啄木 ・ 書簡  明治四十三年 (25才)


 ■ 三六八 一月九日本郷より 大島経男宛
 
 新年の御慶芽出度申納めます、長らく御消息を知らずにゐましたところへ御祝詞を戴きまして誠に嬉しう御座いました、実は先生は横浜に来られたとか東京に帰られたとかいふ噂もありましたので、いつかは思ひがけなくお目にかゝる機会がありさうで、いつだつたか並木君に逢ひました時も、「電車に乗つてると大島さんがヒヨツコリ乗つて来さうに思はれる事がある」と談り合つたこともあつた次第でした、「その後  さ様十一月中でしたらうか、函館日々の月曜文壇に岩崎君が書いたうちに、「大島君が北海タイムスで純文学鼓吹をやつてゐるし云々」の事がありましたので、さては札幌にゐられるのかと思つてゐました。
 
 函館にゐてお世話になつた頃を考へるとボーツとしてまゐります、あの頃私は実に一個の憐れなる、卑怯なる空想家でした、あらゆる事実、あらゆる正しい理を同避して、自家の貧弱なる空想の中にかくれてゐたにすきません、私の半生を貫く反抗的精神、その精神は、然し乍ら、つまり自分で自分に反抗してゐたに過きません、それと気がつかずに、唯反抗その事にやりどころなき自分の感情を託して、??嵯し、慷慨し、自衿してゐた噫病な無識者は、遂に内外両面の意味に於て「破産」を免かれませんでした、自然主義は、私のこの思想上の破産に対して決して救済者ではありませんでした、寧ろ執達吏のやうな役目を以てあらはれました、上京後一歳有余の私の努力--その空しき努力は、要するにこの破産が一時的の恐慌から起つたのではなく、長き深き原因に基づいたものである事を明らかにしたに過きません、最近咋年秋の末私は漸くその危険なる状態から、脱することが出来ました、私の見た悪い夢はいかに長かつたでせう、
 あの頃あなたの頭にあつた問題は(詳しい事は知りません、けれども)私のズツト以後に至つて初めて付度する事の出来たところです、あなたは時代に先んじてゐられた、それ故にあなたはそれを適当に発表する途を得ずに苦しんでゐられた、その事を私は切実に感じた事があります、そして先生は、実に唯「底知れぬ人」「自己を虐待してゐる人」(p291)「寂しい人」としてのみ我々の目に残つてゐました、あの頃の事を思ふと、私は今あなたに数々お詫を申さなければならぬやうな気がします、何にしてもあなたが再び社会の表面に出られたといふ事には、私は悦こばずにはゐられません、
 そして私は、同時に日本人の発達に対しても亦悦ばずにはゐられません、義理と人情の衝突とか理想と実際の衝突とか名附けられてゐた日本人の煩悶は、いかに急激に深く且つ内容の豊かなものに進歩したでせう、現在の日本には、恰も昨日迄の私の如く、何らの深き反省なしに日本国といふものに対して反感を抱いてゐる人があります、私はそれも止むを得ぬ現象と思ふけれども、然し悲しまずにはゐられません、私は考へます、遠い理想のみを持つて自ら現在の生活を直視することの出来ぬ人は哀れな人です、然し現実に面相接して、其処に一切の人閲の可能性を忘却する人も亦憐な人でなければなりません、かくて私は現在の殆んどあらゆる批評家の言に反対せねばならぬのです、既に我々は我々の現在のいかなる状態にあるかを知りました、この状態は決して満足すべきものではありません、我々は乃ち進んで、このやうな状態になつたところの原因を探求し、閾明し、而して更に創造者の如き勇気を以て現在の生活を改善し、統一し、徹底させねばならぬのではありますまいか、人生ー狭く言つて現実といふものは、決して固定したものではない、随つて人間の理想といふものも固定したものではない、我々は時々刻々自分の生活(内外の)を豊富にし拡張し、然して常にそれを統一し、徹底し、改善してゆくべきではないでせうか、あらゆる思想、あらゆる議論の最後は、然して最良の結論は唯一つあります、乃ち実行的、具体的といふ事です、(と私は思ひます、)私は叙上の意味に於て新らしい個人主義を力強く把持して行かうと思ひます、同じ理由から私は、機会があつたら新日本主義といふものを説かうと思つてゐます、
 現在の日本には不満足だらけです、然し私も日本人です、そして私自身も現在不満足だらけです、乃ち私は、自分及び自分の生活といふものを改善すると同時に、日本人及び日本人の生活を改善する事に努力すべきではありますまいか、
 以前の状態の反動でもありませうが、私は人間の理性の権「威を認めずにはゐられません、特に私は色々の人の文学上め議論を読む毎にこれを力説したく思ひます、人は感触の鋭敏といふ事を「近代的」といふことの一つの特徴として、それを誇張し標榜し、文芸上の作物の価値判断の標準とまでします、それを悪いとは言はぬ、然しあらゆる意味に於て、時代の病処を共有してゐるといふ事は、人間の名誉ではないではありますまいか、近代人の作物に近代人の特徴の現はれるのは無論あたりまへの話である、その時代の特微を知らぬ位の人は無論その時代に無用の作家には違ひない、然しその価値判断の標準は、時代の特徴を沢山持つてゐるか否かでなくて、さういふ特徴をもつた時代に対する作者の態度如何にあるべき事と私は思ひます、総じて私は、一切の文芸は作者の把持する哲学の奴隷でなければならぬと思ふ、従来の意味に於ての詩人といふものの如きは、少くとも私の現在に於ては、玩具屋とか幇間位にしか必要がありません、文芸は広い意味に於て全然ジヨアナリズムであつて可いと思ふ、作者の哲学(プラクチカルな)(生活意識の統計)から人生乃至其一時代を見たところの批評の具体的説明でなければならぬと思ふ、(此意見から行けば、描写といふ事についても最も的確な断定が与へられると思ひます、)
 現実を論ずる人が現実に囚はれて、現実を固定したものゝ如く考へると共に、個性といふことを論ずる人も同じ誤謬に陥つてはゐないでせうか、個性といふものを既に出来上つたもの、ギヴンフアクトと考へることによつて我々の思想がどれだけ停滞してゐるか知れないと私は思ひます、歴史は人類の或る不明な(仮りに)意志の傾向を示してゐます、同時に一個人の一生は其人の意志の傾向と其経路とを語る、現在生きてゐるところの人間には、意志と意志の傾向あるのみであつて、決して固定したものではない、自己とか個性とかいふものは、流動物である、自らそれを推し進めて完成すべき性質のもので、そして生きてゐる間--精神的活動のやまぬ間は形を備へぬものである、と私は思ひます、そして、前に申上げた自己の生活の改善、統一、徹底といふことは、やがて自己を造るといふではありますまいか、
 申上げて御批評を仰きたいと思ふことは沢山ありますが、とても書ききれません、とも角私は勇躍して明治四十三年を迎へました、
 現在私は朝日新聞社で校正をやつてをります、伝道婦として北海道にある妹をのぞいては、父も母も妻も子も今は皆私の許にまゐりました、私は私の全時間をあげて(殆んど)この一家の生活を先づ何より先きにモツト安易にするだけの金をとる為に働らいてゐます、その為には、社で出す二葉亭全集の校正もやつてゐます、田舎の新聞へ下らぬ通信も書きます、それでも私にはまだ不識不知空想にふけ(p293)るだけの頭にスキがあります、目がさめて一秒の躊躇なく床を出で、そして枕についてすぐ眠れるまで一瞬の間断なく働くことが出来たらどんなに愉快でせう、そして、さう全身心を以て働らいてゐるときに、願くはコロリと死にたい、--かう思ふのは、兎角自分の弱い心が昔の空想にかてれたくなる其疲労を憎み且つ恐れるからです、
 札幌! 私のすきな札幌! ゐたのは二週間にすきませんでしたが、思出は少なからずあります、そして今、私の知つてゐる或る美しい、そして悲しい人が其処で長い病の床についてゐます、私は今後その人の名とあなたの名によつて札幌を思出すことが一層多いでせう、あ、それから一つ喜んでいたゞきたい事があります、それは、以前から悪縁でつながつてゐたスバルと今度全く内部の縁をきりました、編輯兼発行人の名も変へました、--かうして私は、すべて古い自分といふものを新らしくして行きたく思ひます、
 
 ■ 三七〇 三月十八日本郷より 宮崎大四郎宛
 十一月からかゝつた二葉亭全集の校正はやうくアト一週間位でしまひになる、随分割に合はぬ仕事をしよひ込んだものだ、--然しお蔭で二葉亭といふ「非凡なる凡人」をよほど了解する事が出来た、
 先月短篇一つ書いた、「道」といふのだ。これは来月かその次の号の新小説に出る筈だ、(センにやつておいたのは(p295)取戻すことにしたのだ、)
 平凡な、そして低調な生活をしてゐると、文学といふ事を忘れてくらす日が三日に一日はある、然し忘れてゐても捨てはしない、これから徐々とやる積りだ、そして一度は僕の文学的革命心の高調に達する日が屹度来るものと信じてゐる
 去年の秋の末に打撃をうけて以来、僕の思想は急激に変化した、僕の心は隅から隅まで、もとの僕ではなくなつた様に思はれた、僕は最も確実なプラクチカルフイロソフイーの学徒になるところだつた、身心両面の生活の統一と徹一底 ! これが僕のモットーだつた、僕はその為に努めた、随分勤勉に努めた、そして遂に、今日の我等の人生に於て、生活を真に統一せんとすると、其の結果は却つて生活の破壊になるといふ事を発見した、--君、これは僕の机上の空論ではない、我等の人生は、今日既に最早到底統一することの出来ない程複雑な、支離滅裂なものになつてゐる、--この発見は、実行者としての僕の為には、致命傷の一つでなければならなかつた、そして僕は、今また変りかけてゐる、--確とした事ではないが、僕は新らしい意味に於ての二重の生活を営むより外に、この世に生きる途はない様に思つて来出した、無意識な二重の生活ではなく、自分自身意識しての二重生活だ、自己一人の問題と、家族関係乃至社交関係に於ける問題とを、常に区別してかゝるのだ、
 無論二重の生活は真の生活ではない、それは僕も知つてゐる、然しその外に何ともしやうが無いのだから止むを得ない、
 「生活それ自身がワナだ!」さう思ひ到つた時、僕は急にこの世の中から逃出したかつた、そして遂に逃出すことの出来ないワナだと思つた時から、僕は今迄より強くなつた、所詮のがれる事が出来ないのだから、そのワナにかゝつた振をしてゐて、そして、自分自身といふものをば、決して人に見せない様にするのだ……
  
 ■ 三七三 六月十三日  本郷より 岩崎正宛
 一人になりたいと思つてゐる男が細君に逃げられて泣いた。--若しも「一人になりたい。」といふ希望が我々の最も悲しい希望であるならば、同時に、この事実も亦我々の遭逢する最も悲しい事実の一つではあるまいか?
 検事のやうな眼を以て運命の面を見つめようちやないか。「お前は俺の為に笑ふ気か、笑はぬ気か」と言ひながら見つめようちやないか。--僕は今見つめてゐる。僕はもう僕の運命なり、境遇なり、社会の状態なり、乃至は僕自身の性格なりに対して反抗する気力を無くした。長い間の戦ひではあつたが、まだ勝敗のつかぬうちに僕はもう無条件で撤兵して了つた。そして今、検事のやうな冷やかな眼で以て「運命」の面を熟視してゐる。「俺の為に笑ふ気か、笑はぬ気か」と言つて熟視してゐる。いくら熟視しても笑ひさうにないが、先方が笑はなければ、此方の眼も益々冷酷になるばかりのことだ。決して損はない。
 然し此頃思ふには、「運命」といふ奴は決して左程恐るべき敵ではないらしい。どうもさうらしい。此方が冷かな眼をしてゐれば、先方も冷やかな顔をしてゐるけれども、此方で先に笑つて見せさへすれば、どうやら先方でも愛想笑ひ位はしてくれさうだ。運命といふ奴も人情を持つてゐるとすれば正に斯うあるべきだが、僕には其処がまだ明瞭しない。従つて僕はまだ一度だつて笑つて見せはしない。先方で笑はぬ以上は何うあつても僕の方からは笑はぬことにしてゐる。
 謎のやうなことを書いたが謎ではない。透徹した理性の前には運命といふ敵一人ある許りだ。運命と面を突き合してるといふ外に彼の生活は無い。君、戦ひを好む弱者の持つべき最良の武器は、透徹したる理性の外にはなかつた!
 宮崎君のことを心配してる。手紙は書かないが心配してる。何うかならんかな? ほんとに何うかならんかな?
 吉野君は ? 朝鮮へ行くとかいふのは ?
 文学はやめる必要のない者と思ふ。やめるといふのは畢竟今迄文学を過信してゐた反動だと思ふ。我々はも少し人間の他の諸活動と平均のとれた待遇を文学に対して与へようちやないか ? やりたくない時はやらぬ、やりたくなつたらやる。それで好いぢやないか ?「文学的生活」に対する空虚の感については、今月の「新小説」に些とばかり書いた筈だ。
 
 ■ 三八四 十月二十八日本郷より 石川光子宛
 長男真一が死んだ、昨夜は夜勤で十二時過に帰つて来ると、二分間許り前に脈がきれたといふ所だつた、身体はまだ温かかつた、医者をよんで注射をさしたがとうとう駄目だつた、真一の眼はこの世の光を二十四日間見た丈で永久に閉ぢた
 葬儀は明二十九日午後 時浅草区永住町了源寺で執行する
 
 ■ 三九二 十一月二十九口本郷より 加藤孫平宛
 終りに臨みて小生は歌を作ることが小生の生活の第一要件にては必ずしも有らざることを御諒解あらんことを希望仕候、作歌の事に一身を捧ぐる人も世の中には有之候へども小生にはどうしてもそれが出来ず候、これ蓋し小生の歌の時として不真面目なりとの評を蒙る所以ならん、小生が歌に於て心がくる所は唯「嘘をつかぬ」といふ一事のみに御座候、その外に何もなく候、兄は社会主義といふものに対して如何なるお考へをお持ちなされ候や、機会あらばお洩らし下されたきものに候 草々
 
  ■ 三九三 十二月二十一日  本郷より 宮崎大四郎宛
 君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩進んでゐるといふ自惚を此頃捨てる事が出来ない、若し時間さへあつたら、屹度書きたいと思ふ著述の考案が今二つある、一つは「明日」といふのだ、これは歌を論ずるに托して現代の社会組織、政治組織、家族制度、教育制度、その他百般の事を抉るやうに批評し、昨日に帰らんとする旧思想家、今日に没頭しつゝある新思想家--それらの人間の前に新たに明日といふ問題を提撕しようといふのだ、も一つは「第二十七議会」といふのだ、これは毎日議会を傍聴した上で、今の議会政治のダメな事を事実によつて論評し議会改造乃ち普通選挙を主張しようといふのだ、おやおやもう紙が尽きる、皆さんへよろしく、節子は心配はないが薬はまだ飲んでる、(分娩以来半月許り中止したつきり)

  


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