啄木 ・ 書簡  明治三十七年 (19才)


 ■ 二月十日澁民村より 野村長一宛
 東西思潮の接触浩洋として四海に迫るの今日、文星日に凋落して文芸の一大転機漸く動き来る事と存じ候へば、野居低唱の身乍らに、猶且つ、多少自らを恃みて覚悟せざる能はず候。客ロウの「明星」に初め処女詩作を掲げてより、有力なる若干の味方をも得候事とて、近来はひたすらに類を見ざる勇気を覚へて、全く希望の子と成れるかに感ぜられ、寒庵燈下に一人故もなき微笑に魅入られ居候。年稚き此小友が心掛け、殊勝なりなど御賞めに預り度候。呵々。
 芸術は芸術のための芸術にて、功名などは副産物のまた副産物なりとは、常々鉄幹氏等と申し交し居事に候へば、詩勢未だ全くも定まらざる今日早やくも大家を気取るの人多きに堪へざる場合、願くは退いて就々述作に励み、潜かに超世の理想に憧るゝを楽しみと致し度き所存に御座候、僣越なる言葉を敢てせば、詩は理想の花、神の影、而してまた我生命に候也。十二月以来の明星各号、並びに本月の「帝国文学」に出づべき悪詩の諸作御覧被下候はゞ何卒御評仰ぎたきものに候。自作に対する親友の忠言程、うれしきものは無之候。明月よりは「時代思潮」へも毎号寄稿の約有之候。
 
 
 「号外とび、車かける」てふ都の空、あらず今はこれ闔国の風情皆然り。戦の一語は我らに取りて実に天籟の如く鳴りひゞき候。急電直下して民心怒濤の如し。非役の軍卒は既に老いたる父母可愛き妻子に別れて、蹶起召集に応じて行きぬ。そこの辻、こゝの軒端には、農人眉をあげて胸を張り、氷を踏みならし、相賀してhey!h。!の野語勇ましくも語る。酔漢樽をひつさげてザールの首級に擬し、村児群呼して「万歳」の土音雷の如し。愛す可き哉、嘉すべき哉。日東詩美の国、かくの如くして未だ滔天の覇気死せざる也。小生は、あらゆる不平を葬り去りて、この無邪気なる愛国の民と共に軍歌を唱へんと存じ候。明日は紀元の佳節、小生は郷校に村人を集めて、一席の悲壮なる講話を仕るべく候。飛報あり、露艦二隻仁川に封鎖せらると。肉躍り骨鳴る。佩剣戞として空に声あるの武人、寸筆馳せて弾の如きの文客、立たざるべからず、叫ばざる可からず候。小生は近く「愛国の詩」を賦して、唱へんとして歌なき民衆にそなへんと存じ候。我は何故にかく激したるか。知らず。たゞ血は沸るなり、眼は燃ゆる也。快哉。
 
 ▲ 啄木は芸術の内容についての苦悩をまだ経験していない。文章はいくらでも流れだしてくる。そして、その文章について批判的に考察する力をまだ得ていない。功名を求めないという心構えを問題にしており、「超世の理想に憧るゝを楽しみ」とするという程度に芸術を知るのみである。日露戦争に対する美文的な興奮がその認識レベルに応じた文章である。
 
 
 ■ 二月二十三日渋民村より 野村長一宛
 
 京の皆々様御健勝の御うはさ、羨ましき事に候。小生の上京月の中旬のうちには、と心がけ居候ひしを、今だに安閑として野郎自大の我、慚汗々々。たゞ多少企画する所あり。ために荏苒として寒居に忙殺せらるゝ次第、御推察被下度候。都合よく運び候はゞ、月の末までには、小生前途に取りての、望みある一開展を御報申すの光栄をうべきかと存じ居候。『時代思潮』嘲風博士より送られて拝見、御手紙にも見えたる、驚くべき空想画、今はこの小庵の壁間にかゝげあり候。二号へは悪詩出る筈に候。 
 
 
 ■ 三月十日渋民村より 小沢恒一宛
  一ケ年間の沈黙! 等しく沈黙でも兄の方は平和で生の方は寂蓼であつた。これからが我らの時代である。鵬翼何日までか村閲に埋もれやうやだ。
 ・・・・・
 生は二三月に上京のつもりで居たのだが、多少思ふ所あつて未だ決せずに居る。或は今春の上野の桜は兄と共に観る様になるかも知れぬ。又、暫らく岩手の野に嘯いて、予て計画の著述に会心の筆を進める様……とも思ふて居る。何れにしても生は生自身の気の向き次第に足跡を印し行くのであるから、至る所として光明の国であるのだ。詩人は旅行く人ではない、漂浪の人だと誰かも云ふたが、誠に面白い。生の信仰希望ハ芸術の尊厳を以て人類を精神的に救済しやうと云ふのだから、必ずしも常人の軌跡を追ふ必要はない。自分には、学校の教育よりも、自然その者の教訓の方が、有り難い尊い訳である。
 御申越の"樗牛会"の事、あれは入会後別に会費などはない。趣意と規約書一葉送り上げますから、それで御承知を乞ふ。樗牛は我らが思想上の恩師であるし、且つ日本史上に、尤も高価な血と涙を以て記るされた偉人の一人であるから、生は出来る丈け、かの会のためにも尽力したいと考へて居ます。これは兄も同感でしよう。
 
 
 ■ 六月二日渋民村より 伊東圭一郎宛
 
 生の上京はいつでもよいのだが、秋までに処女作の詩集を公にしたいと思ふので、その稿が全く成るまでは、も少しこゝに居るかも知れぬ。尤も今度出京しても直ぐかへる。なぜなれば著述するには静かな方がどうしてもよいからだ。随分破格な事を企てゝ居る。何れ詳しい事は逢ふた時としよう。今は時間がない。
 こゝは、杜鵑と蛙と閑古鳥が友達の様に毎日親しむ事が出来る。若し痔の方あまり悪くなかつたら、思ひなほして来てはどうか。尤も生も遠からず出盛したい気だが、七月の雑誌壇で少しとびぬけた飛躍をして見たいと思ふので、今は多少いそがはしいのだ。兄が来てくれると、それ程のよろこびはない。
 
 ■ 六月八日渋民村より 前川儀作宛
 
 「五月姫」御掲載被下難有存じ候。生が故山に蟄居致し候ふてより既に十五閲月、物寂びたる片田舎にさしたる快心の事のあらう筈も無之、新刊物などにも一向に縁遠くのみ過し候事とて、詩壇近来の風雲などにも隔霞対春の怨みなき能はず候。泡鳴兄の先頃の御消息(白百合に出たる)の如きは生にとりて誠に嬉しきものに候ひき。思ふに堪へがたき所、考へて得たる所を心おきなく語らはむ友も無き孤境沈吟の身、御察し被下度候。惟ふに今の日本は、詩壇と限らずあらゆる方面に於て、数年来暗々のうちに迫り来れる思想の伏流の、漸々熾熱の気を負ふて清新なる声を響かし初めたる時代には候はざるべきか。元より憶側に過ぎず候へど、我詩壇の如きも、詩想に於て、格調に於て、何となく東方の曙光の段々盲索の時代を照らさんとするかの様の感禁じ難く候。この上は我と我が力をたよりに飽く迄勇奮致すの外無之事と存じ候。兄の詩、益々出でゝ益々熱烈、奔天の情、想、たとへば実に夏花乙女の紅焔の胸にも似たりや。みちのくの北辺に低唱血を啼く生には、極熱緑土の軟風に酔はされる様に候。小生の悪詩数篇、諸誌上にて公に致し候ふもの、御清唱に上り候ふ由、恥かしくも喜ばしく候。何卒御詳評をたまはり度く、それのみ待たれ候。生の詩作、近頃、何らかの転機に迫り居る様感じ居り候。
 
 
 ■ 七月二十三日の岩手日報に紹介された清岡等宛のもの
 
 聯か時遅れの話に候へども、かの社会万般の上に向上の精気を勃興せしむべき戦争の勢力を見ずして、却つて民衆を退嬰的一方に導かむとしたる姑息なる当局者の暗愚は、小生などは実に彼是申すも笑止千万の事と存じ居り候次第。若し国民をあげて彼等の萎縮病に感染するあらば日東大国民の理想一も現はれざるに早く既に精神の死滅を招くの外なかるべくと存じ候。然しこれらの事は、貴下の日報紙を初め世の識者の夙に説破し了りたる事に候へば、今更申すも甲斐なき儀に御座候。たゞかくの如き場合に於ける電灯会社の出現は、正しく、東北新興の事業的活動心の有力なる代表と見るを得べきを喜び申候。
 
 ▲啄木は日露戦争を、「社会万般の上に向上の精気を勃興せしむべき戦争」と見ており、精神の昂揚を経験している。それは社会的精神の展開であった。そして、戦争の結果が日本の国民全体に厳しい現実として迫ってくる。その過程を体現しているのが啄木の精神である。
 
 
 ■ 七四 八月三日渋民村より 伊東圭一郎宛
 
 昨夜こゝまで書いて急に詩興の湧くを覚え、筆を噛んで三時間許り沈吟したが、遂に一句をも生む事が出来なかつた。生は既に四十日許りも斯の様な苦痛を経験して来て居るから、別段に驚きはせぬ、否寧ろ、近来自分の詩が或る一大転機に迫つて居る事を自覚して居るので、却つて斯くの如き煩悶を尊とんで居る。然し今朝になつて起き出て見れば、頭痛もする、不快である。あゝ兄よ、自分の詩のうちに百万の味方を発見し、不朽の光を信ずる者でない限り、此の如き苦痛を嘗めて居乍ら、読者も少なく、安全な生活をする事も出来ぬ詩人の事業に堪へうる事が叶ふものか。吾輩、常に惑ふ、斯の如き深い健闘の苦楚が、かの不夜の巷に酒香を友とし解語の花を弄ぶ富者の安逸に優さつて居ると知る人は今の世に幾人あらうか。あゝ否、我望む所は富ではなかつた、世上の名誉でも幸福でもなかつた、我はたゞ、この世を超え、この躯を脱して、「永遠」を友とし生命とするが為めに、此土に送られ、又去るべきである。何の踟??する所があらう。何の顧慮する所があらう。かくの如くして我は世の苦痛をも楽しみと見、苦痛のうちに却つて真の光明の囁やきを聞く事が出来るのである。神が故なくしてこの自分を作つた筈はない。乃ち或る使命は必ず自分の呱々の声と共にこの世に齎らされたに相違ない。その使命こそ我生涯の精力健闘によつて、永遠の建設を成就すべき者ではあるまいか。斯く考へて来れば、自分乍ら自分の声に悦惚として酔ふ様な気がする。
 ・・・・・・
 それから前に云つた「真人」乃ち宗教的人格はキリストや仏陀や乃至凡ての古来偉大なる「人」のうちに見る事が出来、自己発展と自他包融、換言すれば意志と愛との、完全に表示された者の謂である。
 兄よ、生の生涯の基礎たる信仰は、大抵叙上の様な者である。詳しく云へば限りがないけれど、要するに「我」の生存の意義は天与の事業のために健闘努力して「真人」の人格に到達しやうと云ふにあると信ずるのである。斯の如き真人は、乃ち人に現はれたる神で、その光輝は燦として「永遠」の上に灼やくのである。神は先づ人と人との間の「愛」によって、永遠に入るの門を開き、無上理想界の神秘の消息を人間に洩らした。而して更らに、神の大意志の永遠なるが如く我らの意志も亦永存せねばならぬと云ふ人間の本然なる要求によつて、我ら人間を遂に「永遠の園」のうちに入れ玉ふのである。歴史が我らに教ふる斯の如き祝福の人は、生涯不断の健闘者でなかつた者はない。あゝ思へば、神智の宏大無辺なる、神の愛の渾円微妙なる、到底人間の智の量り知る所ではない。生は斯く感じ、期く信じて詩のために努力して居る、又将来、詩とは限らず凡て我が赴く所にこの信念によつて行動しやうと思ふて居る。それ故に我に於ては詩は乃ち宗教である。信仰は乃ち我生命である。我詩の一篇一句と難ども、決してかの歴史的信仰個条と教会の形式とのために生きて居る偽宗教家が百万言の説教に劣る者ではない。若し生が他日議会に立つて、国家の利害を論議する事があつたら、その財政上の事を云ふに当つても、我言は必ずや彼等偽善者の説教より、より多く神の旨に叶つてるであらうと思ふ。
 ・・・・・・・
 野弟の詩についての兄の御言葉、誠にうれしく思つて居る。現代の我々の詩が、実際少数の読者しか持たぬのは事実だ。巳に思想に於て一世紀も進歩してると論じてる人もある。それから大ていの人が国民詩人を要求してるのも大事実だ。兄の通りの要求をした人に坪内逍遙氏もある。吾らは自己の詩に動かすべからざる信念を持して居ると共に、又好んで江湖の意見をも聞く者である。但し一応ことわつておかねばならぬのは、我らは無暗に自分の詩を高尚らしく見せるためなどに、比較的むつかしい言葉や新造語を用ゆるのではない事だ。つまり日本文学の新生命は我らの双肩にあるので、有体に考へてる事を申上ぐれば、東西の思潮を融合した世界的文学は、今後吾らによつて建設されるのだ。
 所が日本語は悲しい事に未だ充分詩語として発達して居らぬ、それで吾国語に充分な豊富、充分な基礎を作らんがために、我らの今の事業は、一面では槌かに研究時代である。研究時代であるから、大胆な用語、大胆な句法、大胆な格調も勢ひ出てくる。世人が我らの詩をわからぬと云ふのは多分以上の点から胚胎してる様だ。
 然しこの意見は我らの美術的技巧上の問題で、我らは決して、文字の奴隷となつて詩を作るのではない。詩は云ふまでもなく我らの生命の声である、理想の面影である。が、それを詩の形に作成するには技巧も要する訳なのだ。叙上の意見はかくの如くして生れる。
 兄の御説の如く、平易な詩必ずしも悪詩でない。(又同様にむつかしい言葉を用ゐても悪い筈がない。要するに詩の高下は文字の難易以上である。)
 生の詩は今漸く一段落を告げて、新らしい時期に入らんとしつゝある。明星の七月号に出た生の「アカシヤの蔭」を兄は見られたか。あれは随分苦心惨澹の余に出た作だが、思ひ切つて平易な語を用ゐた所もある。一体自分から考へれば、自分の詩だとて別に特別な文法や言語で書いたのでないから、読む人にわからぬと云ふのは不思議な位だ。且つまた、多くの読者をえ、早く大名を挙げたいために詩を作る様な事は、到底自分らの芸術的良心が許さぬ。
 露伴の「心のあと」御覧になつたさうだが、あれは大に注目すべき明治詩界の大作たると共に、又、格調、用語の選択に於て少なからざる失敗を含んで居るのも事実だ。それはとも角、日本には哲理詩や、宗教詩が今迄殆んどなかつたのに、あの作の出たのは、実に愉快でならぬ。生は露伴の詩に於て、有力なる同盟者を得た様な気がする。
 一体美は宇宙乃ち神の影で、また、それの神秘を關くべき鍵である。で、広き意味に於て何らかの信仰なくして真の詩人たる事は出来ぬ。(これは詩許りでなく凡ての事業もさうだが)但しその信念には程度がある。「自然」に満足する人と、「自然を司る力」を求むる人との差別は蝕に於て生ずる。生が鉄幹よりも泣董有明を好み、テニソンよりもバイロン、シェレーを好み、紅葉よりも露伴を好み、貫之よりも西行を好み、ロングフエローよりもホイットマンを好み、マイエルビールよりワグネルを尊としとするのは全くこれがためだ。ターレントよりゼニアスは高価だ、地平線下と地平線上とは天と地だ。
 
 ▲これは啄木の偽らざる心情である。しかし、啄木の「我望む所は富ではなかつた、世上の名誉でも幸福でもなかつた」という心情は、批評の世界では理解されなかった。理解されなかっただけでなく、否定する努力が長く積み重ねられてきた。しかし、こういう心情は世界史のどの歴史にも現実に生み出されてきたのであり、今後も生み出されるだろうから、結局は理解されるだろう。
 啄木の精神はまだ抽象的である。理想を掲げ、歴史や社会を問題にしているものの、具体的な関心はまだ人格であり、個の原理を基本としている。歴史や社会はまだ具体的関心の対象ではない。啄木の精神は漱石の「野分」の精神によく似ている。
 
 
 ■ 九月十四日渋民村より 前田儀作宛
 
 小生に於ては、凡て上京の上にと、それのみを望みに目をつぶつてこらへ居候へど、その上京、あゝそれが未だ何日とも云ひかぬる次第に候、目下旅費の金策中、上京後は何とも成るべく候へど、難関眼前にあり、詩作に徹宵する位が何でもなく候へど、まるい物に縁のなきにはトント閉口の次第に候、御笑ひ被下間敷候、呵々、和田英作氏の表紙画、待たれ候、
 短篇四首「自雲洞」差上候、余は後便、今来客中 頓首
 
 ■ 九月二十八日尻内より 前田儀作宛
 
 上京に先立ちてしばらく蝦夷が嶋辺の北海の月に泣かんとし、生は今日午後草庵を出でゝ鉄車一駆、今宵はこゝ尻内の旅やかたに北遊第一夜の夢を結ばむとす。明日は津軽海峡をこえて後志が国に入らむ。あはれ秋風揺落の路、仲秋十九夜の月に人恋ふ心を照らさせては、今の世の旅を楽しき者と云ふは心なきともがらのたは言ぞかし。北海にある純文社々友の姓名住所御しらせ被下度し。
 
 ■ 十月一日函館より 前田儀作宛
  (北遊第三信)十月一日午前十時半
 あゝ海! 海! 北海の濤ー
 昨ハ陸奥丸にて津軽海峡を渡り、今日は又ヘレーン号に投じて、海路二十時間、小樽に向はむとす。海ハ詩なり、秋は詩なり、旅は詩なり、旅する我も亦遂に詩也。

 ■ 十月十一日小樽より 小沢恒一宛
 
 第三日ハ陸奥丸に投じて海波平穏、津軽海峡を渡り、函館の埠頭に上りて初めて北海の人となり、谷地勘九郎君の寓居に一泊して大に今昔を語り、翌十月一日、午後三時、独逸船ヘレーン号に便乗して徐ろに巴湾頭を出で、海上二十時間、船首幾度か北転して、浩洋たる秋光北溟の上に第四夜を明かし、翌二日の午前十一時、無事この小樽湾に入り、足、波止場に上るや否や、駈せて幾年相逢はざりし姉が家に辿り着き申候。もとより暢気なる生の事とて、何の通知もなく訪ね来たりたる訳に候ひしが、驚く顔を見んと室に上れば、こは如何に、姉は病床に呻吟して、みとりの人々枕辺に居並び、物静かなる秋の日の病室、いや更らに粛やかなるに、小生却つて一驚を喫し申し候。遙々さすらひ来つて図らずも姉の病床に侍す、誠にヒヨンな事に候。家郷を出でゝ今日は既に正に二週日、この地に参りてよりも早や一旬の日と相経ち申候。
 
 ■ 十月二十三日渋民村より 金田一京助宛
 
 兄よ! その後の御無音何とも御申訳なし。生は去月末旬より三週間許り北海の秋色に旅して二三日前漸く帰村したり、渡島・後志・胆振の山また海、我をして送迎に遑なからしめたる蝦夷が島根の詩趣は我これを携へて、都門兄に逢ふの日の土産とせん。
 生は来る二十八日、蟄居二十ケ月の故山を出でゝ、兄のあとを南の都に追はむとす。途中二三泊、なつかしき兄の御清居を訪ふの光栄は十一月の初に於て間違ひなく我が頭上に来らむ。
 
 ■ 十一月〔日不詳〕神田より 秋浜市郎宛
 
 その後トント御無沙汰致し、誠に御申訳無之候。足一度都門の土塵を踏んでより、新生活の勿々に追はれて、実は一寸の暇もなき次第、よろしく御諒察被下度、今日はヨネ・ノグチと会見して半日を費やし申候。在京の詩人大抵に逢ひ候。嘲風老とも数回快談致候。我駿河台の新居座して甍の谷のかなた遙かに富士山と語るべし、味甚妙也。何れ半日の暇をえて、縷々申上べく候。
 
 ■ 十二月十一日牛込より 上野さめ子宛〔絵葉書〕
 
 その後は如何御すごし被遊候や。こゝに移りてより差上げし我文御落手被下候ひしや、昨日は広一兄と半日半夜いとたのしくこの牛門の静居に語り申候、私、今月に入りてより殆んど連夜暁を待つて寝につく程の急はしさ、御察し被下度候、この頃は方々に反響ありて詩運益々愉快に有之候、
 
 ■ 十二月十四日牛込より 姉崎正治 宛
 
 師よ、我はこの頃たれこめて頭痛と戦うては、苦吟の筆を噛みつゝ過しぬ。頭の痛みも身の痩せも血を吐く思ひも、胸に金鳴銀響、天籟の声すと思へば、何か厭はじ、厭はれじ。万人の心を刺し貫くべき一首の警束だにえさせなば、喜んでこのいのちをも捧げなんず。不愧心之天。この一念には病も貧も刃も百万の人も何かは勝ちうべき。
 師よ、師は去る九日の読売新聞にて、「白百合」を評したるうちにいたくも我が詩を非難したる時評子の一文を見玉ひしや。そは我が詩を非難したるものに非ずして今の詩を非難したるものなりき。友の多くは乃ち端書を寄せて我に、失望する勿れ、これはたゞ一新聞記者の愚言のみと云ひぬ。而して師よ、友よ喜べと云へるはたゞ一人我が水魚の交ある友のみなりき。我を知る者この広き世にたゞ一人かと思ひて我は涙ありき。さて思へらく、この批評はもとより我らの詩を知る者の言に非ず、然れどもこれ時代の詩に対する一部の要求を確かに伝へたるものなり、と。かくて我はこの評者と語るの頗る趣味ある事なるべきを思うて、過日所用の序でに日就社を訪ひ、評者正宗白鳥と会見しぬ。師よ、我は疑もなく失望したり。彼繰り返し繰り返し曰く、我は詩を評するの心なし、今の時、詩人を訓ふべきは克く詩に通ずるの人のみなるべき也、我の如きたゞ新聞記者たる責任に迫られて止むなく筆を取れるのみ、と。我は心に泣きぬ。あゝ今の世の批評家、多謝す皇天、卿等糧を得んがために筆を文芸の事に用ふとならば、我何をか云ふ所あらむ。
 彼又曰く、余君を知らざりしが故にたゞ白百合派の一老将とのみ思ひて君の詩を引ける也、と。昔者神の子の頭にユダヤ人の捧げたるは茨の冠なりき。今の賢明なる批評家に捧ぐべきもの、それたゞ「憫む」の一語乎。あゝ師よ、稚なき我に暫しは不僣なる激語を許せ。
 師よ、刃向ふものに逢ふ毎に我は層一層の勇気を感ず。嘗て知名なる一詩人と語れる時、彼口を極めて今の世を罵り、彼等民衆は遂に一句の詩をも容るゝの余裕なしと云へるに、我は乃ち答へて、世の低ければ低き程詩人の使命はいや更に重からずや、我は寧ろ今の世に生れたる幸福を天に謝す、と云ひぬ。師よ、かく思はずしては何処に我らの浮む瀬のあるべき。我に味方あり、強き味方あり、百万の味方あり、乃ちたゞこれこの愧ぢざるの心。
 師よ。愛こそはあらゆる悲しみ苦しみの底なる喜びの真珠なれ。苦境のうちに満足を見出すこと、これ蓋し今の我にありては必至の要求也。一週間以前、自らの筆によりて得たる所二十金、貧に痩せます父母へと送り侍りけるに、今日なつかしき妹の愛と喜びに溢るゝたより着きぬ。我は泣けり。かくしも人を喜ばせうべくば、我は喰はずもよし、飲まずもよし。探るに異様の響ある懐中の銅片数??、あゝ如何にしてこの年を過すべきと惑ひける我も、師よ、今が今よりは、淋しくもあらず悲しくもあらず。富者の万燈よりも貧女の一燈こそは仏の旨にも叶ふとかや。千金を??ちえたるの喜びも、ありつ丈の財を傾けて購ひ来る貧乏徳利三合の村酒に心隔てぬ友と酔ふ心地にはかへ難かるべし。富よ去れ、文明よ去れ、銭あまつて書沢山読む人も羨まじ。たゞ我は愛と共にありと思へば、苦も苦ならず、涙も女々しくは出でず。光ある力は却つて此の無一物の境より??々として湧き出つるぞかし。灰かなる雪の声に耳を傾くれば、手を煩はし心を煩はす「物」の一つもなき身は、あはれこれ赤裸々の仏の子神の子。心の天は机辺の燈よりも明るき心地して、世に立ちて戦ふにも何の不安もなく虚飾もなく踟??もなし。人生の味は恐らく電燈花の如きレストウラントにも大学の講堂にもあらじ。病める時、貧しき時こそは我と我が心に語る機会多きものと思へば、嘗て湘南の浜辺にさすらひ玉ひし故樗牛師に、三千里外より寄せられけむ師の御文読みたくなりぬ。貧しき書架を探れど、無し、無し。読まねど読みぬる心地し侍る。
 身も心もよろづ貧しきこそげにこよなき幸に候へ、人はよく、理想と現実の乖離破綻の間にありて我等如何にすべきと喞ち候へど、欣求不撓の心こそはまことに、求むるものよりも尊きもの。かゝる心が生ける理想なりと知らば、乖離破綻のあればある程、力も勇みもいや更に強くなり候。
 夜は音もなく更け渡り候。我はこれより寒夜の薄き??に、あたゝかき故郷の夢を結はむず。
 
 ▲ これは、啄木の芸術的情熱と批評の最初の衝突であろう。啄木の文章の全体は、どこにでもあるごく平凡な若者の情熱である。文学世界にも現実世界にも一大変革をもたらそうと自負している啄木は、自分の詩に対する批判を「時代の詩に対する一部の要求を確かに伝へたるもの」と考えて白鳥にあった。しかし、白鳥には文学的な情熱などなかった。そこには批評の言う「生活者の論理」があった。生活者の論理とは「糧を得んがために筆を文芸の事に用ふ」ことである。啄木は文芸のために自分の運命を、あるいは生活を消費し尽くしたが、それは生活者の論理からいえば生活と精神の破綻者である。
 啄木が「賢明なる批評家」に激しているのは、啄木が、自分の情熱の視野になかった精神に初めて遭遇したからであろう。啄木はあまりに純真であった。その後の批評が生活者の論理を掲げて、啄木が人生のすべてをかけて創り上げようとした文芸にではなく、生活そのものについて興味本位に詮索されることになるなど、想像することすらできなかった。といっても、それは学者・研究者の世界の精神の独自の法則であって、啄木と直接関係するものではないから、啄木が知ったとしても、数多くの白鳥がいる日本の現実を知るだけのことである。それが啄木の精神や各僕を理解する精神に影響するわけではない。
 
 
 ■ 十二月二十二日牛込より 金田一京助宛
 
 あたたかき故郷にかへらせ玉ひたる兄こそ羨ましき限りに候へ。お暇の時は彼の日半日の事思出し被下度候。御好意は万謝々々。
 生は予算が違つて誠に哀れなる越年をせねばならぬ事と相成り候。詩人や学者、何処も同じ秋の夕ぐれにてトソト算段がつかず。苦境も斯うなつては気楽な者、笑ふより外無之候。然しこの気楽こそ思へぼく浅ましき事に候。
 同じ新年を迎ふるにも、温かい空気の中と冷たい空気の中、兄と生との心は異ならざるをえざる事に候。
 故山の雪いかにいかに。



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