啄木 ・ 書簡  明治四十一年 (23才)


  ■二四一 一月三十日釧路より  金田一京助宛
 九月十三日夕、焼跡の星黒き夜風に送られて、翌日札幌に入り、アカシヤの葉にはためく秋風、窓前の芝生に注ぐ秋雨に、云ひがたく珍らかなる「木立の都」の秋を愛で候ひしが、北門新報の校正係は決して愉快なる職業には無之候ひし、居る事僅かに二週日、小樽日報の創業に参加する事となりて、泥深き小樽に入り候ひしが、野口雨情君亦小生と共に三面子たり、十月一日第一回の編輯会議開かれ、同十五日初号十八頁出し候ひしが、何分、寄集り者の事とて、編輯局裡に不穏の空気充ち、所謂新聞記者許り多くて不愉快なりしまゝ、初号発刊以前より主筆排斥運動を起し、其ため野口君真先に敵の鎗玉にあげられて同月末に退社、アトは小生唯一人にて奮闘又奮闘、十一月末までには最初八人なりし記者中主筆以下六人迄遂々断頭台に上せ、新人物を入れ候ひしが、寝食を忘れて毎日十五時間位も社のために働き候事、日報社最初の三面主任が功労亦多大なるものと申すべきか、呵々、十二月中旬に至り、最後の根本的改革を遂行せんとせしも時機未だ至らず、社長氏が板挟みの苦境にあるを見るに見かねて、断然退社、何と云つても出社せず、遂に生来の我儘を小気味よく通し候ひしは聊か痛快に候ひし、但しそのため今年の新年はまことに新年らしからざる新年を迎へ申候、日報は日本事業家中にても麟麟児を以て目さるゝ山県勇三郎氏出資し、前福島県選出代議士にして目下当釧路を代表する道会議員たり、本道に於ける在野党の主領たる白石義郎氏社長に候ひき、此釧路新聞も亦同社長の所有に候。
 白石社長は度量海の如き篤実の老紳士に候が、嘗ては国事犯を犯して河野広中氏らと共に獄につながれたる事もあり、又「真理実行論」といふ急激なる自由主義の世界統一論を著したる事などもあり候ふ人なれば、胸の奥にはまだ若々しい革命思想を抱き居り、小生とは所謂支那人の「肝胆相照す」底の点あり、小生日報を退きしも小生を捨つるを欲せず、種々好意を尽しくれ候ひしが、五月の総選挙迄に現在の釧路新聞を拡張して釧路十勝二国を命令の下に置く必要あり、其拡張の大責任を小生に是非やつてくれよとの事にて、小生は釧路クンダリ迄流れてくる気はなく候ひしも、情誼上止むなく承諾し、拡張の基礎出来次第日報に帰るも何処へ行くも小生の自由といふ約束の下に此度同氏と同道、雪の北海道を横断したる訳に候、
 小生着釧の翌日、社は今回新築の煉瓦造の小さいけれど気持よき建築へ移転仕侯、現在の編輯局は前々よりの主筆と小生と外に二名に候が、早晩更に二三名増員すべく、新聞は目下普通の新聞より一廻り小さき形(三陸新聞と同じ)に候が、註文中の新印刷機及び活字着次第(多分三月一日より)普通の新聞に拡張し、引続いて六頁新聞とする筈にて、目下は現在の形にて二日置位に六頁出す事にいたし侯、小生着任と共にまつ編輯長といった様な役にて、早速編輯の体裁を全部改め、毎日自分で一頁以上書くと云ふ奮発をやり居候所、読者より続々感謝の手紙まゐり(田舎はこんなものに候)社の関係も大いに油をかけてくれ、腹の中でおかしく相成候、実際やって見れば新聞記者も面白いものに候、但し毎日一面に政治上の事、外交や経済の事まで書くと聞いたら、大兄などは吹き出して笑はるゝ事と存候、呵々、滑稽はそれのみならず、四日許り前に当町愛国婦人会の支部の会合ありたる際臨席いたし候ひしに、無理に乞はれて辞する道なくなり、芝居をやる気にて「新時代の婦人」といふ題にて一場の演説をやりて、少なからず釧路婦人を驚かし、翌日の新聞に其演説筆記を載せ候事など、殆んど滑稽の極かと存候、来る二日には社の新築祝として盛大な宴会を催す筈にて、準備委員長といふ名称を頂戴した小生は、一昨夜徹夜して新案の福引二百本許り工夫いたし候、釧路は案外気持よく候、都合によったら三月小樽に帰らずに二三年当地に居ることにし、家族をも三月頃呼寄せんかとも考へ候、これは社の方の要求にて候が、七分通りは小生も同意なり、社長は此間小生に時計買つてくれ候が、若し長く居る様になれば、社で家を買つて小生を入れてくれる由に候、二三年居れば、屹度今迄の借金をすまし、且つ自費出版やる位の金はたまるべしと存候、呵々、
 
 ・・・中央公論のアレは面白く拝見仕候ひし、今日以後の日本は、明星がモハヤ時勢に先んずる事が出来なくなつたと思ふが如何、自然主義反対なんか駄目々々、お情を以て梅の花一つ御送り被下度候、
 
 ■  二四五  41・2・8  釧路より宮崎大四郎宛
 
 日報なりタイムスなりの三面主任と云へば、一寸名がよいかも知れぬ、然し札幌や小樽の様な所では、自分の様な貧乏者はいくら頑張つても畢竟残る所何者もないのだ、終ひにはくたびれて倦きて了ふ許りだ、それよりは少し寒くとも釧路に居て、新聞も五月迄には普通の六頁になるのだから、編輯長閣下も少しは幅がきく、それで土地と社に信用を得れば、一二年の間に家の一軒位は貰へさうだ、そして出来る事なら多少金をためて二三年後には東京に行つて自費出版やる位の準備はつきさうなものだ、よしや小さくとも自分の自由の天地を作る方がよい、と斯う考へて、サテ「釧路」の研究に取かかつた、今は人口僅か一万三千の小都会に過ぎぬが、四十一年度はダメにしても四十二年度の予算には釧路築港費が必ず計上される、昨年鉄道の全通以来、町はよほど景気づいたとの事だ、そして池田駅から分岐せる北見線が竣工すれば、釧路は自らにして東海岸の小樽たるべき使命を持つて居る、十勝釧路北見三国の物資は皆釧路を中心にして集散する事になる、自分の見る所では、東察加半島に対する日常品の供給は、将来必ず此釧路から輸出される事と思はれる、果然釧路は有望な港だ、そして自分が十八日間に経験した所によると、釧路は決して人気の悪い所ではない、且つ社長の白石氏は大部土地の信用が厚く、道会の選挙にもタツタ三十五円しか運動費をつかはなかつたさうだ、然も其時は白石氏自身は釧路に居なく、子分の者がやつたのだ、釧路新聞も亦、小樽に於ける小樽新聞の様な地位、否、それ以上密接な関係が釧路其物との間に出来て居る、かかる人の下に居て、かかる社の新聞を自分の思ふ儘に作つて、そして二三年居たら必ず何か残る、
 或は僕が釧路に来たのは、天、乃ち自然の力が、僕をして静かに修養せしむる所以なのかも知れぬ、且つ釧路には新聞記者として成すべき事業も少くはない、青年町民の強固なる団結を作る事や、教育機関の改善拡張や、図書館の設置や、其他まだまだ沢山ある、
 と僕は考へる、尤も当地では五日目か六日目でなければ東京新聞が見られぬ、それだけ時勢におくれる心配もあるが、そこは考一つだ、昨夜小静の歌つた歌にも『浮世渡るは唯胸一つ、馬は手綱で舟は舵』といふのがあつた、二年や三年、五年十年無人島に居たとて時勢におくれる啄木ではないと信ずる、だから三月にでもなつて、少し寒さが緩んだら家族を寄び寄せようかと考へる、
 君、以上の僕の考へに若し少しでも不賛成な点があつたら、何卒ドシドシ指摘してくれ給へ、自分自身と難ども、啄木が釧路くんだり迄流れ込んだについては聊か天を恨みずに居られぬが、これも致方がない、★(p176)
 ・・・・・・・・・
 君の結婚問題がどうなつたか、知らしてくれ結へ、君は、「せんじつめれば空な人間」といふ語を書いてよこしたが、君、君、君、それだそれだ、自意識の発達した今の人間が、イヤでも応でも自然主義に走るのはそれだ、天渓の語を借りて云へば、所謂『現実暴露の悲哀』だ。これには何人と雖ども恐らく苦められぬものはあるまい。空な人間! 空な人間! 空な人間だと感じて苦しむ心が、乃ち何とかして空でなくなりたくないと云ふ弱い弱い希望だ、此希望を弱い弱い希望だといふと、モウ実際生きてる気がなくなる、そこで一切の人間が此希望を弱くないものにして了ふ。所謂生活幻像がここに於て生ずる、君、凡ての人は皆生活幻像を描いて、それが幻像に過ぎぬといふ事を成るべく知らぬフリをして、一生懸命それに縋つて生きてゆく、理想だとか未来だとか云ふのは皆それだ、僕は個性論者だ、個人は飽く迄も個人で、自分自身を自分自身が司配し、自己の思想によつて何処までも自由に自己の力を発揮すべきだと論ずる、字宙論に於ても、まだ誰にも発表した事はないけれども、僕一家の一元二面論で、何人の哲学にも優ると自信する哲学を案出して居る、然し乍ら君、何人か真の自由を得て自然の力以外に立ち得られよう、僕の個性論も、僕の一元二面観の哲学も、はた又、僕の一切の自負、将来に対する計画も、遂に矢張一種の生活幻像ではあるまいかと疑ふ事が度々ある、人間は本来一人ポッチだ、淋しく心細くて溜らぬから宗教といふ幻像を描いたり、富貴とか権勢とか名誉の幻像を描いたりする。人生の寂寞、俺は一人ポ★(p177)ツチだといふ事を感じたら最後、モウダメだ、虚無! 虚無! 虚無といふ奴が横平な顔をして我等の前に立つ。これはお互ひイヤな事だ、然し本来空な人間なものとすれば何とも仕方がない、噫、一切の心の虚飾を去つた真の現実暴露の悲哀! 此悲哀は泣く様な優しいものではない、自然主義といふ傾向の勃興したのは、今の人間の心に如何に深く「虚無」といふ思想が動いてるかを示すものだと自分は考へる、自然主義が人を教訓し得る唯一の言葉は、唯『勝手になれ』といふ事の外にない、善もなければ悪もない、美も醜もない、唯々『アリノマヽ』有の儘! 勝手になれとは何たる心細い語だらう、然し乍ら君、人間の有し得る絶対の自由は『虚無』の外にない、
 現時に於ける宗教の頽廃を以て、人間--信者--の堕落に帰するのは飛んでもない間違だ。霊魂と肉体とを別々にした一切の宗教が、自意識の発達した時代に存在し得る理由がないのだ、宗教の頽廃は宗教それ自身の罪だ。メレジコウスキイが称へ出した肉霊合一論は、彼が其有名なる三部小説「クリスト、エンド、アンチクリスト」に於て、基督教的思想と反基督教的思想とを共に人生に両立せる二大思想なりとした時から既に萌芽したものと自分は観察して居る。肉体を侮蔑し蹂躙して居た時代が過ぎた時、自然主義は起る。そして現実暴露の悲哀がヒシヒシと人の心を脅かして、勝手になれと叫ぶ。君、事実に於て既に道徳は破壊されて居るよ。まだ幾分社会に残つてるにしても、それは形式だけだ、少なくとも僕の目には道徳などといふものはない。自他融合の意志と僕の名つくる『愛』はあるが、道徳は無い。既に霊肉の区別がなくなつて、勝手になれと虚無の宣告を受けた人間にとつては、万事唯勝手にやればよい。君、実際現在の僕の、底の底の思想程明白な赤裸々な思想はないだらう、人の前では云はれぬが、僕は無政府主義だ、無宗教だ、うまい物は喰ふべく、うまい酒は飲むべし、流石にまだ実行した事はないが、本然の要求に基く際に肉慾の如きも決して罪悪でも何でもあるまいと理屈から考へて居る、婦人の貞操といふが如きはマルデ根拠のない事だ、君にだから斯んな事まで云ふが、夫婦といふものも必至にして堅固なる結合では決してない、
 噫、空な人間! 虚無!
 然し乍ら君、矢張人間は、悲しいかな生活幻像に司配されてる方が幸福だよ。結婚し給へ、そして、盛んに活動してくれ給へ、そして僕等を助けてくれ給へ。
 
 ■ 二五九 四月十四日小樽より 向井永太郎宛
 函館の百二十日、札幌の二週間、小樽の百十日、釧路の七十日、酒田川丸に乗つて去る七日夜函館着、これにて北海一周終る。今朝小樽着、三四日滞在、函館にゆき、家族を残して単身上京の事に決定。小生の文学的運命を小気味よく試験する心算に候、感慨多少。汽車賃工夫ついたらお別れにゆく。
 
 ■ 二六〇 四月十七日 小樽より 岩崎正、吉野章三宛
 或所に一人の年老つた母親が居たとする、其頼りに思ふ唯一人の息子が、瓢乎某地を去ると許りで、海に入つて幾日消息が無いとする、そして米が無くなつたとする、無理算段をし某地に居る妹娘の許へ汽車で行つたとする、……こゝまではまだよい……其汽車が途中或停車場に着いた、時は夕方、同車の人が皆弁当を買つて食つたとする、そして此老いたる女は、乗車券一枚の外、懐中一厘一毛もなかつたとする。……君、若しこれが小説であつたら、否、小説にだけあつて、事実に無かつたら、世の中も住み悪くないかも知れぬ、と考へて僕は----
 宮崎君の好意に対して、僕、全く云ふ語が無い。頼む、願くは僕の居ない時君等から充分御礼をいふてくれ玉へ、自分から、口先で礼を云ふのは、何だか却つて此厚意を侮辱する様な気がする、考へても見てくれ玉へ、此度の上京は、実際、啄木一生の死活問題だ--君、泣く程の切ない心地は、僕が一人居る時、常に、過ぎる位味はうて居る、どうか、人の前、特に親しい君等の前では、啄木を、声の高い、口を大きく開いて笑ふ、よく女の話をする……と云ふた風の男にして置いてくれ玉へ、頼む、
 君、僕は此度の上京の前途を、どうしても悲観する事が出来ぬ、若し失敗したらといふ事も考へては居るが、僕はどうしたものか、失敗する前に必ず成功(?)する様な気がする、
 理屈もいらぬ、何派、彼派も要はない、只まつしぐらに創作だ、
 野口雨情君も本月中に上京。一昨日逢つた、
 与謝野氏の手紙、郁雨兄へ送つた、見玉へ、
 明日の夜汽車で行かうと思ふ、
 京子は大きくなつて居る、室の中を縦横無尽に走せ廻る、いろんな事を喋る。
 矢張僕は一家の主人で人の子の父であつた。と思ふと頭がモ少し禿げてくれればよいと願ふ、
 小樽日報半瓦解、八頁が又もとの四頁、吉野君、当分断念がよからう、或は或時期の間休刊を余儀なくされるかも知れぬ、凡ての設備が半分位に縮少されたげな、そして今日まではまだ続けてゆくだけの金の見込がつかぬらしい、委細は逢つた時、
 
 ■ 二六一 四月十七日 小樽より 小笠原謙吉宛
 兄が早くより遙望せられ候ふと云ふ此北海の天地は、鋤と鍬、然らずば網を持つて来るべき所にて、筆を荷ふて入るべき地には非ずと存候、大陸的風光はあり、唯、歌ふべく余りに落寞たるを恨む。随所に、人間生活の真状赤裸々に暴露せらる、小説の材料は多けれども、此無遠慮を極めた★(p187)る生活の肉薄は、うら若き心を害なふこと多きを奈何せん。津軽の瀬戸を渡りて将に一年、商業会議所の雇、代用教員はまだしもなり、昨秋初めて新聞記者生活に入り、校正子、三面主任、編輯長。咄、新聞も亦営利事業に候ひしそかし。営利の犠牲となりて終日筆を揮ひ候へば、筆が敵の思あり、夜、燈を剪つて机に向へども、また筆を握るの心地なし、これ啄木の精力衰へたる為のみにも非ざるべしと存候、呵々、
 函館の百二十余日、札幌の二週日、小樽の百十日、釧路の七旬余--雪の北海道を横断して釧路の華氏零下二十何度といふ寒さに首ちゞめたるは今年一月二十一日の夜に候ひしが、氷れる海を初めて見たり、誤つて飲み習ひたる酒は醒めても不平は消えず、今月三日瓢乎として酒田川丸に搭じ、宮古港に一寸寄港、七日夜函館着、これにて北海一周完たし、十四日当地着。
 明日、当地に居る家族を引纒めて函館に向ふ。家族は同地に残し、小生単身廿五六日頃に中央の都城に入る筈。
 新らしき文学的生活。小生の運命を極度まで試験する決心に候、これは四百四病の外の外、日本の涯に来ての『東京病』は骨も心も共に腐らさんと致候、
 上京後は当分唯遊ぶ考へに候故、時々手紙も可差上と存候。
 諸事蝟集の中、辛うじて此一書を認め申候、同志諸兄へよろしく、委細は都より、かしこ、
   四月十七日
               小樽にて 石川啄木 小笠原迷宮様 御侍史
  二白 小生の向ふべき第一の路は、千思万考の末、矢張小説の外なしと存居候、

 ■ 二六二 四月十七日 小樽より 宮崎大四郎宛
 然り、と私は躊躇なく申候、小樽に入りて既に三夜を過し、具さに具さに思ひ染むる所あり、常識的行動なるものが、少くとも家族を有し金を有せざるものにとりて、如何に重大なる生活の要件なるかをしみぐと考へ申候、只今お手紙二通同時に着、兄の説教繰返し繰返し味ひ申候、然して遂に躇躇なく然りと申す外なく候、      
 何れ帰函の上、
 七円也、正に拝受、
 多分明十八日晩の汽車にて立つべく候、室お見っけ被下候由、如何な所でも金殿玉楼に候、
 出立の際は打電可仕候。
 
 与謝野氏よりの好信、同封致候間御覧被下度候、先づ此方も決定。君が無ければ僕は空しく北海の悪生活に埋るべかりし也、来るべき真面目の文学的生活! 後の世に残るやうな作を出す事が、君に対する唯一の報恩なりと深く覚悟罷在候、御憐察被下度候、
 アトは何も云はぬく、
 野口雨情君に逢ひ候、同君も今月中には必ず上京する筈、その手筈も九分通りついた様に候、北海道は筆を持つて来る所ではないと申され居候、
 小樽日報社は半瓦解の運命となり、今迄朝夕両刊にて八頁出したが、再び四頁新聞になる事に決定、凡ての設備を二分の一にしたり、都合によれば当分休刊せねばならぬかも知れぬとの事、
 釧路の小生のアトへは札幌に居た小国善平君ゆく事に決定
 「平凡」おもしろく読み候、「草迷宮」もうれし、さて小樽に来てはしなくも「照葉狂言」を見つけ、読み候、昔が切になつかしく候。かしこ。
 
 ■ 二六九 五月二日千駄ケ谷より 宮崎大四郎宛
 与謝野氏は前年より元気衰へ居候、これは幾多の原因ある事と存候が、悲劇に候ふかな、明星は今九百部印刷、毎月三十円から五十円位の損失とは気の毒の限りに御座候、
 東京及び東京の人が、思つた程進歩して居ないには意外の感あり、
 逢ふ人は皆小生の上京を心より喜んでくれ候、而して小説に転ずるといふ事を非常に歓迎してくれ候、晶子女史も小説に転ずると申居候、要するに、小生は今迄詩を書かないでゐて詩と離れ、東京の人は詩を書いて居乍ら詩と離れつつあるものの如く候、新時代と詩との問題は研究すべき好題目なり、但し小生は理屈は申さず候、
 一身上の処置に関しては未だ決定せず、
 (一) 一生懸命書いて居れば、月に三四十円の収入は必ずあるから、唯先づ書くべしとの説(与謝野氏も八分通り此説に候)
 (二) 創作をやると共に準文学をやる覚悟さへあれば二十円やそこいらの職につくよりもよいとの説
 以上二説比較的多数にて、口は方々にある由なれどまだその艦に致居候、然し今度は小生も余程実際的常識を重んずる筈に候故、早晩何かの職につく考へに候、新聞なら安くとも三十か三十五枚くれる由に候、兎も角小生は、何故モツト早く来なかつたかと残念に思ふ位に御座候何卒御安心被下度候。
 入京以来時々刻々頭が少しづゝ変つて行く様な感じ致し候、これは今迄余程角を短くして居た文学的自負が、周囲の刺激と共にだんだん復活して来るのに候ふべし、
 隣りに居候ふ生田長江君は短かいカイゼル髭をひねつて頻りに気焔を吐き候、昨夜森田白楊君と逢ひ候が、何となく音心気錆沈の模様に候、
 「新詩社との関係は関係として置いて、別に一家独立の立場を立てなくては損だ」とは真面目なる社外の人の凡てが小生に向つて成したる忠言に御座候、これは目下新詩社の勢力頗る微弱にて且つ敵多き故全く社内の人とのみなつて居ては、原稿売るにさへ都合悪い由に候、これは事実に候、小生は函館に居し時も云ひし如く、社とは文学上の意見も相異あり、社との関係は与謝野氏対小生の情誼上の関係に過ぎず候故、今後、氏の情誼に酬ゆる事は永久に忘れざると共に、一方独立の創作家としてやつてゆく考へに候。っまり新詩社の社友たると共に石川啄木なるを忘れぬ考へでやればよいのに候、
 ・・・
 今日は午后四時から森鴎外博士宅に歌会あり例の新派旧派合併にて佐々木信綱伊藤左千夫なども来る由、小生も案内状を貰ひ候、ゆくつもり也、★(p195)
 
 ■  二七二 五月七日本郷より 森林太郎宛
 謹みて過ぎし夜の御礼申上候、
 海氷る御国のはてまでも流れあるき候ふ末、いかにしても今一度、是非に今一度、東京に出て自らの文学的運命を極度まで試験せねばと決心しては矢も楯もたまらず、養はねばならぬ家族をも当分函館の友人に頼み置きて、単身緑の都には入り候ふものの、色々なる市の物音、珍らしければにや頭の中をくすぐられる様になつかしく耳につきて、まだ物書く心地にもならず、かくては飢ゑて死ぬべきをなど思ひかへしつゝ、矢張うつらうつらと煙草のみ吹かし居候、中学もロクに卒業せぬ程素養のなき私、殊に詩を書かずなり候ふてより、否、書きえずなり候ふてよりは、その日その日の戦ひにいや更に心荒れて、其昔の稚なかりし不敵の自惚何処へやら、書きたしと思ふ事を書きあぐる生活より外に、聊かにても満足を得る途なしと、謂はゞ文芸を、私如きものが世に生きて行く上の、物質的にはた精神的に、唯一つの生活の方法とやらに、身をはかなく小さきものに存じ、さてこそ身の一生の成敗、有るだけの力は惜まじと意を決し候ひしものの、函館よりの船の中、東京及び東京の人が如何に進んで居るかも知らねば、云ひしれぬ怖れと不安に心細く、横浜に上陸してすぐ汽車に乗るべきを徒らに一夜を旅店の三階に費やしなどし、新橋に着きては電車で二度三度乗換せねばならぬ事を此上なき重荷の様に感じ、なけなしの財布を底敲きて千駄ケ谷まで値でまゐり候程に候ひしが、かの大いなる都の物音を聞き初めてより、何かは知らず時々刻々に若き日の再び胸にかへり候ふ様にて、都の人を一様に吹き候ふ緑の風が、私の胸にも吹き入り候事と、朝な夕なに窓の公孫樹の若葉をうれしみ候、殊にこの数日の間に色々と云ひ聞かされし三四の人の云ふ事が、聊か私の心と違ひ候事不思議にも却つて私の心を安んじさせ申候、
 私の心は、今、月朧うにて袖の揺るるにも花の散る詩歌の故郷を旅立ちて、散文の自由の国土にあこがれ居候、書かばやと思ふ事は一つ二つならねど、何れより先きに書くべきかとも定めず、短きものよりは長き物書きたく候へど、長きものならば書きはてぬうちに飢ゑ申べしなど、友が情けの椅子の上、思ひは色々にて、卓子の上の筆のみは更に動かず、この心若し鏡にうつり候ふものならば、猿の児の人真似、我ながら笑ひ出候ふべき乎、
 入京以来与謝野氏の許にお世話に相成居候ひしが、去る四日午後、この下宿にまゐり候、艸々、
  五月七日夕            石川啄木拝 森先生 御侍史
 
 ■ 二七三 五月七日本郷より 吉野章三宛★(p197)
 来てから話して見た人の数は一人や二人でない。そして彼等の言ふ事が少しも僕に利益を与へぬ。つまり東京及び東京の人が、僕の想像して来た程に進歩しては居ない。新橋についた時、永く地方に居たものの久振で大都の門に立つて誰しも感ずる一種の怖れと不安、自分も人の数には洩れずそれに襲はれて、電車に乗るのさへ非常に面倒な事の様に感じたのだが、今は漸く安心した。安心した許りでない、
云ひ難い一種の勇気が出た。
 面白いものちやないか。平野君ところに吉井と北原と僕と三人で泊つた時、この三人の人は一様に今の自然派の作物を非難して居た。非難の要点は、彼らが好んで肉感を挑発する様な筆を使ふといふ点であつた。所がだ、この三人のいふ事が頗る自然主義的であつた。彼等の以て自然主義の欠点なりとする事を、彼等は平気で話して居た。吉井北原は知らず、少なくとも平野君の如き、以前はこんな事をいふ男ではなかつたのだ。そして平野君は、米国版のツルーラヴといふ春情本(発売禁止の)を出して頻りに其面白味を説いた。一寸見たが、それはそれはひどい事を全たく無遠慮に書いたものだ。君、この書を愛読して居る人が自然派の小説を罵倒することが出来ようか。僕の創作上の態度は所謂自然派の人々と全く同じでない。然し面白いぢやないか。時代が新らしくなつて居る。自然主義を罵る人が、いつしか遂に自然主義的な人間に変つて居るとは!!どうも東京の人は其日暮しの議論をして可かん。或者は自然主義万能を説く。或者は自然主義の反動が明日にも起る様な事をいふ。明後日のあたり新ロマンチシズムの代表的作物が出版される様な事を語る。こゝが東京の面白い所で、そして東京人の思つた程進歩しえなかつた点だ。そこへ行くと僕はどうも豪い様な気がする。僕がこの十日間に得た観察を綜合して見ると、大略次の如き結論に達する。曰く、
  自然主義は勝つた。確かに勝つた。然し今其反動として多少ロマソチックな作にあこがれて居る人は決して少くない。けれども此反動は自然主義の根本に対する反動では無くて(僕の見る所では)唯自然主義が余りに平凡事のみを尊重する傾向に対する反動だ。今は恰度自然主義が第二期に移る所だ。乃ち破壊時代が過ぎて、これから自然主義を生んだ時代の新運動が、建設的の時代に入る。僕は実際よい時に出て来たよ。
 そして、第二期の自然主義の時代の半分以上過ぎた時、初めてホントウの新しいロマンチシズムが胚胎するに違ひない。
 その二つが握手して、ここに初めて、真の深い大きい意味に於ける象徴芸術が出来あがる。
 
 ■ 二七四 五月十一日本郷より 宮崎大四郎宛
 小説は『菊池君』と題する。舞台は釧路、菊池君なる男を書くのだが、それと共に、人と人とが近づきになる径路を最も自然に書きたいのと、まだ少しそれに附随した目的がある。多少は、否、随分、苦心してるので、初めの日も、翌くる日も、一日かかつてタツタ三枚宛しか書けなかつた。昨日は十五枚、今日は今午后七時までに十枚かいた。才にまかせてズンズン書くのなら僕はチットモ困らぬが、努めて簡潔な文を書きたいと心がけて居る。それが(迸る才を殺す事が)仲々辛いものだ。漱石の虞美人草のゆき方ならアレ位のものを二週間で書けるけれど、川の此岸から彼の★(p201)岸まで、スッカリ一直線に流を横ぎる事は、余程疲れる事だ。七十枚位になるかと思つてる。
 
 ■  二八三 六月四日本郷より 森林太郎宛
 先生先刻お留守の所にお伺ひして、悪作を二つ、あとでお目にかけて下さるやうおねがひして、逃ぐるが如く帰ってまゐりました。この前お伺ひしたときは「菊池君」といふのを初めて書いたときでしたが、それは中途で面白くなくなつて且あまり長くなるものですから、五月十八日から「病院の窓」を九日かかつて書きました。あれを書いてゐるうちに函館におきました幼児が、さきに腹を悪くして死にかゝり、それが少しよくなるとヂフテリヤといふのに罹ったといふて頼んでおいた友人から毎日手紙がまゐつたのでした。危篤の知らせのあつた日には小説をかぎかねて、変な詩を七篇かぎました。小児はもう安心なさうです。
 三十日には、「母」といふ三十一枚のものを十二時間許りかかつて書き上げました。「天驚絨」は三十一日夜から書き初めたので、今日午後二時脱稿、夕方に結末を少し書き直しました。一番かいた日には三十四枚かきました。
「病院の窓」脱稿すると間もなく、函館へ薬代をやらねばならなかつたので、同宿の金田一といふ文学士が中央公論の人へ持つてつてくれたのでしたが、あまり長くて駄目なさうです。先生、もし(お暇のない所失礼ですけれど)御覧になつて雑誌位には出せるやうでしたら、誠に恐れ入りますけれども、新小説なり何なりの人へ御紹介状でも下さるわけにはまゐりませんでせうか、先月の下宿料も払ひかねてゐる体たらくでございます。今日で原稿紙も尽きましたから腹案は五つも六つもありますけれど、明日からは何も書くわけにいきません。先刻帰りに高等学校のわきの砂利置場の木柵によりかかつた時、つくづくと東京がイヤになりました。情なくなりました。友人は鎌倉の寺へ行つて泊つてると一日二十銭位で暮されると教へてくれました。
若しあの中どちらでも売れたら、下宿料を払って、そして本を二三冊と原稿紙と煙草を買って、鎌倉に二三ケ月逃げやうかと、只今考へたのです。
つまらぬことを書いて済みませんが、私は東京にきてから今夜位なんだか妙な気持のした事はありません。
  四日夜十一時半            啄木拝
 森先生 御侍史
 書いてゐて飯が食へるものなら、私はいくらでも書きます。書き初めさへすれば一口に二十枚は屹度書けます。私は私の書くものが修作だといふ事を知つてゐますから、決して自惚れませんが、正直に申上げればこれより拙いのが矢張活字になつてゐるやうです。
 
 ■ 二八六 六月十四日本郷より 宮崎大四郎宛
 君。少し安心してくれ給へ。
 『病院の窓』を春陽堂で買取つてくれた。(森先生の手から)八月の新小説に出る事と思ふ、報酬は其時でなくてはとれぬが、然し一枚五十銭位はくれさう故、五六七の三ケ月分の下宿料はそれで間に合ふ事になる。
 『天鷲絨』と、新たに脱稿した『二筋の血』を、一昨夜長谷川天渓君へ行つて頼んで来た。これも今月中か来月には物になる。
 先月分の下宿料、今日全部払つた。安心してくれ給へ。(病院の窓アテコミの融通で)そして原稿紙三十帖許り買つて来た。一円六十五銭で勧工場から白地の単衣を買つて来た。
 今夜から、大野心(?)を起して三百枚位の長篇を起稿する。月末までに脱稿する見込。これが書ければ、(そして物になれば、)来月の末は家族を呼ぶによいかと思ふ。然しこれはまだ不正確な事だ。兎も角少し景気づいたから安心してくれ玉へ。家族へも知らしてくれ給へ。当分御無沙汰するかも知れぬ。
白村、正二君近況如何よろしく頼む。
 
 ■ 二九〇 六月十七日本郷より 宮崎大四郎宛
 僕は一二ケ月のうちに、心の花へ匿名で歌を出す様になるかも知れぬ。小規模の謀反を企てたくなつたのだ。つまり、初めは平凡な歌を出して、段々新らしいのを出して、竹柏会の才人共を段々佐々木タイプから脱出させようかと思ふのだ、呵々。
 前にも云つてやつたかしれぬが、僕は今金星会をやつてゐるよ。二十首に三十銭つつ添えてよこすのだ。郵便切手代はそれで儲かる。
 ・・
 一昨暁の川上眉山の自殺! 君、これは近来の最も深酷な悲劇だ。知らず知らず時代におくれて来て、それを自覚した一創作家の末路! その幻滅の悲痛と生活の迫害! 人事とは思へぬ。まして露伴や泣董や鉄幹や宙外はどんな気がしたらう?!★(p217)
  
 ■  二九一 六月二十七日本郷より 吉野章三宛
 この頃小説がかけない、何だか頭がフラフラしてゐて、立つてみたり坐つてみたりして許りゐる。…浮気のせゐかも知れぬ。
 その代り四五日前から馬鹿に歌を作つたよ、どうしたものか、渡々として歌が出来る、変なものだが、自分では面白いよ、廿三日の晩に初めて作つたのを新詩社に送つておいた。来月の雑誌にのるかもしれぬ、一昨夜は一晩に百四十一首作つた、昨日は吉井君と二人で作つた、そこへ平野君が来て晩には平野君の宅へ行つてうまい物を食つて来てから一緒に例のすきあるきをやつた、不幸にしてこれぞと思ふのを見なかつた。
 また月末になつたが、イヤだね、春陽堂ぢや十年来の不景気で弱つてるさうで、僕の原稿料も掲載後まで待つてくれと言ひやがる。何としたら可いか弱つたよ、今夜あたり長谷川天渓君へ行つてみるつもりだ。
 いつか金が入つたら一つ飲んで、グデンくになつて街を歩いて見たいと思つてゐるが……
 
 ■ 二九八 七月七日本郷より 岩崎正宛
 兎に角人生は苦痛だ。神など無論無い。霊魂もない。あるのは永劫不変の性格の根のみだ。それが何よりの苦しみだ。そして君。人間も遂に動物だ。上等下等の階級はあるが、矢張動物だよ。無いと信ずる「神」といふものに、祈つてみたい様な心地さへする。 泣かず笑はざる「真面目」の苦痛!
 独歩--瀕死の独歩は、「予は極度まで人生一切の歓楽を味ひ尽さざりし事を最も遺憾に思ふ」といふ様な事を云つたさうだ。--
 君、僕の現在かく生きてゐる唯一つの理由--自分でこしらへた理由は、人間はその一生のうちに、最も大胆に、最も露骨に、最も深く、最も広く、人生一切の悲喜哀楽のすべてを味はつて、--理智では知る事の出来ぬ人生の真の面目を実地に味ひつくして、そして死ぬ人が「真の人間」--英雄だ、--少くとも僕の理想だといふ、苦しい苦しい覚悟唯一つ。何事も知らなくてもよい。総てを味つてみたい。刹那刹那をも無為に過さずに、深く広く一切の人生の苦痛と歓楽を味はひたい。無信仰だ! 無道徳だ!
 僕は僕の小説に於て、自分が先づ素裸体になつて、一点の秘すところなく告白しようと思ふ。そして一切の人物を捉へ来つて、矢張り僕と共に素裸体にしようと思ふ。仕立屋の縫つた衣物をきてゐるうちは駄目だ、虚偽だ。まづ裸体にならなければならぬ。裸体になつた上で、寒かつたら寒いやうな、暑かつたら暑いやうな、それ相応な衣服を新らしく作らなければならぬ。君、これは決して空論ではない、僕の自暴自棄の語ではない。全くだ。かくて僕は、すつかり裸体になつてしまつた上での新らしい衣服に、新時代の新道徳といふ様なものを微かに望んでゐる。
 僕にとつて、小説は僕自身の告白だ(広い意に於て)そして人間の虚偽を剥いでしまふ為の唯一の武器だ。現状を打破して新世界を作る為めの唯一の武器だ。
 モウパツサソの自殺! それを或評家が評して、彼は自己の告白に堪へかねて自殺した、と言つたそうだ。ああ。★(p229)
 ・・・・・・
 然し君、短歌は君も早晩捨てなければなるまい。そして長詩も捨てなければなるまい。日本の新時代の文学は、矢張小説とドラマだ。此間蒲原君に逢つたが、同君でさへ詩を見くびつてゐる。泣菫は勿論死んだ。誰一人詩に極力謳歌してる人はない。与謝野氏の様な頭の古くなつた人だけだ。詩は矢張或る意味に於て遊戯に近い。★(p232)
 
 ■ 三〇二 七月十八日本郷より 小田島理平治宛
 さきには大胆に露骨に歌ふべき旨苦言仕り候ひしがすでにこの大胆にして赤裸々なる御心境を得られ候上は、更にこの大胆にして赤裸々なる想を、最も適切に、一字一句のムダなく歌ひ出づべき、新らしき意味(本来の意味)に於ても技巧に御苦心遊ばさるべく候。然し乍ら、現時の如き大胆奔放なる歌は、要するにこれまでの新短歌のやゝ一種の型をなしたるに対する反動たる性質あり。(無論それ以外、時代精神と相呼応する内面的性質、たとへば象徴的傾向、否定性等の近代的呼吸が少くとも小生の歌にはある様に存じ候へど)既に反動なるが故に、この大胆にして、赤裸々なる心を以て、更に純情の歌を作るべき時代が必らず来る事と存じ候。否、必ず来らねばならず候。それまで先づ現時の調にて充分に大胆に熱心に真摯におやりなさるべく候。
 今一度か二度、お作を拝見したる上にて新詩社に推薦いたし度く存じ候。今迄に金星会より推薦したるは長島豊太郎君一人に候。同君の本月号の歌など佳作少なからず候。★(p233)
 
 ■ 三〇四 七月二十一日本郷より 菅原芳子宛
 然しながら小生は、歌を読むことは大好きに候。そは、現時の文壇に於て、最も進歩してゐるのは和歌に候へば也。それに次ぐものは小説に候ふべく、新体詩などはまだく幼稚なものに候。小生の如き、その初め新体詩に全力を傾注したものにて詩集まで公にし候ひしも、今となつては何人の作も読んで心より面白しと思ふことは無御座候。それに反して和歌だけは軽蔑(自分の全力を注ぐには足らぬものと)しつつも、猶読んで一番面白く候。且つ現時の歌壇の盛運は、国詩発達上の最盛時とも申すべく、万葉、古今、新古今、の三時代に比して数段の上にありとも云ひうべく候。且つ又、詩学者の口吻をかりて云へば、詩形の短縮といふ事は近代文芸の一大傾向に候へば、その意味に於ても従来の和歌に更に新らしき意味を発見しうべしと存候。この意味に於て、小生は盛んに短歌人が今までの所謂新派和歌より脱出して、更に近代人的情操を歌ふに至らむことを希望いたし居候。近代思想の一特長たる内面的客観性、絶対化性、虚無的傾向、否定性等は多少小生の作にもあらはれをる事と存候。明星の歌は今第二の革命時代に逢着したるものの如く候。★(p236)
 
 ■ 三一〇 八月十日本郷より 菅原芳子宛
 歌書にては、万葉古今は必ず味読の必要もあるべく、その為に益する所は少なからざるべき乎。明治の歌集にては晶子さんの著と平野君の『若き日』などの外、これといふ価値あるものもあるまじく候。漢詩の本、俳句の本、これらも案外面白きものに候。唐詩選などは小生の常に座右をはなさぬ愛読書の一つ。日本にも西洋にもない一種の趣味面白く候。俳句では蕪村の句集を切に推薦いたし候。ゆく春や重たき琵琶の抱心地。なんとうまい事をいふものに候はずや。内外出版協会の版にて山田三子といふ入の編みたる全集ある筈に候。晶子さんなども余程蕪村の影響をうけられた様に候。★(p243)
 
 ■ 三一八 九月九日本郷より 藤田武治、高田治作宛
 之を僕の接近してゐる社会にのみ限りて見るも、東京は、遂に面白き所たる資格を失はざるものゝ如く候。東京には、その日暮らしの議論を毎日毎日真面目になつて吐いてる人無数にあり。此等の人は一生喋つて死ぬ人に候。偶には立派な議論をする人あり。(現今立派な議論とは実際の人生と成るべく縁の遠い議論の事なり。)これらの人は一生顔をしかめて死ぬ人に候。
 要するに、議論は何人にも出来る事なり。脱糞すると同じ。故につまらぬ事の限りなり。
 創作家と称する人々の社会も亦面白し。ゴク少数者を除外例とし、大体を二分するを得。第一種の人は勤勉なる鈍物共なり。田山花袋君などを筆頭とし、酒をのめば必ず酔ふもの、女といふものは常に弱き者、などといふことを知れる若き多忙なる鈍物無数なり。これらの人は一生汗を流して死に、死んで批評家に惜まれて忘らるゝ人々なり。第二種の人々は老若無数の変種を含む。一言にして言へば覚めざる人々なり。(二)古き夢よりさめざる人あり。(二)若き夢より覚めざる人あり。(三)覚めむことを怖れて、夜が明けても寝てゐる人あり。(四)夢の覚め方が何人も同じなるを知らで、何とかして自分一人特別な覚め方をしようと無用なる苦痛をしてゐる人あり。(一)は坪内博士、後藤宙外など筆頭なるべく、(二)は年若くして文学に志す人の大多数なり。(三)は泣董、鉄幹、有明の徒。(四)は胃腸の如く大体の人に少しつつ必ずあり。代表者はやゝ当らざれども泡鳴などか。此等の外、覚むるといふことを知らざる聖代一の逸民あり。最も愛嬌に富みたるは此種の人々にて、随分多数なり。文壇の余興的人物としてこんなものも或は必要ならむ。最も無邪気なる例は児玉花外などなるべし。此等何千人といふ覚めざる人は皆それ相応に寝言をいふぞ面白き。
 誤まられたる自然主義の影響といふべきデカダン的気風は文学を語る青年の間に澎湃たり。彼等に於ける唯一の真摯なる事は肉慾を語ることなり。深く深く真面目に告白し得ざる人は無論憐れなる不幸の人なれど、告白と広告とを間違ひたる彼等も亦憐れむべし。其得意になりて語る所は、種々なる機会に於ける閲歴なり。彼等は閲歴の豊富を以て唯一の誇りとす。僕その間に交りて、ケロリとした顔をし乍ら、色々と詭弁を弄して遂々アラン限りの事を白状させるなり。大体の奴はその恥づべき事を語るに事実以上に附加して語る。何と面白き世の中には候はずや。毎週月曜日は予の安息日なりといへる男あり。其故を問へば、月曜日には必ず日本橋の待合に行つて淫売を買ふ事に定めたりと答ふ。此男は歌壇に名ある伯爵の令息なり。呵々。
 『牛肉と馬鈴薯』に於ける故独歩の唯一の希望は、心より驚かむことなりき。彼は死して一躍文豪となれり。名はどうでもよし、僕は独歩を愛す、敬せざれども極愛す。彼のいふ所概ねよし。
 東京人は驚かざる人種なり。何を見ても何を聞いてもサッパリ驚かざる人種なり。善き意味に於ても悪き意味に於ても、都会人は大人なり。小児にあらず、彼らの心は麻痺して、何事にも平気なり。平気なるが故に、その心に動揺少く苦労少し。動揺と苦労も貴いかな。
 両君足下、少し真面目になりて物いはむ。
 両君足下、東京人の真面目は、軽卒なる、日常の真面目なり。我らは然るべからじ。東京人は地方人に比して思潮に触るゝ事早く、且つ広し。然も彼らの触れ方は浅し、軽し。
 我らは然るべからじ。東京人の観察は薄し、広し。我らは然るべからじ。東京は武蔵野にあるが故に山なし、平坦なり。故に東京人は山を知らず。時勢の推移の山一つ来る毎に、彼らは直ちにその上に駆け上り、我らのエブエレスト峯はこれなりとす。最近の山は自然主義なりき。我らはかくの如くなるべからじ。我らは一切の慣習より脱して、真に新らしき心を開いて観ざるべからず。善、悪、神聖、堕落、清、濁、これら一切の古きマガヒ物の尺度を捨てて、我自ら深く真面目に思想せざるべからず。思想する事と議論することとは別なり。思想せざる人も議論す。
 僕は自然主義を是認す。然れども自然主義を以て唯一の理想なるが如くいへる人々に同ずる能はず。デカダン的気風に随喜するものは痴者なり。然れども又これを以て腐敗呼ばはりするものも同時に痴者なり。……
 僕は一切を是認す。然れども軽しく結論するを欲せず。真の作家は、人の心理を知悉すると共に、時代の心理を透観せざるべからず。問ふ、両君はいかにか今の時代を見る。★(p255)
 すべての存在に必ず理由あり。而して世に一として満足なる事なし。今迄の学者詩人哲人の作れる結論は多し。然れども世には未だ一の結論なし。人生自らが未だ結論に達せず。三階の哲学者は今何事をかなさむと企てつつあるものの如し。(紙がなくなるので不得要領に終つた)


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