夫は其時限りの気分に制せられて、真しやかに前後に通じない嘘を、永久の価値ある如く話すのだと思へば間違ない。」
 松本の観察は表面的な現象追認である。須永と千代子の間がどうにもならないことはどうにもならなかったのだからはっきりしている。しかし外見上何の変化もなく分離していった千代子との関係の背後に須永の葛藤があった。須永の心理的葛藤には歴史的な意義があり、永久の価値があり、そのとき限りの気分に制せられた嘘ではない。
  「所が不幸にも二人は或る意味で密接に引き付けられてゐる。しかも其引き付けられ方が又傍のものに何うする権威もない宿命の力で支配されてゐるんだから恐ろしい。取り澄ました警句を用ひると、彼等は離れる為に合ひ、合ふ為に離れると云つた風の気の毒な一対を形づくつてゐる。」
  「市蔵といふ男は世の中と接触する度に内へとぐろを巻き込む性質である。だから一つ刺戟を受けると、其刺戟が夫から夫へと廻転して、段々深く細かく心の奥に喰ひ込んで行く。さうして何処迄喰ひ込んで行つても際限を知らない同じ作用が連続して、彼を苦しめる。仕舞には何うかして此内面の活動から逃れたいと祈る位に気を悩ますのだけれども、自分の力では如何ともすべからざる呪ひの如くに引つ張られて行く。さうして何時か此努力の為に斃れなければならない、たつた一人で斃れなければならないといふ怖れを抱くやうになる。さうして気狂の様に疲れる。是が市蔵の命根に横はる一大不幸である。この不幸を転じて幸とするには、内へ内へと向く彼の命の方向を逆にして、外へとぐろを捲き出させるより外に仕方がない。・・・天下にたつた一つで好いから、自分の心を奪ひ取るやうな偉いものか、美くしいものか、優しいものか、を見出さなければならない。一口に云へば、もつと浮気にならなければならない。市蔵は始め浮気を軽蔑して懸つた。今は其浮気を渇望してゐる。彼は自己の幸福のために、何うかして翩々たる軽薄才子になりたいと心から神に念じてゐるのである。軽薄に浮かれ得るより外に彼を救ふ途は天下に一つもない事を、彼は、僕が彼に忠告する前に、既に承知してゐた。けれども実行は未だに出来ないで藻掻いてゐる。」
 初期の漱石はこのような「取り澄ました警句」を吐くことが哲学的だとか文学的だと考えていた。須永が際限なく内へ巻く傾向がある、だから外へ巻くべきだとか、軽薄になれないから浮気になるべきだ等々はどうにでも言える形式論議である。松本は内へとぐろを巻くという現象や浮気になるということが社会的にどういう意味を持つのかを考える能力を持たない。松本は須永の状況を救うべきだと考え、浮気になることが可能でもありよいことだと考えている。彼は繰り返し須永の能力を自分より高いと形式的に評価しているが須永の精神の肯定的価値を具体的に理解しているわけではない。具体的な規定はすべて否定的であり、肯定的評価は須永に対する好意の表明にすぎない。つまり須永の肯定的評価は自分が好意的であるという松本自身の肯定的評価である。
  「彼は社会を考へる種に使ふけれども、僕は社会の考へに此方から乗り移つて行く丈である。其所に彼の長所があり、かねて彼の不幸が潜んでゐる。其所に僕の短所があり又僕の幸福が宿つてゐる。僕は茶の湯をやれば静かな心持になり、骨董を捻くれば寂びた心持になる。・・・其結果あまり眼前の事物に心を奪はれ過ぎるので、自然に己なき空疎な感に打たれざるを得ない。だから斯んな超然生活を営んで強ひて自我を押し立てやうとするのである。所が市蔵は自我より外に当初から何物も有つてゐない男である。・・・彼の不幸を切り詰める生活の徑路は、唯内に潜り込まないで外に応ずるより外に仕方がないのである。」
 須永の社会性は松本が何もないと考えている千代子との関係にある。須永は松本の趣味性に満足せず千代子との社会的関係の認識に向けられている。内とか外というのは精神の社会性を解消する形式規定である。松本の人生は趣味性に限定されており、自分の社会的地位と能力に対する批判的な意識を持たない。松本は自分の現在の生活と能力に満足しており、田口や千代子との現在の人間関係に満足している。それが須永との違いである。
 須永は道徳的批判意識や趣味性という初期作品に見られたインテリ的精神に安住できない。須永の苦悩を趣味性によって解決するのは初期作品や松本のレベルに須永を引き下ろすことである。この世界の内部で批判意識や趣味性に意義を認めず、しかもそれに代わる積極的価値が発見できない須永は松本には不幸に見える。客観的にこの世界には自分の無意義を理解する以上の積極的な精神はない。社会的な積極的な価値を真摯に求める成果として自分の無意義が認識されるのが須永の体現するこの階級の本質的矛盾である。須永は自分が現実社会と積極的な関係を持ち得ないことを認識することでさらに現実との関係を断ち切ることになる。
  「僕は彼に何うしても母を満足させる気はないかと尋ねた。彼は何事によらず母を満足させたいのは山々であると答へた。けれども千代子を貰はうとは決して云はなかつた。意地づくで貰はないのかと聞いたら、或はさうかも知れないと云ひ切つた。もし田口が遣つても好いと云ひ、千代子が来ても好いと云つたら何うだと念を押したら、市蔵は返事をしずに黙つて僕の顔を眺めてゐた。僕は彼の此顔を見ると、決して話を先へ進める気になれないのである。畏怖といふと仰山すぎるし、同情といふと丸で憐れつぽく聞こえるし、此顔から受ける僕の心持は、何と云つて可いか殆んど分らないが、永久に相手を諦らめて仕舞はなければならない絶望に、ある凄味と優し味を付け加へた特殊の表情であつた。
  市蔵はしばらくして自分は何故斯う人に嫌はれるんだらうと突然意外な述懐をした。僕は其時ならないのと平生の市蔵に似合しからないのとで驚ろかされた。何故そんな愚痴を零すのかと窘なめる様な調子で反問を加へた。」
 須永の葛藤は「もし田口が遣つても好いと云ひ、千代子が来ても好いと云つたら」という仮定が成立しないことを認識したことによって生じた。松本の「もし」という仮定が須永の葛藤の本質に関係したために須永は突然深刻に松本の顔を眺め、松本の答えを期待している。須永の表情から深刻さを読みとることはできるがその内容を理解できない松本は須永の深刻な表情を前にして黙った。それを須永は松本が自分を嫌っているために言うのをためらったと誤解した。松本は須永に対する好意に偽りがないことを説明した後自分が馬鹿らしい対応をしていることに気づき、須永の求めに応じるべく性格論を展開している。
  「「御前は相応の教育もあり、相応の頭もある癖に、何だか妙に一種の僻みがあるよ。夫が御前の弱点だ。是非  直さなくつちや不可ない。傍から見てゐても不愉快だ」
  ・・・「僻みさへさらりと棄てゝ仕舞へば何でもないぢやないか」と僕は左も事もなげに云つて退けた。
  「僕に僻があるでせうか」と市蔵は落付いて聞いた。・・・
  「僕は僻んでゐるでせうか。慥に僻んでゐるでせう。貴方が仰しやらないでも、能く知つてゐる積です。僕は僻んでゐます。僕は貴方からそんな注意を受けないでも、能く知つてゐます。僕はたゞ何うして斯うなつたか其訳が知りたいのです。いゝえ母でも、田口の叔母でも、貴方でも、みんな能く其訳を知つてゐるのです。唯僕丈が知らないのです。唯僕丈に知らせないのです。僕は世の中の人間の中で貴方を一番信用してゐるから聞いたのです。貴方はそれを残酷に拒絶した。僕は是から生涯の敵として貴方を呪ひます」
   市蔵は立ち上つた。僕は其咄嗟の際に決心をした。さうして彼を呼び留めた。」
 須永は自分が積極的な人間関係を形成できないことを経験的に理解している。それを須永の僻み根性が嫌われていることと解釈し、何故自分が嫌われるのか、僻みを持つのは何故かと自問している。松本にとって僻みという性格規定は結論であって僻みとは何かという問いはない。この疑問を持つことが須永の精神の高さである。現状に満足した松本は自己否定的な須永の危機意識を性格的な僻みと評価し同情している。この階級の保守的な意識には批判意識や趣味性を否定した須永の苦悩は性格的弱点に見える。松本と須永の精神はこの階級内部の本質的な対立関係にある。須永の危機意識はこの階級内部での孤立を意味し、須永の階級的苦悩は彼の階級では共有されずに性格的な歪みとして排除される必然性を持っている。
 須永は自分の関係する階級内部で孤立し、理解されず、彼らと分離していく過程にある。須永の僻みは自分の世界との分離的な意識という積極的な意義を持っている。須永はその意義を理解しておらず、その精神の成果として孤立している。自分を嫌い、僻みを持たない者が自分の僻みの正体を知っていると考えるのは、須永に残る積極的な人間関係に対する期待の現れであり自己否定的認識の未熟さである。
  「僕は誰にでも明言して憚からない通り、一切の秘密はそれを開放した時始めて自然に復る落着を見る事が出来るといふ主義を抱いてゐるので、穏便とか現状維持とかいふ言葉には一般の人ほど重きを置いてゐない。・・・一口でいふと、彼等は本当の母子ではないのである。猶誤解のないやうに一言付け加へると、本当の母子よりも遙かに仲の好い継母と継子なのである。・・・何んな魔の振る斧の刃でも此糸を絶ち切る訳に行かないのだから、何んな秘密を打ち明けても怖がる必要は更にないのである。夫だのに姉は非常に恐れてゐた。市蔵も非常に恐れてゐた。姉は秘密を手に握つた儘、市蔵は秘密を手に握らせられるだらうと待ち受けた儘、二人して非常に恐れてゐた。僕はとうとう彼の恐れるものゝの正体を取り出して、彼の前に他意なく並べて遣つたのである。」
 「一切の秘密はそれを開放した時始めて自然に復る落着を見る事が出来るといふ主義」は初期作品の段階の精神である。漱石は敬太郎と田口の会話にも「あんな小刀細工をして後なんか跟けるより、直に会つて聞きたい事丈遠慮なく聞いた方が、まだ手数が省けて、さうして動かない確かな所が分りやしないかと思ふのです」、「貴方のいふ方法は最も迂闊の様で、最も簡便な又最も正当な方法ですよ。其所に気が付いて居れば人間として立派なものです」という初期作品では教養のある立派な人間の特徴と見ていた会話を入れている。このレベルの精神は須永の苦悩を経過すると重要な意義を持たない。
 「一切の秘密はそれを開放した時始めて自然に復る落着を見る事が出来る」というのは真理である。信頼関係が形成されない松本の世界では隠し事をしないことが道徳的意義を持っている。その観点から松本は須永と母の秘密を出生の秘密と考え、それを隠すべきでないと考えている。しかし須永の問題にしている「秘密」は松本や母の問題にしている秘密と違う。松本の秘密とは須永に打ち明けられなかった、腹に納めていた隠し事のことであり、松本は隠し事をすべきでないという道徳的な意識によってその秘密を打ち明けようとしている。須永が問題にしている秘密は、すべての明らかになっている現象の背後に潜む法則である。須永の苦悩もやはりその秘密を明らかにすることで解決する。したがって松本の言葉と須永のすれ違いは秘密の意味にある。松本の秘密は主観内部の秘密であり、須永の秘密は法則としての秘密であり、須永の社会的必然性である。
 須永の精神を社会的規定において理解する能力を持たない松本は、無能なインテリの常套手段として単純な現象を因果関係で結びつけることを事態の説明だと考える。松本は須永の僻みの根拠を出生の秘密に求めている。こうした松本の現実理解に基づく打ち明け話と良心的な対応は須永にとって松本の精神の限界を理解する契機となる。精神の社会的規定に無知なインテリにとっては出生の秘密は須永の精神を理解する鍵に見える。限定された人間関係の中で生きる須永と母にとって出生の秘密は大きい。特に母にとって重要な問題である。しかしそれは須永の苦悩とはまったく関係がない。須永は松本に秘密を打ち明けられた後は松本の言葉に母との関係に限定して関心を示している。
  「「おれは左う思ふんだ。だから少しも隠す必要を認めてゐない。御前だつて健全な精神を持つてゐるなら、おれと同じ様に思ふべき筈ぢやないか。もし左う思ふ事が出来ないといふなら、夫が即ち御前の僻みだ。解つたかな」
  「解りました。善く解りました」と市蔵が答へた。僕は「解つたら夫で好い、もう其問題に就て彼是といふのは止しにしやうよ」と云つた。
  「もう止します。もう決して此事に就いて、貴方を煩らはす日は来ないでせう。成程貴方の仰しやる通り僕は僻んだ解釈ばかりしてゐたのです。僕は貴方の御話を聞く迄は非常に怖かつたです。胸の肉が縮まる程怖かつたです。けれども御話を聞いて凡てが明白になつたら、却つて安心して気が楽になりました。もう怖い事も不安な事もありません。其代り何だか急に心細くなりました。淋しいです。世の中にたつた一人立つてゐる様な気がします。」
  「だつて御母さんは元の通りの御母さんなんだよ。おれだつて今迄のおれだよ。誰も御前に対して変るものはありやしないんだよ。神経を起しちや不可ない」
  「神経は起さなくつても淋しいんだから仕方がありません。僕は是から宅へ帰つて母の顔を見ると屹度泣くに極つてゐます。今から其時の涙を予想しても淋しくつて堪りません」」
 須永は松本を信頼して自分の悩みを打ち明けた結果、意外に単純な結果を得た。松本が自分の僻みの原因として知っている秘密は継母の問題である。自分の出生に秘密があったことは須永にとって第二義的な問題である。その第二義的な問題が自分と松本や母を隔てていた秘密であることが理解され、その秘密が打ち明けられて松本が問題を解決したと考えている今、須永の苦悩は彼一人が抱えているもので松本にも誰にも決して解決されないことがわかった。松本の知る秘密が出生の秘密であればそれ以上聞くことはない。出生の秘密に関しては松本にとっては打ち明けることが、須永にとってはそれを知ることが結論である。須永は自分の僻みについて松本がどう解釈しているかを理解し、松本の見解を問題にする必要がないことを理解した。須永は自分の苦悩を抱えたまま、対処の方法がなくなったことを理解し孤独感を深くしている。
  「「御母さんが是非千代ちやんを貰へといふのも、矢つ張血統上の考へから、身縁のものを僕の嫁にしたいといふ意味なんでせうね」
  「全く其所だ。外に何にもないんだ」
  市蔵は夫では貰はうとも云はなかつた。僕もそれなら貰ふかとも聞かなかつた。」
 母の希望は出生の秘密に関わるものであり、須永の葛藤とは別であることがわかった。母の希望として、あるいは高木との関係で須永が想定した母の心理はすべて須永自身の葛藤であることが須永自身にも理解された。須永はそれをわざわざ確認している。須永は自分と同じ価値観を母に想定した上で、自分の無力の証明が母を失望させると考えて母に対する責任を感じていた。母が千代子との結婚を望む理由が出生の事情だけであれば須永が千代子と結婚できないことは須永の価値の否定ではないから母にとっても須永にとっても大きな問題ではなくなる。
  「此会見は僕にとつて美くしい経験の一つであつた。双方で腹蔵なく凡てを打ち明け合ふ事が出来たといふ点に於て、いまだに僕の貧しい過去を飾つてゐる。相手の市蔵から見ても、或は生れて始めての慰藉ではなかつたかと思ふ。兎に角彼が帰つたあとの僕の頭には、善い功徳を施こしたといふ愉快な感じが残つたのである。
  「万事おれが引き受けて遣るから心配しないがいゝ」
  僕は彼を玄関に送り出しながら、最後に斯ういふ言葉を彼の背に暖かく掛けて遣つた。」
 万事引き受けた松本の処置とは須永の母に卒業まで待つように説得すること、田口に須永の卒業までに縁談が運ぶように話すことである。松本の処置は打ち明け話も含めてすべて誠実で、彼に可能な限りの好意を示している。この対応によって須永は松本が自分を嫌っているのでなく、最大限の好意を持っていることを理解した。しかし同時に須永の思想的な苦悩に対して松本が無能であることも明らかになった。インテリにとっては松本のような率直な態度でさえ困難であり、松本も自分の率直な態度に満足している。須永は平凡なインテリの思想的限界である道徳性を越えて思想的な苦悩にたどり着いている。だから道徳的な好意は役に立たない。思想的苦悩に対しては思想的な対処が必要であり、それは能力の問題であるから好意で報いることはできない。松本はこの会見で自分が須永の苦悩に関わり合えないことを明らかにし、この問題に関しては須永に見放された。
 松本は須永に対する配慮から、「前の年鎌倉の避暑地とかで市蔵が会つて気を悪くしたといふ高木」についても田口に尋ねて「高木は始めから候補者として打つて出たのではない」として特別の意味を持った男ではないという情報をもたらしている。松本は須永の高木との関係での苦悩が須永自身の思想的な苦悩であることを改めて示す役割を果たしている。須永の苦悩は出生の秘密でも、母の希望に添うための葛藤でも、千代子との結婚を巡る高木との競争でもないことが明らかにされている。
 これ以降は須永と松本のすれ違いを、すでにすれ違いを須永が問題にしなくなった端的な関係において単純に描いている。須永は松本との会見の後自分の運命には自分で対処する以外にないと諦め、冷静に対処している。須永は千代子との関係も松本との関係も彼に可能な範囲ですでに決着をつけ、なすべきことを失った結果旅行に出かけている。彼にとって出生の秘密を知った今、母が気の毒になって母との関係が一時的に苦痛であることも旅行に出る動機であり、それが再び松本を誤解させる契機になる。松本はすべてを出生の点から観察している。
  「市蔵は僕の言葉を聞いて実際安心したらしく見えた。僕も稍安心した。けれども一方では、此位根のない慰藉の言葉が、明晰な頭脳を有つた市蔵に、是程の影響を与へたとすれば、それは彼の神経が何処か調子を失なつてゐる為ではなからうかといふ疑も起つた。僕は突然極端の出来事を予想して、一人身の旅行を危ぶみ始めた。」
 松本の言葉で安心したのは出生の問題を重視しておらず、母のことは松本の世話だけで解決できることだからである。松本は須永の独自の葛藤と切り離して母との関係においてのみ信頼されている。母と須永の継母の問題に神経質になっているのは松本である。それについて大人の態度をとっているのは須永である。松本は須永に対する無理解の延長として、須永の神経の変調を予測し始めている。
  「市蔵が帰つた後でも、しばらくは彼の事が変に気に掛つた。暗い秘密を彼の頭に判で押した以上、それから出る一切の責任は、当然僕が背負つて立たなければならない気がしたからである。・・・(彼の妻は)貴方があんまり余計な御喋舌をなさるからですよと云つて、始めは殆んど取り合はなかつたが、仕舞に、なんで市さんに間違があるもんですか、市さんは年こそ若いが、貴方より余程分別のある人ですものと、独りで受合つてゐた。
  「すると市蔵の方で、却つておれの事を心配してゐる訳になるんだね」
「さうですとも、誰だつて貴方の懐手ばかりして、舶来のパイプをくはへてゐる所を見れば、心配になりますわ」」
 須永の出生の問題を暗い秘密として重視し、須永の神経の変調や自殺を予測するのは松本の精神の特徴である。須永は法則を問題にする思想的苦悩を発展させ、松本は現象にとらわれたインテリ的な偏見を蓄えていくという自然的な分離が進展している。松本の妻の言葉は松本に対する深い批判的観点を示している。没落の法則としての深刻な秘密を持ちながら、その秘密の存在すら理解せずに変調しているのは松本である。須永は松本の「懐手ばかりして、舶来のパイプをくはへてゐる」生活に内在する崩壊の法則を危機意識として先取りしている。したがって須永は松本の生活や精神の行方を心配していることになる。孤立した趣味的生活に満足している松本の精神は社会の発展に取り残されており、その危機はいずれ現象化する。妻も須永の母も須永も出生の秘密について松本のように大げさに考えておらず、楽観的である。現実を知らない松本には自分が出生を大問題にすることの非現実性が理解できない。彼は危機が須永や須永の母にあると信じて、須永に旅先から手紙を出すようにと、須永と母の関係にとっては言うまでもない、したがって害のない善意に満ちた忠告をしている。
  「端書に満足した僕は、彼の封筒入の書翰に接し出した時更に眉を開いた。といふのは、僕の恐れを抱いてゐた彼の手が、陰鬱な色に巻紙を染めた痕迹が、その何処にも見出せなかつたからである。」
 須永は自分の抱える問題から一時的に逃れるために旅に出た。松本は深刻な問題の相談相手にならないことも明らかになっている。だから手紙は須永の深刻な問題について書いているはずがない。松本の誤った予測が現実化しなかったことで松本の須永理解の誤りが示されている。
  「唯僕丈は、--斯ういふと又あの問題を持ち出したなと早合点なさるかも知れませんが、僕はもうあの事に就いて叔父さんの心配なさる程屈托して居ない積ですから安心して下さい。唯僕丈はと断るのは決して苦い意味で云ふのではありません。僕は此点に於て、叔父さんとも母とも生れ付が違つてゐると申したいのです。僕は比較的楽に育つた、物質的に幸福な子だから、贅沢と知らずに贅沢をして平気で居ました。…けれども夫は永く習慣に養はれた結果、自分で知らない不明から出るので、一度其所に気が付くと、急に不安になります。着物や食事はまあ何うでも可いとして、僕は此間ある富豪の無暗に金を使ふ様子を聞いて恐ろしくなつた事があります…僕は其話を聞いた時無論彼を悪みました。けれども気概に乏しい僕は、悪むよりも寧ろ恐れました。僕から彼の所行を見ると、強盗が白刃の抜身を畳に突き立てゝ良民を脅迫してゐるのと同じ様な感じになるのです。僕は実に天とか、人道とか、もしくは神仏とかに対して申し訳がないといふ、真正に宗教的な意味に於て恐れたのです。僕は是程臆病な人間なのです。驕奢に近づかない先から、驕奢の絶頂に達して踊り狂ふ人の、一転化の後を想像して、怖くて堪らないのであります。」
 須永は旅先からの葉書で松本や母を気づかっている。須永は松本と違って出生の秘密に屈託していないこと、自分の不安は贅沢な生活に呑気でいられないこと、贅沢な余裕のある生活の一転の後の没落を常に必然性として感じることであると説明している。裕福な生活は現実社会に対する無力つまり没落の必然性を内包している。その必然性を感じとる須永の危機意識は、人間関係から逃避し、自分と社会の関係についての考察を迫られることのない旅の間は一時的に平穏でいられる。彼の苦悩は本質的であるから一時的、偶然的に解決されても生活上の人間関係が始まれば再び問題が生じる。これで松本が安心するのは松本が須永の苦悩の質を知らないからである。
 須永の旅行先の平穏な心理状態は彼が鎌倉から東京に帰ってきたときの状態と同じである。大きな波で考えれば、この作品全体を通して須永が自分の精神の発展を千代子に「卑怯」だと指摘させるまでに押し進めた結果の休息である。この休息の後再び必然的な思想的葛藤がいっそう高度の矛盾のもとに展開する。須永の苦悩もすでに余裕のある松本のようなインテリの能力では理解不可能である。だから漱石は須永の精神の面白さは「主義を高く標榜して路傍の人の注意を惹く」ような文壇のインテリには理解されないと断っている。須永の精神に対する文壇インテリの精神の関係は、「結末」で示された敬太郎の「世間」に対する関係と同じである。
  「要するに人世に対して彼の有する最近の知識感情は悉く鼓膜の働らきから来てゐる。森本に始まつて松本に終る幾席かの長話は、最初広く薄く彼を動かしつゝ漸々深く狭く彼を動かすに至つて突如として已んだ。けれども彼は逐に其中に這入れなかつたのである。其所が彼に物足らない所で、同時に彼の仕合せな所である。」
 この最後の言葉を逆に言えば、漱石はこの作品から不幸で同時に充実した世界に入る覚悟をしている。同時に彼は「全くたゞの人間として大自然の空気を真率に呼吸しつゝ穏当に生息してゐる丈」の読者をこの深い苦悩の理解者と想定している。作品内容の高度化が同時にインテリや文壇の理解力を越えることであると漱石は意識している。

   漱石目次へ          home