啄木 ・ 書簡  明治四十二年 (24才)


  
  ■  三四六 三月六日本郷より 森林太郎宛
 
 拝啓仕候、日夕目前の項事に身心を労して、御高誨を仰ぐの機を得ず荏薄として御無沙汰のみ相重ね居り候事、誠に赦顔の至りに御座候、先月御清会の際も不幸にして参上致兼、今月はお葉書頂戴致し候より是非是非と心懸け居り候処相憎今日は小生「東朝」へ入社以来初めての夜勤の当番にふりあてられ復々不幸にして拝趨仕りかぬる次第と相成、遺憾この上なく存じ候誠に誠に本意なき儀何卒不悪御諒恕被下度奉願上候。
 上京以来既に十ケ月録々として何の為すところなかりし小生の不得要領の生活は夙くより先生の御慰笑被遊候御ことと奉恐察候糊口の途を得ることにつき、先生にお願ひ致さば或は何とかして頂けぬこともあるまじなど思立ち候ひしも再三再四ならず有之候ひしも、既にかの悪作を春陽堂にお世話願上候事後にいたりて恐懼措くところを知らず存じ居り候こともあり、又一つには一身前途の事について殆ど何の確信をも有せざりしため遂今日まで再び失礼を繰返すの蛮勇を起しかね居候次第に御座候、然る処、此度「東京朝日」に長く編輯長を勤め居候同県出の佐藤と申す人の世話にて、去る一日より月給二十五円、夜勤手当一夜一円との事にて同社にて使つて貰ふことと相成、当分校正の役をふりあてられ異様なる新しき気持を持て毎日出勤罷在候。これにてまづまづ最低程度の生活の基礎出来候訳なれば旅費その他の苦面のつき次第函館なる家族を呼び寄せ東京に永住の方針をとりたくと存じ目下は愈々その事にのみ焦慮仕居候、社より解雇さるる時ありとすれば、別問題に候へども、出来ることならば小生は一生朝日社に奉公しても宜敷と、否、致度と存居候、小生の精神は昨年十二月もズツトおしつまりての頃より、未だ嘗て経験せざりし或る強き衝動に支配されたることに御座候、その為このニケ月の間は随分盲目的に八つあたりも致し、先生には申上げかねる程の行動まで演じ申候、かのスバル第二号編輯について諸先生に対しては恐懼に堪えざる程の失態をいたし候その為、又、その後、平野君をして憤怒せしめしも、畢竟ずるに皆小生内心の或る努力の一部分に候ひしことに御座候--かくて、現在に於て、小生は何かしら心のうちに頼むところ出来候様にて、前申上候生活上の決心のみならず、私交上のこと、創作上のこと、男女の問題のこと……すぺてに或★(p277)る決心が出来た様な気いたし候長く、長く、長く、失ひ居候ひし自信が、その一部分か、或は幻影の如きものかも知れず候へども、再び小生に帰り来り候様にて、うれしく存居候、御一笑被下度候、猶々先生に申上げたき事有之候へども、出勤時間さしせまり候ままこれにてペンを欄き申候、若し何日か池辺主筆にお逢ひの折も候はゞよろしく御申添置を奉願上度、さすれば小生の幸ひこれに不過候何れ機を得て、御無沙汰のお詫びにまかり出で度存候、草々拝具
 
 ■ 三四八 四月十六日本郷より 宮崎大四郎宛
 
 「朝日」(君は読売といつたがそれは君の思違へだ)へ入つたのは君事実だよ、但し夜勤をしてないから二十五円だ。
 何といつてよいか解らぬ、皆が死んでくれるか俺が死ぬか、二つに一つな様な気がする。母のいふ事、妻のいふ事、君の言つてくれる事、皆無理は少しもないと知つてるので苦しい悲しい。ヒヨットすると(例へば母でも突然やつてくれば)僕が短気を起してどんな事をするか知れぬ様に君も妻も思つて心配してくれるが、僕は悲しい。今迄も僕はよくそんな風な事を言つたり、したりして家族をおどした。おどしたのだ。母などの言ふ事に少しも無理はないと思ふけれど、三畳半にゐる所へ来られたりしてはどうする事も出来ないから、さうしておどしておくより外はないのだ。僕だつて何んでそんな事したいものか。
 先月末に呼ぶ様に言つてやつたのもウソではないのだ。ところが「鳥影」は大学館にも到頭売れなかつた。察してくれ。それから家を持つだけの金の方を貸してくれる筈だつた北原は「邪宗門」の方が意外に金がかゝつたので矢張駄目だつた。(君、アノ本は易風社から出たが、実は本屋の名前だけ借りたので自費出版なのだ。)
 今迄の滞りで下宿屋がイヂメる。先月は入社早々前借して入れた。今月もあまりイヂメられるので、モウ十五円だけ前借して入れた。そして僕は毎日の電車賃を工夫して社に通つているといふ有様だ。
 が、二十五円といふ基本さへあれば、家族が来てもどうかかうか暮せる。
 たゞ、家を持つ金、旅費、それから下宿屋に納得させる金、それだけが問題だ。それさへあれば、僕はこんな--
 実状はこの通り。何の秘密もない。たゞ苦しい。花はさいたが、僕には何のことはりなしに散つてしまつた。
 とにかく基本だけは出来たのだから、モ少し待つ様に母や妻へ言つてくれ玉へ。頼む。何とかいたら可いか解らぬので手紙もやらずにゐた。
 何日の間やらうやらうと思ひつゝ、手紙をかくのがおそろしさにそのまゝにしておいた、一円ある。別封、どうか母へやつてくれ玉へ。
 君の健康! あゝそれに僕はちつとも責任がないか!
 
 ■ 三五四 九月二十八日木郷より 新渡戸仙岳宛
 この手紙、普通の手紙ならばまだまだ申上度き事は沢山有之候へど、実はお願ひの手紙に候、潜かに先生の御意見を伺ひ奉り度事有之候、失礼の段は幾重にも御容赦被下度候、実は小生唯今佐藤北江氏のお世話にて東朝社に出て居り、二十五円貰ひ居候、これではどうしても足らず候、現在は表記の床屋の二階二間を借りて居り候へば、自分でも実は感心する位切詰めた生活致居候へど、それでも足らず候、殊に??妻の病気、尤も日増少し宛よくなり居候、あと二月も気長く薬用と養生をすれば直ると医者申候へど、今のところ殆んど閉口の体、以前は困れば借金するを何とも思はぬものに候ひしが、近頃それは出来るだけ罷め居候為、寧ろ滑稽に近き事件毎日の様に家庭内に起り候、さればと言つてまとまつた創作などは一定の社の方の務めあれば却々出来申さず、それで色々勘考仕り候ふ上にて思付き候ふは、毎日通信を書いて送ることにして地方の新聞よりいくらか貰ふ工夫あるまじきかとの一案に御座候、これだけの事ならば毎朝新聞を読んでから一時間か一時間半の時間あれば出来る事故、さして苦痛にもある間敷と存候、それで成るべく多方面の事を(見、聞き、又は新聞の焼直しにて、)通信したきものと存じ候、報酬は、無論いくらにても生活のたしにさへなればよいといふ程度にて宜敷いのに御座候、
 日報には現在「東京だより」もある事故、如何かとは存じ候へど、先生の御指金にて、小生をお救ひ下され候ふ御積りにて御採用の事叶ふまじく候や、誠に誠に御申訳なく候へど、万一出来さうの事なら可然御取計らひを仰ぎ度偏へに願上奉り候、尤も御採用被下候ふ上は、決して怠け申すまじく、又成可「東京だより」と衝突せぬ様の手心にて材料を選び毎日一段位、(但し日曜は休み)御送り致度き積りに御座候、
 右唐突ながら御高見奉伺候、先は御願事迄 草々頓首
  九月二十八日午後          石川啄木拝
 新渡戸先生 御侍史
  題は「百回通信」とし、百回尽きたら又百回といふやうに致さんかと存居候、「国民」の「東京だより」が差当りのお手本に候、
 
 ■ 三五六 十月十日本郷より 新渡戸仙岳宛
 病妻に関しての御同情のお言葉、胸をさゝるゝ思ひして感銘仕候。今は洗ひざらひ恥を申上ぐる外なし。実は本月二日の日、私の留守に母には子供をつれて近所の天神様へ行つてくると言つて出たまゝ盛岡に帰つて了ひ候。日暮れて社より帰り、泣き沈む六十三の老母を前にして妻の書置読み候ふ心地は、生涯忘れがたく候。昼は物食はで飢を覚えず、夜は寝られぬ苦しさに飲みならはぬ酒飲み候。妻に捨てられたる夫の苦しみの斯く許りならんとは思ひ及ばぬ事に候ひき。かの二三回の通信は全く血を吐くより苦しき心にて書き候。私よりは、あらゆる自尊心を傷くる言葉を以て再び帰り来らむることを頼みやり候。若し帰らぬと言つたら私は盛岡に行つて殺さんとまで思ひ候ひき。昨夕に至り、先生のお手紙と同便にて返事参り候。病気がなほつたら帰ると言つてまゐり候。弱るには非常に弱つてをり候へど、行く二三日前から顔色などは殆んど健康体の如かりし筈。無理な言分かも知れず候へ共、娘を貧乏させたくなさの先方の親達の心が、更に何日何十日この私にかゝる思ひをさせる積りにかなど怨まれ候。過去一年間の全く一切の理想を失へる生活より、漸々この頃心を取直してこの身のつゞく限りは働かむと思立ちたる折も折の此打撃に御座候。★(p285)
 御存じも候はん如く私は非常に反抗心の強き男に有之候。それが今度は反抗どころか、全く妻の為に意久地なき限りの手紙をも書き候ふを、若しこの上長くこの儘にしておかれるやうにては、その間に、私は自分で自分の心がどうなるか解らず候。帰つて来ると決心した以上は、出来ることなら一日も早く帰つてくれる方、恐らくは二人の生涯の為ならむと存候。少くも私の為には節子の居らぬ間は唯苦しい心地あるのみに候。さればと言つて、今迄ロクに養生もさせかねた事故、「病気の為」と言はれては、それを無理にとも言ひかね候。然し帰つてさへくれば今度の御厚志の分も手つかずにあり、また夜の目も寝ずにでも医療の料だけはつゞけるつもりに候。
 無論先生にこんな事までお願ひ出来るとは存ぜず、かゝる事お耳に入れて御心配かけるさへ心苦しき次第に候へど、若し道にてなど??妻にお逢ひなさる様の事の候はゞ、よくよく右の私の心お説き聞け被下、一日も早く帰つてくるやう御命じ被下度伏して願上げ奉り候。万一にも実家の方にて何のかんのと節子の帰りを長びかせるやうの事あらば、その時こそ私は、二人の将来のすべてを犠牲にするだけの、心ゆく限りの復讐をいたすべく候。妻の家出の第一の原因は、私の老母との間柄に存するものゝ如く候。それについては私は時代の相違てふことの如何に悲しきかを感じ居候。然しそれも母も毎日泣いてゐるうちに早く帰つてさへ呉れゝば、雨ふつて地堅まる結果に立到るべきを確信いたし居候。旅費は送つてやつた筈に候故、この事若し機会有之候はゞ節子にまで何卒御申しきけ被下度候。
 
 ■ 三六二 十二月二十四日本郷より 宮崎大四郎宛
 
 その後の昼夜間断なき努力は、僕をして今度初めて歳暮らしい歳暮、新年らしい新年を迎へることを得せしめるらしい。目下家内に病人もなく、二三日前野辺地にゐた老父も上京した。正月以後は毎号スバルと新小説で評論も発表する。いつれ少しひまになつたらくはしく消息しよう。夫人へよろしく。


home