啄木 ・ 日記  明治四十一年 (23才)


 ■1908年(明治41) 
 1月4日、小樽市内での社会主義演説会の講演を聴いた。
 1月13日、釧路新聞入社が決まる。19日、釧路に向け出発、21日 釧路 に到着。
 1月22日、釧路新聞社では編集長格として待遇された。月給25円。「釧路詞壇」を設けた。
 3月25日、釧路脱出を決意した。
 4月3日、上京して創作生活に入ることを期して釧路新聞社を退社し、5日釧路を出港、7日函館に到着。
 4月24日、上京。27日、横浜に到着。
 4月28日、東京新詩社で与謝野鉄幹・晶子夫妻と再会ししばらく滞在する。
 
 5月2日、森鴎外の観潮楼歌会に出席した。
 5月4日、上京一ヶ月余で「菊池君」「病院の窓」「母」「天鵞絨)」「二筋の血」の五作品を書いたが売り込みには失敗した。
 
 6月15日、川上媚山が自殺。
 6月22日、夜から25日にかけて246首の短歌をつくる。
 6月23日、国木田独歩が肺結核のため死去。
 
 10月19日、節子、函館区立宝小学校の代用教員になる。
 11月1日、 小説「鳥影」が『東京毎日新聞』に連載開始。
 11月5日、『明星』第百号で終刊。
 12月1日、平野万里と『スバル』創刊号の準備にあたる。
 
 --------------------------
 
 ■一月一日
 又考へた。人間の本来の本来は決して横着なものではない。人生は決して馬鹿臭いものではない。何故に人間に横着な考が起り、人生が馬鹿臭くなつたか。ここに一家族があるとする。其家族の中、主人一人を除いた外は、皆老人や婦人や小児だとする。そして主人は何かしら一人前の働きをして月々十五円なり二十円なりの俸給を得て居て、其俸給が其家族全体の生活費に足らぬとする。(現在では立派に人一人前の働きをして居乍ら二十円以下十円位迄の俸給を得て居るものが珍らしくない。少なくとも家族全体を養ふだけの俸給を得て居ないものが珍らしくない。)その家にも、富豪の家と同じに大晦日が来る。米屋魚屋炭屋から豆腐屋に至るまで、全部の支払をせねば、明日からの生活の資料を得られぬと云ふ恐ろしい大晦日が来る。過きたるば及ばざるが如しと言ふが、足らぬ金で全部の支払は出来る理があるまい。サア此処だ。此借金の申訳は誰がする。
 一人前の働きをして居て何一つ悪い事せぬ主人自身、若しくは其何の罪なき家族の誰かが、否応なしに頭を下げ手を揉んで、心にも無いお世辞やら申訳やらを列べねばなるまい。誠に変挺な話ではないか。
 此驚くべき不条理は何処から来るか。云ふ迄もない社会組織の悪いからだ。悪社会は怎すればよいか。外に仕方がない。破壊して了はなければならぬ。破壊だ、破壊だ。破壊の外に何がある。
 
 ■一月三日
 明星は十二月号で新年号の予告中に告白して今の所謂自然派なるものに反抗的体度を示した。そして今、自然派の一作家なる水野君は此小説を以て与謝野氏及び新詩社そのものに対する一の侮辱を発表した。何となく面白い世の中になつて来た。予は此"再会"を読んで何故といふでもないが一種の愉快を感じた。予も亦現在猶新詩社の一人であるのだが。
 新詩社の遣方には臭味があると、自分は何日でも然う思ふ。此臭味は、嘗て自分にもあつた[かも〕知れぬ。然し今は無い。毫末もない。此臭味は、ブル臭味である。ガル臭味である。尤も、新詩社の運動が過去に於て日本の詩壇に貢献した事の尠少でないのは後世史家の決して見遁してならぬ事である。詩と広く云ふよりも、単に和哥に於ける革新運動の如きは空前の大成功で、古今に比儔が無い。新体詩に於ての勢力は、実行者と云ふより寧ろ奨励者鼓吹者の体度で、与謝野氏自身の進歩と、斯く云ふ石川啄木を生んだ事((と云へば新詩社で喜ぶだらうが実は自分の作を常に其機関誌上に発表させた事))と其他幾十人の青年に其作を世に問はしむる機会を与へた事が其効果の全体である。新詩社は無論、団体としては、かの文学界の一団のなした以上の事を成功して居る。これは自分も充分、否充分以上に認めて居る。
 然し新詩社の事業は、詩以外の文芸に及ぼす所極めて尠少であつた。あつた許りでなく、今後に於ても然うであらうと思はれる。原因は無論人が無いのだ。新詩社の連中は実に一種の僻んだ肝玉の小さい人許りである。彼等の運動が文芸界全般を動かす事の出来ぬのは実に此の為めである。新詩社は文壇の一角、僅かに一角を占領したに過きぬ。そして其同人は多く詩人ぶつて居る、詩人がつて居る。ぶつたり、がつたりする人達のやる事だから、其事業が従つて小さい。与謝野氏自身の詩は、何等か外来の刺撃が無ければ進歩しない。それは詰り氏自身の思想が貧しいからである。此人によつて統率せらるる新詩社の一派が、自然派に反抗したとて其が何になる。自分は現在の所謂自然派の作物を以て文芸の理想とするものではない。然し乍ら自然派と云はるる傾向は決して徒爾に生れ来たものでないのだ。新詩社には、恐らく自然派の意味の解つた人は一人も居るまいと自分は信ずる。水野君は巧みに彼等を嘲つて"彼等は何か一種の神経を持つて居る様な顔をして居る"と云つた。誠に小気味のよい嘲罵であると自分は考へた。
 
 ■一月四日
 大北堂から太陽、新小説、趣味の三雑誌を届けて来た。
 夕方本田君に誘はれて寿亭で開かれた社会主義演説会へ行つた。樽新の碧川比企男君が開会の辞を述べて、添田平吉の「日本の労働階級」碧川君の「吾人の敵」何れも余り要領を得なかつたが、西川光二郎君の「何故に困る人が殖ゆる乎」「普通撰挙論」の二席、労働者の様な格好で古洋服を着て、よく徹る蛮音を張上げて断々乎として話す所は誠に気持がよい。臨席の警官も傾聴して居たらしかつた。十時頃に閉会して茶話会を開くといふ。自分らも臨席して西川君と名告合をした。
 帰りは雪路橇に追駆けられ追駆けられ、桜庭保君と一緒だつたが、自分は、社会主義は自分の思想の一部分だと話した。
 この日「明星」と新詩社名簿が来た。
 新詩社のやり方は一種の臭味があつて可かぬ。
 
  ■一月四日
 "明星〃が新詩社同人名簿と一緒に来た。此名簿には新詩社臭が氤ウンとして籠つて居る。
 大北堂から"太陽""新小説""趣味"の三雑誌を届けて来た。
 夕方本田荊南君に誘はれて寿亭に開かれた社会主義演説会に行つた。会する者約百名。小樽新聞の碧川比企男君が体を左右に振り乍ら開会の辞を述べた。添田平吉の"日本の労働階級"碧川君の"吾人の敵"共に余り要領を得ぬ。
 西川光二郎君の"何故に困る者が殖ゆる乎""普通選挙論"の二席、何も新らしい事はないが、坑夫の様な格好で、古洋服を着て、よく徹る蛮声を張上げて、断々乎として説く所は流石に気持よかつた。臨席の警部の顔は赤黒くて、サアベルの尻で火鉢の火をかき起し乍ら、真面目に傾聴して居た。閉会後、直ちに茶話会を開く、残り集る者二十幾名。予は西川君と名告合をした。
 要するに社会主義は、予の所謂長き解放運動の中の一シュクである。最後の大解放に到達する迄の一つの準備運動である。そして最も眼前の急に迫れる緊急問題である。此運動は、前代の種々な解放運動の後を享けて、労働者乃ち最下級の人民を資本家から解放して、本来の自由を与へむとする運動で、今では其論理上の立脚点は充分に研究され、且つ種々なる迫害あるに不拘、余程深く凡ての人の心に浸み込んで来た。今は社会主義を研究すべき時代は既に過きて、(p193)其を実現すべき手段方法を研究すべき時代になつて居る。尤も此運動は、単に哀れなる労働者を資本家から解放すると云ふでなく、一切の人間を生活の不条理なる苦痛から解放することを理想とせねばならぬ。今日の会に出た人人の考へが其処まで達して居らぬのを、自分は遺憾に思ふた。
 
 ■一月七日
 夜、例の如く東京病が起つた。新年の各雑誌を読んで、左程の作もないのに安心した自分は、何だか恁う一日でもジツとして居られない様な気がする。起て、起て、と心が喚く。東京に行きたい、無暗に東京に行きたい。怎せ貧乏するにも北海道まで来て貧乏してるよりは東京で貧乏した方がよい。東京だ、東京だ、東京に限ると滅茶苦茶に考へる。噫、自分は死なぬつもり、平凡な悲劇の主人公にならぬつもりではあるが、世の中と家庭の窮状と老母の顔の皺とが、自分に死ねと云ふ。平凡な悲劇の主人公になれと責める。
 家の中が暗い様な気がする。
 
 ■一月十四日
 八時頃沢田から帰つて来ると、藤田武治と高田紅果が来て居た。大に文芸談をやらかす。十一時頃帰つて行く。高田が持つて来た長谷川二葉亭の"其面影"を読む。
 
 ■二月二十九日
 釧路へ来てここに四十日。新聞の為には随分尽して居るものの、本を手にした事は一度もない。此月の雑誌など、来た儘でまだ手をも触れぬ。生れて初めて、酒に親しむ事だけは覚えた。盃二つで赤くなつた自分が、僅か四十日の間に一人前飲める程になつた。芸者といふ者に近づいて見たのも生れて以来此釧路が初めてだ。之を思ふと、何といふ事はなく心に淋しい影がさす。
 然しこれも不可抗力である。兎も角も此短時日の間に釧路で自分を知らぬ人は一人もなくなつた。自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。噫、石川啄木は釧路人から立派な新聞記者と思はれ、旗亭に放歌して芸者共にもて囃されて、夜は三時に寝て、朝は十時に起きる。
 一切の仮面を剥ぎ去つた人生の現実は、然し乍ら之に尽きて居るのだ。
  石川啄木!!!
  
 ■三月二十五日
 今日も床上の人。
 石川啄木の性格と釧路、特に釧路新聞とは一致する事が出来ぬ。上に立つ者が下の者、年若い者を嫉むとは何事だ。詰らぬ、詰らぬ。新機械活字は雲海丸で昨日入港した。二週間の後には紙面が愈々拡張する。誰が其の総編輯を統卒するか。頭の古い主筆に出来る事でない。さればと云つて自分にやらせる事も出来まい。否恁麼事は如何でもよい。兎も角も自分と釧路とは調和せぬ。啄木は釧路の新聞記者として余りに腕がある、筆が立つ、そして居て年が若くて男らしい。男らしい所が釧路的ならぬ第一の欠点だ。
 早晩啄木が釧路を去るべき機会が来るに違ひないと云ふ様な気が頻りに起る。
 夜、小泉君が来て語つた。踊は、足を見るべしと云ふ論を吐く。

 ■三月二十八日
 今日も休む。今日からは改めて不平病。
 十二時頃まで寝て居ると、宿の女中の一番小さいのが、宿の入口のドアを明けかねて把手をカタカタさせて居る。起きて行つて開けて見ると、一通の電報。封を切つた。
 〃ビヨウキナヲセヌカへ、シライシ"
 歩する事三歩、自分の心は決した。啄木釧路を去るべし、正に去るべし。
 日景君も度量の狭い、哀れな男だ。が考へて見ると、実にツマラヌ。
 電報を見て、急に頭がスツキリした。これだ、これだ、と心は頻りに躍る。横山を呼んで話した所が、何処までも一緒に行くと云ふ。
 反逆の児は、……噫。
 先づ函館に行つて、日々新聞に入らんと考へた。船でゆく事、歌留多は梅川に置いて行く事、などまで相談一決。
 これで自分は釧路に何の用もない人間になつた、と思ふと。嬉しい、心から嬉しい。
 小奴へ手紙やつた。
 甲斐君が来て、色々話す。電報を見せると北海旭に来てくれぬかと云ふ。話半ばにして小奴が来た。かねちやんを連れて。甲斐君は座をはづす。
 話はしめやかであつた。奴は色々と心を砕いて予の決心をひるがへさせようと努めて呉れた。"去る人はよいかも知れぬが、残る者が……"と云つた。一月でもよいから居てくれと云つた。僕の為めに肘突を拵へかけて居ると云つた。此頃一人で写した写真がまだ出来ぬと云つた。これが一生の別れかと云つた。否、々、また必ず逢はうと云つた。
何処へ行つても手紙を呉れよと云つた。
 明日の午后奴の家を訪問する約束をして、夕刻別れた。
 
 ■四月二日
 朝、鎌田君から十五円来た。新聞を披いて出帆広告を見ると、安田扱ひの酒田川丸本日午後六時出帆ー函館新潟行ーとある。自分は直ぐ決心した。"函館へ行かう。""さうだ、函館へ行かう。"
 安田船舶部へ手紙やつて船賃などを問合せる。宮古寄港で三円五十銭との事(二等)、奴へは今夕立つと知らした。俣野へも手紙。
 カバンには手紙、原稿、手記など。委細は横山に含めた。
 一時頃上杉君来る。遠からず上京したいと云ふ話。函館行を話すと、日景君へ知らして行く方がよいといふので、手紙をやる。家族に関する用と許り。
 四時少し前、奴から手紙が来た、愈々お別れかと書いてある。お饅別として五金、私の志を受けて呉れと書いてある。
 宿の主婦を呼んで、函館へ行つて来ると許り話して、四時十分、横山高橋の二人に送られて出る。途中、"今夜船にて釧路を去る"と云ふ電報を、節子其他へ打つ。
 
 ■四月九日
 十時起床。湯に行つて来て、東京行の話が纒まる。自分は、初め東京行を相談しようと思つて函館へ来た。来て、そして云ひ出しかねて居た。今朝、それが却つて郁雨君の口から持出されたので、異議のあらう訳が無い。家族を函(p245)館へ置いて郁雨兄に頼んで、二三ケ月の間、自分は独身のつもりで都門に創作的生活の基礎を築かうといふのだ。
 一時頃から郁兄と二人で公園から谷地頭まで散歩。断片的生活といふ事が話題に上つた。さうだ、自分の今更の生活は実に断片的だ。
 
 ■四月十二日
 今日は日曜日。吉野君来る。郁君の代議士候補談に花が咲く。山背吹いて打湿つた日。夕刻、小雨を犯して吉野兄宅に行き、九時頃ヅブ濡れになつて帰る。
 枕の上で一時迄語る。"平凡"中の犬の話から栗原先生の話、大嶋君の話。やがて性格大気説を自分は説く。海峡新聞の計画、太平洋大学の空想。
 ---------
 十三日夕七時十分、郁雨兄から十五金を得て函館発。十四日朝八時小樽着。俥を走せて花園町畑十四星川方の我家に入る。感多少。京子が自由に歩き廻り、廻らぬ舌で物を云ふ。一時頃野口雨情君を開運町に訪ひ、共に散歩。明日立つて札幌にゆき、本月中に上京するとの事、夜、沢田来る。いくら努めても、合はぬ人とは矢張合はぬ。
 十五日。二葉亭の"平凡"鏡花の"草迷宮"読む。午后札幌より小国善平君来る。自分の代りに釧路に行くとの事。夜、藤田武治高田紅果二人来り、一時迄語る。
 十六日。晴、夕小国君と公園に散歩し、佐田君を訪ふ。奥村君と四人にて十二時迄語る。小樽日報が谷子やめ、山県との手きれて形勢頗る不穏との話をぎく。
 十七日。郁雨兄より手紙。実際的常識の必要を説いてある。七円。其返事と、白村正二君へと、立花直太郎、釧路の上杉小南等へ手紙書く。夜、社会主義者塚原新人来る。
 十八日。小樽日報今日より休刊、実は廃刊。不思議なるかな、自分は日報の生れる時小樽に来て、今はしなくも其死ぬのをも見た。小国佐田奥村諸君来る。夜奥村再来、十二時快談。
 十九日。古道具屋を招いて雑品を売る。夜、図らずも本田荊南君来る。荷物の事奥村に置手紙で頼んで、八時十分、一家四人小樽駅から汽車に乗つた。切符は函館迄、
 
 ■四月二十五日
 犬コロの如くなつて寒い夢を結んだ三河丸三等室の一夜、目をさますと、舷を洗ふ波の音らしいのが耳に入る。驚いて甲板に出て見ると、船は既に錨を抜いて、船々の聞を擦り抜け、正に港外に出でむとして居た。時に午前四時半。
 暁の風に身をすくませ乍ら、まだ覚めやらぬ函館の町と山とに別れを告げた。瓢遊一年の北海道の見納めだといふ感じと、この美しい都会の陋巷に夢まださめぬ母と妻と子を思ふ情とが、相縺れて胸の中を掻乱した。ともすれば涙が落ちむとする。人といふものは弱いものだ。
 終日船室に寝て現なく物思ふ。過ぎ去つた事、殊にも津軽の海を越えて以来、函館札幌小樽釧路と流れ歩いて暮した一ケ年間の事が、マザマザと目に浮ぶ。自分一人を頼りの老いたる母の心、若い妻の心、しみじみと思やつて遣瀬もなく悲しい。目を瞑ると京子の可愛らしい顔が目に浮ぶ。
 瓢泊の一年間、モ一度東京へ行つて、自分の文学的運命を極度まで試験せねばならぬといふのが其最後の結論であつた。我を忘れむと酒に赴いた釧路の七旬の浅間しさ!満足といふものは、所詮我自らの心に求むべきものだといふ悲しい覚醒は、創作的生活の外に自分のなすぺき事が無いと覚悟せしめた。此覚悟を抱いて、自分は釧路を逃げ出した! さうだ、逃げ出した!
 友は、白分が小樽へ行つて家族を引纒めて来るだけの旅費を呉れた。母と妻と子を、予が上京して生活の方法を得る迄養つてくれる事になつた。剰へ此度の上京の旅費まで出した。凡てが友の情である。今かうして此船に乗つて居るのも。と思つて思はず目をうるました。
 
 ■四月廿八日
 名知らぬ料理よりも、泡立つビールよりも、話の方がうまかつた。話題の中心は詩が散文に圧倒されてゆく傾向と自然主義の問題であつた。有明集が六百部しか売れぬと聞いた。二葉亭の作に文芸を玩弄する傾向の見えるのは、氏の年齢と性格によるので、今の文壇、氏の位頭の新らしい人はあるまいと評した。"然し乍ら、遠からず自然主義の反動として新ロマンチシズムが勃興するに違ひない。小川未明など云ふ人は、頻りにそれを目がけて居る様だが、まだ路が見つからぬらしい。"
 ・・・・・
 小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに漱石を激賞して"先生"と呼んで居た。朝日新聞に連載されて居る藤村の"春"を、口を極めて罵倒する。"自然派などといふもの程愚劣なものは無い"と云つた。そして居て、小栗氏の作などは賞める。晶子夫人も小説に転ずると云ふて居ると話した。"僕も来年あたりから小説を書いて見ようと思つてるんだがね。" (来年からですか) と聞くと、"マア、君、嶋崎君なんかの失敗の手本を見せて貰つてからにするサ。"--予はこれ以上聞く勇気がなかつた。世の中には、尋常鎖事の中に却つて血を流すよりも悲しい悲劇が隠れて居る事があるものだ。噫、この一語の如きもそれでは無いか! 氏にして若し真に藤村が失敗するといふ確信があるならば、何故その失敗の手本を見る必要があるか ? 予は、たとへ人間は年と共に圭角がなくなるものとしても、嘗て"日本を去るの歌"を作つた此詩人から、恁の如き自信のない語を聞かうと思つて居なかつた。
 十時に枕についた。緑の都の第一夜の夢は、一時過ぐるまで結ばれなかつた。
 与謝野氏は既に老いたのか ? 予は唯悲しかつた。(千駄ケ谷新詩社にて)
 
 ■四月三十日
 九時近く目をさます。金田一君の室。凡てに優しき此人の自然主義論は興をひいた。十二時千駄ケ谷に帰る。
 与謝野氏は"言の泉"の校正に忙殺されて居る。森博士から、来る二日の同氏宅歌会へ案内の葉書を貰つた。
 筆をとる心地がせぬので、せつ子と宮崎兄へ葉書かく。急に逢ひたくなつて、突然並木君を市ケ谷本村町に訪ねた。玄関に立つてベルを推すと、出て来たのが並木君。目をまるくして驚いた顔のなつかしさ。外国語学校の支那語科に首尾よく入学したとの事。
 夏目漱石の"虞美人草"を読んで寝る。
 
 ■五月二日
 与謝野氏は外出した。晶子夫人と色々な事を語る。生活費が月々九十円かゝつて、それだけは女史が各新聞や雑誌の歌の選をしたり、原稿を売るので取れるとの事。明星は去年から段々売れなくなつて此頃は毎月九百しか(三年前は千二百であつた。)刷らぬとの事。(昨日本屋の店に塵をあびて、月初めの号が一軒に七部も残つて居た事を思出した。)それで毎月三十円から五十円までの損となるが、その出所が無いので、自分の撰んだ歌などを不本意乍ら出版するとの事。そして今年の十月には満百号になるから、その際廃刊するといふ事。怎せ十月までの事だから私はそれまで喜んで犠牲になりますと語つた。
 予は、殆んど答ふる事を知らなかつた。噫、明星は其昔寛氏が社会に向つて自己を発表し、且つ社会と戦ふ唯一の城壁であつた。然して今は、明星の編輯は与謝野氏にとつて重荷である、苦痛を与へて居る。新詩社並びに与謝野家は、唯晶子女史の筆一本で支へられて居る。そして明星は今晶子女史のもので、寛氏は唯余儀なく其編輯長に雇はれて居るやうなものだ!
 ・・・・・・・・・
 二時、与謝野氏と共に明星の印刷所へ行つて校正を手伝ふ。お茶の水から俥をとばして、かねて案内をうけて居た森鵬外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原自秋に予ら二人、主人を合せて八人であつた。平野君を除いては皆初めての人許り。鴎外氏は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出したが、風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソッカしい男だ。年は三十七八にもならう。
 角、逃ぐ、とる、壁、鳴、の五字を結んで一人五首の運座。御馳走は立派な洋食。八時頃作り上げて採点の結果、鴎外十五点、万里十四点、僕と与謝野氏と吉井君が各々十二点、自秋七点、信綱五点、左千夫四点、親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。鴎外氏は、"御馳走のキキメが現れたやうだね。"と哄笑せられた。次の題は、赤、切る、塗物の三題。九時半になつて散会。出て来る時、鴎外氏は、石川君の詩を最も愛読した事があつたもんだ。"
 
 ■五月三日
 平野君の室。八時に起きて、十時四人でパンを噛る。平野君は True love, its first practice と云ふ西洋の春情本を出して、頻りに其面白味を説いた。此人達は、一体に自然主義を攻撃して居るが、それでゐて、好んで所謂其罵倒して居る所の自然主義的な事を話す。これは三年前になかつた事だ。自然主義を罵倒する人間も、いつしか自然主義的になつて居るとは面白い話だ。
 
 ■五月八日
 快よく目をさます。晴れたる空に少しく風立ちて、窓前の竹のさやらきが、都の響と共に耳に入る。ああ、此千万の声と音とを合した、大いなる都の物音! 朝な夕なに胸の底まで響く、頭の中を探ぐる様に快い。此物音と共に、今我が心には、何かしら力に充ちた若き日の呼吸が、刻一刻に再び帰つて来る様な気がする。
 実を吐くと、予は函館からの船の中で、東京及び東京の人が如何許り進んで居るかも解らず、心細さ頼りなさに胸は怖れの波をあげた。横浜に上陸しても、一夜を徒らに宿の三階に寝た。新橋に着いては、恐ろしい不安に犇と許り胸を引しめられた。然し、思つた程の事は一つもなかつた。東京には依然として其日暮しの議論をして居る人が多い。
 予は自然主義を是認するけれども、自然主義者ではない。或人は自然主義万能を説く。或人は今夜にも大反動が起つて自然主義が滅びる様な事をいふ。どちらもウソだ。自然主義は、今第一期の破壊時代の塵を洗つて、第二期の建設時代に入らむとして居るだけだ。此時期の後半になつて、初めて新ロマンチシズムが芽を吹くであらう。然し此の新ロマンチシズムが、如何なるものであるかはまだ何人の頭にも上つて居らぬ。サテ終ひになつて、大なる意味に於ての象微芸術が最後の錨を投げるであらう。
 書きたい事は沢山ある。あるけれどもまだ書かうと思ふ心地がしない。サテ短篇よりは長篇を書きたい。長篇を書いては、書ききれぬうちに飢ゆるであらうと云ふ心配がある。早く何らか下宿料を得る途がつけばよいがと考へる。
 一時、京橋のてい子さんから葉書。
 二時頃から夜の十二時迄に、短篇"菊池君"の冒頭を、漸々三枚書いた。書いてる内にいろいろと心が迷つて、立つては広くもない室の中を幾十回となく廻つた。消しては書き直し、書き直しては消し、遂々スッカリ書きかへて了つた。自分の頭は、まだまだ実際を写すには余りに空想に漲つて居る。夏目の"虞美人草"なら一ケ月で書けるが、西鶴の文を言文一致で行く筆は仲々無い。(p259)
 
 ■五月二十四日
 思出して見たが、何の夢だか解らない。起きると宮崎君から至急といふ手紙。ああ。
 京子が熱が出るので医者に見せたら、奥歯が生えるのだと云つたと云ふ事は、一昨日の手紙にもあつたが、何としてもよくないので大条といふ別の医者に見せると大脳何とか云ふ病気で、初期では大分重いのださうな。昏睡! ああ、予の頭は氷つた様な気がした。昨夜かいた断片のうちに、幼児の墓に二十年振で父が帰つて来て、お前は死んでよい事をしたと云ふ意味の詩がある。予の頭は氷を浴びせられた! 京子の昏睡!
 然し、打電しようと云つたのを、医者が其必要がないと打消したと云ふのと、此手紙を書いた朝には、昏睡からさめて、物を言つたと云ふので、漸く心を安めた。せつ子の心と友の情だけでも屹度癒る。さうだ、友は"屹度なほす"と書いてよこした。あゝ二百里外の父は!
 
 ■六月四日
 お昼ですと云つて女中に起された。
 二時頃並木君来た。話をしながら"天鷲絨"九十三枚遂に脱稿。
 夕方金田一君来て、鎌倉の寺の宿料の安い事をきく。一つ鎌倉に遁げて二月も書かうかと考へた。
 ランプをつけて"天驚絨"のしまひ一枚書き直して、九十四枚になる。原稿紙四枚残る。
 八時過、"病院の窓"と"天鷲絨"持つてつて鴎外先生の留守宅に置いて来た。暗に路をあるいてゐて悲しくなつた。久振で歩いたので、フラフラする。目が引込む様だ。俺は此位真面目に書いてゐて、それで煙草代もない、原稿紙も尽きた、下宿料は無論払はぬ、と思ふと、傾きかけた片割月の悪らしさ。
 明日からは、何か書かうにも紙がない。インキも少くなつた。
 "母"を生田君に送つた。
 与謝野氏から、来いといふ葉書が来た。
 
 ■六月七日
 平野君は卒業論文執筆中で、非常に急がしくてゐた。歌の話、小説の話。咋日森先生宅に歌会があつたさうなが、僕には閻違つて葉書を出さなかつたので、迎ひの者をやらうかとまで云はれたさうだが、そのうちに遅くなつたから止めたとの事。その時予の小説についても話されたさうで、春陽堂に電話かけたと云つてゐられたとか。
 露西亜小説を二冊借りて、十二時半、御馳走になつて帰る。森先生に寄つたが、まだ寝てをられるとの事。
 
 ■六月十七日
 昨日の新聞にあつた、一昨暁剃刀で自殺した川上眉山氏の事について考へた。近来の最も深酷な悲劇である。知らず知らず時代に取残されてゆく創作家の末路、それを自覚した幻滅の悲痛! ああ、その悲痛と生活の迫害と、その二つが此詩人的であつた小説家眉山を殺したのだ。自ら剃刀をとつて喉をきる。何といふいたましい事であらう。創作の事にたづさはつてゐる人には、よそ事とは思へない。
 Three of them を読みながら、枯れた椎の大木の上の空を眺めて、何とはなく心が暗くなつてしまつた。
 
 ■六月二十四日
 咋夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。
 そのうち百許り与謝野氏に送つた。
 一時頃から三時半まで午睡。起きて宿の人に手伝つて障子を張かへた。夕飯。
 貞子さんが来た。来て先づ泣いた。明日伊豆の伊東へ行くとか行かぬとか云ふ。父な人の家は破産しさうだと云ふ。九時少し前にかへつた。
 一人散歩に赤門の前を歩いてると亀田氏に逢つて、国木田独歩氏、わがなつかしき病文人が遂に茅ケ崎で肺に斃れた(昨夜六時)と聞いた。驚いてその儘真直に帰つた。
 独歩氏と聞いてすぐ思出すのは"独歩集"である。ああ、この薄倖なる真の詩人は、十年の間人に認められなかつた。認められて僅かに三年、そして死んだ。明治の創作家中の真の作家--あらゆる意味に於て真の作家であつた独歩氏は遂に死んだのか!
 此日、吉野君から、上京以来初めての手紙。ああ、酒と女! 君の書く事は真実だ。然り、飲んで歌ふことと、若い女!!!
 
 ■六月二十五日
 豊後臼杵町なる菅原よし子氏から絵葉書。
 後藤宙外氏から、春陽堂が十年来の不景気のため稿料掲載日まで待つてくれといふ葉書!
 午前に明星募集の"風"の歌を選んで清書して送つた。夕方に百合の花をまた買つて来て、白のうちに一本の赤を交へてたのしんだ。夜に金田一君と二人例の散歩。電柱の下に立つてゐた美人を見た。
 頭がすつかり歌になつてゐる。何を見ても何を聞いても皆歌だ。この日夜の二時までに百四十一首作つた。父母のことを歌ふ歌約四十首、泣きながら。(p283)
 長谷川氏に手紙やつた。
 
 ■七月二日
  "趣味"で正宗白鳥氏の"世間並"を読んだ。うまい。"下手な嘘をいふと時々心の中で嘲りながら"、女の苦労話をきいたといふ句がある。
 早速正宗氏へ面会を求める手紙をかいた。
 
 ■七月五日
 一時、森川町一番地桜館に正宗白鳥君を訪門した。背のひくい、髯のない人。四年前に一度読売社の応接室で逢つた事があつたが、そのまま些とも老けてゐない。
 随分ブツキラ棒であるとは人からも聞いてゐた。入つて行つても、ロクに辞儀もせぬ。茶を汲んでも黙つて出したきり、……それが頗る我が意を得た。何処までもブツキラ棒な話と話。二時半帰る時は、然し、額を畳に推しつける様にして、宛然バツタの如く叩頭をした。玄関まで送つて来た。(p289)
 今日までの作は、皆一様に苦心したもので、どれを得意といふ事もないと言つた。自分の才が一番小説に向くと思つて書いた--書き初めたのではないと言つた。詩や歌の話もした。
 
 ■七月十一日
 万葉集を読む。あるかなきかの才を弄ばむとする自分の歌がかなしくなつた。歌を作つた。

 ■七月十六日--十七日
 障子を明けたまま、蚊やり香を焚いて枕についた。何となく頭の中に秋風の吹く心地だ。母が妻が恋しくなつた。
独歩集を読んだ。ああ"牛肉と馬鈴薯"!
 読んでは日を瞑り、目をつぶつては読みした。何とも云へず悲しかつた。明治の文人で一番予に似た人は独歩だ! 死にたいといふ考が湧いた。!
 いつの間にか眠つたが、ふと目をさましてみると電車の音もきこえぬ。水の如き夜風が開け放した窓から吹き込んで、燈火の影がゆらめいてゐた。いかなる言葉を以ても、この自分の心の深いところをば言ひ表はす事が出来ぬ。だから死んだ方がよいと云ふ事を、半醒半眠のうちに念を押して二三度考へた。死ぬと考へながら、些とも其手段をとらぬ事を自分で疑つてもみた。老いたる母の顔が目に浮んだ。若し自分が死んだら! と思ふと、涙が流れた。泣いてるうちにまた眠つてしまつたらしい。
 
 ■八月二日
 趣味八月号!"文豪国木田独歩"!を読む。噫多幸なる哉独歩。明治の文人にして、国民的悼歌のうちに葬られたるもの、紅葉独歩の二人のみ。而して、かの紅葉にして猶且天下の同情を贏得たること独歩に及ばざる遠し。独歩また瞑すべし。
 独歩の性行を録するものを読みて、予の特に感ずるは、彼が無邪気なりし事なり。小児の如く笑ひ、小児の如く怒りし事なり。予は何故に怒りえざるや?
 独歩の旧稿に"文学者--予の天職"なる一文あり。中に曰く、
〃予は遂に文学者なるものの如し。"
 と、更に日く、"予は文学者の高貴なる所以を知る。然れども予は何ら虚栄の念なくして此業に従はざるべからず、宛然農夫の田を耕す如くに。”と。
 予の独歩を憶ふこと日に深し。然して、予も亦遂に文学者なるが如し。!!
 同じ誌上、新進十八家の小説あり。葉舟の"北村の日記"よし。予は此人の作に接して、今度許り終始同感して読みたることなし。小山内君の作に至つては軽挑浮華、才に勝ちて才に敗れたるもの。
 
 ■八月三日
 夜、長谷川氏より、予の"二筋の血"及び"天鷲絨"と共に来書。遂に文芸倶楽部に載するあたはず、太陽も年内に余地を作ること難き故、お気の海乍ら他に交渉してくれと。
 イヤになつて了つて早々枕につく。煙草はなし、蚊やりはなし。仰向のまま蚊を十何疋殺して二時頃漸く眠る。
 
 ■九月一日
 夜寝てから興を覚えた。久振に、数年振に興を覚えた。二時頃までに"青き家"その他十篇ばかりも詩の稿を起した。
 泣董の詩人的生活は終つた。有明も亦既に既に歌ふことの出来ない人になつた。与謝野氏は、こゑの未だ尽きぬうちに、胸の中が虚になつた。今、唯一の詩人は北原君だ。北原の詩で、官能の交錯を盛んに応用した、例の硝子のにほひの詩は、要するにキネオラマに過きぬが、此頃毎号心の花に出してゐる"断章"の短かい叙情詩に至つては、真の詩だ、真の真の詩だ。心にくき許り気持のよい詩だ。今の詩壇の唯一人は北原だ!
 然し北原には恋がない!
 予はこれから、盛んに叙情詩をやらうと思ふ。若々しい恋を歌はうと思ふ。
 
 ■九月五日
 今日も七十度だ。袷は質に入れてあるので、袖口のきれた綿入を着てうそ寒い。為すこともなくうつらうつらと煙草の粉を吸つてると、二時頃に吉片君がやつて来た。死んだ時の黒枠の広告文を考へるといふ話。兼題を二人で作つて五時に千駄木の森先生の歌会へ行つた。
 佐々木君が来てゐた。余程経つて主人と加古医学博士と与謝野氏と、香の会からの帰り打伴れて来られた。やがて伊藤左千夫君も来た。平野が来ないので吉井と二人迎ひに行くと、来てるのは女客らしかつた。
 皆比較的大人しい歌許り。
 散会したのは十一時だつた。主人は俳句の会も起したいが、山県公の常磐会があるので、とても今の所ヒマがないと言つて居られた。
 松屋の角で皆に別れて、帰つて寝たが、寝られぬので独歩の事をかいた古い趣味を読む。二時まで。
 それのためか神経が鋭くなつて寝られぬ。暁方に少し眠つた様だつたが、目がさめてから、また色々な事が考へられた。
 "所詮"といふ消極的な考へが頭の中で時々頭を挫げる! 金星会へ三十銭の為替が来た。
 
■九月十日
 古今集を読み了へた。悪技巧に囚へられた歌が多くて、呀と思ふ様なのが少い。よいと思ふのは、大てい万葉古今の過渡時代の作だ。
 北原からハガキ、転届の通知労々やつた予のハガキに対する返事だ。吊橋が匂つたり、硝子が泣いたりするのは、君一人の秘曲だから我々には解らぬと云つてやつたのを、それは"皆三角形の一鋭角の悲嘆より来るものにて、さほど秘曲にても候はず、ただ印象と、官能のすすり泣きをきけばいいでは御座らぬか。……この時僕の脳髄は毒茸色を呈し、螺旋状の旋律にうつる。月琴の音がジョウ工の壁となり、胡弓が煤けた万国地図の色となる。"と書いて来た。
 無論これらも、強き刺戟を欲する近代人の特性を、一方面に発揮したものには相違ないが、我々の"詩"に対して有する希望はここにないのだ。謂つて見ようなら、北原君などは、朝から晩まで詩に耽つてる人だ。故郷から来る金で、家を借りて婆やを雇つて、勝手気儘に専心詩に耽つてゐる男だ。詩以外の何事をも、見も聞もしない人だ。乃ち詩が彼の生活だ。それに比すると、今の我らは、詩の全能といふことを認めぬ。過去を考へると、感慨に堪へぬ話だが、何時しかにさうなつて来たのだから仕方がない。人が大人になる、すると、今迄興味を有つて来た事の大半に、興味を失つてくる。そこで更に新らしい強い刺戟を欲する。ト共に、何か知ら再び小児の時代の単純な、自然な心持に帰つて見たくなる。これら二つの希望のうち、どれが詩的かと云へば、無論小供の時代に帰りたいといふ方が詩的だ。我々は、少くとも予自身は、此故に、詩に向つて新らしき強き刺戟を求めようとしない。求めようとしても、詩そのものが、或程度まで恋しても格調の束縛があり、且つ言語の聯想に司配さるるといふ歴史的伝習的な点があり、全く(p325)新らしい酒を盛るには、古い器なのだ。謂ふ心は、我々の複雑な極めて微妙な心の旋律を歌ふには、叙上の束縛がある為に不自由なのだ。それを、無理に咏み込まうとするから、無理が出来る。この無理はさながら音楽に於ける不調和音の如く我々の心を乱して了ふ。
 予が北原の詩のうちで、所謂邪宗門流のものをとらずして、(極言すれば邪路に迷へるものとして、)却つて同君があまり力を注がぬらしき"心の花"の"断章"などを、現下詩壇の一品とする所以だ。乃ち、我々は我々の情的希望のうち、詩的な方面を詩によつて充たさむとする。道理ぢやなからうか。クラシカルな、又ロマンチカルな趣味が、かくて現在の我々の頭にも存し得る。
 無論、我々は二十世紀に生れた人間であるから、さればと言つて、古人の作に満足はし得ない。同じクラシカルな趣味でもロマンチカルな趣味でも、古人のそれと今人のそれとは、言はずして明かな相違がある。
 --------------------
 小説界に起つた自然主義は、詩壇にも同様の現象を誘起した。自ら自然主義詩人と称した手合も、早稲田派の末派などには少くない。此傾向はまた、"口語詩"なるものを作らしめた。
 自然主義詩に予の満足しえない理由、否、寧ろ全然不賛成な理由は、上に書いたことで明かだと思ふ。
 時代の思想、感情、観念は、その時代の言語によつて表はされなければならぬのは、言ふまでもない。が、詩は、詩だけは、その性質として、一番終ひに時代の言語を採用するものぢやなからうか。……
 
 ■九月二十三日
 せつ子から長い手紙。家族会議の結果、先づ一人京子をつれて上京しようかと思つたが、郁雨君にとめられたといふ。冷汗が流れた。三畳半に来られてどうなるものか。噫。大谷女学校に教師の口、当分出ようかといふ。現在の自分の境遇と、一家の事情と、そして妻の悲しくも健気なる決心を思ふては、胸が塞つた。
 詳しく此方の事情をかいた返事を出した。
 
 ■十月二日
 目をさますと節子と妹からの手紙。老いたる母上は二十九日の晩に函館を去つて、一人、岩見沢の姉が許へ行つたといふ。それを見送つて帰つたのは夜の一時であつたさうな。残つたのは妻に妹に京子。ああ、その夜の二人の心ーそして又北海の秋の夜汽車の老いたる母が心! 妻は是非東京で奮闘してくれと言つて、人数も少くなつた事なれば、アト一月や二月郁雨君の厄介になるにも少しは心の荷が軽くなつたと言つて来た。予は泣きたかつた。然し涙が出なかつた!
 起きたがペンが無い。平野を訪ねたが留守。一枚あつた電車切符を利用して早稲田に藤条君を訪ね、歓待された。"血笑記"と一円と借りて二時過ぎに帰つた。原稿紙とインキとペンと買つて来た。
 筑紫から手紙と写真。目のつり上つた、口の大きめな、美しくはない人だ。
 空が晴れ渡つて、日が落ちた。刻々に変る西空の夕影と、屋根の上から歩「歩空を這ふ夜の色! 八日の月が砲兵工廠の煙の上に光つてゐた。窓の前の狭い露台に仰臥して、空のたたずまひを見、市の轟きを聞くともなしに聞いてゐると、色々な事が切々に心に浮んでくる。読みかけてゐる血笑記の事、その怖ろしい光景、故郷の事、ー遂に家の事、汽車の中での母の心を考へ出すと、いつしか涙が湧いた。暮れわたる空は高い、高い。限りも涯もない悲哀が予の心を捉へた。金田一君が帰つて来た。予は驚いて立つて、そしてアンドレーエフの入神の筆について語り、且つ読んだ。"日露戦争の結果は、露西亜--大なる露西亜に於て此 Red laugh となつたが、小なる日本には何も残さぬ!"
 血笑記を読んで了つて、色々と物思ひに耽つてるうちに夜が更けた。源氏の"野分殉の巻を読み乍ら寝た。
 
 ■十月十九日
 彫刻の方では、特別室は見かねたが、荻原守衛氏の"文覚"には目を??つた。この豪壮な筋肉の中には、文覚以上の力と血が充満してゐさうだ。
 
 ■十月二十四日
 午前中に明星へ改めて原稿をかいて送つた。先に書いたつた詩三篇と歌六十首。
 此朝にせつ子から葉書。宝小学校の方十六日付で辞令が下つて、十九日から出勤してゐると。三給上俸といふと、予が弥生にゐた時と同じ十二円だ。せつ子に悠麼事をさせる! それはそれとして、予はホツと一息ついた。家族は先づ以て来春まではあまり郁雨君の補助も仰がずに喰つてゆける。
 そして光子も来月から何とか云ふ外国人の家庭教師になることに話がきまつたので、京子を守するために月末までに岩見沢へ行つてゐる母を呼ぶと。
 
 ■十月三十一日
 早起。終日の雨、寒暖計は五十一度に下つた。綿入を着て猶寒い。
 貸本屋から借りて、二葉亭訳の"浮草"をよんだ。風葉の青春がこれからヒントをえたものであらう。
 約の如く夜雨を犯して千駄ケ谷にゆき、五円貰つた。帰りに仏語の独修書をかつて来た。
 筑紫からたより。温かい歌が書いてある。寝てから、床の上で釧路の坪仁子へ別れてから初めての手紙かいた。
 この日の東京毎日に、"鳥影"の予告文が載つた。
 
 ■十一月一日
 予の生活は今日から多少の新らしい色を帯びた。それは外でもない。予の小説"鳥影"が東京毎日新聞へ今日から掲載された。朝、女中が新聞を室へ入れて行つた音がすると、予はハツ目がさめた。そして不取敢手にとつて、眠い目をこすり乍ら、自分の書いたのを読んで見た。題は初号活字を使つてあつて、そして、挿画がある。--静子が二人の小妹をつれて、兄の信吾を好摩のステーシヨンへ迎ひに出た所。
 一葉は切抜いて貼つておく事にし、一葉は節子へ、一葉はせつ子の母及び妹共へ送ることにした。
 起きて、また新聞を見乍ら飯を食つた。そして、昨夜与謝野氏から貰つて来た五円を持つて出かけて、足袋や紙やと共に、大形の厚い坐布団を二枚買つて来た。今迄夏物のうすくなつたのを布いてゐたつたのだ--
 貸本屋から白鳥君の"何処へ"
 
 ■天長節
 そして"春"を読んだ
 小説の上の一切の旧き技巧を捨てて、新意ある描写に努力した作者の熱心は、予を驚かしめた。その努力は不幸にして、この作に於てはまだ効を見せなかつた。--が、一派の人のこの作を全部失敗とするは誤つてゐる。そして、(p353)藤村氏の将来を軽蔑するは更に大に間違つてゐる。--予は藤村氏に与ふる手紙を書いた。
 その中で、書中に豆金糖とあるは豆銀糖の誤りであることを書いた。
 
 ■十一月六日
 今日"明星"終刊号の発送するから、暇なら手助つてくれぬかといふ与謝野氏の葉書があつたので、八時半頃から小川町の明治書院に行つた。程なくして与謝野氏も来た。
 あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身もその戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦つた明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠つてゐる。
 予と、千駄ケ谷の女中と、書院の小僧と三人で包装を初めた。与謝野氏は悼で各本屋へ雑誌を配りに行つた。十二時を打つと平野君も来た。予は糸をかけるに急いで左の手の小指を擦傷した。平野君は切手を貼る時、誤つて一枚顎へ喰付つて、口を大きく開いて指を入れた。眼鏡の下で眼が白かつた。
 三時頃になつて済んだ。ハラハラと雨が降り出したので平野君と二人電車で帰つた。与謝野氏は十五日頃に母堂の墓参をかねて京都に旅すると言つてゐた。
 
 ■十一月二十二日
 大急きで(五)の一鳥影のところをかいてると、平野君が約の如く来た。金田一君の羽織袴をかりて出かけた。初めて大隈伯邸に入つて二千余人の来賓と共に広い庭園に立つた時は、予は少し圧迫される様な感がした。間もなく金田一君岩動君小笠原君らに逢ひ、園中の摸擬店を廻つた。菊はすがれたが紅葉の盛り。
 上田敏氏も来てゐられた。花の如き半玉共の皆美しく見えた。一人、平野君がテンプラを攻撃してるうちに、ブラブラ歩いてるうちに、皆にはぐれて了つて池を廻り、山に登つた。何処も彼処も人、その数知れぬ人の間に誰も予の知つた人は居なかつた。予は実際心細かつた。漸く上田氏を見つけて初めて安心した。
 上田氏は、二十日に夏目氏に逢つたが、独歩の作が拵へた拵へぬといふ議論で、拵へたといふ夏目氏の方は理屈があるらしいと言つた。
 ビール、を飲んだ。立食場は広くて立派なもの。テーブルスペーチは聞えなかつた。日本人は園遊会に適しない。少くとも予自身は適しない。
 六時頃に済んだ。何のために、何の関係なき予らまで来て御馳走になつたらうと、平野君と語り合つて笑つた。芝居をやつた大広間の金の唐紙に電気が映えて妙に華やかな落ついた色に輝やいてゐた。それを紅葉の間から見た刹那の感じはよかつた。
 門--今迄くぐつた事のない立派な門を出るとき、此処から一歩ふみ出せば、モウ一生再びと入ることがあるまいと言つて笑つた。実際--恐らくは実際さうであらう。
 
 ■十一月三十日
 スラスラと鳥影(七)の二をかき、それを以て俥で午後三時毎日社へ行つた。そして三十円--最初の原稿料、上京以来初めての収入--を受取り、編輯長に逢ひ、また俥で牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭のうち一円五十銭払ひ、快談して帰つた。宿へ二十円、女中共へ二円。日がくれた。栗原君の新居を訪ふと病床にありと。Victim を返してかへる。
 異様な感じにうたれた。
 九時頃から金田二君と共に四丁目の天宗へ行つてテンプラで飲んだ。大に喋つた。十二時酔うてかへつて寝た。
 


home