啄木 ・ 日記  明治四十年 (22才)


 ■1907年(明40) 22歳
 
 3月 5日、父一禎が宝徳寺再住を断念して家出。
 4月 1日、渋民尋常高等小学校に辞表を提出。
 4月19日、校長排斥・教育刷新のストライキを指導して、代用教員を免職となる。
 
 5月 4日、一家離散し、啄木は妹光子とともに北海道にわたった。
  文芸同人誌『紅苜蓿』の編集に関わる。
 6月11日、函館区立弥生尋常小学校の代用教員となる。
 
 8月 、一家五人の生活がはじまり、代用教員に在職のまま、函館日日新聞社 の遊軍記者となる。
 8月25日、函館大火。弥生尋常小学校、函館日日新聞社ともに焼失。
 9月13日、家族を残して単身札幌に向かう。北門新報社で新聞校正に従事したが、財政難で給料も遅 配していたため、小樽日報社の創業に参加することを決意し、28日より小樽日報社に出勤。
 
 11月23日、野口雨情らと結束して『小樽日報』主筆岩泉江東を排斥した。
 12月12日、社の内紛に関して事務長の小林寅吉と争い暴力をふるわれ、12日退社。
 
 ・・・・・・・・・
 1月、漱石「野分」
 6月、漱石「虞美人草」
 9月、田山花袋「蒲団」
 10月、二葉亭四迷「平凡」
 
 
 ▲啄木は、父の住職復帰を期待して澁民村で代用教員をしていた。生活は苦しかったが、父親が復職して文学的活動に専念できるようになれば、自分の未来は明るいと啄木は信じていた。啄木は小説を書き始めており、教員生活は充実しており、希望と自身に満ちた生活を送っている。啄木の唯一の悩みは落ち着いて執筆活動をする時間がないことだけであった。一月十九日の日記には、「健康で平和で」、「心中甚だ幸福であつた」と書いている。啄木はこの充実した日々の中で、自然にわき出てくるような美文調の文章は消えて、無理に書いているような硬い文章がでてくる。これまでの装飾的な文章のための文章への興味が薄れて、日常の事実を淡々と落ち着いて書くようになる。
 この年の日記のこうした変化の背後で、文学観あるいは現実観が大きく変化しつつあった。「此頃新詩社乃至其他の派の詩を読んでも、別に面白味も有難味も感じない、これはどうしたものであらうといふ」疑問が湧いている。啄木にも理由はわからなかったが、少なくとも貧しい生活を経験したために新詩社風の文学的感覚がなくなったのではない。またそれは啄木だけに起こっている変化ではなかった。啄木はこれが時代の必然であることを知ったとき、再び自分の運命を文学に投じる決意をした。啄木の個人的な運命がどのような経緯を辿ったとしても、啄木にはこれ以外の運命はなかった。現実にあり得る最も困難な生活のなかで啄木は時代の必然と一致する運命を貫いたことがそれを証明している。
 三月、住職復帰ができないことを知った父親は家出をし、一家は離散して啄木は北海道にわたった。このあと啄木は思想的、文学的に重要な文章を書いていない。多忙であったばかりでなく、古い精神を否定し、新しい精神を生み出すために必要な転換期であった。九月にはいって文学以外に自分の進むべき道がないことをはっきりと意識している。
 
 
 明治四十丁未歳日誌
 
 ■一月一日
 大晦日の夜は、さまざまの思出と、例の独逸語とに時の移るを忘れて、とりなく頃枕につきしが、夢を見ず、今朝は例になくいと早く目さめたり。元日ぞと思ふ心映のためなるべし。我が戦ひよ勇ましかれ、我が一家の上に祝福あれ、わけても生れし京子の上に幸多かれ、など、霎時枕の上にて打念じて、心甚だ健やかなるを覚えぬ。
 起き出でて、机辺を浄め、顔を洗ひ、約翰伝をよむ。門松立てず、〆縄飾らざれど、いぶせぎ我が家にも春は入りぬとおぼし。髯のびし父の顔にも、肉削げし母の頬にも、松風のどけき白湯の沸る音にも、こもるは一種慰安の色なり、影なり。イ便の配達に届きし賀状新聞など一閲して、年頭の廻礼に出づ。駅内二十一軒。まだ起き出でざる人もありき、起き出でし許りにて、顔洗はぬ人もありき、しからざるも大方は朝餐の前なりき。神武紀元第二千五百六十七年の元旦、この渋民の村にて先頭第一に迎新の辞をのべし者は、実に我なり。希望多き此年が、我に導かれてこの渋民の天地に入り来りぬ、など思ふも嬉し。帰り来て、楽しく朝餉の食卓に就く。大根汁に塩鱒一キレ。お雑煮などいふ贅沢は我家に無し。話題は多く生れし子の上にありき。老ひたる母の我を誡めて云はるるやう、父となりてはそれだけの心得なくて叶はぬものぞ、今迄の様に暢気では済むまじ、と。然るか、然るか、あゝそれ実に然るか!
 
 ■一月二日
 新年の新聞を見るに、皆迎新の辞を載せたり。四十年前を回顧し、この短時代に成しとげたる聖代の文化を誇り、且つ将来の希望を述べ、無窮の皇徳を頌するに於て、皆其軌を一にす。人は常に同じ事を繰返して喜ぶものの如し。万朝報記者、「元日」の徳を謳歌して、人若し常に元日の心を失はざらば、軍備も要無く、ストライキも起らず、社会主義もなくなり、一切の不祥事其影をひそめて、世はさながらに現想の国となるべしと論じたる、面白し。
 光子帰り来て、せつ子殆んど平日の如く健に、生れし子は大きくして美しく、むさぼる如く新乳を飲めりと語る。芽出たき事のみなる新年なり。
 『明星』未歳一号来る。
 我、物心つきてこの方、新年を迎へて恁程の喜びと慰安とを感じたる事なかりき。あはれ、羊の歳の啄木や如何なるべき!
 三月までには我が独逸語、少しは訳に立つ様になるべきか。
 
 ■一月十日
 岡山なる瀬川藻外君よりは、いと長きたより届きぬ。京子のために深き祝意を表され、又我が旧臘の明星誌に載せたる『葬列」を読みての限りなき感慨を叙し、人生と自然とを刻々破壊しゆく文明の勢力を呪ふて、来るべき夏には兄と共に不来方城頭に追懐の涙をそそがむと云ひぬ。落漠たる人の世、どこまでも嬉しきは心会へる友なりけり。
 茅野君は『"葬列"のあとは無きにや」と云ひ、未見の友小島烏水氏は『"葬列"の一篇は多大の敬服を以て拝読、あとが待たれ候。二月号に是非願ひたく候』の言を寄せられたり。
 然れども、与謝野氏は告げて曰く、『"葬列"も随分タシカナル人々の間に批難多し。批難をも反省の料とするは美徳と存候。此春は詩作を御見せ被下度候』と。噫々、批難の声はもとより期する処なり。予には、現在の予の作品を以て直ちに未成品と公言するの勇気あり。然れども予は常に願へり、批難よし、唯、自由に自己の作物を公にしうべき予一人の天地を有せむことを。批難の矢は決して予の生命をたつことあらじ。然れども予は「束縛」てふ牢獄の中にありて却つて窒息せむとするなり。
 
 ■一月十五日(火曜日)
 今は海軍一等兵曹たる幼時の一友、学校に訪ね来る。過ぎし戦役に実戦に臨むこと前後五回。功六級金鵄章を得し人也。
 予は同氏の談話によりて、日露戦役中、日本が英国より石炭の供給をうけし事、又同国より技師を傭ひ来りて潜航水雷艇(形鮪に似て、長さ五間許。定員六人)五隻を造りし事、露艦も亦多くは沈没の間際まで勇敢に応戦したる事、★(p141)日本の軍人と雖ども予の推測するが如く人情の弱点を有する事(?)、海軍青年将校中、心を花柳の巷に走せざるもの、殆んど一人もなき事、耶蘇教信者(?)が全海員中の三分の一位もありといふ事、日本海軍が戦争中の損耗を恢復するには、猶五ケ年を要すべき事等を知るをえたり。
 又、海軍部内に社会主義者多しとは事実なりや、との予の問に答へて曰く、
  然り、甚だ多し、ただに日常しかく考ふる者多きのみならず、坐臥之を口にする者も亦甚だ多し。これ畢竟ずるに、圧制の厳なると、平時昇級の希望少なきとに依る。さればまた、這般社会主義者にして、一旦得意の境遇に立つに至れば、昨を忘るる事恰もよべの夢を忘るるが如し。
 あゝ然るか然るか。これ唯に海軍部内社会主義者の現況にあらずして、或は社会主義その者の性質を最も露骨に表白する者にあらざるか。文明世界は惟然として太平なるべし!
 此一等兵曹との会談は、予をして、此渋民村の産出したる幾百の人間の現況について想起するの機会を捉へしめき。然れどもこの想起は、満足の一微光をも与へずして予を去れり。予は予の日夕心をこめて指導しつつある或幾人の少年の、活々したる顔を順々に心に描けりき。予は僅かに心を安んじぬ。
 
 ■一月二十九日
 この十日の間、予は、要するに健康で平和で、そして忠実なる代用教員であつた。学校に居ても、家に帰つても、子弟のためには実に真面目な兄であり、友人であつた。そして、子弟の間の風儀が日一日と曩日の悪傾向から離れてゆくのを看守して、心中甚だ幸福であつた。堀田女史から二三の本を借りて来て三日許り地文学を研究して見た。三日間の研究とは情けない話であるが、これ以上の研究をするには材料がない。
 枕についても仲々眠られぬ習慣がついた。眠られぬから様々な事を考へる。或はこれは、考へるから眠られぬのかも知れない。問題は主として、いつもの如く文芸と教育の事であつた。」此頃新詩社乃至其他の派の詩を読んでも、別に面白味も有難味も感じない、これはどうしたものであらうといふのが其一。自分の頭が荒んで散文的になつたのかとも考へたが、然しこれは、天上から詩が急に地上に落ちた為めではあるまいか。壇上の朗誦から床間もない室の雑談に変化した為めではあるまいか。」小説の事は毎日の様に考へた。自分はどうしても小説を書かねばならぬ。」
 現代教育の恐るべき欠陥についても常に考へた。そして自分の理想の学校の設計までやつて見た。然しこれらは皆、少なくとも今の自分には、実行の出来ぬ事のみであつた。
 
 ■三月五日
 此一日は、我家の記録の中で極めて重大な一日であつた。
 朝早く母の呼ぶ声に目をさますと、父上が居なくなつたといふ。予は覚えず声を出して泣いた。父上が居なくなつたのではなくて、貧といふ悪魔が父上を追ひ出したのであらう。暫くは起き上る気力もなかつたが、父上は法衣やら仏書やら、身のまはりの物を持つて行かれたのだ。母が一番とりの頃に目をさました時はまだ寝て居たつたのだといふから、多分暁近く家を出られた事であらう。南へ行つたやら北へ行つたやら、アテも知れぬけれど、兎に角野辺地へは早速間合せの手紙を出すことにした。此朝の予の心地は、とても口にも筆にも尽せない。殆んど一ケ年の間戦つた宝徳寺問題が、最後のきはに至つて致命の打撃を享けた。今の場合、モハヤ其望みの綱がスッカリきれて了つたのだ。それで自分が、全力を子弟の教化に尽して、村から得る処は僅かに八円。一家は正に貧といふ悪魔の翼の下におしつけられて居るのだ。されば父上は、自分一人だけの糊口の方法もと、遂にこの仕末になつたものであらう。予はかく思ふて泣いた、泣いた。
 午后四時、せつ子と京ちやんとは、母者人に伴はれて盛岡から帰つて来た。妻の顔を見ぬこと百余日、京子生れて六十余日。今初めて我児を抱いた此身の心はどうであらうか。二十二歳の春三月五日、父上が家出された其日に、予は生れて初めて、父の心といふものを知った。
 この可愛さつたらない。皆はお父さんに似て居るといふ。美事に肥つた、クリクリシタ其さま。喰ひつきたい程可愛いとは此事であらう。抱いて見ると案外軽い。そして怖れといふものを知らぬげに、よく笑つた。きけば三十三日の前から既に笑ふ様になつたのだと。
 夜、京子はよく笑つた、若いお父さんと若いお母さんに、かたみに抱かれ乍ら。
 
 ■五月四日
 日は暖かく、風少しく袂を払ふ日なりき。
 朝起きて見れど、米田君よりも畠山君よりも消息なし。
 我妻は、山路二里、畠山君を訪へり。予は妻の心を思ふて思はず感謝の涙を落しぬ。
 十二時頃、我が夜の物を質に入れて五金をえつ。懐中九円七十銭なり。家には一厘もなし。これ予と妹との旅費也。乏しき旅費也。米田君より出づべきものを以て、予が立てるあと当分の間の老母が命をつながむと決せる也。あゝ危いかな。
 予立たば、母は武道の米田氏方に一室を借りて移るべく、妻子は盛岡に行くべし。父は野辺地にあり。小妹は予と共に北海に入り、小樽の姉が許に身を寄せむとす。
 一家離散とはこれなるべし。昔は、これ唯小説のうちにのみあるべき事と思ひしものを……。
 午后一時、予は桐下駄の音軽らかに、遂に家を出でつ。あゝ遂に家を出でつ。これ予が正に一ケ年ニケ月の間起臥したる家なり。予遂にこの家を出でつ。下駄の音は軽くとも、予が心また軽かるべきや。或はこれこの美しき故郷と永久の別れにはあらじかとの念は、犇々と予が心を捲いて、静けく長閑けき駅の春、日は暖かけれど、予は骨の底のいと寒きを覚えたり。
 ・・・・・・
 夜九時半頃、青森に着き、直ちに陸奥丸に乗り込みぬ。浮流水雷の津軽海峡に流るゝありて、夜間の航海禁ぜられたれば、翌午前三時にあらでは出港せずといふ。
 夜は深く、青森市の電燈のみ眠た気に花めきて、海は黒し。舷を洗ふ波の音は、何か底しれぬ海の思ひを告げむとするにやあらむ。空は月無く、夜雲むらがりて、見えつ隠れつする星二つ三つ淋しげに、千里の外より吹き来る海風は、絶間もなく我が袂を払つて、また忽ち千里の暗に吹き去れり。予は一人甲板に立ちつくしつ。陸も眠り海も眠り、船中の人も皆寝静まれるに、覚めたるは劫風と我とのみ。雲に閉ぢたる故郷の空を瞻望して、千古一色の夜気を胸深く吸へば、噫、我が感慨は実に無量なりき。この無量の感慨、これを披歴するとも、解するもの恐らくは天が下に一人も無けん。
 予は跪きつ。浩蕩たる夜天に火よりも熱きいのりを捧げたり。とぢたる目に浮ぶは、浅緑の日暖かき五月の渋民なり。我涙は急雨の如く下れり。
 あゝ、故里許り恋しきはなし。我は妻を思ひつ、老ひたる母を思ひつ、をさなき京子を思ひつ。我が渋民の小さき天地はいと鮮やかに限にうかびき。さてまた、かの夜半の蛙の歌の繁かりしなつかしき友が室を忍びつ。我はいと悲しかりき。三等船室の棚に、さながら荷物の如く眠れるは午前一時半頃にやありけむ。
 
 ■函館の夏(九月六日記)
 翌早朝、老母と共に野辺地を立ち青森より石狩丸にのりて午后四時無事帰函したり、これより先き、ラノ四号に居る事一週にして同番地なるむノ八号に移りき、これこの室の窓東に向ひて甚だ明るく且つ家賃三円九十銭にして甚だ安かりしによる、これより我が函館に於ける新家庭は漸やく、振かになれり、京ちやんは日増に生長したり、越て数日小樽なりし妹光子は脚気転地のため来れり、一家五人
 家庭は賑はしくなりたれどもそのため予は殆んど何事をも成す能はざりき、六畳二間の家は狭し、天才は孤独を好む、予も亦自分一人の室なくては物かく事も出来ぬなり、只此夏予は生れて初めて水泳を習ひたり、大森浜の海水浴は誠に愉快なりき、
 
 八月十八日より予は函館日々新聞社の編輯局に入れり、予は直ちに月曜文壇を起し日々歌壇を起せり、編輯局に於ける予の地位は遊軍なりき、汚なき室も初めての経験なれば物珍らしくて面白かりき、第一回の日曜文壇は入社の日編輯したり、予は辻講釈なる題を設けて評論を初めたり
 廿五日は日曜なりし事とて予は午前中に月文の編輯を終り辻講釈の(二)にはイブセソが事をかけり、午后町会所に開かれたる中央大学菊池武夫(法博)一行の演説会に臨み六時頃帰りしが、何となく身体疲労を覚えて例になく九時頃寝に就けり
 
 ■八月二十七日
 京中は惨状を極めたり、町々に猶所々火の残れるを見、黄煙全市の天を掩ふて天日を仰ぐ能はず。人の死骸あり、犬の死骸あり、猫の死骸あり、皆黒くして南瓜の焼けたると相伍せり、焼失戸数一万五千に上る、(四十九ケ町の内三十三ケ町、戸数一万二千三百九十戸)
 狂へる雲、狂へる風、狂へる火、狂へる人、狂へる巡査……狂へる雲の上には、狂へる神が狂へる下界の物音に浮き立ちて狂へる舞踏をやなしにけむ、大火の夜の光景は余りに我が頭に明かにして、予は遂に何の語を以て之を記すべきかを知らず、火は大洪水の如く街々を流れ、火の子は夕立の雨の如く、幾億万の赤き糸を束ねたるが如く降れりき、全市は火なりき、否狂へる一の物音なりき、高きより之を見たる時、予は手を打ちて快哉を叫べりき、予の見たるは幾万人の家をやく残忍の火にあらずして、悲壮極まる革命の旗を翻へし、長さ一里の火の壁の上より函館を掩へる真黒の手なりき、
 かの夜、予は実に愉快なりき、愉快といふも言葉当らず、予は凡てを忘れてかの偉大なる火の前に叩頭せむとしたり、一家の危安毫も予が心にあらざりき、幾万円を投じたる大厘高楼の見る間に倒るるを見て予は寸厘も愛惜の情を起すなくして心の声のあらむ限りに快哉を絶呼したりき、かくて途上弱き人々を助け、手をひきて安全の地に移しなどして午前三時家にかへれりき、家は女共のみなれば、隣家皆避難の準備を了したるを見て狼狽する事限りなし、予は乃ち盆踊を踊れり、渋民の盆踊を踊れり、かくて皆笑へる時予は乃ち公園の後なる松林に避難する事に決し、殆んど残す所なく家具を運べりき、然れどもこれ徒労なりき、暁光仄かに来る時、予が家ある青柳町の上半部は既に安全なりき、
 大火は函館にとりて根本的の革命なりき、函館は千百の過去の罪業と共に焼尽して今や新らしき建設を要する新時代となりぬ、予は寧ろこれを以て函館のために祝盃をあげむとす、
 函館毎日新聞社にやり置きし予の最初の小説「面影」と紅苜蓿第八冊原稿全部とは烏有に帰したり、雑誌は函館と共に死せる也、あゝ数年のうちこの地にありては再興の見込なし、
 此日札幌より向井君来り、議一決、同人は漸次札幌に移るべく、而して更に同所にありて一旗を翻さんとす
 
 ■九月十五日
 札幌は大なる田舎なり、木立の都なり、秋風の郷なり、しめやかなる恋の多くありさうなる都なり、路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。アカシヤの街??(エツ)を騒がせ、ボブラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝顔洗ふ水は身に泌みて寒く口に啣めば甘味なし、札幌は秋意漸く深きなり、
 函館の如く市中を見下す所なければ市の広さなど解らず、程遠からぬ手稲山脈も木立に隠れて見えざれば、空を仰ぐに頭を圧する許り天広し、市の中央を流るゝ小川を創成川といふ、うれしき名なり、札幌は詩人の住むべき地なり、なつかしき地なり静かなる地なり、
 夜は小国君と共に北門新報社長村上祐氏を訪ひ、更にこの後同僚なるべき菅原南二君をとへり、帰宿は十一時を過ぎぬ、
 
 ■九月十七日
 太陽に独歩の「節操」を読む。彼は退歩しつつあり、
 
 ■九月十九日
 朝窓前の蓬生に雨しとしとと降り濺ぎて心うら寂しく堪え難し。小樽なるせつ子及び山本の兄、京なる与謝野氏、旭川の砲兵聯隊なる宮崎大四郎君へ手紙認めぬ。書して曰く、我が目下の問題は如何にして生活を安固にすべきかなり、又他なし。哀れ瓢泊の児、家する知らぬ悲しさは今犇々とこの胸に迫る、と。書し了つて一人身を横へ、瞑目して思ふ事久し。
 あゝ我誤てるかな、予が天職は遂に文学なりき。何をか惑ひ又何をか悩める。喰ふの路さへあらば我は安んじて文芸の事に励むべきのみ、この道を外にして予が生存の意義なし目的なし奮励なし。予は過去に於て余りに生活の為めに心を痛むる事繁くして時に此一大天職を忘れたる事なきにあらざりき、誤れるかな。予はたゞ予の全力を挙げて筆をとるべきのみ、貧しき校正子可なり、米なくして馬鈴薯を喰ふも可なり。予は直ちにこの旨を記して小樽なる妻にかき送りぬ。
 函館なる大竹敬造(弥生校長)より来書あり、今月分の予が俸給日割四円二十七銭為替して送り越しぬ。書中に曰く、「好運児!」噫我も人より見れば幸運の児なりけるよ。湯銭なく郵税なかりし予はこの為替を得て救はれぬ。大なる手あり予を助けたる也、願くは予をして自重の心を失はしむる勿れ。
 
 ■九月二十一日
 朝早く梁川氏死去の報知来る、弟崖部政治氏外五名連書、坪内博士は友人として名を掲げたり
 八時四十分せつ子来る、京子の愛らしさ、モハヤ這ひ歩くやうになれり。この六畳の室を当分借りる事にし、三四日中に道具など持ちて再び来る事とし、夕六時四十分小樽にかへりゆけり。
 夜小国君来り、向井君の室にて大に論ず。小国の社会主義に関してなり。所謂社会主義は予の常に冷笑する所、然も小国君のいふ所は見識あり、雅量あり、或意味に於て賛同し得ざるにあらず、社会主義は要するに低き問題なり然も必然の要求によつて起れるものなりとは此の夜の議論の相一致せる所なりき、小国君は我党の士なり、此夜はいとも楽しかりき、向井君は要するに生活の苦労のために其精気を失へる人なり、其思想弾力なし、
 
 ■九月二十三日
 夜小国君の宿にて野口雨情君と初めて逢へり。温厚にして丁寧、色青くして髯黒く、見るから内気なる人なり。共に大に鮪のサシミをつついて飲む。嘗て小国君より話ありたる小樽日報社に転ずるの件確定。月二十円にて遊軍たることと成れり。函館を去りて僅かに一旬、予は又ここに札幌を去らむとす。几ては自然の力なり。小樽日報は北海事業家中の麒麟児山県勇三郎氏が新たに起すものにして、初号は十月十五日発行すべく、来る一日に編輯会議を開くべしと。野口君も共にゆくべく、小国も数日の後北門を辞して来り合する約なり。
 小国君は初め向井君より頼まれて予を北門新報社に紹介入社せしめたる人なり、今更に予と共に小樽にゆかむとす。意気投合とは此事なるべし。
 
 ■ 十二月…小樽…
 十一日札幌に行き、小国君の宿にとまる。翌日山崎周信君と初めて会見す。中西代議士の起さむとする新聞に就て熟議したり。
 十二日夕刻の汽車にて帰り、社に立寄る。小林寅吉と争論し、腕力を揮はる。退社を決し、沢田君を訪ふて語る。
 十三日より出社せず。社長に辞表を送る事前後二通、社中の者交々来りて留むれど応ぜず。
 十五日小国露堂君札幌より来り、滞樽一週間。
 二十日に至り、社長より手紙あり、辞意を入れらる。
 二十一日の新聞には退社の広告を出し、二十二日の新聞は沢田君の予に別るるの辞を載せたり。
 大硯斎藤哲郎君、小国君沢田君等、予の将来に関して尽力せらるゝ所あり。予は我儘を通すを得て大に天下太平を叫ぶ。
 予の日報に書きたるもののうち当時を紀念すべきものを抜素して「小樽のかたみ」を作る。
 
 ■十二月二十三日
 夜、佐田君来り、奥村寒雨君また会す。佐田君由来庸俗の徒、語るに足らず、談偶々戦役の事に及び、はしなくも主戦非戦の説起り、寒雨君切に非国家主義を唱へて予の個人解放論に和す。好漢大に語るべし。佐田君遂に此間の思想に触れず。哀れむべきは斯くの如き無思想の徒なるかな。
 世界の歴史は中世を以て区画せらる。中世以後の時勢は一切のものを解放して原人時代の個人自由の境界を再現せむとす。我らの理想は個人解放の時代なり、我等の天職は個人解放のために戦ふにあり。
 
 ■十二月二十八日
 夜、大硯君来り、西川光次郎等社会主義者の演説会に誘ふ。行かず。
 正宗白鳥君の短篇小説集「紅塵」を読み深更にいたる。感慨深し、我が心泣かむとす。予は何の日に到らば心静かに筆を執るを得む。天抑々予を殺さむとするか。然らば何故に予に筆を与へたる乎。
 
 ■十二月二十九日
 今日は京子が誕生日なり。新鮭を焼きまた煮て一家四人晩餐を共にす。
 人の子にして、人の夫にして、また人の親たる予は、噫、未だ有せざるなり、天が下にこの五尺の身を容るべき家を、劫遠心を安んずべき心の巣を。寒さに凍ゆる雀だに温かき巣をば持ちたるに。
 一切より、遂に、放たるる能はず。然らば遂に奈何。
 
 ■ 十二月三十日
 日報社は未だ予にこの月の給料を支払はざりき。この日終日待てども来らず、夜自ら社を訪へり。俸給日割二十日分十六円六十銭慰労金十円、内前借金十六円を引いて剰す所僅かに十円六十銭。帰途ハガキ百十枚を買ひ煙草を買ふ。巻煙草は今日より二銭宛高くなれり刻みも亦値上げとなれり。嚢中剰す所僅かに八円余。噫これだけで年を越せといふのかと云ひて予は哄笑せり。
 老母の顔を見るに忍びず、出でゝ北門床に笹川君を訪ふ。要領を得ず。
 夜年賀状を書いて深更枕に就く。衾襟垢に染みて異様の冷たさを覚ゆ。
 
 ■ 大晦日
 来らずともよかるべき大晦日は遂に来れり。多事を極めたる丁未の年はここに尽きむとす。然も惨憺たる苦心のうちに尽きむとす。此処北海の浜、雪深く風寒し。何が故に此処迄はさすらひ来し。
 多事なりし一歳は今日を以て終る。この一歳に贏ち得たる処何かある。噫、歳暮の感。千古同じ。
 朝沢田君に手紙を送る。要領を得ず。外出して俳優堀江を訪ふ、逢はず。帰途大硯君に会す、
 「大晦日は寒い喃。」「形勢刻々に非なりだ。」行く人行く人皆大晦日の表情あり。
 笹川君に妻を使す。要領を得ず。若し出来たら午后十時迄に人を遣らむと。
 予は英語の復習を初めたり。掛取勝手に来り、勝手に後刻を約して勝手に去る。
 夜となれり。遂に大晦日の夜となれり。妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之を少しづつ頒ちて掛取を帰すなり。さながら犬の子を集めてパンをやるに似たり。
 かくて十一時過ぎて漸く債鬼の足を絶つ。遠く夜鷹そばの売声をきく。多事を極めたる明治四十年は「そばえそば」の売声と共に尽きて、明治四十一年は刻一刻に迫り来れり。


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