啄木 ・ 日記  明治三十七年 (19才)


 ▲健康を回復した啄木にとって、明治三十七年は、詩人として再出発するための希望に満ちた、慌ただしい年であった。
 
 ■一月一日
 年はまた新らしくなれり。手に希望と栄光との花束を携へて新世の幸なす初日の光は眩ゆく地上に舞ひ来れり。かくて我は十有九才の源頭に立ちぬ。如何にして過ぎ来しや、如何にして過ぎ去なんとするや、こは我今語るべき事に非ず。我はたゞ十八年の歳月を暗中に葬り去りて、更らに悠久なる希望の未来に対せるを知る。
 それ希望は高し、大なり、広し。何者かよく胸中に淘湧する澎湃たる波濤を防ぎえんや。これ希望なり。人はこの波の滅えざる起伏によりて初めて光明あり、慰籍あり。詩人は心うち悩めども又常になぐさみを失はず。それその胸中の幻楼は無辺、無終にして、容れざるなく、包まざるなし。その希望は無窮を追ふの勇みにして、朝に夕に夜に、この世を超えたる常楽の国土に憧る。我は遂に我自らのちからに酔ふ者也。
 美は神の影なり。理想の花の一葩なり。象られたる無窮なり。之を求むるはやがて太一、絶対に融合するの謂なるのみ。かくして我は我自らの内に無窮を見、永生を見、不滅を見る。これ神なりや、果た我なりや。知らず。たゞ、この世の栄誉を超へ、争を超へ、不幸を超えたる浩蕩の極みに、我が霊が永劫の栄光を友とするを知る。
 我は仏徒に非ず。又基督教徒に非ず。然れども世の何人にも劣ることなき真理の愛僕なり。信者なり。
 あゝ新らしき年は来りぬ。永き放浪と、永き病愁と、永き苦悩の泪にうち沈みたる我精神はかくて希望の大海に舟出せんとするの時をえたり。
 此口金矢朱絃、同光一、沼田清左ヱ門の三君来り、夕刻に至りて帰る。沼田君は夜半まで談を続けぬ。
 午後「明星」一号、日報初刊、並びに瀬川藻外、小林花郷、佐藤善助諸兄の賀状来る。明星には我長詩「森の追懐」を載せ、岩手日報には「詩談一則」(東海よりの詩をよむ)を掲ぐ。共に十二月の作。
 
 ■一月十日、
 起床八時。朝食して新刊の文芸雑誌類くりひろぐる間もなく、田村より迎ひ来る。至ればせつ子あり。
 未来を語り、希望を談じ、温かき口付けうち交はしつゝ話は絶間もなくうち続きたり。詩、音楽、宗教のけぢめもなく、くつろぎて、云ひ渡り、さて語つくれば無音の語ぞ各自の瞳に輝きぬ。
 家人外出してしばらくかへらず。破壁の隙もる冬の風も我らには温き春の日のそよ風の如く覚えぬ。さて云ふ。かくてあらなんうまし世をぞ早く作らざるべからずと。
 望む者は遂にうるの期あらん。愛する者は遂に合ふの時あらん。田村にて昼食もろともに済まし、三時半、二人にて停車場に至る。此の日我は帰村すべかりしなり。
 
 
 ▲啄木は何かを生み出さずにいない文学的情熱をもっていた。啄木は自分の天才を確信し、彼を取り巻く多くの人々もそれを信じるほどの力をもっていた。啄木の主観はまだ空虚であるが、その空虚な主観は大きく膨らみ続け、その空虚を充たすための実践がこの年からはじまる。
 一月十四日、節子との婚約が成立し、啄木の人生は大きく一歩を踏み出した。そして、啄木の精神の昂揚を生み出す上で更に大きな力を持ったのは二月の日露開戦であった。
 
 
 ■一月 十三日
  東亜の風雲漸く急を告げて、出帥準備となり宣戦令起草の報となり、近来人気大に引き立つ。戦は遂に避くべからず。さくべからざるが故に我は寧ろ一日も早く大国民の奮興を望む者なり。
 
 ■二月 十一日、(木)
 紀元節。年越の餅つきなり。
 新紙伝へて曰く、去る八日の夜日本艦隊旅順口を攻撃し、水雷艇によりて敵の三艦を沈め、翌九日更に総攻撃にて、敵艦六隻を捕拿し、スタルク司令官を戦死せしめ、全勝を博したり、と。何ぞそれ痛快なるや。又朝鮮巨済島方面にも海戦ありたる者と云ふ。予欣喜にたへず、新紙を携へて、三時頃より学校に行き、村人諸氏と戦を談ず。真に、骨鳴り、肉躍るの概あり。
 夜、沼田仕太郎君来り、深更まで快談。
 「明星」二号せつ子へ送る。
 
 
 ▲ この他にも同類の文章を書きつけており、三月には「岩手日報」に「戦雲余祿」を連載している。戦争の社会的な事実についての情報をまったく含まない、形式的な、空虚に雄弁な文章である。
 
 ■◎今の世には社会主義者などゝ云ふ、非戦論客があつて、戦争が罪悪だなどゝ真面目な顔をして説いて居る者がある。南亜共和国の老将ジユウベルトが彼の英杜戦争の義軍に投じた時、「束縛の縄を首にかけられた人は、誰でも剣を以て之を払ふだらう」と激語したさうだ。若し彼等平和論者が、其場合に当つたならば、果して如何であらうか。耐忍と臆病とは同一でない。かゝる時に因循として剣を抜かずんば、乃ち彼等の声明は平和の福音ではなく、寧ろ無気力の鼓吹である。若し勇ありて其縄を払ふならば、紫電一閃鞘を脱する瞬問に於て、巧みに論理的自殺に陥らねばならぬ。あゝ天下広しと難ども、何処に斯の様な最大滑稽があらうか。彼等の、蝉の羽の如く小さい旗、幟は元より吾等の注目に値するものではないが、余り憐然でならぬから、お慈悲を以てこゝに一言した。
 ◎偉大なる文明は、幾多の革命的勢力の融台に依つて初めて建論せられる。偉大なる平和は、幾多の戦争を包含して初めて形作られる。畢竟するに、あらゆる人文的経緯は凡て、静止的配列ではなくて、不断進転の大調和の不文律である。
 ◎今や挙国翕然として、民百万、北天を指さして等しく戦呼を上げて居る、戦の為めの戦ではない。正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦ふのである。あゝ斯かる時に、猶且つ姑息なる平和を仰望する輩の如きは、蓋し夏の日遠雷の響を聞いて直ちに押入の中に逃げ込む連中でがなあらう。怯儒も斯うなつては一向愛嬌がない。万国平和会議の首唱者たる露帝が、其長い舌の根の乾きもせぬうちに、戦の種を満洲の土に蒔く世の中ではないか。平和の美名に酔ふ者の譫言を笑ふのは、独り天井の鼠殿ばかりではあるまい。
 
 
 ▲ 啄木がこの時期に使う、文明、理想、美、正義、自由、革命、闘争、等々の言葉は具体的な社会的な意味を持っていない。日露戦争を、自由の拡大として、ロシアのツアーリの圧政との戦いとして捕らえた上で装飾的な文章を連ねている。「社会主義者という非戦論者」を言葉として知っているがその内容を知らず知ろうとする意志も持っていない。啄木はこのあと、日露戦争後の現実を具体的に認識していくことになる。
 この年多くの詩を発表し、天才詩人としての名声を得ていた啄木の主な関心は、再び上京し、自分の才能を試すことであった。啄木は上京と処女詩集出版の費用を借用するために、義兄の住む北海道にわたり、10月に帰宅した。姉の病気のため十分な援助は得られなかったが、10月上京した。処女詩集『あこがれ』は、次の年の五月に出版された。
 12月、父親が、宗費滞納のため住職罷免の処分を受けた。
  

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