啄木  日記  明治三十五年 (十七才)


  1886年(明治19)、啄木は岩手県に生まれた。
 1901年(明治34)12月、『岩手日報』に短歌を掲載した。
 1902年(明治35)1月、最初の評論である、「『草わかば』を評す」を『岩手日報』に発表し、三月には評論「寸舌語」を、五月には時評「五月乃文壇」を発表している。
 明治34年から文学活動に傾倒していた啄木は、進学する見込みがなくなった中学校を10月に退学し、翌11月、文学で身を立てるために上京した。34年にすでに新詩社の社友になっており、10月1日には、『明星』に短歌一首が掲載されている。
 啄木は、東京で新詩社の集会に参加し、はじめて与謝野鉄幹と会った。啄木はすでにその才能を認められていたが、東京で仕事を得る事ができず、病気になり、翌年二月、父親につれられて澁民村に帰った。
 啄木の日記は、この年の10月30日からはじまっている。
  (※年譜は、筑摩版啄木全集第八巻の、岩城之徳氏作成の年表による。)
 
 
 ■十一月七日
 
 オゝ繁華なる都府よ、人の多くはこの実相の活動に眩惑せられて成心なき一ケの形骸となり了る。吾はこの憐むべき幾多の友を見たり。
 悪臭ある風塵を捲いて市街の至る所に吹き廻る、その吹き行く所、吹きつくる所、白粉化せられたる東京てふ者骸骨を連ねて燦として峙つを見る。人は東京に行けば堕落すと云ふ。然り成心なき徒の飄忽としてこの大都塵頭に立つや、先づ目に入る者は美しき街路、電燈、看板、馬車、艶装せる婦人也、胸に標置する所なき者にしてよく此間に立つて毫末も心を動かさゞる者あらんや。あゝ東京は遊ぶにも都合のよき所勉むるにも都合のよき所なり。
 然れども吾人の見る所を以てすれば都府には一の重大なる精神あり。その嚮ふ所は本源の活動にありてよく諸地方の活動に根本の制裁を与ふ。彼が物質上に思想上に常に偉大なる勢力をたもちて全国に命令する体度に至つてよく吾人の渇仰に値することあるべし。都府に於ける人の成功と否とは実にかゝる者と自己の胸中の成心との交渉の如何に存す、かの年若き人の奮然に都に入りて自己の立身の道を立てんとするやよし、然れどもその多く志をえずして老いゆく年を死の床に近かしむる者は実にこの一貫せる都府根本の精神を看過してみだりに実相の活動に身を投じ塵烟の猛火にまかれ粉装の渦乱に悩殺せられて遂に自己の存在をすら忘却するに至れば也。あゝ吾友の多くはかくてその一生の路を破壊し了れり、我は街頭に立つて現に幾多のかゝる髑髏を見たり。
 
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 ▲田舎育ちの青年らしい希望と自信と現実認識である。都市と農村が分離され、人々は成功を求めて都会に出て行くが、多くの人々が都会の矛盾の中で没落し、下層の世界を形作る。啄木はその現実を無批判的に肯定し、新しく形成されている下層の世界を見下している。自分はそんな運命を辿らない、というのが啄木の自負である。社会的な没落を必然として認識することはない。社会的な没落を、必然としてではなく、個人の資質、心構えの問題として認識している。
 東京は遊ぶにも勉めるにもいいところである。だから、誘惑に負けずに勉強しなければならない。これは田舎から都会に出てくる若者が例外なく思いつくもっとも単純な現実認識である。啄木はそれを独自の高度の精神であるかの様に表現する文章的な技術を持っている。その技術が現実認識の単純さを覆い隠している。
 啄木の文章は大げさで形式的で、内容を含まない。啄木は結局はみだりに実相の活動に身を投じて自己の存在を忘却することはなかったが、この時点ではそれがどのようなことを意味するかを想像することすらできず、すでに確固たる自己を得ていると思っている。贅沢な生活にまどわされずにしっかり勉強しなければならない、といった程度の教訓を美文的に書いている現在から出発して、厳しい経験としっかりした勉強によってこの精神を否定していかねばならない。それは、田舎から都会に出て行く多くの若者の精神の辿る道である。
 
 
 ■十一月九日
 七時散会。吾は惟ふ。人が我心をはなれて互に詩腸をかたむけて歓語する時、集りの最も聖なる者也と。
 都は国中活動力の中心なる故万事活溌々地の趣あり。かの文芸の士の、一室に閑居して筆を弄し閑隠三昧に独り楽しめる時代はすでに去りて、如何なる者も社会の一員として大なる奮闘を経ざるべからずなれり。人の値は、大なる戦ひに雄々しく勝ちもしくは雄々しく敗くる時に定まる。
 我は今日の集会に人々の進取の気盛んなるに大によろこぶ、その社員遊説の挙の如き以て徴すべし。
 あゝ吾も亦この後少しく振るふ処あらんか。
 小集のかへり相馬御風兄と夏村兄と三人巷街に袖をつらねて散歩す。
 九時まで夏村兄と或は小日向台の月色に清吟し或はその詩室に閑話す。
 かへりて信書を認めんとし心つかれてならず早く寝に就く。
 
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 ▲この日啄木は新詩社の会合に出席し、与謝野鉄幹に会った。十七歳の青年啄木は、国の中心である東京にあって、その文芸の中心で活動し、これから世に打って出ようとする希望と自信に充たされている。啄木は、岩手でも東京でも、自分が接する限りの文学的世界では抜きんでた才能をもっており、高く評価されていた。社会的な経験も知識も未熟であったが、啄木は自分の社会認識や自己認識を反省し、自己を否定する必要を感じる機会を持つことができず、その必要を認めていなかった。啄木の置かれた情況では、まず可能な限りの自己肯定を尽くして、自分自身の力で自己を否定する以外にない。四迷や一葉や漱石を自分より高度の精神として認識対象にするにはまだまだ多くの経験をつまなければならない。
 
 ■十一月十日
 先づ晶子女子の清高なる気品に接し座にまつこと少許にして鉄幹氏莞爾として入り来る、八畳の一室秋清うして庭の紅白の菊輪大なるが今をさかりと咲き競ひつゝあり。
 談は昨日の小集より起りて漸く興に入り、感趣湧くが如し。かく対する時われは決して氏の世に容れられざる理なきを思へり。
 氏曰く、文芸の士はその文や詩をうりて食するはいさぎよき事に非ず、由来詩は理想界の事也直ちに現実界の材料たるべからずと。又云ふ、和歌も一詩形には相異なけれども今後の詩人はよろしく新体詩上の新開拓をなさざるべからずと。又云ふ、人は大なるたゝかひに逢ひて百方面の煩雑なる事条に通じ雄々しく勝ち雄々しく敗けて後初めて値ある詩人たるべし、と。又云ふ、君の歌は奔放にすぐと。又云ふ、日本の詩人は虚名をうらんとするが故にその名の一度上るや再び落ちんことを恐れて又作らず。我らが友に於て皆然り、と。又曰く、古来日本の詩に最も不完全なりしは比喩の一面にあり、泣董氏の如きは今までの詩界に最も多く比喩を用ゆる人也と。又云ふ、白星林外諸氏に交はれ。と。
 
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 ▲啄木の精神は、新詩社の気風とあっていたのであろう。啄木は自分のいる狭い世界と自分の精神をを高度の精神世界と思っている。ここにあるのは言葉の遊びである。「詩は理想界の事也直ちに現実界の材料たるべからず」は結論として捕らえられており、それが何を意味するかを考える予感すらない。「人は大なるたゝかひに逢ひて百方面の煩雑なる事条に通じ雄々しく勝ち雄々しく敗けて後初めて値ある詩人たるべし」というのは、文学的成功を前提にした勝利の宣言である。社会的に勝つことと負けることは具体的内容としてではなく、目の前に展開している社会的成功と没落を現象的に捕らえているだけであり、啄木は成功できるものと思っており、それが芸術の勝利であるとも思っている。
 啄木は芸術と社会についてなんらの思想も持っていない。ただ、文学者として成功する希望と自信に満ちており、そのことが精神の内容である。啄木の精神は、成功する自信を持つ文学者として、驕るべきでないこと、雄々しく闘うこと、負けても潔くあろう、といった平凡な教訓で自己を充たしている。時代としてこうした気運に満ちており、ちょうど啄木の気質がそれに一致したのであろう。日清戦争後の発展を反映した上昇的な気運である。それが日露戦争後まで持ち越され、その後崩壊する。
 
 ■十一月卅日
 都府とや、あゝこれ何の意ぞ。吾関を出でゝ相交はる髑髏百四十万。惨たる哉、吾友は今、吾胸に満足せしむべくあまりに賢きを如何せん、咄、天地の間、吾道何ぞ茫漠たるや。
 あらず、自を信ずる者、大なる思想を仰ぐ者、高き光を目ざす者、何すれぞ、強いて狭き籠の中を慕はんや。恋人は云ふ、理想の国は詩の国にして理想の民は詩人なり、狭き亜細亜の道を越えて立たん曠世の詩才、君ならずして誰が手にかあらんや。妾も君成功の凱旋の日は、成功に驕る手か失敗にわなゝく指かして祝ひの歌奏でん。と、あゝさらばこれ何らの高き幸ぞ、吾恋ふ君よ、永世の恋の囁き、君ならずして何の人かよく吾胸に吹き込みえんや。後の日の聖なる園の曙を、東雲の恋の光眩き程に世の人驚かさんため、あゝかくて今暫らくの旅心運命の波に漂はさんか。
 今訳しつゝある「死せる人」(イプセン)は早く脱稿して出版せしめん。「活動」の意義は決して忽せなる者ならず。吾は吾信ずる所に行かんのみ。世の平凡者流の足跡を辿るが如きは、高俊の心ある者の堪えうる所に非ざるなり。
 
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 ▲茫漠といい、惨というが、それは啄木の知らない世界であり、真面目に考えているわけではない。惨たる、大なる、高き、狭き、等の量的な修辞が目立つ文章である。啄木はまだ具体的な精神を捕らえていない。しかし、文学的成功を夢見て、成功のために必要な才能の自覚と、あらゆる困難に堪える覚悟を持っている。この抽象的な意志の力によって現実と接触することで、啄木はこの抽象的精神を破る具体的内容を獲得していく。この抽象的精神の空虚さと、自信の堅固さを破壊していくのは、非常に困難な仕事であったが、啄木はそれに堪えるだけの精神の力を持っていた。

 啄木は自分の才能に自信があり、才能を認められていたが、その才能で生活することはできなかった。イプセンの翻訳を試みたものの、結局うまく行かず、困窮のうちに年末を迎えた。しかし、啄木は生活の困窮を意に介していない。啄木の精神は芸術のために生きる情熱と力に満ちており、それは死ぬまで失われることも弱ることもなかった。

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