啄木 ・ 書簡  明治三十八年 (20才)


 ■  一月七日牛込より 金田一京助宛)
 一昨五日は新詩社の新年会、めづらしくも上田敏・馬場孤蝶・蒲原有明・石井柏亭などの面々も出席、女子大学よりは「恋衣」の山川登美子・増田まさ子のお二方見え候ひき。早天より終日気焔の共進会と云つた様な痛快のあつまりにて、又文壇への謀反も二つ三つ共議に上り申候。合計にて二十七八名も有之候。(p84)
 

 ■ 四月十一日牛込より 金田一京助宛
 
 その後の御無沙汰は何とも御詫の致し様も無之候ふ次第、何れ不日御拝眉の上にてトクと御話も可致候へど、故郷の事情と、詩集の編輯や校正や、おまけに病気や、友人の困難やにて殆んど目もまはると云ふ騒き。故郷の事にては、この呑気の小生も懊悩に懊悩を重ね煩悶に煩悶を重ね、一時は皆ナンデモ捨てゝ田舎の先生にでも成らうとも考へた位。結局矢ッ張本月中には一家上京の事に不止得相纏り申候。孝か不幸かはさて置き、先づ以て乍他事御安心被下度候。詩集の方は題は「あこがれ」と致し、上田敏氏の序詩一篇有之候。数日前印刷の方も全部出来上りと相成り候へども、和田英作氏の表紙画未だ出来ざる為め猶こゝ四五日の後にあらざれば製本済とならざるべく候。私事の労苦に疲れて夜な夜なは人なき孤島の生活など羨むの涙に枕をぬらす小生には、この初児の誕生を待つこと、心苦しくもあり、いとはしくも有り、この一巻によりて益々この世の中との縁が堅くなる事と思へば、寧ろ火中してしまひたき事も有之候へど、自分で自分の卑怯を叱つて瞑目一番気を持ち直し居候。かく申せば多くの友は皆一笑に附し申候。その笑程小生にとりて無情に見えるもの無之候。然し大都の花の盛り時にこれを心ある友びとに捧げうる事と思へば、又うれしき様の心地も致し候。
 
 ▲故郷の事とは、一家が宝徳寺を免職になったこと。
 
 
 ■ 一四二  九月十三日盛岡より 川上賢三宛
 
 二号よりは印刷所を他に移し、一日発刊の期におくれることなき様いたすつもりに候、編輯上その他御心附きも有之候はゞ何卒御叱責被下度候、
 何卒第二号へも御高作御恵み被下度願上候、編輯は勿論、広告係、売捌方まで小生殆んど一人の姿に候へば、何卒御援助願上候、
 男一疋、身長五尺三寸あり、雑誌の一つや二つに閉口も致さず候へども、先月も下旬より二週間許り下痢と痔と胃痛と頭痛にて就褥、この二三日また、昨日も今日も枕の上より、西向の紙障左右にひかせて秋の雲見るに日を暮らす次第、平生の弱身この??劇に処して切に恨多きを覚え候、
 
 
 ■ 九月二十三日 盛岡より 金田一京助宛
 
 小天地の事、幸にして誰も悪く云ふ人は無い様に候へど、たゞ新詩社中の一小部分の人々は、岩野君、清水君、細越君等の作を載せたる事に就いて、多少考ふる所あるらしく、小生をして旗幟を鮮明にせよといふ様な意味の手紙を寄せたる人も有之候、しかれども、詩は人類の産物にして必しも新詩社の専売特許にあらざる以上、これらの批難はよろしく大人物の一笑に附し去るべき事かと存じ候、小生は第二号巻頭に二十頁許り、「鎖門一日」と題する長評論を掲げて聊か自家の主張を天下に公に致したく存じ居候、二号には泣董有明月郊泡鳴諸氏の作も載せる筈に候、
 先日の国民大会の騒ぎ如何に候ひしや、小生も若し在京中ならば、勇敢なる放火隊の先頭に白鉢巻してかけ声勇ましく交番の一つや二つは一人でも焼いてみせたものをと、これは都門の人々うらやましく候、いつれ一生中には一度かゝる千載の快事に逢ひたきものと念じ居候、
 二号以下はさまざまの都合にて毎月十日発行の事といたし候、従つて〆切は二十八日に候間若し御暇有らせられ候ハゞ何なりとお恵み被下度願上候。
 小生目下は毎日毎日胸中に新計画を成就しては壊し壊しいたし居候、来年の四月は徴兵検査の事とてそれまでに一つ思ひ切つた事せねばならぬ訳、男と生れた罰に様々の事のみ有之候、小生が小天地出した事について世人は小生今後いかなる事をするやに就いて臆測し居る様に候が、とにかく小生の行く所、必ず小天地てふ雑誌は同伴すべく、よしや休刊する事有之候ふとも小生のいのちのある限りは小天地の寿命はつきざる筈に候、凡そ雑誌の経営位は男子一人の事業としては一小些事にすきず候へどもとにかく何年かの後には小天地社の特有船が間断なく桑港と横浜の間を航海し、部数三十万位づゝ発行する様にやるべく候、斯うなくては雑誌なんてつまらぬ事に候、然らずんば又、渋民あたりへ小活版所を起し、紙数を十頁位にして卵白の鳥子紙を用ゐ、自ら書き、自ら印刷し、自ら製本して、一部二円位のものを百部以上刷らぬことにしてやつても見たく候、


 ■十月十一日盛岡より 波岡茂輝宛

 大兄よ、かゝる間にありて、静かに身の来し方、多くの友と云ふ友、の事など思ひ返す許り心の養ひは無之候、随分小生の過去は、二十歳の一少年としては多過ぎる程の幾変遷、幾蹉跌、幾痛恨、幾不平、……を有し居候、殊に、昨秋十一月の初めの日、僅かに二円八十銭を懐中に抱いて都門に入りし日より以後の、??劇など、その中には人知れぬ数多の小説も有之候ふべく、従つて神と我とのみ知るなる涙も少なくは候はず、今これらは小生のために尊とき教訓と相成り候、世には旧交を塵の如く擲つて我を敵とする程の人も少なくなく候へど、心の声に深く耳を傾け候ふ今の身には、それらはたゞ小生開悟の一因縁事とのみ見られ候、随分小生も悪しき事はいたし候ひき、大兄よりも借りたるもの未だにお返し仕らぬ事、記憶いたし居候が、これらは出来た時に差上げむとの考へに候へば、失礼乍ら、お申訳はなく候へど、自分の心では疚しき事もなしと思ひ候、大兄よ、こんな事を書き候ふてはおさげすみも有之べき事と存じ候が、然し今の人々は皆金銭以下の人のみ多く候、愛こそ凡てを解するの道、とは誠に候ふべし、小生などは年に似合ぬ生意気者に候へば、今の人に愛せらるゝ資格には大に欠除いたし居候、されば、あらゆる誤解などは所詮仕様がなく候、
 天地を司配するものの外、誰一人として小生の心を知るものなし、との一語は、実に小生胸中不断の絶叫に候。闘ひに候、血と涙と鉄と剣に候、この世の我が路は、而して遂に小生は勝ち申すべく候、その証拠には、今迄小生をかれこれ申したるものに、小生より豪い人は一人も無之候、自己と、而して愛とは、小生にとりて百千万の強き味方に候、病児のくり言、思はず長くなりお申訳なく候、今後時々こんな手紙を差上げるかも知れず候、何卒おほ目に見ていたゞきたく候、
 大兄にはワセダの学堂に教鞭を執られ候由、奉賀候、小生も、ト申しては変に候へど、一生のうちには是非一度教育家(?)になつて見るつもりに候、小生の考へにては、政治も教育も、宗教も倫理も文学も芝居も、皆、同じものに(p99)候、たゞ方法の相違のみに候、尤もこの意味に於ては、政治も今の政治でなく、教育も……も今の教育……に無之候、
 
 午后の三時と相成り候、今夕の便にて差上げんと存候へばこゝらにて擱筆可仕候、終りに大兄に訴ふべき事一つ有之候、そは小生の当地に於ける最大の苦痛、ー乃ち本を読めぬことに候、日本文学の新刊の本の重要なのは、大抵著者から贈られるので遺憾も無之候へど、困つた事には横文字の書物、借りる位持つてる人はなし、買ふべき金は米屋にとられると云ふ始末、これだけは東京に居て便利なりし日の方思出され候、読み古しも有之候ハゞ何卒お貸し被下度願上候、多分月給がタントお取れなさる事と存じ候へば、これはお願ひいたし置き候也、頓首
 
 
 ■ 十月十八日盛岡より 川上賢三宛
 
 初号に岩野泡鳴兄などの詩を載せ候ふことにっいて、江戸表の先輩諸先生方の中に御機嫌よからざるお方も有之やに承はり候が、万あるべからざることゝは存じ候へども、如何あるべきか。尤も平野万里兄などよりは、この事に関し、堂々たる反対のお手紙を頂戴いたし候ひし、乃ち、「泡鳴などの詩は詩と思はず」とのお言葉に候ひき、この様の事に関しては小生小癪乍ら少しく云ふてみたき事も有之候へど、当分さしひかへ居候、兄も新詩社の一人、小生も社友名簿を涜す一人、その小生より兄に申上ぐるも如何に候へども、明星誌上岩野君に対する前後二回の評論は、少なくとも、詩壇の或る一党派のためのみならず、広く国詩の発達に忠実ならむとする批評家の言としては、多少矛盾撞着したる所なく候ふべきや、小生とても岩野君の「駮信」の愚劣ー少なくとも、小生の胸中の理想の詩人が斯ういふ事をしたりと考へての上の判断によりて、ー且つ自己の品性を傷くるものたることは、敢て公言するを憚らず候、(p101)
 たゞ何故に、初めは詩壇に新らしく造詣する所ありたるの詩が、只この一事によりて、詩とも思はれぬ様のものに急に下落したるべきや、岩野君は或は新詩社の誰よりも言語上の智識について劣り居るかも知れず候、然し乍ら、岩野君の如き性格の人にありては、自己と他とを比較して見るなどゝ云ふことは出来ざる相談なるべく、またよしや、仮りに自己の言語上の智識が浅薄なるを知り居るにしても、一度心絃に天来の声をきける時、彼は果して、自己の修辞が不完全なりとの理由を以てその興を空しく逸し去ること、よく成しうべきや否や、たとへ修辞に欠点ありとも、既にその内容に於て詩壇に造詣する所ある程のものならば、真に詩を愛するものは、決してその修辞の一欠点のみを以てその詩の価値を悉皆没し去る様の事は無き筈と存ぜられ候、
 かく申し候ふとて、小生は必ずしも岩野君を極力弁護して、我が詩業の師たり父たり、はた最も親善なる友たる新詩社に楯を突かむとするものには無之候、岩野君の詩が未だ完全なるものに非ざるは不肖も亦之を知る、たゞ現在の岩野君の地位境遇に対して小生甚だ同情にたえざるものあり、一言ひそかに兄に訴ふる所以なり、
 
 
 ■ 十一月十七日 盛岡より 前田儀作宛
 
 小生はこゝに二月あまりの間は、殆んど全たく何事をもなすことをえず、詩も手紙もかゝず、一室にとぢ籠りて、愉快なる事少なき病中生活を営み申候、誠につまらぬ事に候、「小天地」もそのため休刊、不平と妄想の中に病脳を埋め居候、この盛岡、虫の音、落葉の声、それらつぎつぎに消え去りて、今は岩手山真白き冬装、さびしくも美しく見ら(p105)れ候、たゞそれのみに候、東北の天地は太古の如く寂しく候、この境に投じたる小生の唯一の所得と申すべきは、比較的多くの事、物、人に就いて静かに考ふるをえたる事のみに候、
 東京の文壇についても、小生が半年余りの直接間接に観察したる所にては、随分小生の不快に感ぜざるをえざる事も少なからざる様に候、一体今の社会は、あまり文明になつた為めか何うか、少し狭すぎる様に候、小生の如ぎ熱頭の少年には実に実に不平でならぬ事のみに候、少しの事で誤解したり誤解されたり、中には豪い人もあるのですが、どうもつまらぬ、若し小生の最も好きなナポレオンを東京の文壇へつれて来たら、彼も必ず小生と共に不平を云ふなるべくと存じ候、
 小天地に小生の詩を四号活字にしたとて、皆様が怒つて居られるとの事、アレは小生、四号で組んだらさぞ読心地よからむと思つて居たのを不取敢やつて見た迄に候、先輩を侮つた訳でも何でもなく候、ソレカラ「東京」の結句「磁石の針」云々で冷評する人も有之候が、磁石とはどういふものかは小生小学校時代より存じて居る所、イヤこんな事を申せば此方が愚に成り候、小生はあの詩を第二詩集の巻頭に出してやらんかと存居候、呵々、
 紀念号の御苦心遙察致居候、新春号へは是非何か御願ひいたすべく候、小生は目下朝から晩まで炬燵にあたり居り候、兄も御病気の由、早く御全快の上、三十九年の詩壇を縦横にきり廻られ度鶴首いたし居候、小生健康の克復次第、多分盛岡を去ることゝ成るべく候へど、行先は未定、小天地はどこまでも持つてゆくつもりに候、但し二号の発行日も未定也、紙はなくなり候故ペンを擱し申候、詩壇の近況御知らせ被下度何卒願上候、

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