啄木 ・ 日記  明治四十四年 (26才)


  ■1911年(明44) 26歳
 
 1月、平出修を訪ね、幸徳秋水が獄中から担当弁護人に送った陳弁書を借りて筆写する。
   クロポトキン『青年に訴ふ』を読む。
   土岐哀果と新雑誌の創刊を協議し、『樹木と果実』と名付ける。
 1月18日、“大逆事件”で被告26人中24人に死刑の判決。翌日十二名が無期懲役に減刑。
 1月24日、死刑執行。
 1月25日、平出修から、幸徳・管野・大石らの獄中からの手紙を借りる。
 
 2月1日、慢性腹膜炎と診断され、4日に入院。
    、クロポトキンの自伝を読む。
 3月15日、退院し、自宅療養。
 
 4月18日、『樹木と果実』の発行を断念。

 5月、「A LETTER FROM PRIZON 'V NAROD' SERIES(民衆の中へ)」を執筆。
 6月、「はてしなき議論の後」。
 
 11月、クロポトキン『ロシヤの恐怖』の英語版“THE TERROR IN RUSSIA”を写し終わった。

 
 一月三日
 平出君と与謝野氏のところへ年始に廻つて、それから社に行つた。平出君の処で無政府主義者の特別裁判に関する内容を聞いた。若し自分が裁判長だつたら、管野すが、宮下太吉、新村忠雄、古河力作の四人を死刑に、幸徳大石の二人を無期に、内山愚童を不敬罪で五年位に、そしてあとは無罪にすると平出君が言つた。またこの事件に関する自分の感想録を書いておくと言つた。幸徳が獄中から弁護士に送つた陳情書なるものを借りて来た。与謝野氏の家庭の空気は矢張予を悦しましめなかつた。社では鈴木文治君と無政府主義に関する議論をした。
 
 一月五日
 幸徳の陳弁書を写し了る。火のない室で指先が凍つて、三度筆を取落したと書いてあ.る。無政府主義に対する誤解の弁駁と検事の調べの不法とが陳べてある。この陳弁書に現れたところによれば、幸徳は決して自ら今度のやうな無謀を敢てする男でない。さうしてそれは平出君から聞いた法廷での事実と符合してゐる。幸徳と西郷! こんなことが思はれた。
 
 一月十日
 霙が降つた。朝に吉野君から妻君と子供が病気で入院して、上京の企画一頓挫をうけた旨の手紙があつた。社に行くと谷静湖から約束の冊子が届いてゐた。それは昨年九月の頃、在米岩佐作太郎なる人から送つて来たといふ革命叢書第一篇クロポトキン著「青年に訴ふ」の一書である。谷は岩佐を知らない、また知られる筈もない、多分雑誌に投書したのから住所姓名を知つて伝道の為めに送つたものであらう。家に帰つてからそれを読んだ。ク翁の力ある筆は今更のやうに頭にひゞいた。
 
 一月十一日
 夜、丸谷君を訪ふと並木君も来てゐた。この日市俄高の万国労働者の代表者から社に送つて来た幸徳事件の抗議書--それは社では新聞に出さないといふので予が持つて来た--を見せた。話はそれからそれと移つた。「平民の中へ行きたい。」といふ事を予は言つた。
 更けてから丸谷君と蕎麦屋へ行つた。丸谷君の出費である。
 
 一月十三口
 何の彼のといつてるうちに一月も十三日になつた。そんなことが思はれた。急がしい気持がして社へ行つた。
 電話で話し合つて、帰りに読売社へ寄り、北風の真直に吹く街を初対面の土岐哀果君と帰つて来た。さうして一杯のんでソバを食つた。こなひだ読売に予と土岐君と共に僧家の出で共に新聞記者をしてると書いてあつたが、二人は酒に弱い事も痩せてる事も同じだつた。たゞ予の直ぐ感じたのは、土岐君が予よりも慾の少いこと、単純な性格の人なことであつた。一しよに雑誌を出さうといふ相談をした。「樹木と果実」といふ名にして兎も角も諸新聞の紹介に書かせようちやないかといふ事になつた。土岐君は頭の軽い人である。明るい人である。土岐君の歌は諷刺皮肉かも知れないが、予の歌はさうちやない。
 
 一月十八日
 今日は幸徳らの特別裁判宣告の日であつた。午前に前夜の歌を精書して創作の若山君に送り、社に出た。
 今日程予の頭の昂奮してゐた日はなかつた。さうして今日程昂奮の後の疲労を感じた日はなかつた。二時半過ぎた頃でもあつたらうか。「二人だけ生きる生きる」「あとは皆死刑だ」「あゝ二十四人!」さういふ声が耳に入つた。「判決が下つてから万歳を叫んだ者があります」と松崎君が渋川氏へ報告してゐた。予はそのまゝ何も考へなかつた。たゞすぐ家へ帰つて寝たいと思つた。それでも定刻に帰つた。帰つて話をしたら母の眼に涙があつた。「日本はダメだ。」そんな事を漠然と考へ乍ら丸谷君を訪ねて十時頃まで話した。★(p189)
 夕刊の一新聞には幸徳が法廷で微笑した顔を「悪魔の顔」とかいてあつた。
 
 一月十九日
 朝に枕の上で国民新聞を読んでゐたら俄かに涙が出た。「畜生! 駄目だ!」さういふ言葉も我知らず口に出た。社会主義は到底駄目である。人類の幸福は独り強大なる国家の社会政策によつてのみ得られる、さうして日本は代々社会政策を行つてゐる国である。と御用記者は書いてゐた。
 桂、大浦、平田、小松原の四大臣が待罪書を奉呈したといふ通信があつた。内命によつて終日臨時閣議が開かれ、その伏奏の結果特別裁判々決について大権の発動があるだらうといふ通信もあつた。
 
 一月二十日
 昨夜大命によつて二十四名の死刑囚中十二名だけ無期懲役に減刑されたさうである。
 東京は朝から雪がふつてゐた。午後になつても、夜になつても止まなかつた。仕事のひまひまに絶えず降りしきる雪を窓から眺めて、妙に叙情詩でもうたひたいやうな気分がした。
 前夜書いた「樹木と果実」の広告文を土岐君へ送つた。それと共に、毎月二人の書くものは、何頁づゝといふ風に自由な契約にしよう、さうでないと書くといふことが権利でなくて義務なやうな気がすると言つてやつた。
 
 一月二十四日
 梅の鉢に花がさいた。紅い八重で、香ひがある。午前のうち、歌壇の歌を選んだ。
 社へ行つてすぐ、「今朝から死刑をやつてる」と聞いた。幸徳以下十一名のことである。あゝ、何といふ早いことだらう。さう皆が語り合つた。印刷所の者が市川君の紹介で会ひに来た。
 夜、幸徳事件の経過を書き記すために十二時まで働いた。これは後々への記念のためである。
 薬をのましたせゐか、母は今日は動悸がしなかつたさうである。
 
 一月二十五日
 昨日の死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた--その事が劇しく心を衝いた。
 昨日十二人共にやられたといふのはウソで、管野は今朝やられたのだ。
 社でお歌所を根本的に攻撃する事について渋川氏から話があつた。夜その事について与謝野氏を訪ねたが、旅行で不在、奥さんに逢つて九時迄話した。与謝野氏は年内に仏蘭西へ行くことを企てゝゐるといふ。かへりに平出君へよつて幸徳、菅野、大石等の獄中の手紙を借りた。平出君は民権圧迫について大に憤慨してゐた。明日裁判所へかへすといふ一件書類を一日延して、明晩行つて見る約束にして帰つた。(p191)
 
 一月二十六日
 社からかへるとすぐ、前夜の約を履んで平出君宅に行き、特別裁判一件書類をよんだ。七千枚十七冊、一冊の厚さ約二寸乃至三寸づゝ。十二時までかゝつて漸く初二冊とそれから管野すがの分だけ方々拾ひよみした。
 頭の中を底から掻き乱されたやうな気持で帰つた。
 
 二月一日
 午前に又木君が来て、これから腹を診察して貰ひに行かうといふ。大学の三浦内科へ行つて、正午から一時までの聞に青柳医学士から診て貰つた。一目見て「これは大変だ」と言ふ。病名は漫性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事だつた。
 さうして帰つたが、まだ何だかホントらしくないやうな気がした。然し医者の話をウソとも思へない。社には又木君に行つて貰つて今日から社を休むことにした。(p193)
 医者は少くとも三ケ月かゝると言つたが、予はそれ程とは信じなかつた。然しそれにしても自分の生活が急に変るといふことだけは確からしかつた。予はすぐに入院の決心をした。そして土岐、丸谷、並木三君へ葉書を出した。
 夜になつて丸谷、並木二君がおどろいて訪ねて来た。
 
 三月十三日
 熱は昨日も今日も七度台にゐる。今日から便所へあるいてゆくことにした。廊下から見ると青い芽を出した木がある。桜の蕾もふくらんでゐる。額にあたる風も何となくもう春だ。
 春だといふ感じは病人の心をいたませた。
 夏目氏の「猫」をよんでひまをつぶした。
 医者に早く退院したいといふと、もう少し我慢したまへと言つた。
 
 三月十五日
 午前並木君来る
 午後退院
 
 三月二十七日
 天気のいゝ、温かな日であつた。
 午前に丸谷君が発送台帳をこしらへて来てくれた。さうしてゐると土岐君が来た。雑誌の方、東洋印刷が駄目で他のケチな印刷所へ頼んだ所が、組方があまりひどいので喧嘩をして原稿を取上げた、さてその跡仕末がつかぬといつて大にしよげてゐた。そんなら十日発行にしようと予はいつた。さうして発病以来初めての散歩を二君と試みた。三丁目のイロハで牛飯をくつて帰つた。土岐君は豆をかつて来た。
 
 四月十七日
 朝から癇癪が起つてしやうがない。雑誌をやめてしまはふと思つて夜に丸谷君に来て貰つて話した。理由の第一は雑誌が今やその最初の目的をはなれて全く一個の小さい歌の雑誌にすぎぬことになつたといふ事--
 
 四月二十五日
 今日は割合に熱が低かつたけれども三十七度五分まで上つた。退院以来もう四十日になるのにまだ全快しないとはどうしたことだらう。さうして予の前にはもう饑餓の恐怖が迫りつゝある!
 起きてはト翁の論文を写し、寝ては金の事を考へた。もう今度の一日には社からの前借も出来さうにない。
 トルストイが科学を知らなかつた--否、嫌つたといふのは、蓋し彼をして偉大ならしめた第一の原因であらう、と共に、彼の思想の第一の弱点も亦そこにある
 
 五月十二日
 今日は胸に多少の異状を覚えて一日殆ど寝て暮らした。そのかはりクロポトキンの自伝を、拘引された処から脱獄して英吉利へ行つたところまで読んだ。妙にいろいろのことが考へられた。
 
 六月五日
 予は予の生活のとつて来たプロセスを考へて、深い穴に一足く落ちてゆくやうに感じた。しかしそれはもう不安ではなかつた。必致である。必然である。
 北輝次郎の「純正社会主義の哲学」を読んだ。
 
 七月一日
 創作に「はてしなき議論の後」(詩)新日本、層雲、文章世界に歌載る
 
 七月十一日
 夜 森田草平君来り、幸徳のことを語り十一時半に至る
 
 八月十一日
 夜、森田草平君来り、夏目夫人鏡子氏及び君の名にて見舞七円。
 
 九月三日
 妹は教会にゆき、妻も母も寝てゐた。十時頃土岐君が来て十二時少し前に帰つた。その時父はもうゐなかつた。待つてもく帰らなかつた。調べると単衣二枚袷二枚の外に帽子、煙草入、光子の金一円五十銭、家計の方の金五十銭だけ不足してゐた。その外にいくらか持つてゐたかも知れない。
 父は今迄にも何度もその素振のあつた家出をとうとう決行した。何処へといふあてのあらう筈はないが、多分小坂の田村へ行つたものかと家の者は想像した。
 眠られない夜であつた。体温三十七度八分。
 
 十一月十二日
 午後に丸谷君が来た。一しよに夕めしをくつて三時間の余も話した。彼は今では、社会主義は到底実行されないと信ずると言つた。二人は議論した。笑つた。さうして二人の何となくこの三四ケ月間よりも近づいた事を感じた。予は彼が国家社会主義者たるに止まつた事を、彼としては当然の事と思ふ。
 彼はまた言つた。「どうだ、それでは一つ君の所信を確かめるために根本的な研究をしては」と。予は答へた。「僕は資本なしに出来る事なら今でもやつてゐる。しかし本を買ふ資本がない。」
 
 十一月十七日
 綿入を着てゐては汗が出る程あたゝかな日であつたが、からだが何だかだるくて午後には七度八分まで発熱した。
 先月からかゝつて写してゐたクロポトキンの「ロシヤの恐怖」を写してしまつたので、製本した。
 何度も何度もそれを手にとつて眺めながら、予は悲しかつた。こんな事をして暇つぶしをせねばならぬ現在の状態を考へて。
 
 十二月三十一日
 残金一円十三銭五厘
 今日は面倒なかけとりは私が出て申訳をした。
 夕方が八度二分
 百八の鐘をきいて寝る。

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