10.彼岸過迄
 この作品から自己否定的精神による驚くべき内容が描写される。『彼岸過迄』と『行人』は事件のない地味な作品であるが、内的な変化は劇的である。これらの作品の内容は直観によっては理解しにくく、厳密な分析によって初めて理解される。これらの作品の分析なくしては『こころ』に描かれた悲劇的な激しい現象の意味が理解できない。
 この作品では現象が高度に具体的に描写されており、その背後に社会法則としての人間関係が現れている。この人間関係の法則はこの人間関係内部にいれば、あるいはこの人間関係の法則に規定された精神を持つ場合は発見できない。インテリ的、小市民的精神にとってはこの現象形態そのものが真理であり、現実の本質であると見られ、現象形態が法則を隠す役割を果たしている。須永の現実の現象的な観察が敬太郎と松本の精神として描かれ、須永の自己認識と対比されている。この現象形態を外から眺める目が、二葉亭四迷を彷彿させる森本である。森本はこの作品に登場するすべての人々の運命を多くの媒介項を経て本質的に規定している。森本の立場からだけ明確に須永の運命を規定する法則が認識できることが『明暗』でははっきり書かれている。
 須永と千代子の関係の展開中に特にインテリには馴染みの深い心理が描写されている。このような心理はインテリに対する無批判的な精神にとっては心理の機微とか内的苦悩とか、近代的苦悩として肯定的に評価されるが、漱石はそれをインテリ精神の崩壊の法則として描写している。
 須永の客観的特徴は父の残した財産によって生活していることである。『それから』の代助との違いは自己の無力を自覚すると同時に、その自覚を確定しようと努力している点にある。須永は無力の状態から抜け出そうとしているのではなく、無力を自己の必然性として受け入れようとしている。
 自己の無力を抽象的に承認することとその無力の現実の人間関係上の複雑な内容を具体的に理解することは違う。自己の無力を具体的に確定しようとする意識と、自分に対する肯定的評価を維持しようとする自尊心との矛盾が須永の葛藤の内容である。須永の本質的利益と能力の発展は残存する自尊心を破壊することである。須永の苦悩は彼の自尊心が現実的との衝突によって破壊される過程で生じており、その苦悩が再び自尊心を破壊する原動力になる。
 経験豊富な田口は須永の価値を認めていない。須永に対する幻想を持っているのは母と千代子である。須永は自分に対する評価が幻想であることを理解しつつもその幻想が破れることを恐れている。さらに須永は幻想を維持するための努力にも疲れて幻想の崩壊を望むほどに幻想の崩壊の必然性を反映した意識を形成している。このような苦悩を抱えていることを須永自身理解している。須永の自己認識として現れた意識は彼の意識上の限界であり保守的部分である。漱石は須永の自己認識の上に、須永自身の認識を越えた須永の行動と人間関係の展開を描写することで須永の自己認識の発展形態を描写している。須永は常に自己認識を越えて行動し、その行動の結果によってさらに自己認識を深める過程を繰り返すという発展形態をとる。
 綿密に描写されたこの作品を、全体にわたって紹介することはまったく不可能である。今回は要点をピックアップするだけのこれまでのやり方を変えて、この作品でのクライマックスに当たる、須永と千代子の最後の会話の部分だけを分析しておこう。
 須永はこの会話の前に鎌倉で高木と自分と千代子の関係で嫉妬に似た複雑な葛藤を経験し、その葛藤に疲れて東京に帰る。須永には千代子に対する愛情もなく、高木と競争して千代子を得ようとする欲望も持たないにもかかわらず高木と千代子を並べると嫉妬のような感情がおこる。このインテリにありがちな平凡な心理はこれまでの作品に描写されてきたインテリ精神の総括であり、それが千代子の言葉で卑怯だと断定されている。この卑怯の意味を理解することがこの作品の課題である。

 高木について千代子に質問することが須永自身にとって不純に見えるのは須永に不純な意図があるからではなく、高木と千代子に対して具体的利害や関心を持たないからである。須永は高木や千代子に対して具体的な欲望も具体的な関心も持たないにもかかわらず自己認識の契機として彼らに関わっている。相手に対する具体的関心はないが、須永は自分と現実の関係、自分と田口家との関係を認識するために千代子の判断を直接聞く必要がある。千代子の高木に対する判断は須永自身に対する判断である。須永は自分に対する千代子の判断を恐れると同時に求めている。高木との関係で生ずる葛藤は須永の客観的な姿と幻想の矛盾であり、高木との比較によって自分が決定的に否定されて、自分の置かれた客観的状況と意識が一致することで不毛な葛藤は解消される。自己の存在と自己の意識を一致させて二重性を解消するには現実の無力を自己認識として定着させねばならない。インテリの優位を非現実的と理解し、虚飾と感じる能力を持つ段階で初めて須永の苦悩が始まる。
 須永は千代子や田口家の財産と関係する可能性がないことを理解している。だから須永の葛藤の責任が千代子の親切にあるというのは正しい。千代子の親切とは千代子が自分の地位によって須永を拒否しないことである。千代子は須永の能力に幻想を持ち、財産関係の対立を意識しない純粋さによって須永に自己肯定的幻想を抱かせる。それが須永の独立を妨げている。田口が社交家でなく、千代子が純粋でなく、ブルジョア的に厳しく須永を拒絶するなら須永に幻想はあり得ず葛藤もあり得ないという観点からは、千代子の親切は害悪になる。須永に対するブルジョアの厳しい態度が須永が田口や千代子に依存せずに独立して生きていくための条件である。あるいはインテリの精神的独立性とは客観的に存在するブルジョアとの厳しい対立の認識である。同情の果実を拒否する精神の独立性は道徳的決意によってではなくて、ブルジョアと現実的に厳しく分離されており、果実が現実にあり得ないことを具体的に認識することによって得られる。道徳的拒否は、欲しいが我慢するという禁欲である。あるいはどうせ貰えないものを拒否という自分の意志の形式に変える負け惜しみである。初期作品で分離的、独立的精神を想定した漱石は段階的にその精神を克服し、現実的独立に近づいている。須永に必要なのは残存する小市民的幻想を破る最後の一撃である。須永の苦悩には小市民が独立的思想を持つために必要なブルジョアとの厳しい現実的対立関係が日本では形成されておらず、望んでも自然には与えられないことが描写されている。小市民に幻想を持たせる要素が現実に多く存在し、非現実的で不生産的な精神レベルにおいても多数の小市民が自己肯定しやすい点で日本の現実は厳しい。したがって幻想を破るには主体的な勇気が必要となり、したがってその勇気は容易に形成されないという悪循環に須永は苦しんでいる。
 須永は高木に対する関心を言葉にすることができずに千代子が言いだすのを待っている。しかし須永と同じ関心を持たない千代子には高木のことを話題にする必然性はない。この状況下で須永が千代子の技巧を疑い「甚だしい故意を認め」るのは、千代子に対する否定的評価の始まりではなく自己否定の最終段階である。須永の品格からすれば千代子の技巧を疑うのは堕落である。須永は千代子が開放的な率直な性格であることを理解した上で千代子を疑っている。これは千代子との関係で生まれるもっとも下らない心理であり、それが須永を苦しめている。そしてこの苦しみを押し進めることが彼の苦しみを克服する唯一の方法である。
 須永は一つの問題を反芻することで堅固な自尊心を破壊するための精神的エネルギーを蓄積している。須永の葛藤は千代子がもっとも開放的な性格を発揮しているときに蓄積される。自分と千代子との関係についての須永の予測には根拠がない。あるいは同じことであるが須永にとってはすべてに根拠を想定できる。須永の葛藤は千代子と関係のない自己矛盾である。このような葛藤の繰り返し自体が葛藤の非現実性を示している。客観的には須永と千代子の関係を認識するための条件は揃っている。須永の地位と能力と、田口の地位とその地位が必要とする能力を冷静に判断すれば、他のどのような条件があろうと千代子との結婚は成立しない。だから問題は須永が田口家から拒否され、社会に対して積極的に働きかける能力を失っているという客観的な事実を、最終的な人生の結論としてどのように受け入れるかである。須永の苦しみは自分の現実における客観的な位置を受け入れることにあり、千代子が須永を苦しめようとしているわけではない。千代子の善意のために厳しい現実を受け入れられないことが須永の苦悩である。須永は自己肯定や粉飾を否定しており、常に矛盾を蓄積し展開することを自己矛盾の解決としている。須永の葛藤の肯定的側面を発見している漱石は須永の否定的な現象形態を確信をもって描いている。
 須永は昨夜千代子の態度に対する下らない憶測で寝られなかった。須永は自分の様子に対する千代子の自然な言葉によって再び下らない葛藤を引き起こしている。インテリが想定する昂然とか、技巧家でないとか、自尊心が強い等々の言葉の現実的な意味がここに描写されている。ここでの須永の葛藤は鎌倉での葛藤を引き継いでいっそう下らなく、消耗的になっている。須永の精神の必然によれば「昨夕好く寐られなかつたんでせう」という平凡な言葉にどう答えても、答えなくても矛盾を生ずることになる。
 千代子の親切な言葉によって須永の葛藤が非常に緊迫し始めている。これは漱石の小説家としての才能である。瑣末な現象に反応し始めた須永は葛藤の激化に耐えきれずに鎌倉から逃れたのと同じように二階に逃れている。千代子が二階に上がってきた時、須永には「僕は斯う盆槍屈托してゐる所を千代子に見られるのを屈辱の様に感じた。同時に傍にあつた書物を開けて、先刻から読んでゐた振をする程器用な機転を用ひるのを好まなかつた。」という小さな葛藤が生じている。そのあと二人に一致の感情が起こる。そして最終的な対立が生じる。
 「素直な邪気のない千代子を眼の前に見る気がした」というのは、須永自身が素直な気分になったということである。須永がこの心理状態のまま何もしなければこれまでの状態が繰り返される。『つい不味い事』をするのは須永のこれまでの葛藤の自然な結末である。須永は千代子との関係に社会的地位の対立がなかった昔には戻れない。過去からの千代子との関係で生じる幻想と自分の現状との二重性に苦しんでいる須永はまさに彼らが形式的な一致に達したときに不毛な葛藤の根であるその一致を破壊した。須永は鎌倉に行くことで矛盾を蓄積し、矛盾は飛躍的な展開をすべき時期に来ていた。
 「夫は外でもない」という言葉に須永の必然が現れている。須永が品格を保つために唯一言ってならないのは高木という言葉である。したがって唯一言われなければならないのも高木という言葉である。千代子との関係は鎌倉で高木が登場したことで決着される可能性が生じた。須永の不愉快な葛藤を前進させるかどうかは須永が高木を問題にするかどうかにかかっていた。須永は千代子が鎌倉に帰る瞬間に、千代子との矛盾を高木との関係で進展させる最後の機会を捉えて「用意の足りない躓づき方」をする勇気を出した。体面を失うこの「躓づき」を逃せば鎌倉で得た葛藤は無意味に終わる。須永はまだ自分の葛藤を前進させることの積極的意義を理解しているわけではなく、内的衝動として持つだけであるために、偶然的なつまづきという形式で勇気を出した。須永を苦しめていたのは千代子が須永に持つ幻想であった。須永は自分の無口が千代子に幻想を与えていたことを理解するほどすでに自己否定的な認識を得ている。現実との接触の機会を失っている須永の精神は現実に対して無力化し、無力が暴露される危機感を内包している。無力が暴露される恐怖は暴露されることでのみ解消される。幻想を維持することは危機を維持し増大することであり不安や恐怖を蓄積することである。須永の不安や恐怖は自分の言葉に対する千代子の反応を理解しているから生じたのであり、彼に不用意な言葉を吐かせたのもこの理解による不安と恐怖である。須永に高木の一言を避けさせる臆病さと言わせる勇気は同じである。
 須永は高木の名前を口にすることが千代子にどんな結果をもたらすかを理解し、その結果を受け入れる勇気を出している。この矛盾の推進と受容に須永の能力がある。須永には千代子や母の自分に対する肯定的な評価を維持することが負担になっている。自分自身の幻想を払拭するには自分に対する千代子や母の幻想をなくさなければならない。千代子の軽蔑に身をさらすことが幻想を破壊する現実的で効果的な方法である。須永にとってこの現実をいつ受け入れるかだけが問題であった。幻想を持たれること自体が須永にとっては苦痛であった。幻想を維持する無駄な努力をするより自分の現実にあった意識を持つことで葛藤を解消することが須永の内的な欲望である。須永はすでに偶然を契機にいつでも幻想的な信頼関係を破壊する状態にあった。幻想を幻想と理解する力がない初期作品や松本にこういう衝動はない。須永の内的苦悩にとっては突然平手で打たれるほどの衝撃は現実との接触による真実の獲得であり、非現実的な葛藤の解消である。しかし勇気を持った実践による成果は幻想の解消に止まらない。
 須永のいじけた態度が千代子に軽蔑されることは須永の内的な認識の現実的確認である。しかし自分が卑怯だという規定は彼の自己認識になかった。他の階級に属する千代子は須永が意識していた弱点を問題にせず須永の自己認識を越える否定的評価を下している。須永は千代子の予想外の驚くべき否定的規定を非常な恐怖と期待を持って誘発している。千代子のこの本質的に新しい批判的規定は須永の自己否定的認識に基づく行動の成果である。千代子の言葉は須永の行動の高度化を物語っている。高木の名前を口にした須永にはさらに「何故」という勇気がある。千代子に激語を使わなかったことの理由を須永がどのように考えていようと、彼の本質的関心は千代子の言葉である。彼にとってこの「何故」が必要である。千代子がそれを誤魔化しだと考えるのは彼女が須永を理解できないからである。千代子が須永を軽蔑する瞬間に千代子に対する須永の優位が現象化している。
 須永は千代子の言う卑怯が自分の引っ込み思案や煮え切らないことを批判しているのでないことを理解できる。インテリの精神に度胸がないことは初期から指摘されていた単純な現象である。他を無教育の点で軽蔑するインテリの愚かさもインテリの真摯な道徳的批判意識によっても得られる自己認識である。しかし人間関係を持たず、無為で内的反省を事とするインテリが人を傷付け道義的卑怯になることはあり得ないと思われる。道義は無為なインテリの自己肯定の最後の拠り所であり、インテリの自己否定的認識の限界点である。自己否定はこの点にまで踏み込むことで初めて本質的である。漱石は須永の精神のあらゆる瑣末な弱点を展開し、それを自己認識として蓄積した後、最後にもっとも困難な道徳性の矛盾を突いている。これを破壊することが小市民性からの思想的開放である。須永の精神は自己否定を徹底し発展させることで道徳性の破壊にまで進む必然性を持っている。「つい用意の足りない躓づき方をした」須永の言葉と行動がそれを示している。無能で臆病なインテリにはこの「躓づき」ができない。逆に体裁を守り千代子の評価を得るために腐心することで道徳的な精神の限界に止まるのがインテリ一般の生き方である。
 須永は思想的限界点において自分の弱点を意識することなく露呈している。これはすでに漱石が須永の限界を越えていることを示している。自分の弱点の認識の対立物として千代子を強い女だと認めていたが、自分を卑怯と言う千代子の精神を須永は肯定できない。自分が卑怯だとは考えつかない須永は自分の判断能力の外に出た千代子に対して、初期作品のように余裕と軽蔑をもって対応している。須永の無理解による横着な態度はこれまでの軽蔑的な態度の延長として千代子に悔しい思いをさせ、対立を激化させる。ここに千代子との本当の対立点がある。これは須永が自分の意識より先行している行動によって獲得したものである。
 「『男は卑怯だから、さう云ふ下らない挨拶が出来るんです。高木さんは紳士
  だから貴方を容れる雅量が幾何でもあるのに、貴方は高木さんを容れる事が決して出来ない。卑怯だからです』・・・」
 言葉や仕打ちではなく須永の態度というのは、須永の意図ではなく全体的特徴を指している。愛してないのに何故嫉妬するのかは須永自身が不可解な自己として問題にしてきたことである。それが千代子によって卑怯だと指摘された。須永にどうしてもわからなかった自分の特徴は彼自身がまったく自己否定の要素と考えなかった自分の道徳性に関わっていた。この連関は須永にとってまったく意外である。これは作品の展開における漱石の発見であろう。須永のこの疑問は初期作品のすべてに通ずる疑問である。一般的に言えば現実に分離しており、積極的関係の可能性がなく、それを具体的に望んでいないものに対して何故関心を示すのか、勝つ見込みも能力もない場所に出てきて対立するのは何故か、近づくと遠ざかる、遠ざかると近づくという矛盾した態度をとるのは何故か、あるいはこれはどういう態度か、どういう社会的内容を表しているかである。これは苦沙弥が肯定的結果を引き起こす力もなく鼻子や金田に口出しをし、坊ちゃんが赤シャツとマドンナの関係に口出しをし、関係を持つ気もないのに画工が那美さんに関心を持ち、道也が実際は妻だけと対立しながら天下国家を相手にし、甲野が天下を見下しながら、責任を持つ気もないのに藤尾に下らない教訓を与えたのと同じである。『虞美人草』では宗近が下らない思想を現実化する勇気を持ったために馬鹿げた結果をもたらし小説としても俗な結末に終わった。この精神形態が須永の行動に集約されて総括されている。
 彼らはすべて現実と積極的に関わっていない。関わる能力がなく、現実社会から分離したものに特有の内的葛藤を引き起こすだけである。初期作品では須永と違ってそれが内的な葛藤に過ぎないことを理解できないために楽天的であった。彼らは現実との接触を回避している自分を理解できずに逆に積極的だと幻想していた。須永は外界に対する積極的関係を形成できないことを理解している。須永が千代子や高木に接触するのはその認識を徹底するためである。須永にとって千代子や高木は自己認識の、しかも彼らとの分離を認識するための契機にすぎず、関係を結ぶことに具体的利益や欲望がまったくないにもかかわらず自己のためにのみ関わっている。須永の場合は関係を断絶するために接触するという関係がはっきりしている。須永の言動の非道徳性、非合理性は千代子にも理解できるほど明確になっている。須永自身も自己認識の直前に到達していた。
 初期作品の人物にも須永にも悪意はない。無力で善良な彼らに悪意はあり得なかった。無知な彼らにとっては悪意こそ批判の対象であり、自己内に見出せないものであり、道徳性、人格性こそ彼らの優位であった。しかし彼らの言動は道義に反する。卑怯である。彼らが主観の二重性を対象化して他人の了見を疑うことも彼らに必然的な卑怯であるが、それは彼らの主観内部だけに生ずる瑣末な問題である。彼らが彼らの範疇で実際に道徳的で善良であっても彼らは卑怯である。招待に応じながら愉快にできないのは道義的に卑怯である。現実に接触する場合に必要な勇気、責任がないのに関心を示す。しかもそれは関心ではないという態度で、破れた場合の弁護を常に用意している。その臆病な用心が卑怯であり、他を侮辱する。積極性に応えて積極性を示すとすぐに臆病風に吹かれて逃げだす。積極的関係によって自分の能力が検証されることを恐れる代助や須永の対応は積極性を求める人間に侮辱を与える。彼らの行動は相手にとっては、逃げるための、消極的な、関係を結ばないために関係を結ぼうとする無意味な行動である。須永よりはるかに遠い地点から関わる道徳的批判意識は、より臆病で自己保身的で自己満足的であり、したがってより卑怯である。自己否定を実践している須永と品格の上で区別され、自尊心を保っているほど千代子の言う卑怯の度合いは大きくなる。
 須永を卑怯とする千代子は高木に無批判的であり高木の視点から須永を批判している。初期作品ではブルジョアに対するインテリの精神的な優位が描かれた。ブルジョア的な地位や財力による社会的な力がインテリにないのは明らかである。物質的な富や地位を反映した精神と対立しその観点による軽蔑に身をさらすことはインテリの名誉とされていた。しかしこの作品ではこうした価値観自体が精神的・道徳的な堕落であることが示されている。現実との関係が価値基準となった『三四郎』からはインテリの精神的弱点として度胸のなさが描写された。『それから』では無為に伴う精神的弱点が描写され、須永では自分の弱点を認識した人物の行動に内在する弱点が描写され、この段階に至って初期作品での精神的拠り所であった道徳性が対立物に転化する必然性の端緒が発見された。
 『三四郎』から導入された現実との関係を価値基準とすることの必然的な結果として須永に至るすべての人物の言動が卑怯と規定される。現実との接触を回避する無力な精神が人間関係と接触することは客観的に卑怯な関係になる。それは無力な人間が人を愚弄することである。現実に対する責任ある態度とは、現実に積極的に関係し、それによって生ずる必然的な矛盾に現実的連続的に対処することである。現実と関係する場合は一つのこの個別に対する勇気では片付かない。現実の人間関係は連続的な過程である。その過程に積極的に関与する能力を蓄積する機会を失った須永は、現実に対する関心を持つものの、責任ある対応ができない。彼らは矛盾の展開に耐えられない。しかし一般に自分の社会的存在価値を否定できない場合彼らは現実に対して臆病な関心を示し、しかも関係が生ずると責任を回避する。これは現実との関係ではもっとも自己保身的な卑怯な態度である。
 展開の過程を見ればこの卑怯は道徳性に内在していること、インテリの道徳性が卑怯に転化する必然が理解できる。現実との積極的関係である実践においては道徳性を守ることはできない。あらゆる形態の利害が対立している現実社会に実践的に身を投じる場合は一方に対する道徳性は他方に対する非道徳である。人間関係は矛盾しており、それが本質であり力であり内容であるからこそ無力なインテリはそれを避け、関係の回避を道徳的な対応として肯定的に評価している。無為は悪ではなく善であり道徳的であると考えられる。厳しい批判精神を持つこの作品では無為な生活とそれを反映した精神こそが非道徳的であり卑怯であるとされている。悪を回避するという意味での完全な道徳性とは社会からの完全な分離、隠遁である。しかし道徳性は一般的社会的規範としてのみ意味があるのだからそれは道徳性の社会的価値を廃棄するものでありやはり矛盾する。その矛盾が須永の心理や行動として現象する。
 このように須永の到達点はインテリの精神の発展によって彼らの本質的価値である道徳性がその対立物に転化すること、道徳性が非道徳性と同一であることを示している。『行人』、『こころ』ではこの転化の具体的過程が描写される。この作品までは現実との関係での自己肯定の幻想を破壊することを課題にしていた。次の作品からはブルジョアとの関係、須永にある内的ブルジョアとの関係もなくなり、インテリの世界の矛盾がインテリの世界内部で、インテリの意識がインテリの意識において純粋に展開され、その本質が明らかにされる。

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