啄木 ・ 書簡  明治三十九年 (21才)


 ■一月十八日盛岡より 小笠原謙吉 宛
 
 バイブルを読み、法華経を読み、猶且つ真に動く能はざりし小生は、この『我の存在』の一意識に触るゝに当つて、俄然として醒めたるが如く候ひき。生存の意義と価値とはかくして朧ろ気に我が暗黒なる胸中に一道の光明を投げ、幼きより我がいのちなりし自負の一念は、又かくして別箇の意味に於て我が枯槁の生活に復活したり。この時に当りて、リヒヤード・ワグネルの偉大なる思想こそ、小生の此の意識をして益々明瞭ならしむる唯一の力に候ひしか。
 ワグネルの楽劇の根底たる意志拡張の愛の猛烈なる世界観は、根本より小生の性質と相吻合するを得るの理由あり。彼は同じくシヨウペンハウエルより出で乍ら、トルストイと共に意志消滅の誤謬に陥らず、又ニイチエと共に意志拡張のみの極端に走らざりき。この相反したる二思想の間に、微妙なる一大発見は彼の天才によつて見出されたり。乃ち、意志拡張の愛の健闘的勇気によつてのみ到達せらるべき神(p111)人握手の妙境也。かくて彼が作中のヒーローは皆此の理想の戦士也。彼等にはたゞ愛と戦あるのみ、固より生死省みるの暇なき也。而して彼自身の一生は又実にかくの如き勇敢なる戦士の好模範なりき。ワグネルの我に与へたる教訓の偉大なる事、それ幾何なりとするぞ。
 『我の存在』の自覚は、云ふ迄もなく当時の小生の、心身二様の病をして克復せしむる重大の一転機に候ひき。かくて一切の面目は新しく成れり。小生の世界観(?)の根底は斯くして小生の胸中に据ゑられたり。(この世界観とも云ふべきものにつきては、今詳説するよりは他日お目にかゝりたる時お話致さんと存じ候。)
 この後、小生は専心詩筆をとれり。又、この自覚によりて、早く十四才の頃より続けられし小生と節子との恋愛は、小生に取りて重大なる意義を有するを意識するに至れり。兄よ、「自己の次に信じうべきものは恋人一人のみ。」何となれば、恋人は我ならぬ我なれば也。我の次に最も明瞭なる存在は乃ち恋人なれば也。
 我を信ずる事は、やがて押しひろめて我と同じ人間なる凡ての人を信ずるをうべき理由と成る。之れ小生の如き自衿孤負の性にして、猶且つ比較的広き交際を有したる原因也。然も兄よ、不幸にして小生は、昨年中、この「我を信ずる如く人をも信じ得」といふ理由の、少なくとも現時の社会には適合すべからざる幾多の事件に遭遇したりき。偽善者天下に充つ! この一語は昨年の小生の実に幾度となく心中に絶叫したる所に候ひき。わが足を噛みたるものは、他家の犬に非ずして、わが家の飼犬なりき。犬は由来獣類の一なれば、その性陋劣なるも致方なき事とは云へ、彼等自らは何事をも成しえずして、徒らに人を妬み、面相対しては巧言令色、しかもかげに廻りては人を中傷誹謗する事さながら不倶戴天の仇の如し。兄よ、小生が昨年中に受けたる種々の迫害が、年末に至りて切実なる追懐の情に訴へられ、その不平の余憤が、はからずも「古酒新酒」中に幾分を発せられたるもの、又余儀なきに非ずや。
 『英雄はとこしなへに英雄の世界に於てのみ解せらる。』兄よ、小生は英雄にあらざるかも知れねど、小生を解するもの寥々として今の世に少なきの事実を如何。今にして知りぬ、この世に処するたゞ愛と戦の二途のみなるを。
 『愛は万事を解する唯一の道なり。』兄よ、兄は何故に、兄が満身の同情は小生をして毫も心強うせしめずと云ひゝへるや。兄は或はかの「古酒新酒」を誤解し玉へるに非ざるか。
 勝敗死生もとより掛念する所に非ず。我等愛する者よ、たゞ将に勇敢なる理想の戦士としてこの世にあらむ哉、我死せん時、兄よ願くは来つて我が墓上に剣と花束とを供へよ。
 
 
 ▲ 啄木は、一月三日の小沢恒一宛書簡で、次のように書いている。
 
 「足下にして若しそを知らむと欲するの念仮りにありとせば、今後幾何かの年月の間御待ちあるべく候。小生は或る時期に於て一切の真相を暴露し、公然某氏に対し絶交を宣告する意志あり。その時、仮面を被れる一偽善者の足下の知人中にありて、小生の結婚をさまたげ、一家と離し、また多くの友人と離さむとしたる一大陰謀の巧みに企てられつゝありし事実の真相を足下は領解せらるべく候。」
 
 一月三日の書簡は、絶交を宣言した小沢からの賀状に対する反論であるために、小沢との人間関係に引きずられている。
 一月十八日の小笠原宛の書簡ではすでにこの経験を普遍化している。しかし、ここではまだ、どんな無理解の中にあっても、自分の主張を貫き通す、といった教訓を含んでおり、個別的な精神が混在している。三月三十日の日記では、この経験は個別的な精神を捨てて普遍的な意味のある思想に改変されている。啄木は人間関係の重要な危機を何度か経験するが、その都度こうした意識の普遍化によって乗り切っている。
 
 
 ■ 二月二十八日盛岡より 小笠原謙吉宛
 
 と申すは、私の姉、鹿角小坂に居候ひしもの、かねて肋膜炎と子宮病をわづらひ居候処、薬石遂に効なく、空しく成り候旨昨日電報まゐり候、私の一番大きい姉、私の一番世話に成りたる姉、兄弟四人の内最も不幸なりし姉、その不幸なる姉は遂に不幸のうちにあの世の人と相成り申候、私この度初めて身内の者の死に逢ひ申候、老母並に私の心中お察し被下度候。
 姉の一家は、夫婦と、十四より下の子供五人も有之候ひし。多分その子等の内一人か二人は今後小生の手許に引とりて育てねばならぬ事なるべく、あはれ小生一家の上の運星こそ奇しき次第に御座候。
 右にて急に御違約せねばならぬ事情お察し被下度候、渋民行は、このため矢張り日時未定に候へど、いつれ遠からずなるべく、その内に都合出来次第参上、或は為替にて御返金可仕候に付、誠に申かね候へども小生の心事御憐察の上この度の吾儘、御ゆるし下され度偏へに願ひ上げ申候。
余は次便を期し申候。今は頭の中頻りに混雑いたし居候。(p144)
 
 
 ■ 五月十一日 渋民村より 小笠原 謙吉 宛
 
 笑ひ給ふ勿れ、豚木は今、月給八円の代用教員に候ふ也、而して村役場の慈悲深き、この驚くべき多額の俸給をすら、仲々払つてくれぬに候、明治の聖代が詩人を遇するの道、又至れる哉。春燈静夜、時として傾天の興趣油然として湧くことあり、しかも机上を探つて一葉の紙片をもえざる事多し、かゝる時、小生はたゞ瞑目して苦茗を啜るのみ。寄贈を受けつゝある明星と帝文の外に、几百の雑誌乃至新刊旧刊の書、一も手にする事なし、君願はくは、時に読み古しの雑誌の寄贈を惜む勿れ。
 かゝる境にありて、我が唯一の楽しみは、故山の子弟を教化するの大任也。小生は蓋し日本一の代用教員ならむ、兄よ、願くはこの小さき自負を公言するをゆるせ、朝起きて直ちに登校す、受持は尋常二年也、十分休み毎には卒業生に中等国語読本を教ふ、放課後は夕刻まで英語の課外教授をなす、一日自分の時間といふものなし、夜は種々の調査、来客等に忙殺せらる、((二へつゞく))
 (二)又、時々近隣の女生徒を集めて、作文の教授をなすことあり、我が談話をきかんとする青少年の来襲に逢ふことあり。
 兄よ、かくの如きは乃ち我が現在の日課なり、我が在職は蓋し長からざらむ、しかも我は、その長からざる間に於て、十分に人格的基礎を有する善美なる感化を故山の子弟が胸奥に刻まむことを期す。これ詩人たる予の本能的要求なり、これ実に何らの報酬をも予期せざる我が心霊の希望なり、而して兄よ、予はこの希望の実現を確信せざらむと欲するもえず、予は就職以来日猶浅し。しかも誰かまた予の如く生徒の心服を買ひうるものぞ、予が就職以前の杞憂は、放浪に慣れたる予が、果して中途にして倦怠に陥らざるをうるや否やの問題なりき、而して現在の心配は、予は果して予定の一ケ年位にてこの神聖なる教壇を退きうるや否やの問題なり、兄よ、詩人のみよくひとり真の教育者たりうる(p117)には非ざるか。
 人生に対する予の不平は日々に益々多し、生活の苦闘も亦日に甚だし、八円の月給がよく一家五人を養ひうるの理遂になきなり、然れども一切の不平は却つて予が精神を鼓舞するの良薬なり、鼓舞せられたる精神の火は、日夜我が紅脣を送り出でゝ、神の如く無垢なる子弟の血に燃え移りつゝあり、感化は畢童救済なり、一国の王とならむよりも、一人の人を救済するは大なる事業なり、今の世に於て愉快なる、若しくは、壮大なる事業と称せらるゝもの、多くは却つて空虚なり、吾人は事をなさんとするに先立ちて、まづ何ものか真に充実したる事業なるやを考へざるべからず、二三日前はしなくも月城の来訪に接しこれを感ずること深し。
 故山に隠れてより盛岡に出しことなし、徴兵検査は首尾よく徴集免除、一昨夜盆踊りを踊りたり、おもしろかりき、閑あらば来遊あれ、鶴首してまつ、短信意を尽さざるを惜む、
 
 
 ■六月二十日千駄ケ谷より 大信田 金次郎 宛
 
 拝啓仕候、その後はトント御無沙汰に打過し居候、兄に於かせられては不相変御清康の御事と存じ候。私、故山渋民に退いてより、頑童相手に修身、読本の講義する身と相成居候ひし所、本月十日より二週間の農繁休業を得候ひしを幸ひ、南の国の恋しさに堪へかねて十二日の朝よりこの都門の客と相成居候、寒郷に居て友もなき寂しさに苦しみ候ふ私には、この十日許り誠に様々な意味に於て尊とき時間に候ひき。私は、今迄の私の一切を過去の土中に埋め去りて、これより、また新らしく生れた心にて、新らしき生涯を作らんとするの念に日夜心を砕き居候、二三日中には帰県する筈に候が、いつれ帰村後、日曜にでも出盛して、兄や迷宮君などと会し、様々御話しいたし度考へ居候。
 
 
 ■ 八月十六日  渋民村より 小笠原謙吉 宛
 
 それら問題の中にて、老父宝徳寺再住の件に関し、在京の曹洞宗務局に運動せんとするは小生上京の第一の用件に候ひし、而して此外小生自身の用件一二にあらず、幾多の企画と希望とを抱いて上野駅に下車致し候ひしが、足都門の土を踏み、囂然たる大都会の響をきゝ、口未だ一語を出さゞるに、小生は既に泣かむ許りに感じ候ひき、あゝ兄よ、大都の生活を羨やみ、大都の文人と相伍せむとするは非なり、極めて非なり、小生が上京は必ずしも向来東京に移住せむとしてにはあらざりき、然れども小生は実に斯く感じ候ひき、少なくとも小生の性格は今の東京に適せず、小生は文界の軌道を歩むを以て此上なき不得策なりと感じたり、而して飽く迄も自らは一個の遊星ならざるべからざるを感じたり、兄よ、小生は斯くして都門の土を踏める一刹那に於て既に胸中の幾多の企画を暗中に埋り去り候ひき、而も東京は急しき所、十日の間は実に暇なく動き、暇なく読み、暇なく感じ候ひき、宿りしは千駄ケ谷の新詩社に候、
 兄よ、人間の巣なる都会に居て大詩人といはれむよりも、田舎の代用教員となりて神の如き児女より先生と、呼ばれむ方遙かに小生には満足なり。人生は永劫の事実也、都会にのみあるに非ず。されば、詩人は必ずしも多くの人間を要せず、唯彼は人生と共に活くべきのみ、
 本年に入りてより、小生は一切の新刊書を読まず候ひき、而して十日滞京の間に小生は多くの小説詩集を読むの好機を得候ひき、これ小生に於て極めて重大なる幸福に候ひき、小生は感激したり、而して奮慨したり、「僕だつて小説を書ける」とは小生帰郷の際の唯一の土産に候ひき、
 帰来数日にして、七月三日となりぬ、この日の夕暮より小生は異常の勇気を以て小説に筆を染め候ひぬ、爾来一ヶ月は小生完たく小説以外に何物をも考へず候ひき、一週に三夜位づゝ徹夜して筆を駆れり、やがて百四十枚許りなる『おもかげ』一篇は脱稿し、更に長き『雲は天才である』は半分程出来上りたり、小生は『おもかげ』を小山内君に送り置けり、遠からず何処かの雑誌に現はるゝならむと存じ候、
 数月以前に発行せらるべかりし第二詩集は、都合ありて荏苒致し居候ひしが、上京の際当分出さぬ事に本屋へ断はりて参り候、これは小生少しく感ずる所あればに候、小生は現時に於て他の先覚諸先生と競争的の行動を取るを潔しとせず、小生は単独に小生ならむことを欲す、兄よ、小生が過去に於て多少の名ありしとすれば、そは空名なり、小生はこの空名を凡ての人に忘れて貰ひたく候、然して後に新らしく石川啄木なる者の生存を認めて貰ひたく候、兄よ、この心筆に尽し難し、然れども、小生の胸裡の感動は決して浅からず、
 暑中休暇は小生の早くより鶴首して待ちたる所に候ひき、小生はこの八月中に少なくとも三百枚の小説と一脚本とを書かむと期待し居り候ひき、然し乍ら今日十六日、既に半月を過して一枚も書かず、これ一は原稿紙の欠乏の為め元気沮喪したると、一はこの二三日前迄、ツマラヌ事乍ら少し心配な事ありしために候、心配はなくなりたれど、紙はなく米はなし、本月分の月給は既に既に前借してあり、如何にせばやと首傾げ居り候、この月はダメなり、人生常に意の如くならず、小山内君より送つてくるべき原稿料を待つうち、五人一家のいのちを続ぐ方法に就いて考へっゝあり候。
 小生は小生の小説に就いて自信あり。
 小生は意を安んじて筆を取らむがためには、先づ生活を安固にする方法を講ぜざるべからずと感じ申候、代用教員は愉快なれど、八円の月給は小生をして意を安んぜしめず、生活費だけを毎月取る工夫なきやと考へ居候、或は不遠小生の一身上に一変動起るやも知れず、尤も未定、
 蚊帳も吊らず、袷着て過し候ふは今年の夏が初めてに候、小生の最大希望は『空虚なき生涯』を送らむ事なり、★(p125)
 
 ▲ 啄木の精神はこの一年ほどの経験の中で大きく変化しており、啄木はそれを自覚している。それは普遍的な精神が具体化へと一歩踏み込んだことである。それはまだはじまったばかりで具体的成果がすぐに現れるわけではないが、豊かな成果を想像しうる思想が生まれている。啄木はそれを、詩を書くことから小説を書くことへの変化と意識している様である。小説を書くことは収入を得る手段とも考えられている。しかし、それは啄木の表面的な意識である。普遍的な精神の具体化は、小説にも詩にも歌にも評論にも、つまり精神のすべてに渡って啄木も予期しない形で現れるだろう。
 
 
 ■ 九月二十五日渋民村より 大信田金次郎 宛
 
 小山内君に嘱したる小説面影の交渉は卒然として不結果に了れり。これ篇中に大に今の小説家を冷罵したる条あるが故に、お得意の寄稿家の怒りを買はむことを恐れて、雑誌屋は面影の掲載を肯んぜざりしに候、兄よ、小生の処女作は矢張り小生自身の如く処世上には失敗者に候ひき。
 この原稿は新詩社に廻送せられ候ひぬ。多分来月(?)の「明星」に出で候はんか。
 兄よ、爾後四旬の御無音は実にこれがために候ひき、何卒何卒御諒察被下度候、明星より原稿料のとれざるは御存知の如し。
 小生は新運命を開拓せんとして目下熟考中に候。兄よ、兄は多福の人かな、小生は悲しきなり。小生をして新たなる道を発見せしむる迄、神よ願くは許せ。
 苦愁胸にあれば筆に親まず。茸狩るとて家を出でゝは満懐の不平を山野の間に放ち、村人と将棋を戦はしては這裡わつかに心の飢餓を忘れむとす。兄よ、これ宛然一ケの虚無主義の奴隷にあらずや。
 兄よ願くはこの文壇の敗卒を見ること寛大なれ。頓首。
 
 
 ■ 十二月二十三日渋民村より 田子一民 宛
 
 おハガキ拝しまゐらせ候ひしは十八日の午後に候ひしが、筆立の底、硯箱の中、いかに探しても一銭五厘といふ大金現れず、遂今日まで欠礼致候、不悪。
 京の風は寒からざるの由、羨望致居候。当地三四日来毎日の風雪、雪の夜の趣きはうれしく候へど、学校の小児等、毎朝雪達摩の様になってツマゴ穿いて来る見れば可哀相に候。私、沈黙の一ケ年をば此雪の底に埋めて、ソロソロと第二戦の準備にとりかかり度存居候、第一戦の際はマンマと一敗地にまみれし私乍ら、此処の学校にありては雪合戦の一方の司令官に候、将軍に候。この元気を以て、来るべき明治四十年には、批評といふ爆烈弾のまつ只中へ乗り出す心算に御座候、何卒御声援を被下度願上候。「葬列」お(p127)目にとまりし由、恭けなし。これは小生の第三の試作也。
 二月の明星にて後半部は公にするつもりに候。
 予定にては、もはや「お父さん」になつて居る筈に候ひし処、どうしたものかまだ也。生るるは多分男なるべしと存候。この夏花明兄より貰ひしジヤーマンコースにて目下盛んにアーペーツエー研究中。願くは独逸語の御手紙御恵み被下度候、これは堀合兄花明兄へも何卒御頼み被下度候、そのうちに私もかいて上げて御斧正を願ふつもりに候。
 
 ▲『雲は天才である』、『面影』を経て、第三作の『葬列』を明星に発表することができた啄木は、前年の処女詩集『あこがれ』に続いて、小説によって文壇への第二戦を挑もうとしている。


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