啄木 ・ 日記  明治四十三年 (25才)


 2月、評論「性急な思想」。
 3月、前年の十一月から携わっていた二葉亭四迷全集第一巻の校正が終わった。
 4月、小説「道」。
 4月、処女歌集の編集を始める。
  『二葉亭全集』の事務引き継ぎを引き受ける。
 5月、『二葉亭全集』全集第一巻が刊行される。
  「我等の一団と彼」を執筆。
 6月、幸徳秋水が逮捕される。“大逆事件”。
 
 7月1日、「二葉亭四迷」全集に関連して、入院中の夏目漱石を見舞う。7月5日、再度漱石を見舞い、     英訳『ツルゲーネフ全集』第五巻を借りる。
 8月、「時代閉塞の現状」。
 9月、『東京朝日新聞』紙上に“朝日歌壇”が設けられ、啄木が選者となる。
 10月、長男真一誕生。10月27日真一急逝。
 11月、「一利己主義者と友人との対話」。
    『二葉亭全集』第2巻刊行。
 12月、第一歌集『一握の砂』を東雲堂書店から刊行。
   「歌のいろいろ」。
 
 
 ((明治四十三年の日記は四月の十数日分が残るだけである。明治四十四年の当用日記補遺に四十三年の事実と思想情況をまとめているので全文紹介しておこう。))
 
  明治四十四年 当用日記補遺
 ○前年(四十三)中重要記事
 本郷区弓町ニノ十八新井(喜之床)方二階にて年を迎ふ。前年十二月二十日野辺地より上京せる父を併せて家族五人なり。前年三月一日以来東京朝日新聞社勤続、月給二十五円。
 一月--無事。
 二月--無事。
 三月--無事。
 四月--雑誌「新小説」に小説『道』掲載せらる。原稿料一枚三十銭。またこの頃朝日紙上及び東京毎日新聞に作歌を発表す。蓋し前年初夏以後初めての作なり。社中の評判可し。この月北海道旭川に在りたる小妹光子名古屋なる聖使女学院に入るを許されて十七日入京、滞在数日にして名古屋に向ふ。
 五月--無事。
 六月--幸徳秋水等陰謀事件発覚し、予の思想に一大変革ありたり。これよりボツボツ社会主義に関する書籍雑誌を聚む。この半期末の社の配当三十四円、賞与十五円、計四十九円、前年末と同じ。移転を企てゝ果さず。前年十二月より予の校正したる二葉亭全集世に出づ。
 七月--光子休暇にて上京、九月初旬まで滞在す。
 八月--より九月にかけ、東京及び各地に大水害あり。盛岡加賀野磧町の旧居流失せるを聞く。
 九月--十五日より朝日紙上に「朝日歌壇」を設け、予選者たり。渋川柳次郎氏の好意に由る。月末本籍を東京本郷弓町ニノ十八に移す。
 十月--四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区永住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて茶毘に附す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名 法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及び与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。(p223)稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。
 十一月--八日野辺地の葛原対月老僧盛岡にて死す。父の師父にして母の兄なり。報に接して父急遽盛岡に下り、親属の無礼を怒りて、宿ること一夜にして帰り来る。
 十二月--初旬『一握の砂』の製本成る。序は藪野椋十氏(渋川氏)表紙画は名取春僊君。一首を三行として短歌在来の格調を破れり。定価六十銭。半期末賞与五十四円を貰ふ。またこの月より俸給二十八円となれり。二葉亭全集第二巻また予の労によりて市に出でたり。
 四十三年中予の文学的努力は主として短歌の上に限られたり。これ時間に乏しきによる。歌集の批評は年内に聞くをえざりしと雖ども努力はたしかに反響を得たり。主として朝日紙上及び雑誌「創作」に作歌を発表し、年末に至りては「早稲田文学」その他三種の雑誌に寄稿を求めらる。
 思想上に於ては重大なる年なりき。予はこの年に於て予の性格、趣味、傾向を統一すべき一鎖鑰を発見したり。社会主義問題これなり。予は特にこの問題について思考し、読書し、談話すること多かりき。たゞ為政者の抑圧非理を極め、予をしてこれを発表する能はざらしめたり。
 文学的交友に於ては、予はこの年も前年と同じく殆ど孤立の地位を守りたり。一はその必要を感ぜざりしにより、一は時間に乏しかりしによる。森氏には一度電車にて会ひたるのみ、与謝野氏をば二度訪問したるのみなりき。以て一斑を知るべし。時々訪ね呉れたる人に木下杢太郎君あり。夏目氏を知りたると、二葉亭全集の事を以て内田貢氏としばしば会見したるとは記すべし。その他の方面に於ては、金田一君との間に疎隔を生じたると、丸谷喜市君の神戸高商を了へて東京高商研究科に来り、往復度を重ねたるを一変化とす。函館諸友と予との交情は旧によりて親密なり。予の『一握の砂』は宮崎君及び金田一君にデヂケエトせられたり。これ往年の友情と援助とを謝したるなり。しかも金田一君はその為に送本受領のハガキをすら寄越さゞりき。また予はこの年に於て、嘗て小樽に於て一度逢ひたる社会主義者西川光次郎君と旧交を温め、同主義者藤田四郎君より社会主義関係書類の貸付を受けたり。
 経済的状態は、逐月収入に多少の増加を見、その額必ずしも少からざりしも、猶且前年来の疲弊及び不時の事によりて窮乏容易に緩和せざりき。家人の動静は、前記節子の「出産及び産後衰弱の外、父は夏の頃を以て脚気に患み、母また著しく衰弱したり。而して猶且節子不健康の故を以てよく一家の事を処理されたり。予の健康も概して佳ならざりき。京子一人頑健なり。
 十月より三日に「夜の夜勤あり。為に財政の上に多少の貢献ありたれども、健康と才能とを尊重する意味に於て十二月末、事を以て之を辞したり。
 年末収入総額は左の如し。
  五四円○○        社の賞与
   五、○○        米内山より御礼
   三、六五        十二月分俸給前借残り
   三、○○        精神修養稿料
   一、○○        秀才文壇稿料
   一、○○        早稲田文学稿料
  二五、○○        宮崎君より補助
  二七、○〇        一月分俸給の内前借
   九、○○        夜勤手当
   八、○○        朝日歌壇手当
  一五、○○        協信会より借入
   五、○○        書籍質入
  計  百六十五円六十五銭
 而して残額僅かに一円二十一銭に過ぎず。不時の事のための借金及び下宿屋の旧債、医薬料等の為にかくの如し。猶次年度に於て返済を要する負債は協信会の四十円及び蓋平館に対する旧債百余円也。



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