啄木 ・ 書簡  明治四十年 (22才)


  
 ■ 九月十九日 札幌より宮崎郁雨宛
 十三日夕七時、星黒き焼跡の風に送られて函館を離れ、翌暁小樽に下車、十一時半再び車中の人となり、琴似にて兄の大憤愚を思出し、午后一時少し過ぎ着札。北門新報の校正子は午后二時に出社八時迄やるなり、早速歌壇など設けたれど、社の財政思はしからず、給料仲々期日に払つてくれぬ由、小生の前途は我乍ら寒心に不堪、なさけ無く相成申候、今朝は小樽の兄へ意見を伺ふ手紙出し候、小生目下の問題はいかにして生活を安全にしうべきかなり、函館を立つ日与謝野氏より東京に来ては如何との手紙ありしが、迷へる児は未だ返事出さずに居候、行くにしても母と妹は小樽へ置くとして妻子をつれて行つては困る事は同じ也、どうすればよいのか天下無茶苦茶なり、
 然し札幌はよい所也、安全に暮すことさへ出来れば五六年は札幌に居たし、札幌は大なる田舎なり、美しき木立の都也、アカシヤの並木に秋風吹き候、水は冷たし、静かにして淋しく、しめやかなる恋の沢山ありさうな処なり、君、朝夕にわが心の火明滅す、瓢泊の愁也、男一疋、うた書く事覚えたがために意気地なく相成り候、
 家内は今皆小樽にあり、小生はこの室に松岡君と同室、札幌に貸家殆んどなし、この次は元気よい手紙かきたいと思ふ(p143)
 
 ■ 九月二十日 札幌より 岩崎 正宛
 
 御礼のかはりに一つ君に喜んで貰ふ事が有之候、喜ばしい事かどうかは知らぬが、自分は喜んで貰ふつもりに候、外ではなし、小生が今迄余りに生活とか其他のために心を労して自分の本領を忘れむとして居た事を自分自身で自覚致し候、忘られたる文士? 否、自分で忘れむとしたる「誤れる天才」は今はかなき眠りより覚め申候、我が天職は矢張文学の外何物でもなかりき、此の「復活したる自覚」によつて如何なるものが期待されうるかは疑問とするも、兎も角小生自身は今再び新らしき心地にかへり申候、小生は右の報導を成すをうるを目下、少なくとも目下に於て、何よりの楽みと存候、
 住吉学校の廊下で腰掛の塵を払つて僧服めいたものを着た君と話した事が頭に浮び来り候、
せつ子が恋しく候、京子も見たく候、それから出立の日乃ち吉野君の御喜びの日、同君が「今盛んにやつて居ます」といつて炭の粉だらけの手を流しで洗つて居た様が目に浮び候、又橘訓導が茶を汲んで出す時の手つきが思出され候、函館百二十日間の短生活が、小生にとつて甚だ有意義なりし事を君と吉野君と皇天に向つて感謝致候、
 札幌は詩人が一生のうち一度は必ず来て見る価値ある所に御座候、「静けく大なる田舎町」と評せば最も適切なるべくや、四辺の風物が何となく外国風にて風俗も余程内地ばなれがし、そして人は皆日本人なるが面白く候はずや、停車場の前通りなるアカシヤの街??(ナミキ)の下をゆく人くる人皆緩やかなる歩みを運び居候、
 社の小国君は純正社会主義老に候へど赤裸々にして気骨あり真骨頭あり、我党の士に候、新聞は今正味六千刷り居候が、整理其路を得ず財政の方は困難にて、給料など仲々期日に払ふことなく、現に先月分がまだ渡らぬ由に候、妻子呼び寄せも少し考物に候、今度出る小樽日々新聞の三面主任にならぬかと小国君申し候故、よい様に取計つてくれ玉へと申置き候、小生は万事自然の力に任せるつもりに候、これは小生の処世法として最もよき方法なる事は兄も認めらるるならむ、雑誌の方の事は未だ見当つかず、出しうるものとすれば小樽で出すも札幌で出すもさしたる相違なからむ、何れこの事については更に熟考致すべく候、
 
 ■ 十月二日   小樽より岩崎正宛
 木立の都秋風の都美しき恋の沢山ありさうなる都、詩人の住むべき都なる札幌を見捨て候ふ事、小生にとりては実に由々敷損害に有之候、然しこの事は何卒御追究下さる間敷候、北門新報の校正子よりは小樽日報の遊軍の方月給が大枚五両の相違に候、しかのみならず社長も主筆もどんな訳か小生の言に耳を傾け一ニケ月の後には報酬もあげるなどと申居候、悲しき事に候はずや、然し小生をして小樽に入らしめたるは別に二つの原因が有之候、一つは此度の社が創業時代--万事自由にして然も無限の活動を予期しうべき時代たる事に候、今一つは札幌に居て遂に松岡輩や亡国の髯を蓄へたる向井君らと朝夕を共にする苦痛--我と我が魂の腐蝕しゆくを感ずる不快の境遇--に堪へ難かりし事に候、向井君は好人物には相違なく候へど、畢竟ずるに時代の滓に候、最も浅薄なる自暴自棄者に候、一切の勇気を消耗し尽したる人に候、詮じつむれば胸中無一物の人に候、小生は衷心より向井君に同情致居候へど、然し一度共に語れば何といふ理由なしに一種の不快を禁ずる能はず候、この不快は然し、要するに人生の最も悲惨なる「平凡なる悲劇」に対し、小生の精神が起す猛烈の反抗に外ならず候(p154)
 
 ■ 十月十三日   小樽より大島経男 宛
 御葉書にて御近況略承はり候、失礼乍ら悲しき思致候、田園の生活は大兄の所期と相去る百里千里かと察せられ候、噫、何と申してよかるべきか、大兄よ、願くは都会に御出下され度候、唯都会に御出下され度候、仮令厭なこと山々有之候共、願くは都会に御出下され度候、
 世に己が故郷を慕はぬ人はなかるべく候、然し一度故郷に帰りて日を重ね月を重ね年を重ね候はゞ、必ずや再び旅の空が恋しかるべく候、自然は人間の故郷に候ふべし、人間のみの間に伍する凡百の不満と煩瑣とは、人をして自然を慕ふこと母の如くならしめずんば止まじ、然れども一度自然の懐に帰入して日を重ね月を重ぬるに従ひ、何人も或る煩悶を感ずるに至るべく候、こは自然若しくは自然の中に生活する比較的自然なる人間、乃至一切我以外のものに対する煩悶に非ずして、「閉塞せられたる我」が其閉塞を破らむとする心の反逆なるべく候、乃ち自発的のものにて如何に之を抑制するとも遂に其効なかるべく候、我無くば世に何物もなかるべし、我既に生けり、生ける以上は我既に有るなり、我既に在り、如何にして此我の我を閉塞し了り得べきや、
 大兄よ、小生は理窟を云ふことは極めて下手に候、下手な理窟はやめに致候、唯願くは都会に御出遊ばされ度候、そして、人間なる私共をも友と御呼び下され度候、函館の埠頭にてお別れ致候時、風なき港の波をゆくらゆくらに行く艀舟の上、白の上衣着てうつむき給ひし大兄は、共同運輸丸に到り着くまで一度も私共の方をふり返り給はざりぎ、人に別れて悲しかりし事は幾度も有之候へど、あの時許り淋しかりし事は無之候、大兄よ、人は如何に一切と断たむとするも猶遂に空気には包まれ居るには候はざるか、アノ時の事は御恨めしい様な気いたし候、私の申す事は多分御気に障る点多からむと恐縮致候、サテこれから少しまた私の万事申し上ぐべく候、(p157)
  
 ■ 二一七 十月十四日小樽より 岩崎正宛
 サテ兄よ、小生が社に於る位置は目下何人も及ばず、白石社長は殆んど意外な位信用してくれ、小生の意見は直ちに実行さるゝといふ様に相成候、御安心被下度候、去る日曜日突然沢田兄の来訪に接し会議半日にして心に決する処あり共に札幌にゆき翌日かへりしが、本日社長来樽、万事決定、吾党の士は刃に血ぬらずして大勝利を得たり 乃ち沢田兄は我が社二面の編輯長となる事になり(但し、当分は三十五円……一ケ月かニケ月の間)今夕電報を以て来任を促しやれり、現主筆以下四名は明日お免の宣告を受くべく、沢田兄来る迄は僕が総編輯外に外交唯二人でやる筈、天下の大勢既に我が手中に入れり、小樽日報の死活は沢田君と小生と二人の手心のみ、兎も角もこれ近来の吉報なるぺし、今迄なぜ兄らに新聞を送らざりしか 答へて曰く、今迄の新聞は現主筆の方寸によつて作られたるものにて、恥かしくて人に見せられぬためなり、遠からず第二次注文のキカイ及活字着次第六頁とし大改革をなす故その後は毎日送るべく候、尚六頁になれば其二頁だけを市中だけに夕刊として発行する計画なり 市中の読者は日に二度つつ新事件の報道をうる訳なり 何と面白からずや 兎に角小生は今一日中殆んど一時間も暇なき迄種々なる活動をなしつつあり(p158)
  
 ■ 一三八 十二月二十三日小樽より 伊五沢丑松 宛
 四方八方へ御無沙汰を続け居候ふ内に、夏は何日しか秋、秋も更けては名だゝる北海の冬と相成、今日此頃は粉雪吹き捲く朝暮の風宛ながら槍の如く、流石に聊か身に応へ候、幸ひにして数日前より閑散の境を得、炬燵に尻温ためて静かに戊申原頭の活動を画策罷在候、函館の百二十余日は要するに土地慣れざる為思ふ存分の仕事もなく幸ひにして雑誌「紅苜蓿」の全権を握りて自ら経営するに至り一方函館日々新聞に遊軍として執筆する事に相成候ひしも、発展の準備漸やく成りて、雑誌の秋季大附録号の原稿全部印刷所に廻付して間もなく例の未曽有の大火にて幸ひ類焼の災は免れ候ひしも、殆んど一切の事業を中絶せざるべからざるに至り、止むなく九月中旬に至りて札幌北門新聞社の聘に応じて焼跡を見捨て、秋風と共に札都の人と相成候ひしが、滞在僅か二週日、小樽日報の創業に参加する約成りて、九月二十七日夕、当地には参り候ひき、日報は北海事業家中の麟麟児として、本道は勿論内地の各地に迄諸種の事業を営み、浦塩にも支店を有する山県勇三郎氏が資を投じ、前福島県選出代議士にして今本道々会議員たり在野党主領を以て目せらるゝ白石義郎氏が直接の経営者となりて創始せられしものに候ふが小生は第一回編輯会議の日より列席して具さに社業の内外を鞅掌し、十月十五日には初号十八頁(北海未曽有なり)を出すの運びに至り、爾後引続き刊行して今日に至り、社内に内訌起りて紙面為めに振はざるに当りては、小生の意見全部社長の用うる所となり、当初八名なりし記者のうち、主筆以下六名迄も断頭台に上せ、新たに小生の知友を容れて編輯局裡初めて新面目あるに至り候ひしも、社業未だ揚らず、社の内部に根本的改革を行ひ以つて全然其方針を変更するにあらざれば社運容易に開けざるを見、夕刊計画其他を述べて社長に迫る所ありしも、不幸にして出資者と社長との間に面白からざる事情を生ずるに至り、社長も今は自分一人にて万事を決するを得ざる時機となり資金亦其の途を失はむとするに至り候へば、小生例の癇癪を起し男一疋居らぬ社はイヤだと駄々をコネ出して去る十二日以来代る代わるの迎へあるに不拘出社を拒み、遂々我儘を徹して公然退社する事と相成候、人は儘にならぬが世の中と申し候へど、小生は出来るだけ多く我儘をやるが得策と存じ、若いうちに種々の経験を積むつもりにて、随所に我儘を働く決心に御座候、我優の出来るだけ北海道は自由愉快に候、四五年中には必ず何か快心の大芝居をやつて見るつもりに候、
 目下北海道第一なる札幌の北海タイムス社及び、中西高橋両代議士が新たに札都に起す一新聞と、両方より交渉有之候が、何れ新年を待ちて何れとも決定し、旗鼓堂々再度の札幌侵略を試むるつもりに御座候、札幌は流石に北海の主府なれば諸事小生の活動を試むべき舞台も多く、且つ余程外国風の風致に富みて物価も比較的安く、住心地最もよき所に候、四月頃よりは同時に雑誌二種(一つは政治実業一つは文学及婦人雑誌)出す筈にてそれぞれ計画も出来出資者も有之候へど二株(百二十円)だけ不足にて目下苦心致居候、特に四月を選び候ふは小生の知人が其所有する印刷所を拡張してこの雑誌を引受くる筈にて、その新機械新活字購入等にて紀元節迄には間に合はぬために候
 老父は野辺地にあり来春を待ちて渡道すると申越し候、老母初め妻子皆々健全、小生如き、函館にて毎日海水浴をやりし為めか風邪一つ引かぬ頑強には自分乍ら感心致居候岩本氏の通信によれば、清明なる故山の天地に肺患侵入し、数氏相亜いで他界の人と相成候由、鎖魂の極みに御座候、酒と小紛擾と不和合とが由来渋民の病疾なり、弊極まれば天之に臨むに火を以てし、水を以つてし、若しくは病を以てす、桑港の地震函館の大火皆然り、渋民の人も宜しく此機に於て一大覚醒を起して然るべき事と存候、貴意如何、(p163)
 学校の方も依然として眠れる如しとか灰かに伝へきゝ候、法則と形式とは外皮のみ、火の如き熱誠なくんば一切の事土偶に等しからんのみ、人格の活火を以て子弟の心を焼き尽す程の精神なくんば、教育の実績到底期すべからず、小生は他日再び機あらば代用教員となりて故園の子弟と日夕を共にしたく存じ居候、職員諸君にして共に談ずるに足らぬなら、一つ岩本氏に、巨杖政策を執つて高手的にドシドシやられては如何と御伝言被下度候


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