啄木 ・ 日記  明治三十八年 (20才)


   この年の日記は残っていない。
 
 1月5日、東京新詩社の新年会に出席した。
 
 3月2日、父一禎は免住職となり、宝徳寺を出て渋民の知人宅に転居し、4月に盛岡に転居した。
 
 5月3日、処女詩集『あこがれ』を刊行。
 
 5月12日、啄木と節子の婚姻届が出された。啄木は5月19日、東京を出発した。
 
 6月4日、盛岡で、妻節子・両親・妹と新居での生活がはじまった。
 
 6月9日、『岩手日報』に随筆「閑天地」を連載した。
 
 9月5日、文芸誌『小天地』を創刊。寄稿者は岩野泡鳴・正宗白鳥・綱島梁川・小山内薫・与謝野寛ら。雑誌は売れず、第二号の原稿は集まったが、啄木の病気のため発行は延期され、1号雑誌に終わった。
 
 9月5日、日露講和条約。日露戦争が終わる。日比谷焼打事件が発生。
 
 
 
 ■「わかば衣」
 
 噫、故郷こそはげに我が世のいと安けき港なりけれ。わが舟そこに休らへば、人の情の海は深うして、なつかしき鄙言葉のさゞめきの波は子守歌の様におだやかに、あたりを繞る青垣の山々は厳たる神威、変る事なき父の姿の、げに変ることなければこそ年々の形逝いても猶とこしへに我をいつくしむ、大慈悲の神はこもりぬべし。希望の影の偉いなる光にあこがればこそ、はた又生れにし家のまづしければこそ、好むにあらねど雄心ひき起して、詩笠吟杖、瓢々たる旅の身の、かくは崢しき生命の路のさすらひ、都の塵の中にもくすぶりつれ。さはあれ、世の並の人々の如く味気なくも生活の条件に一生を屈し了らむは、我の光栄とする所にあらず。よし世の黒潮の寄せて我が脚下に逆捲かば逆捲け、飢もよし、労れもよし、我が汚れなき魂は大穹の蒼きを屋根とす。大地の広きを床として、日輪の照る所、飲むに清水のある所、この世界いづこか我が家ならざる、行かむとして行き、帰らむとして帰るに、一身軽き棚なし小舟、何とて我をとゞむるしがらみのあらむや。わが燈明台は大空のたゞ中にあり。なつかしと思ひ、恋しと思ふ所、何所か我がための好き港ならざらむや。いざさらば、半月なりひと月なり、心のまゝに旅して来むと思ひつめて、目を上ぐれば、なつかしきみちのくの空、初夏の浮雲二片三片ありて夢の如く流れたり。我がふるまひを埒なしと、人は笑はゞ笑へ、罵らば罵れ、吟身一念動く所、いづこにか天来の響ありて、我が心絃に宿らざる。生立の紀念多きふる郷の青野、もえもゆる若草の中に恋しき人もや眠りぬらむ、我が好む暁の鳥の声に、この世の外の浄楽の国の信や聴きつべきなど、身は塵巷をたどり乍ら、心すでに決して遠く北天の雲に乗りうつれば、都にはなき閃古鳥の一声二声、いづれよりとなく落ち来りて、幻か現か、慌々として我が心頭に鳴くと覚えぬ。(「東北新聞」明治三十八年五月)
 

 ▲「明治三十八年五月下旬、帰郷の途次仙台大泉旅店に宿りて」と副題がある。啄木は『あこがれ』を刊行したものの、それで生活できるわけではなく、父一禎の免住職によって、東京での生活をあきらめて故郷に帰った。東京でも故郷でも啄木は現実の深刻な矛盾を経験しはじめていたが、それはまだ啄木の精神には反映していない。故郷を思う啄木の文章は平凡で無内容である。啄木は東京のことも故郷のこともまだ頭になく、その二つの世界から超然とした自己にのみ関心を持ち、そうした自己を維持することにのみ関心を持っている。貧困や人間関係の崩壊の中でもなお超然として理想と芸術の世界に生きるのが啄木の覚悟である。
 故郷を愛する気持ちを書いたこの時期の文章は、深い感情も観察も含まない形式的でいいかげんな文章である。まだ書くべき内容を持たない啄木が東京と故郷を行き来することを材料にして経験的な材料を装飾的に書いているにすぎない。啄木のこうした文章は虚偽といってもいいほどに真剣みを欠いている。しかし、これこそが啄木の人生を掛けた、才能が生み出す真面目さであって、こういう経路を通ってのみ東京についても故郷についても深刻な感情と観察を持つことができるようになる。啄木は空虚な抽象的精神に真剣になり、あるいは安住するほど無能でも不真面目でもなかった。

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