啄木 ・ 日記  明治四十二年 (24才)


 1月、『スバル』創刊。啄木は第二号(2月1日発行)の編集を担当した。
 3月1日、東京朝日新聞社の校正係として出社。
 5月10日、二葉亭四迷 死去。
 5月26日、「胃弱通信」を『岩手日報』に連載開始。6月2日まで
 
 6月16日、母カツ・妻節子・長女京子が上京。
 10月2日、節子が長女京子を連れて盛岡の実家に帰る。
 10月26日、節子帰宅。
 11月25日、『東京朝日新聞』の 朝日文芸欄(漱石主宰)の校正も担当。
 11月、主筆池辺三山の命を受けて東京朝日新聞社『二葉亭全集』の校正に携わる。
 11月30日、評論「弓町より――食ふべき詩」を掲載し始める。
 12月20日、父一禎が青森県野辺地から上京し、一家は5人の生活がはじまる。
 
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■一月一日
 今日から二十四歳。
 前夜子の刻すきて百八の鐘の鳴り出した頃から平野君と本郷の通りを散歩し、トある割烹店で食つて二時頃帰宿、それから室の中をかたづけて、寝たのは四時近くだつたから、目をさましたのは九時過。
 空は朗らかに晴れわたつていたが、一杯の酒に雑煮、年始状を見て金田一君の室に行つてゐると、三階をゆすぶつて強い風が起つた。そしてチラチラと三分間許り雪が落ちた。
 満都の士女は晴衣を飾つて巷に春を追うた事であらう。予は一人室に籠つて北海の母に長い手紙を認めた。予は其手紙に、今年が予の一生にとつて最も大事な年--一生の牛活の基礎を作るべき年であるとかいた。そして正月の小遣二円だけ封じた。

 ■一月三日
 在原帰つて予は吉井君にハガキを書いた。曰く(第二者第三者にとりては何の価値なき、而し僕自身には重大なる或る事を発見した。僕は昨日までの僕が憐れでならぬ。モウこれから、僕は何人にも軽蔑されない、否、軽蔑する人には軽蔑さしておいて、僕は僕で其らの人を軽蔑してやる積りだ。ハハ……)
 長い事、然り、長いこと何処かへ失つてゐた自信を、予は近頃やうく取戻した。昴は予にとつて無用なものでなかつた。予はスパルのおかげで、今迄ノケ者にしておいた自分を、人々と直接に比較する機会をえた。
 
 ■一月四日
 太田へ手紙かいてる時、平野は夏目氏を訪はないかと言つて来たが、予は行かなかつた。
 
 ■一月九日
 森先生の会だ。四時少しすきに出かけた。門まで行つて与謝野氏と一緒、吉井君が一人来てゐた。やがて伊藤君、千樫君、初めての斎藤茂吉君、それから平野君、上田敏氏、おくれて太田君、--今日パンの会もあつたのだ。
 題は十一月からの兼題五、披露が済んで予が十九点、伊藤君が十八点、寛、高湛、勇の三人は十四点、その他--
 十時散会、雪が六七分薄く積つて、しきりに降つてゐた。予は伊藤君の傘に入つて色々小説の話をしながら森川町まで来た。傘につもる雪がサラサラと音がする。軒々の火が曇つてみえる。予は何となく北の方の国が恋しくなつた。そして何となく東京を歩いてるのでないような気がした。映世神社のヒバ坦から雪をとつて喰つた。
 お常の好意、玉子酒をのんで寝た。風邪をなほす為である。
 金田一君は今夜原君の宅の加留多会へ行つた。女中には(大臣の家へよばれた)と言つて行つたさうな。予は少し愍然な気がした。大臣の家 !
 予の新しい気持、--少しもヒケをとらぬ此頃の気持はよほど周囲の関係を変化させた。予はこの友--恩ある友を憐むの心の日に日に強くなることを悲む。
 
 ■一月七日
 新年の諸雑誌をあさつた。正宗、真山二氏のはドノ号のもうまい。描写の技倆に於ては、青果氏は当代一、そして正宗氏のに至つては、更に何者か人生のかくれたる消息を伝へてゐる。"早文"に出た(地獄)も全く感服した。
 夜九時頃であつたらう。昨夜も名刺をおいて行つた山城正忠君が来た。酒を七合のんで来たと言つて、大分酔つてゐた。独歩集を几の上からはなしたことがないと言ふ。嘗て予によこしておいた(路傍の人)はその閲歴だといふ。予はそれについて、赤裸々に所見を言つて、返した。
 哀れなる感情家!
 いろいろなことをさも情にたへぬといつた様に語つて、十二時に帰つて行つた。
 
 ■一月十日
 束縛! 情誼の束縛! 予は今迄なぜ真に書くことが出来なかつたか?!
 かくて予は決心した。この束縛を破らねばならぬ! 現在の予にとつて最も情誼のあつい人は三人ある。宮崎君、与謝野夫妻、そうして金田一君。--どれをどれとも言ひがたいが、同じ宿にゐるだけに金田一君のことは最も書きにくい。予は決心した。予は先づ情誼の束縛を捨てて紙に向はねばならぬ。予は其第一着手として、予の一生の小説の序として、最も破りがたきものを破らねばならぬ。かくて予は(束縛)に金田一と予との関係を、最も冷やかに、最も鋭利に書かうとした。
 そして、予は、今夜初めて真の作家の苦痛--真実を告白することの苦痛を知つた。その苦痛は意外に、然り意外につよかつた。終日客のあつた金田一君は十一時頃に一寸来た。予はその書かむと思ふことを語つた。予は彼の顔に言ひがたき不快と不安を見た。
 あゝ、之をなし能はずんば、予は遂に作家たることが出来ぬ! とさうまで思つた。予は胸をしぼらるる程の苦痛を感じた。真面目といふものは実に苦しいものである。惨ましいものである。予は歯ぎしりした。頭をむしりたく思つた。あゝ情誼の束縛! 遂に予は惨酷な決心と深い悲痛を抱いて、暁の三時半までにやつと二枚半許りかいた。
 予は勝たねばならぬ。
 
 ■一月十六日
 十一時起床。
 半日つぶして、(ユリウス、パツブの戯曲論)の筆記を訂正した。そして日がくれた。所々筆記の曖昧なところがあるので、電話をかけると森先生から来いと言つて来た。すぐ出かけて行つて、それを直して、それから九時半まで色々話込んだ。先生は近頃非常に新聞記者をイヤがつてゐた。(この里に来てすみしより漸くに新聞記者も訪ねこぬかな)といふ歌を作つたと言つてをられた。
 予は色々と自分の文学上の考へなどをのべた。そして、この先生は、文学を見るに、全く箇々の作品として見るので、それと思想との関係を見ないといふことを感じた。
 
 ■一月二十一日
 夜太陽をよむ。天渓氏の(超道徳的文学。)正宗氏の(涎。)
 
 ■一月二十六日
 桜庭ちか子さんから、祖母君が今月三日に亡くなつたといふハガキ。
 目をさますと校正が来てゐた。平野が来、太田が来た。
二人は校正してかへつて行つた。予は二人にかまはず(足跡)をかいた。
 午後五時、(足跡)その一(今度の号へ出す分)脱稿。
(足跡)は予の長篇-新らしい気持を以てかいた処女作だ。予はこれに出来るだけ事実をかいた。
 作家の苦痛。
 袷を典じて原稿紙をかつて来た。
 足跡をなほして暁まで。
 
 ■二月一日 曇、温
 (樗牛死後)をかき初める。
 午頃太田がきた。そして色々と議論した。予はこの数年来の日本の思想の変遷を或銀行にたとへて論じた。そして結局太田君がまだ実際の社会にふれてゐないといふことを明かにしたに過きなかつた。太田は今の作家をのゝしつた。予は言つた。(今の我々は平面な崖につきあたつて路がつきたのだ、で、如何に行くべきかを研めむがために、先づ、如何にして此処に来れるか、今立つところは何処、如何なるところなるかを研究してるのだ。君が、如何なる方に進むべきかを考へないでゐると評するのは間違だ、今の作家は矢張時代の先頭にたつてるのだよ。)
 すると太田君は異様な声で言つた。(すると奴等も如何に進むべきかを考へてるのだなア!)
 (さうさ、最も確かな態度で考へてるのだ。)
 フイと太田君はかへつた。
 
 ■二月六日
 近頃下宿からの督促が急だ。
 十二時起床、出かけようと思つてるところへ北原君が来たが、女中の間違ひで留守だと言つて返してしまつた、アトを追かけさせたが駄目、
 それから予一人朝日新聞社に佐藤北江(真一氏)をとひ、明日の会見を約して夕方かへる。
 吉井へ寄ると、北原は来ないといふ、今日は森先生の歌会だが、予は用があつて行けぬといつて、吉井にことづてを頼んで帰宿、
 日くれて一人浅草にあそび(辞典をうつて)活動写真を見、九時頃、いつか吉井とのんだ馬肉屋で十四銭で飯を食★(p25)ひ、かへつて北原を待つたが来ず、十一時頃寝る。
 綱島氏から去年の十二月小樽に出した小包--岩崎君から届いた、故梁川氏の手紙(嘗て貸してやつた)十通とその書簡集上巻一部、
 〔摘要〕 森先生の会へ不参
 
 ■二月七日
 午前十時頃金田一君盛岡から帰つて来た、
 さうかうしてると豊巻君が来、雑誌をかりて帰る、昼飯をくつて出かけて北原君をとひ、天プラを御馳走になる、今日は鈴木氏が不在だからといふので、辞して春陽堂にゆくと日曜で休み、約の如く朝日新聞社に佐藤氏をとひ、初対面、中背の、色の白い、肥つた、ビール色の髭をはやした武骨な人だつた、三分間許りで、三十円で使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してみるといふ確言をえて夕方ニコニコし乍らかへる、此方さへきまれば生活の心配は大分なくなるのだ、
 今日は万事好運で、そして何れもきまらぬ日であつた、かへつて金田一君と話す、盛岡の娘だちが、農林校の支那人に参つてるといふ憤慨談、
 それから同君のために共に質屋にゆき、フロツクその他で二十一円、今年初めて天宗へ行つて十二時まで天プラで呑み、大笑ひをしてかへつて寝る、
 
 ■ニ月十五日
 十二時起きて出かけようと思つてるところへ、本店にゐる小原敏麿といふ人来り、頼みもせぬに大学館へ紹介状をくれる、そして夜十一時頃までゐた、イヤなイヤなイヤーな奴だつた、一日つまらぬことを言つてくらした、
 夜おそく金田一君の室でグチを言つた、グチではない、その時は実際自分は何の希望もない様な気がしてゐた、
 モウ予は金田一君と心臓と心臓が相ふれることが出来なくなつた、
 
 ■二月二十一日
 鈴木氏が来たらかけると言つた北原からの電話が来ぬ、昼頃までゴルキイをよみ、それから紙に向つて、夜(眠れる女)を二枚ほど書き出した、とうとうそれ切、
 これは予にとつての最も新らしい気持で考へ出したものだ、予は昨年暮あたりからの予の心境の変化について、漸く或解釈がついた、
 今の作家の人生に対する態度は、理性--冷やかなる理性と感情とだ、意志が入つてゐない、
 意力! これだ、
 
 ■二月二十四日
 記億すべき日、
 夜七時頃、おそくなつた夕飯に不平を起しながら晩餐をくつてると朝日の佐藤真一氏から手紙、とる手おそしと開いてみると二十五円外に夜勤一夜一円づゝ、都合三十円以上で東朝の校正に入らぬかとの文面、早速承諾の旨を返事出して、北原へかけつけると、大によろこんでくれて黒ビールのお祝、十時頃陶然として帰つて来た、
 これで予の東京生活の基礎が出来た! 暗き十ケ月の後の今夜のビールはうまかつた、
 
 ■二月二十五日
 午後朝日社に行つて佐藤氏に逢ひ、一日から出社のことに決定、出勤は午後一時頃からで、六時頃までとのこと、
 夜、その旨を太田北原二君、与謝野氏、及び函館なる家族へ知らせてやつた、それから岩動君へ手紙、
 羽織を質におき、古雑誌を売つて、坪仁子及び堀田秀子へ電報うつた、
 
 ■三月一日
 嚢中四十五銭、これではならぬとアートエンドモーラリチーを一円三十銭に売り、ツボへ感謝の電報を打ち名刺の台紙を購ふ、
 昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した、
 佐藤氏に面会し二三氏に紹介される、広いく編輯局に沢山の人がゐる、一団づゝ、方々に卓子と椅子がある、そして四方で電話をかける声がしつきりなしに広い室内に溢れる、--つかれた、無理に張上げた声だ、--その中で予は木村といふ爺さんと並んで校正をやるのだ。校正長の加藤といふ人が来た、目の玉が妙に動く人だ当--校正は予を合せて五人、四人は四人ともモウ相応の年をした爺さんで、一人は耳が少し遠い、合間く合間に漢詩の本を出して読んでゐた、モ一人の経済の方の校正は俺はモリ(ソバ)なんか喰はぬと言つてゐた。
 社会部の主任渋川玄耳といふ人は、髭のない青い顔に眼鏡をかけてゐた、
 五時頃初版の校正がすんで、帰つてもよいといふ、電車で帰つた、そして飯を金田一君と共に食つて、そして湯に入つた、八時頃太田君が島村君をつれて来て、十一時頃まで話して行つた、
 〔摘要〕本日より朝日社に出社、
 
 ■三月六日
 今日は森先生の歌会だが、行かれぬので手紙で申訳をかいた。
 
 ■三月八日
 スバル三号とゞいた。森先生の(半日)を読む。予は思つた、大した作では無論ないかも知れぬ。然し恐ろしい作だ--先生がその家庭を、その奥さんをかう書かれたその態度!
 新文林編輯局へ手紙、出す。
 社では何事もなかつたが、だんだん慣れるにつれて面白くなつた。
 帰つてくると電車の中で日沢君にあつた。森先生からハガキが来てゐた。--(御書状拝見とにかくパンの木御発見被遊候由珍重々々、先月の「足跡」処々の評に不拘好き出来と存候、先日上田敏にも相話候事に候。新聞のシゴトの許〔す〕限り著作に御努カ所祈に御座候)--
 
 ■三月十日
 七時頃に起きた。雨。今朝の新聞は面白かつた。昨日の議会の三税廃止案の舌戦も愉快だ。多数党の横暴! それが却つて反語的に面白い。監獄から出た許りの或る男が八銭の飲食代に困つて小刀をふり廻し、ランプをたゝきおとして火を放ち、そこからノコノコ出てトある橋の上で十二になる女の児が子供を負つて子守唄を唄ひ乍らくると、エゝ面倒臭いといつてそれを河の中につきおとしたといふ。一方には大学生で行方不明になつたのがある、又一方では奉天会戦の時一軍医が繃帯まきのいそがしさに発狂して、何をいひつけてもニヤニヤ笑つたといふ話がある。また実子をしめ殺した話がある。……生きた世の中の面白さ。あゝ、然しそれと予との間に何の関係がある。予は戦ひたくなつた。
 
 ■三月十二日
 せつ子から手紙。
 貸本屋から葉舟の(響)をかりる。
 何の変つたこともない。夜は雨だ。(響)をよむ。うまい、やさしい、快い筆致だ。
 わびしいく雨の音、雨滴の音……それを聞いてゐると、目を瞑つてきいてゐると、渋民の寺にゐた頃の、静かな、わびしい、そして心安かつた夜の雨がしみじみと思出された。窓をあけて見ると、雨の中に無数の燈がみえる。ぬれた、さびし気な光だ、この間に電車停留場の青い火、赤い火がみえる、それは泣いてるやうだ。
 あゝ、自分は東京に来てゐるのだ、といふ感じが、しみじみと味はれた。そして妻や母のことが思ひ出された。かの渋民の、軒燈一つしかない暗い町を、蛇目をさして心に何のわづらひもなくたどつた頃のことが思出された。大きい都会、その中に住んでゐる人は皆生命がけに働いてゐる。……その中に自分もまきれこんでゐる。……あゝ、自分は★(p37)働けるだらうか、働き通せるだらうか !
 雨の音がわびしい。そのわびしさを心ゆくまで味はつて、そして、出来ることなら自分の身についてのすべてのことを泣いてみたい様な気がした。
 そして寝てから、女中を呼んで雨戸をあけさした。戸をあけると、雨の音が一層強く聞える。しめやかな音だ……ポチヨリ ポチヨリ、と雨滴が亜鉛の樋におつるのが、恰度、かの渋民の寺できいた、屋根もりをうける盥におつる音に似てゐる……いひがたきさびしみの喜びに眠つた。
 
 ■三月二十一日 晴、暖
 日曜に春季皇霊祭で休み、夜来の雨晴れて温かし、
 おそく起きた、一時頃与謝野氏を訪ふ。平出君も来た、晶子さんはモウ起きてゐる。三時半頃主人帰り来る。
 やがて上田敏氏が来た(足跡)の女教師が面白いと言つた、平野が来た、アノ後初めて逢つた。
 めしを食つて辞し浅草新片町待合のならんだ町に島崎藤村氏を訪ふ。九時半まで話した、おとなしい人だ、しつかりした人だ、話は面白かつた。
 [摘要〕初めて藤村氏に逢ふ。
 
 ■三月二十二日
 夜花明兄と駿河台に中島孤島君を初めて訪ふ。髭のない、眼鏡をかけた、どこか声の鼻がゝつてゐる、左程快活でない男で、起るべき文芸革新会の事で話が持切つた。革新会といふのは詰り文壇の不平連だと孤島君も…日つた。明日宣言書を発表するといふ。★(p39)
 〔摘要〕 中島孤島君に初めて逢ふ。
 
 ■三月二十七日
 六時半頃湯に入つてると、生田長江君が生田春月といふ十八になるといふ無口な、そして何処か自信のありさうな少年をつれて来た、そして十時半まで喋つて行つた。新らしい結社! 少数でも自惚の強い奴許り集つて呼号する結社、それを起さうではないかといふ話。予は種々な消極的な理由が主で、大賛成した。ピストルと校正は引受ける、と予は言つた。森田草平君阿部次郎君鈴木三重吉君などが吾らの指に折られた。
 それを金田一君に話すと、飼つてゐる馬か何ぞが、埒を破つて野に奔馳してゆく様で危険を感ずると言つた。あゝ
 
 ■四月三日
 [編集部翻字 以下同〕
 北原君のおばさんが来た。そして彼の新詩集"邪宗門"を一冊もらった。
 電車賃がないので社を休む。夜二時迄"邪宗門"を読んだ。美しい、そして特色のある本だ。北原は幸福な人だ。
 僕も何だか詩を書きたいような気持になって寝た。
 
 ■四月五日
 "スバル"第四号が来た。森先生のはじめての現代劇"仮面"を読んだ。
 夜、久しぶりで阿部月城君が訪ねて来た。支那へ行って来たのだと言っていた。今は中央大学へ行ってるとか。
 相変らずホラをふいてる面白い男だ。
 
 ■四月六日
 北原君を訪ねようかと思ったが、その中に十二時近くなったので、ごぶさたのお詫びを兼ねて、"邪宗門"についての手紙をやった。--"邪宗門"には全く新らしい二つの特徴がある。その一つは"邪宗門"という言葉の有する連想といったようなもんで、も一つはこの詩集に溢れている新らしい感覚と情緒だ。そして、前者は詩人白秋を解するに最も必要な特色で、後者は今後の新らしい詩の基礎となるべきものだ……
 降ったり晴れたりする日であった。社で今月の給料のうちから十八円だけ前借した、そして帰りに浅草へ行って活動写真を見、塔下苑を犬のごとくうろつき廻った。馬鹿な!
 十二時帰った。そして十円だけ下宿へやった。
 
 ・・・・・
 
 ■このあとは有名なローマ字日記である。研究家の間で非常に高い評価を得ているが、他の日記に比べて特にすぐれているわけではない。むしろ、個人的・個別的な記述が多く、引用して紹介すべき文章はなかった。五月十五日の日記に、二葉亭四迷に対する高い評価を書いているが、このときの啄木はまだ四迷を理解しているわけではない。四迷に対する高い評価はまだ具体的ではなく、正宗白鳥や鴎外に対する高い評価と共存している。啄木が古い思想を否定しながら新しい思想を生み出すことが出来ない時期の経験的な苦悩を記録しているが、それはまだはっきり意識されておらず、試行錯誤の苦しみを書きつけているばかりである。


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