啄木 ・ 日記  明治三十九年 (21才) -渋民日記 (後半)


  ■ 〇三月二十三日
 
 自分が代用教員に成るといふのは、無論一生を教育界に投ぜんとするのではない。たゞ、この村に居る間、児童の心理も研究して見たし、また旁々故山の子弟に幾分なりと善良なる感化を与へてやりたいからだ。月俸八円が生命に代へても欲しいといふでもなく、陰に一村の政治を動かさうなどの野心も持つてる暇はない。小さい村を左右したところで自分には何になるか。学校に出るなといふなら、出なくとも差支はない。誠に笑止な次第である。その癖自分に逢ふと頭を低くして御機嫌をとるから奇妙ではないか。
 然しまた、静かに観察すると仲々面白いものである。戸数百にも足らぬ小部落であり乍ら、藩閥もある。御用党もある。在野党もある。中立党もある。策士あり、硬骨漢あり、無腸漢あり、盲従漢あり、野心家あり。そして互に策を廻らして蝸牛角上に相争って居る。先日在野党の主領が来て酒を呑んで行つた。それで今日は村長が学校のかへりに寄つて、自己の地位を弁解して行つた。ところが二時間とも経たぬに再た在野党の主領が来て、局面転変を企てる。所へまた野心家の御用党が飛び込んで、苦肉の策をやる。イヤハヤ、一村の小も一国の大も同じ様な呼吸サ。もしこれで舞台が広かつたら、自分も何とか動く気に成るかも知れぬが、所詮自分来たのは、彼等に一つ苦の種が殖えた丈けの事である。

 
 ▲ 啄木は、文明に対置して自然の清浄と平和と美風に溢れた故郷を肯定していた三月八日の日記がつくりものの観念であったことをはやくも経験している。しかし、啄木はそのことによって単純に田舎の否定に走ることはない。啄木の精神は同じ普遍的精神の内にとどまる。啄木の精神は、個人的な人間関係の限界内に押し込められることがなく、どのような経験においても個人的な恨みや弁解の世界に入らない。常にその経験の普遍的な意味を問うのが啄木の特徴である。この点では鴎外と対照的である。
 啄木は、すべての経験を常に客観的に、社会問題として認識する傾向をもっている。主観的な感情に支配されない。あるいは感情がつねに普遍的な世界にある。このために、成功にあっても失敗にあっても常に社会認識が普遍的精神において深化する。渋民村での対立は、田舎の矛盾を認識する契機になっている。この小さな村でのいざこざにも、人間関係の展開の典型としての意味はある。啄木と渋民村のいざこざは、こうした認識対象にとどまる。この意味で、啄木の精神は渋民村でのいざこざに巻き込まれずに自己を維持している。渋民村での対立自体は普遍的な意義を持たないからである。しかし、この小さな村で子供たちを教えることには無限の普遍的な意義を認め情熱を注いでいる。これが啄木の価値観、現実認識の特徴である。
 
 
 ■ 〇三月二十七日。
 昨夜鷄鳴をきいて眠についたので、今朝は十時過ぎに日がさめた。何となく頭が痛い。十一時半頃まで枕の上で半醒半眠の心地。恰も陰暦三月三月、雛の節句である。戸外には嬉々として遊び戯れる小児等の無邪気な声がする。長火鉢に素湯のたぎる音が、さながら心も冴えわたる山の松風。自分は様々な考へにうたれた。
 貧の辛さがヒシヒシと骨に泌む。読むに一部の書も無き今の自分は、さながら重大な罪を犯したかの如く、我と我が心に恥しい。蔵書と云つては、自分の「あこがれ」と、古雑誌が二三十冊と、その外に売り残した二三部の詩集、新約全書位なもの。朝起きる、机の上には硯と紙と古雑誌、許り、之を一瞥した時の自分の眼には、方三尺にも充たぬ破れた一閑張りの机の上が、恰も無辺無人の大荒野の様に思はれる。飯と干大根の味噌汁と、沢庵漬と、これだけでも身躯の糧は足りる。新聞紙と茶呑話が何で精神の糧になり得やう。自分が時々抑へきれぬ不快の謀反心に駆られるのは、つまり、糧を与へられぬ自分の精神が、餓の苦みに堪へかねて暴動を敢てするのであらうか。又、精神の餓えた部分が、今迄に蓄へた養分をも喰つてしまふがために、自分は今詩をも小説をも書く気に成れぬのではあるまいか。
 
 
 ▲啄木は生活上の困難には堪えることが出来る。これまでもそれを問題にしていない。しかし、精神の貧困には堪えがたい。生活上の困難に耐えることは、それが精神の貧困を伴っている場合は意義がない。そして、ここでの啄木の苦悩は、すでに自分の知識と経験が限界をもっており、このままでは、これ以上進めないことを自覚していることである。
 
 
 ■ 〇四月十一日。-- 十六日。
 十三日に村役場へ出頭、十一日附の、「渋民尋常高等小学校尋常科代用教員を命ず、但し月給八円支給」といふ辞令を受け、翌十四日(土)から尋常科第二学年の教壇に立つことに成つた。我が自伝が、この日、また新らしい色彩に染められた。
 ・・無論自分はこれで一生を教壇の人となるといふのではない。或期間自分の時間をこの興味ある教育のために費して見たいといふだけである。されば自分は初めから俸給などの点に就いては何の考へもなかつた。村の予算が八円しかないので、八円に決定したのだが、実は少々滑稽にも感ずる。しかし静かに考へて見れば、前の高橋訓導といふ有資格者を追ひ出して、無資格なる自分を入れて貰ひ、そして自分の理想的生活の一なる教化事業にたつさはるをえたのだけで、自分には誠にうれしい訳なのである。俸給の如きは第二の問題に属する。又、八円といふのが至極おもしろい。教育を職業として居る人であつたならば、これは或は恥かしい額であるかも知れぬが、自分はもとく詩人であるのだ。
 たゞ一つ遺憾に思ふのは、自分は可成高等科を受持ちたかつたのだが、それが当分出来ぬ事である。これは自分が教壇の人と成るのが、単に読本や算術や体操を教へたいのではなくて、出来るだけ、自分の心の呼吸を故山の子弟の胸奥に吹き込みたい為めであるのだ。それには高等科あたりが最も適当である。十二三才から十五六才までが、人の世の花の蕾の最もふくよかに育つ時代で、一朝開華の日の色も香も、--乃至は、その一生に通づる特色といふもの、--多く此間に形作られる。尋常科の二年といへば、まだホンの頑是ない核提に過ぎぬので、自分の心の呼吸を吹き込むなどゝいふ事は、夢にも出来うる所でない。
 しかし、彼等の前に立つた時の自分の心は、怪しくも抑へがたなき一種の感激に充たされるのであつた。神の如く無垢なる五十幾名の少年少女の心は、これから全たく我が一上一下する鞭に繋がれるのだなと思ふと、自分はさながら聖いものの前に出た時の敬虔なる顫動を、全身の脈管に波打たした。不整頓なる教員室、塵埃にみちみちたる教場、顔も洗はぬ垢だらけの生徒、あゝこれらも自分の日には一種よろこばしき感覚を与へるのだ。学校は実に平和と喜悦と教化の大王城である。イヤ、是非さうせねばならぬ。
 ・・・・
 
 世には、『智識にあらず、運命こそ人間の万事を支配するものなれ。』といふ極めて劣弱な考へを以て居る人間が多い。「然らば、正義、公平、謹厳、謙譲等のもの、人間の万事を支配するにあらざるにや。とは、これらの人間に対して、古へのブルタークが提供した絶叫であつた。そして彼は、かの有名なる英雄伝を鉄筆を振つて書き出したのである。
 然し乍ら、人生一切の出来事を解決するに於て、以上の二論は、その愚蓋し互に匹敵して居るものではあるまいか。我々は、プルタークの英雄伝を読むに当つても、人間の智識乃至正義、公平……等の諸徳の如何ともし難き高俊なる運命の蹂躙を歴々として視る事が出来る。又、人間の智恵乃至諸徳が往々にして、当然の運命を改善し--少なくとも別途に導くの事実も亦、我々の常に遭遇し、見聞する所である。(p95)
 人間と神との連絡を是認し、運命を以て他界の勢力とせず、我々内在の根本性格の発動とするのが、此際に於げる唯一の解答である、
 運命は人間の根本性格である。そこで一切の「偶然の出来事」は皆「必然の運命」である。人は到底運命の手から脱する事は出来ない。運命は実に断てども断たれぬ永遠の鉄鎖である。然し乍ら、既に運命が他界の隔岸的な勢力でない以上は、我々はたゞ将に目己の運命を双肩に荷つて、一意奮闘すべきであるのだ、ブルタークが鉄筆に上つた英雄も実に皆斯くの如き奮闘の人ではなかつたか。
 自分は悲観詩人厭世詩人ではないが。人類が今迄、絶対の「喜」の現存せざる涙の谷のみを辿って来たといふ大事実は承認せざるをえない。我々の世界にあつては、たゞ「喜」に対する希望のみが、「喜」と称されてあるだけである。所詮人生の奮闘とは、血と涙とを以て「理想」の光明城を攻め取らむとする努力の意義。運命の壼には常の涙が溢れて居る。
 自分は今、月給八円の代用教員になつた、これも亦運命である。運命だから、子細に考へ来れば、涙も恨みもあるのだ。
 
 ▲ ここには、三月廿日の日記と同じ質の論理の展開が見られる。これほどの高度で端正な論理を啄木は現実に対する特有の実践的働きかけと、その人生を認識する能力によって生み出している。人生も認識も天才的である。
 自分の精神の展開の限界を感じていた啄木にとって、教育の実践は収入以上の意義を持っていただろう。啄木は高度の論理的思考能力を持っていたために、自分の知識と実践の限界を深刻に感じ取っていただろう。そうした事情での元での代用教員の仕事は、啄木にとって新しい分野の実践であるし、詩人の情熱を吹き込むことのできる仕事でもあり、教育の仕事に自信も持つだけの力量をもっていた。「不整頓なる教員室、塵埃にみちみちたる教場、顔も洗はぬ垢だらけの生徒、あゝこれらも自分の日には一種よろこばしき感覚を与へるのだ。」というのは啄木の才能が生み出す実感であろう。詩や普遍的精神と無縁に見えるこのような条件と貧しい家庭の子供たちを教えることに啄木は感動しており、実際にそこに生きた精神を吹き込むことが出来た。普遍性を常に追求している啄木の精神だからこそ、こうした活動に情熱を持つことができるのであり、この情熱的な実践の成果として常に独自の精神を生み出している。
 
 この教師としての経験を契機にした運命の考察も、啄木の個人主義を基礎とした非常に優れた展開になっている。運命と主観、神と人間の対立をここで捕らえること自体卓越した感性であるし、二つの関係のとらえ方も三月廿日の日記と同様に、一元論を貫徹しようとするすぐれた論理になっている。
 人生の一切の出来事を規定するのは運命であるか主観であるかの二論は、分離されている限り双方とも愚論である。英雄の人生には、運命が主観を蹂躙する事実をも、主観が人生を切り開いていく事実をも見ることができる。啄木はこの事実から、両者が連関して存在するものとした上で、この両者の連絡を、「運命を以て他界の勢力とせず、我々内在の根本性格の発動とするのが、此際に於げる唯一の解答である」と正しく一元化している。
 啄木が運命を内在的な力として正しく理解していることは、「運命は人間の根本性格である。そこで一切の『偶然の出来事』は皆『必然の運命』である。」という文章への流れによって明らかである。根本性格とすれば、(この「そこで」の飛躍は優れたセンスである)偶然は皆必然である。実際すべての偶然は必然の現象形態であり、すべての偶然を常に必然として捕らえることが啄木の現実認識の特徴である。
 さらに「既に運命が他界の隔岸的な勢力でない以上は、我々はたゞ将に目己の運命を双肩に荷つて、一意奮闘すべきであるのだ」という、この展開も、明治39年の21才の若者の論理として見事としか言いようがない。運命に規定されている以上、その運命を自我として意志として奮闘す べきだ、というのは、啄木自身がそのように生きているからこそ発見できる論理の進行である。そしてこのような論理の進行こそが真の楽観主義であり、人生の肯定的理解である。
 啄木は個としての自分の幸福を求めていたのではなく、またその意義をも正しく認識していた。歴史を見れば、英雄の運命は幸福を勝ち得たのではなく、英雄だからこそ涙の谷のみを辿って生きていることがわかる。それは、各個人は自己の幸福を求めて生きるのではなく、「理想」を求めて生きていることを示しており、そこに人生の意義があり、その人生の中に、幸福も不幸も個の運命の彩りとして一体となって展開していることを示している。人類の歴史はそういうものである。だから、歴史のなかに、運命のなかに、涙の谷のみを辿るとしても、それは悲観詩人でもなく厭世詩人でもない。それは悲観的な詩人の主観的な観察ではなく、実際に人間の「運命壼には常の涙が溢れて居る」のであり、それだけが幸福をも生み出すのである。
 こうした考察の後の、
  「自分は今、月給八円の代用教員になつた、これも亦運命である。運命だから、子細に考へ来れば、涙も恨みもあるのだ。」
 という文章は非常に奥深いニュアンスを含んでいる。代用教員としての自分の経験の中に、人類が歴史的に作り上げてきた運命の意味を発見しており、プルタークが英雄の運命として記録したものと同じ論理を掴みだしている。普遍性のみを目的としている啄木は、運命を双肩に荷つて困苦の内に生きることの具体的な意味を経験的に知っている。まさにプルタークの英雄が生きた様に生きる以外にないのが啄木の運命である。代用教員として自分の使命を果たすことはこのうえない喜びである。しかし、月給八円で一家を支えることはできない。だから、子細に考えれば、そこには涙も恨みも喜びもある。こうした高度の認識を啄木は経験的に得ている。それは、啄木の精神が高度の経験をする能力をもつ主体だからである。
 日露戦争後の日本史は、ここに見られる自由と必然の関係についての考察を促した。日清戦争ごの社会で創り出された主観は、日露戦争後の社会情勢と分離し対立するに至る。このことが、四迷、漱石、啄木、花袋、鴎外の作品に色濃く反映している。四迷、漱石、啄木はこの分離を意識するとともにその統一をも意識することの出来た天才である。啄木がここに展開している論理を漱石は「それから」で発見することになる。そしてこの論理の発見によって、『吾輩は猫である』から『虞美人草』までの作品を『明暗』までの作品によって再構成することになる。現実社会の方法論的な認識がいかに大きな意義を持っているかがわかるであろう。自由と必然の論理の関係の本当の難しさは、啄木が展開している単純な論理が、歴史的概念としてのみ具体的に展開されることである。若い啄木には、単純な抽象論のをさらに具体的に展開するための経験と知識が欠けており、それが啄木の苦悩である。しかし、啄木のこの論理の力を見れば、啄木が自分の経験と知識のすべてを大胆に合法則的に構成していくであろうと期待させる。漱石も啄木も日露戦争後の歴史に突き動かされ、それによって新たな精神を創り出している。
 
 
 ■ 〇四月二十一日。晴。土。
 待ちに待つたる徴兵検査が愈々この日になった。学校をば欠勤。午前三時半に起床、好摩から六時に乗車して沼宮内町に下車、検査場なる沼福寺に着いたのが七時半頃。検査が午后一時頃になつて、身長は五尺二寸二分、筋骨薄弱で丙種合格、徴集免除、予て期したる事ながら、これで漸やく安心した。
 自分を初め、徴集免除になつたものが元気よく、合格者は却つて頗る銷沈して居た。新気連の動いてゐるのは、此辺にも現はれて居る。
 
 ▲ 啄木はかつて日露戦争に熱狂していた。しかし、すでに熱狂は冷め、戦争が生み出した現実に対して批判的になっている。合格者が銷沈していたことに新気連の動きを見いだすのも啄木の現実認識のセンスである。啄木があらゆる経験を一般性において認識している。この認識自体は小さなことであるが、あらゆる経験においてすべての関心がこのような方向に運動することが啄木の才能である。
 
 
 ■〇四月二十三日。
 一昨日、年は三十九歳の、村でも有力家の一人であつた男が突然自殺した。
 竹田竹松! 噫、彼に対して自分は久しく或る敬意と好意を持つて居た。彼は無論農家の生れ、学問も浅かつた。財産も少なかつた。然し彼は驚くべき度量と才とを持つて居た、そして又非常に自負心の強い、そのくせ能く人に馴れ易い、仲々の大力家で、大酒家で、大食家であつた--彼の才能は先づ村中の第一位であつた。しかも彼の住んだ天地は、彼を容れるには余りに小さかつた。彼の学力は浅かつた、にも不拘、彼の世事万般に渡る智識は優に又村中を圧して居た。彼は幾多の企てをした。そして皆失敗した。五升の酒は遂に一升樽に入れる事が出来なかつたのである。用ゐるに所なき才は、却つて自分の身心を喰むの虫となる。かくて彼はその恐るべき身内の虫に攻めらて、或時は酒に隠れ、或時の如きは全たく狂人の真似もした。世人は、多く彼を狂人の取扱ひをした。自分はその当時から彼の心中に無限の同情を寄せて居た。そして決して彼が真の狂へる人でない事を信じて居た。彼は痛切に人生の苦痛と無価値と倦怠とを感じて居たのである。
 忽然として自殺の報は伝はつた。あゝ、無学なる彼は、遂にその甚深なる煩悶から解脱するの路を見出し得なかつた。
 世人は精神錯乱の結果だといふ。しかも彼の死様は、古(p97)への武人も難んずる程立派であつたのだ、腹を一文字にかき割く事一尺余。割く事半ばに刀の刃が欠けた、乃ち第二の刀を取つて遂に目的を達した。割腹後四時間。最後の一分まで平然と秩序正しく人々に遺言して、遂に不帰の客と成つたさうな。若しこれが狂人の仕業であるなら、世界に狂人でない人が無くなつてしまふ。
 人生を解脱するの道只二つあり。そして彼はその一を撰んだのだ。自分は彼に対する世評を耳にする毎に、実に忿怒に堪えぬのである。
  
 
 ▲ 啄木はロシア文学の影響でもあろうが、破滅する運命を深く認識している。学問も財産もないが、度量と才能を持つ人物に敬意と好意を持っている。竹松の運命を破滅させたのは貧しさだけでなく、才能を投入するための学問と機会を持たなかったことである。いかに貧しくても度量と才に学問あるいは芸術を学ぶ機会があれば、つまり普遍的世界への道が開けていれば、彼は第二の解脱の道を進むことが出来ただろう。啄木は今その第二の解脱の方法を探求している。だから、啄木は竹松の運命を、その心情を深く理解することができる。こうした深い現実認識、人間認識は生活者の論理を掲げて個別性の中に生きる人間にはできない。経験的生活の限界内に生きている世評という精神は竹松の運命を肯定的に認識することができない。啄木はこうした世評に対立し、超える現実認識を才能として持ち合わせていた。そのために、世評を超えることのない批評家に批判されることになった。
 
 
 ■ 〇四月二十四日。--二十八日。
 自分は、一切の不平、憂思、不快から超脱した一新境地を発見した。何の地ぞや、曰く、神聖なる教壇、乃ちこれである。
 繰り返して記すまでもない。自分は極めて幸福なのだ。たゞ一つの心配は、自分は果して予定の如く一年位でこの教壇を捨て去る事が出来うるであらうか。といふ事である。
 自分は、涙を以て自分の幸福を絶叫する。
 
 余は一大発見をした。今迄人は自分を破壊的な男といふた、余は今に至つてその批評を是認せざるをえない。そして余の建設しうるものはたゞ精神上の建築のみであると知った。あゝこれが一大発見でなからうか。
 
 二十五日に学校で誤つて怪我をして右の足が自由に立てられなくなつた。医師の言によれば一週間位で全快するとの事。出来ぬのを無理にチンバを引いて、一日も休まずに出勤した。生徒が可愛いためである。あゝこの心は自分が神様から貰った宝である。余は天を仰いで感謝した。
 二十六日から高等科生徒の希望者へ放課後課外に英語教授を開始した。二時間乃至三時間位つゞけ様にやって、生徒は少しも倦んだ風を見せぬ。二日間で中学校で二週間もかゝつてやる位教へた。始めの日は二十一名、翌日は二十四名、昨日は二十七名、生徒は日一日とふへる。
 英語の時間は、自分の最も愉快な時間である。生徒は皆多少自分の言葉を解しうるからだ。自分の呼吸を彼等の胸深く吹き込むの喜びは、頭の貧しい人の到底しりうる所でない。
 余は余の在職中になすべき事業の多いのを喜ぶものである。余は余の理想の教育者である。余は日本一の代用教員である。これ位うれしい事はない。又これ位うらめしい事もない。
 余は遂に詩人だ、そして詩人のみが真の教育者である。
 児童は皆余のいふ通りになる。就中たのしいのは、今迄精神に異状ありとまで見えた一悪童が、今や日一日に自分のいふ通りになつて来たことである。教授上に於ては、先ず乎初めに修身算術作文の三科に自己流の教授法を試みて居る。文部省の規定した教授細目は「教育の仮面」にすぎぬのだ。
 
 
 ▲ 啄木の新境地とは、文明や文壇を批判するのではなく、積極的に精神的な感化を与える機会を持ち、その能力を自覚したことである。実際驚くべき成果を挙げている。その成果に基づいて、放課後の課外教授、さらに朝の朗読会を実践している。無報酬のこうした実践は善意だけではできない。求められるほどの教育ができなければならない。受験のシステムができつつある都会と違って、啄木の精神は渋民村では感動をもって受け入れられた。そして、「文部省の規定した教授細目は「教育の仮面」にすぎぬのだ」と書いている通り、啄木の教育を社会全体で実現するには多くの戦いを必要とするのであり、個人の能力だけで実現できるものではない。そして、こうした教育を実現できるのは、啄木の言う通り、啄木が詩人としての普遍的精神を豊かな経験的内容とともに持っていたからである。その啄木は、教育者としてではなく、詩人として、現実社会の中で戦いつづけなければならない。それが啄木の内的意志であり運命もそのように展開する。
 啄木は教育活動によって幸福であった。それは啄木の感化力、精神の威力を実感せしめるものであった。だから、「たゞ一つの心配は、自分は果して予定の如く一年位でこの教壇を捨て去る事が出来うるであらうか」という不安が生じる。教育でこれほどの成果を挙げることのできる精神は、より大きな活動をもとめている。澁民村での教育は充実しているが、それだけこの地にとどまることは啄木にとって束縛でもある。建設の力がある、と自分を信じたとき当然の様に再び詩人としての情熱が沸き上がってくる。
 
 
 八十日間の記★(p100)
 
 近刊の小説類も大抵読んだ。夏目漱石、島崎藤村二氏だけ、学殖ある新作家だから注目に値する。アトは皆駄目。夏目氏は驚くべき文才を持つて居る。しかし「偉大」がない。島崎氏も充分望みがある「破戒」は確かに群を抜いて居る。しかし天才ではない。革命の健児ではない。兎に角仲々盛んになつた。が然し……然し、……矢張自分の想像して居たのが間違つては居なかつた。「これから自分も愈々小説を書くのだ。』といふ決心が、帰郷の際唯一の予のお土産であつた。予は決して、田舎に居るからといつて、頭が鈍くなつては居ない。周囲から刺戟をうけて進む手合とは少々格が違ふ。自然と人生とが目の前にある限り、自分が生きて居る限り、予は矢張り常に生きて居るのだ。
 詩の方は当分少し休んで見やうかとも思ふ無論やめるの何のといふのではない。興があれば、何日でも書くが、然し休んで居たからと云つて時勢におくれる気づかひは少しも無いと思ふ。凡人や半天才がいくらあせつても大丈夫だ。馬鹿にすれば随分馬鹿にするによい世の中だ。
 
 ▲ 漱石の『吾輩は猫である』や『坊ちゃん』に「偉大」がない、とするのも、「破戒」が革命の健二を描いているのでもないこともよく分かる。この時期の啄木の現実認識はまだ抽象的であったために社会変革のための天才をもとめていた。漱石もそのように考えて『野分』を書いた。そしてそのことによって現実認識を発展させた。啄木は、漱石や藤村のこの時点での作品の意義を具体的に理解する能力をまだ、持たない。しかし、漱石の作品の進行からもわかる通り、無理解の特徴はそこに「偉大」を求めることであり、それは、現実認識の発展の契機としては、後に否定されなければならないにしても、意義のある指摘である。現実を具体的に認識する前に、変革的な主体を求め、変革的な主体であろうとし、変革的に現実に対処することによって現実を主体的に認識することができる。したがって、啄木らしいこの批判は漱石への号法則的な接近の過程である。啄木も又、漱石が『野分』を書いたのと同じように、『雲は天才である』を描いている。ただ、若い啄木は思想として構成すべき現実の個別的内容を漱石ほど豊に知っていなかったために、それがすぐに具体的な描写に結びつくことができなかった。啄木の場合は現実についての経験や知識に対して、変革的な意志がはるかに先行していた。そこに啄木のさまざまの苦悩が生まれてくる。漱石はすぐに啄木の求める変革的な主体を描き、さらにその限界を超えて、現実認識を飛躍的に高める。啄木は漱石より遥かに性急であったが、それは啄木の立場によるのであり、その性急さに応じた独自の成果を産みだしつつ漱石と同じ時代を反映していくことになる。
 
 
 ■七月になつた。三日の夕から予は愈々小説をかき出した。「雲は天才である」といふのだ。これは鱒勃たる革命的精神のまだ混沌として青年の胸に渦巻いてるのを書くのだ。題も構想も恐らく破天荒なものだ。革命の大破壊を報ずる暁の鐘である。主人公は自分で、奇妙な人物許り出てくる。これを書いて居るうちに、予の精神は異様に興奮して来た。そしてこれを中途で休んで、八日から十三日迄六日間に『面影』といふ百四十枚許りのものを書いた。これには今の小説家を盛んに罵倒した処がある。この十日許の間、予は徹夜すること数回、さらでも毎夜二番鶏が鳴いて障子が白んでから二時間か三時間しか眠らない。それで可成学校にも出た。尤も欠勤して書いた事もある。
 予は今非常に愉快である。すべてのものが皆小説の材料なやうに見える。そして予の心は完たく極度まで張りつめて居る。秋までには長篇小説少なくとも三篇と、非常に進歩した形式の脚本((五幕。「帝国文学」の懸賞募集へ応ずる積り。小説も「早稲田文学」と「大坂毎目」の懸賞へやつて一つ世の中を驚かしてやらうと思ふ))を書くつもりである。
 尤も今は日中九十度の炎熱に袷をきて居るのだから、汗が流れて兎ても充分に書くわけにいかぬ。日がくれると児章等--可愛い女の児らに誘はれて、舟綱橋の螢狩にゆくのだから、さう時間もないが、暑中休暇になつて、若し原稿料か出来たら、どこか北方の淋しい海岸へ行つて盛んに書かうと思ふのだ。
 
 〇七月は予に取つて甚だ重大なる月であつた。予がこの月中に徹夜した事は十夜以上である。一ケ月のうちの睡眠時間を合計したら、恐らく百時間を出でぬであらう。「面影』(p103)を脱稿した。『雲は天才である』を半分許り書いた。この月、予は初めて小説をかいたのだ。そして予は予自身の小説の前途に就いて、少なからぬ希望を有する様になつた。
 
 ・・・
 八円の月給で一家五人の糊ロを支へるといふ事は、蓋しこの世で最も至難なる事の一つであらう。予は毎月、上旬のうちに役場から前借して居る。予が諸方の友人へ疎遠をして居るのは、多く郵税を持たぬからだ、又、紙のない時もある。巧みに世に処するには、金が一番必要だ。予は此点に於て極めて不幸な境遇にある。実に予は不幸だ。或はこの不幸は自分の一生の間続くかも知れない。
 『面影』を、春陽堂に送つた処が、後藤主筆不在のため急には何とも出きぬ、遺憾乍ら一時お返しするといふ丁重な葉書と共に返ってきた。更に後藤宙外氏へ直接に送つた処が、原稿堆積のため当分ダメだといつて矢張かへされた。又同氏は、今の世で筆で立つといふ事は到底至難であるといふて来た。『面影』は更に小山内薫君へ送つて置いた。
 
 
 ■〇十月の十日前後は、自然が一年の中只一度の盛装を凝す紅葉の盛りであつた。そして、軈て落葉の時となつた。後の山の林木、朝な朝なに疎らに透いて行く。葉の落ちゆくを見れば、我が心の虚飾も段々はげて行く様な心地がする。(p113)

 ■○聊か感ずる処あつて、十月一日から、自宅で朝読を始めた。男女二十人許りの生徒が、夜のまだ明け放れぬ頃から、我先きにと集まつて来る。此一事だけでも、この朝読が善良な感化を与へて居る事がわかる。尤も自分は大抵暗いうちから彼等に起される。夜おそく寝た時などは、随分辛い事もあつたが、しかし彼等の心--清い、尊い心に想ひ至ると、予は或る感謝の念に胸を一杯にし乍ら、蹴起せざるをえなかつた。
 それから学校の方では、受持の尋常二年の外に高等科の地理歴史と作文とを併せて受持つ事になつた。高等科の生徒は非常に喜んで居る。予は代用教員として成功しつゝあるのだ。この一事は予をして少なからず満足させた。(p113)

 ▲ 啄木のこうした活動は多くの時間と労力を必要としてが、収入をもたらさなかった。しかし、啄木に自信と満足をを与えた。啄木は自分の精神的な感化力、精神の価値に意義を求める人間であったから。こうした活動のなかで、そして確実に発展している精神のなかで、啄木は自分の精神の中で、東京での成功にばかり気を取られていた自分の精神の側面を虚飾と感じていたのであろう。それは謙虚さではなく、正確な自己認識である。
 
 
 ■ 十二月中
 ○一日一日に今年もなくなるのかと思ふと、実に倦駑鞭影に驚くの感がある。二十一歳のひと年も今ひと月で暮れるのか! 噫予は二十二歳になる前に「お父さん」になるのだ。
 お父さんになつたら、この俺も矢張お父さんらしくなるだらうか、これは何だか疑問である。生れて見ねばまだ解らぬが、……
 自分の子がせつ子から生れるのだ。
 あゝぞくぞくする、満足である、幸福である、十八歳の暮には、詩檀の新作家を以つて目され、二十歳で処女詩集を公にして、同じ年せつ子と一緒になつて、そして二十一歳、筆を小説に染め初め、小供から一躍してお父さんになる。……予は悲しまぬ。否、悲しむ理由がない。
 
 〇三日に"明星"十二号が来た。
 我が『葬列』が載つて居る。アンナに〆切後に送つたのに、ズツト前の方へ、二十頁余。
 予は、白状すると胸がドキドキし出したのであつた。これは初めて活字の厄介になつた予の小説である。
 明治三十六年の"明星"十二号は、初めて予の詩を載せた雑誌であつたが……十二月は、予のために何か好運の縁があると見える。
 
 ■○廿七日
 老父の宝徳寺再住問題について、一大吉報が来た。白髪こそなけれ、腰がいたくも曲つた母上は、老の涙を落して、一家開運の第一報だと喜んだ。予は母の顔を見て心で泣いた。あゝ不孝なる児! この二年間の貧は父と母とをして如何程心を痛ましめたであらう。そしてこの両親の慈愛は、日がな夜がな、予のためによかれと神仏に祈つて居らるるではないか。有がたいは親の心である。予は母の喜びの涙を見て、今迄の不孝をひしひしと感じた。
 九ヶ月間紛紜を重ねたこの問題も、来る一月の二十日頃には父の勝利を以て終局になる。或は母のいふ如く、先づこれをキッカケに、我が一家の運が開けてくるかも知れない。先づ父の方がきまつて、可愛い児が生れて、そして自分の第二戦! あゝ天よ、我を助け玉へ。
 
 ▲ 渋民村での啄木は、生活は楽ではなかったが、充実していた。教育の活動は大いに成果を挙げて啄木の感化力を実感させていたし、漱石や藤村の登場で活気づいてきた文壇に登場するために小説を書き始めていた。そして、なによりもの吉報は、再住問題が解決して、家族の生活の安定が期待できることであった。それができれば、啄木は執筆に力を注ぐことが出来る。しかし、運命はそのように進まなかった。
 
 
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