啄木 ・ 書簡  明治四十四年 (26才)


  ■ 四○三 一月九日 本郷より 瀬川深宛
 二人の変り方が同じだといふ事について、今日先づ書きたい、君は段々詩に遠ざかり、愛着が薄らいだといふが、それは僕にしても同じである、僕の今作る歌はもう昔我々の作つた意味に於ての歌ではない、君は詩を作らなくなつた、僕は詩を作れなくなつた、昔した単純な恋を再び繰り返すことの出来ない如く、昔作つたやうな詩--今も若い人の作るやうな詩を作れなくなつた、自分の感情を弄んで喜んだ時代とその当時の心持は今でもなつかしくないではない、然しもう僕等には、そんな努力は馬鹿気てゐて二度と出来ない、
 僕の今作る歌は極めて存在の理由の少いものである、僕はその事をよく知つてゐる、言はば作つても作らなくても同じ事なのだ、君は今日記といふものを書いてゐるかどうか知らないが、僕の今の歌は殆ど全く日記を書く心持で作るのだ、日記も人によつて上手下手があらう、然し日記は上手下手によつて価値の違ふものではない、さうしてその価値は全くその日記の持主自身の外には関係のないものだ、「僕はかう感じた(或はかう考へた)」これ僕の今の歌の全体である、その外に意味がない、それ以上に意味がない、
 随つて作つても作らなくても同じものである、さうしてこの、作つても作らなくても同じだといふ事は、決して議論ではない、実際に於て僕は、作りたいやうな気持のしない事が何日、何ヶ月つゞいたとて、少しも何とも思はない、平気でゐる、たゞ僕には、平生意に満たない生活をしてゐるだけに、自己の存在の確認といふ事を刹那々々に現はれた「自己」を意識することに求めなければならないやうな場合がある、その時に歌を作る、刹那々々の自己を文字にして、それを読んでみて僅かに慰められる、随つて僕にとつては、歌を作る日は不幸な日だ、刹那々々の偽らざる自己を見つけて満足する外に満足のない、全く有耶無耶に暮らした日だ、君、僕は現在歌を作つてゐるが、正直に言へば、歌なんか作らなくてもよいやうな人になりたい
 君は僕を解してくれたといふ、僕もさう信ずる、これだけ言へば君は更に僕の歌に対する態度も解つてくれたに違ひない、たゞ僕には其処に一つの悲しみがある、僕の歌は全く他の歌人の歌と意味を異にしてゐるのであるが、それでも兎も角歌といふものを作つてゐる以上、人から歌人と見られることもあれば、自分でも歌人らしい気持になることがある、僕は他人から詩人扱ひ、歌人扱ひされると屹度一種の反抗心を起す、「おれはそんな特別な珍品ぢやない、おれはたゞの人間だ、立派な一人前の人間だ」と心に叫ぶ、が、すぐその後から、他人の歌と自分の歌とを比較してプライドを持つたりする、僕は歌を作るために生活してゐる人の生活に対して殆ど何の尊敬も同情も持つてゐない、さ(p323)ういふ生活は片輪だと思ひ、空虚だと思ふ、随つてさういふ人の歌と自分の歌とを比較したとて何にもならぬことをよく知つてゐる、比較するといふのが既に自分を卑下する所以だと思つてゐる。それでも時々比較する、感心することもあればプライドを持つこともある、これ僕の悲しみである、同時に弱味である、この弱味は、更に時として僕に、イヤでもオウでも何日までに何首作らねばならぬといふやうな約束を承諾せしめる……
 
 ・・・・・・・
 
 僕は今東京朝日に出てゐる、出てからもう足かけ三年になる、明けて去年の九月から歌壇を設けて僕が選をしてゐる、尤もこれは片手間でやるので、本職は別に下らない事をやつてゐる、選者様になりきつたのでないから安心してくれたまへ、
 真一は可愛い顔をした僕の長男だつたのに惜しいことをした、たつた二十四日生きて死んだ、妻はその後健康が悪くて、恰度大晦日まで薬をのんだ、今は然しよくなつた、老父は毎日七種の新聞をよんでゐる、母はいよいよ腰が曲つた、さうして僕の生活は矢張苦しい、年とつた親に一日でもいゝから楽をさして殺したいものと思ふ、
 さうして僕は必ず現在の社会組織経済組織を破壊しなければならぬと信じてゐる、これ僕の空論ではなくて、過去数年間の実生活から得た結論である、僕は他日僕の所信の上に立つて多少の活動をしたいと思ふ、僕は長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇してゐたが、今ではもう躊躇し(p325)ない、無論社会主義は最後の理想ではない、人類の社会的理想の結局は無政府主義の外にない(君、日本人はこの主義の何たるかを知らずに唯その名を恐れてゐる、僕はクロポトキンの著書をよんでビックリしたが、これほど大きい、深い、そして確実にして且つ必要な哲学は外にない、無政府主義は決して暴力主義でない、今度の大逆事件は政府の圧迫の結果だ、そして僕の苦心して調査し且つその局に当つた弁護士から聞いたところによると、アノうちに真に暗殺を企てたのは四人しかない、アトの二十二人は当然無罪にしなければならぬのだ)然し無政府主義はどこまでも最後の理想だ、実際家は先づ社会主義者、若しくは国家社会主義者でなくてはならぬ、僕は僕の全身の熱心を今この問題に傾けてゐる、「安楽を要求するは人間の権利である」僕は今の一切の旧思想、旧制度に不満足だ、
 
 ■ 四〇五 一月十四日本郷より 宮崎大四郎宛
 三四日前の読売に僕と土岐哀果君との歌のことが書いてあつた。去年の前半期は牧水、夕暮二人の歌が歌壇の中心だったが、年末に近づくと共に我々の頭は哀果啄木二人の歌に司配されるやうになつたといふ意味だつた。楠山正雄といふ奴が書いたのだ。当り前さとは思つたが、実は少し気持がよかつた。哀果と僕と妙に併称されてゐる事は君も知つてゐよう。
 ところが一昨夜その土岐から電話で会見を申込まれた。今迄お目にかゝらなかつたのが不思議だと向うで言ふから、僕もさう思ふと言つた。さうして昨夜この室で会見した。
 二人は一合五勺許りの酒で陶然と酔った。読売には「両氏共僧家の出で新聞記者を職業にしてる外に何の類似もないが--」といふやうな事が書いてあつたが、二人は酒に弱(p327)い事も痩せてゐる事も、何処やら平凡ぎらひなところも似てゐた。尤も僕の直ぐに感じたところでは、土岐は僕より慾が少ない、従つて単純である。土岐は自分自身に苦痛を感ずることなくして人を諷刺したり皮肉つたりする事の出来る人だ。さうしてその頭は明るくて挙動が重くない。土岐は僕よりもまだまだ歌を楽んでゐる。--とかういふのは、つまり、土岐の方が僕よりもずつと可愛い男だといふ事になる。
 その時二人で雑誌を出さうちやないかといふ相談が起った。君、僕はその事について書きたい。
 今や歌壇に二人の時代の来てゐること(二人といふのは少し謙遜だが然し土岐の歌は僕には他の何人のよりも面白く思はれるのは事実だ。)或は来らんとしつゝあること、或は又二人が来させようと思へば来るやうな機運になつてゐることは、どうも余程事実らしい。僕は歌を以て本領とする者ではないが、然しこの機運だけは空しく逃がしてやりたくない。これ僕がその相談に賛成を与へた理由の一。
 僕には年来出したいと思つてゐる雑誌がある。僕は是非いつかそれを出したいと思ふ。然し僕は、僕がその雑誌(或は週刊新聞)を出すのは決して近い将来でない事を知つてゐる。今はまだその時機でもないし、且つそれには少くとも千五百円の金がいる。ところが歌の雑誌だとその晩の計画では五十円あれば出来る。月給百円くれなければイヤだといつて何もしないで餓ゑるよりはその百円に達する希望を以て三十円の下役になる方が得だ。これ僕の賛成を与へた理由の二。
 そこで僕は土岐の計画のいさゝかおつちよこちよいなのを否認して、極めて真面目に相談した。花々しくなくても可いから基礎の堅いものを作りたい。かく二人はすぺてのことを最少限に見積つた。僕が数年前田舎で出した「小天地」ですら三百売れたといふので、三百五十部の読者だけは確実なものとした。それで初号は菊版四十八頁(恰度紙三枚)で四百部印刷しようといふのだ。尤もあまり薄いから一聯五円位のあついのを使ふ。四十八頁で四百部だとこの用紙千二百枚乃ち二聯と二百枚で価格は次の如くである
 
 ■ 四〇六 一月二十二日  本郷より 平出修宛
 その後また御無沙汰しました。特別裁判の判決についてはさぞ色々の御感想もあらせられる事でせう。是非それも伺ひたいと思つてゐるのですがー。僕はあの日の夕方位心に疲労を感じた事はありませんでした。さうして翌日の国民新聞の社説を床の中で読んだ時には、思はず知らず「日本は駄口だ」と叫びました。さうして不思議にも涙が出ました。僕は決して宮下やすがの企てを賛成するものでありません。然し「次の時代」といふものについての一切の思索を禁じようとする帯剣政治家の圧制には、何と思ひかへしても此儘に置くことは出来ないやうに思ひました。
 ・・・・
 さうして雑誌は、名は文学雑誌で、従つてその名を冠し得るやうな事しか載せる事は出来ないでせうが、然し我々の意味では実は文学雑誌ではないのです。
 今の時代が如何なる時代であるかは、僕よりもあなたの方がよく御存じです。この前途を閉塞されたやうな時代に於て、その時代の青年がどういふ状態にあるかも、無論よく御存じの筈です。さうしてこの時代が、然し乍ら遠からざる未来に於て必ず或進展を見なければならぬといふ事に就いても、あなたの如きはよく知つて下さる人と信じます。さうして又あなたは、僕の性格と、この頃の傾向についても知つてゐて下さる筈です。既に今の時代が今のやうな時代で、僕自身は欠点だらけな、そのくせ常に何か実際的理想を求めずにはゐられぬ男であるとすれば、僕の進むべき路が、君子の生活でない事も、純文学の領域でないことも略明白だらうと存じます。(未だ言ひつくさず)
 もうこれだけでお察しの事と存じますが、つまり僕は、来るべき時代進展(それは少くとも往年の議会開設運動より小さくないと思ふ)に一髪の力でも添へうれば満足なのです。添へうるか何うかは疑問だとしても、添へようとして努力する所に僕の今後の生活の唯一の意味があるやうに思はれるのです。
 僕は長い間、一院主義、普通選挙主義、国際平和主義の雑誌を出したいと空想してゐました。然しそれは僕の現在の学力、財力では遂に空想に過ぎないのです。(言ふ迄もな(p331)く)。且つ又金があつて出せたにした所で、今のあなたの所謂軍政政治の下では始終発売を禁ぜられる外ないでせう。
 かくて今度の雑誌が企てられたのです。「時代進展の思想を今後我々が或は又他の人かゞ唱へる時、それをすぐ受け入れることの出来るやうな青年を、百人でも二百人でも養つて置く」これこの雑誌の目的です。我々は発売を禁ぜられない程度に於て、又文学といふ名に背かぬ程度に於て、極めて緩慢な方法を以て、現時の青年の境遇と国民生活の内部的活動とに関する意識を明かにする事を、読者に要求しようと思つてます。さうして若し出来得ることならば、我々のこの雑誌を、一年なり二年なりの後には、文壇に表はれたる社会運動の曙光といふやうな意味に見て貰ふやうにしたいと思つてます。
 たゞ我等は不幸にして、財力勢力共に之を持ちません。我々が今自分らの思ふ事を看板にして読者を募つたとて、恐らく読んでくれる人は十人もないでせう。そこで先づ、文学雑誌しか出すことが出来ないといふ経済上の理由、及び僅かに歌しか作つたことのない者共のやる雑誌だからといふ理由で、最初の読者を主に歌を好む人から募りたいと思ふのです。雑誌維持の方法として、或方面から短歌革新を目的とする雑誌だと見られても可いと思ふのです。
 どうでせう。この企てを初めた僕の心をあなたは諒として下さらぬでせうか。
 決して無暴な事や軽率な事はしないつもりです。どうか御賛成下さい。さうして広告を出して下さい。さうして、これは又恐入りますけれども、一人でも前金申込が多くなるやうに「消息」の処へも二行なり三行なり書いて下さい。お願ひ致します。
 いつれそのうちにお伺ひして、出版法に拠る雑誌の記事の時事に亘るを得ずといふ事の解釈や何か、いろくお聞きしたいと思つてゐます。
 
 ■ 四一一 一月二十九日本郷より 荻原藤吉宛
 「樹木と果実」は極めて薄いものにて、雑誌と名つくるさへ恥かしきやうのものに候。初めは大分遊戯的な意味の多きパンフレツトを出さうといふ話に候ひしも、それはどうも頭に角のある小生の趣味に合はず、すつた揉んだの末、小さくともよいから、いざと言つたら直ぐ拳固を振り上げるやうな生真面目なものにしようといふ事に相成、目下方々の友人に頼んで前金購読の約束をして貰つてる最中に御座候。暢気な企てと人は中すべく候へど、無から有を生み出さんとすること、当人は随分苦しく存じ候。短歌の革新など申すは実は半分営業的政略にて、小生の意味では、出版法による雑誌としての可能の範囲に於て、読省の注意を国民生活の実際に向けるやうな方針の下に編輯いたしたく、ほんとを言へば、保証金を納める雑誌を出して真向から政府を痛罵してやりたいのに候へど、金がなければそれすら出来ず、それは当分諦め候ふ次第に御座候。首尾よく雑誌が出来疾はゞ御一笑被下度候。(p335)
 
 ■ 四一四 二月一日 本郷より 土岐善麿宛
 僕の腹の一件だがね、今日大学でみて貰つて急に笑ひ事ではなくなつた、慢性腹膜炎といふ奴で、余り馬鹿にされないさうだ、仕方がないから僕もあまり馬鹿にしないことにして一両日中に入院する、
 但し痛くはないのだから結局入院した方が書けるだらうとも思つてゐる、勉強も出来るだらうと思つてゐる、外の病気とは違ひ、何しろ腹がふくれ出しただけなのだから、どうもまだ可笑しい、
 
 ■ 四二一 二月六日本郷より 大島経男宛
 今も併し申上げたいと思ふことは色々あります、少くとも二つあります、その一つは近頃その結末のついた特別裁判事件であります、たしか一年前に私は、私自身の「自然主義以後」--現実の尊重といふことを究極まで行きつめた結果として自己そのものゝ意志を尊重しなければならなくなつた事--国家とか何とか一切の現実を承認して、そしてその範囲に於て自分自身の内外の生活を一生懸命に改善しようといふ風なことを申上げた事があるやうに記噫します、それは確かにこの私といふものにとって一個の精神的革命でありました、その後私は思想上でも実行上でも色々とその「生活改善」といふことに努力しました、併しやがて私は、その革命が実は革命の第一歩に過ぎなかつたことを知らねばなりませんでした、現在の社会組織、経済組織、家族制度……それらをその儘にしておいて自分だけ一人合理的生活を建設しようといふことは、実験の結果、遂ひに失敗に終らざるを得ませんでした、その時から私は、一人で知らず知らずの間に Social Revolutionist となり、色々の事に対してひそかに Socialistic な考へ方をするやうになつてゐました、恰度そこへ伝へられたのが今度の大事件の発覚でした、
 恐らく最も驚いたのは、かの頑迷なる武士道論者ではなくて、実にこの私だつたでせう、私はその時、彼等の信条についても、又その Anarchiist Communism と普通所謂 Socialism との区別などもさつばり知りませんでしたが、兎も角も前言つたやうな傾向にあつた私、少い時から革命とか暴動とか反抗とかいふことに一種の憧憬を持ってゐた私にとつては、それが恰度、知らず知らず自分の歩み込んだ一本路の前方に於て、先に歩いてゐた人達が突然火の中へ飛び込んだのを遠くから目撃したやうな気持でした、
 それはまあ何うでもいゝとして、一言申上げておきたいのは、今度の裁判が、△△△裁判であるといふことです、私は或方法によって今回の事件の一件書類(紙数七千枚、二寸五分位の厚さのもの十七冊)も主要なところはずつと読みましたし、公判廷の事も秘密に聞きましたし、また幸徳が獄中から弁護士に宛てた陳弁の大論文の写しもとりました、あの事件は少くとも二つの事件を一しよにしてありま(p341)す、宮下太吉を首領とする管野、新村忠雄、古河力作の四人だけは明白に七十三条の罪に当つてゐますが、自余の者の企ては、その性質に於て騒擾罪であり、然もそれが意志の発動だけで予備行為に入つてゐないから、まだ犯罪を構成してゐないのです、さうしてこの両事件の間には何等正確なる連絡の証拠がないのです、
 併しこれも恐らく仕方がないことでせう、私自身も、理想的民主政治の国でなければ決して裁判が独立しうるものでないと信じてゐますから、
 書きたい事は沢山ありますが、いつれこれは言ふ機会もあらうと思ひますから今はやめます、
 申上げたいも一つは、雑誌の事であります、今度三月一日から『樹木と果実』といふ雑誌を出すことになりました、表面は歌の革新といふことを看板にした文学雑誌ですが、私の真の意味では、保証金を納めない雑誌としての可能の範囲に於て、「次の時代」「新しき社会」といふものに対する青年の思想を煽動しようといふのが目的なのであります、発売禁止の危険のない程度に於て、しよつちゆうマツチを擦つては青年の燃えやすい心に投げてやらうといふのです、私と似た歌を作る土岐哀果と二人で編輯することになつてゐます、丸谷君も何か助けてくれる筈です、金の方の事は、私の手で集めうるだけの前金及び寄附をあつめて、不足だけを宮崎郁雨から出して貰ふことになつてゐます、詳しくは申上げませんが、どうぞ十五日頃までに何か書いて頂きたいものです、それからお知合の方に若し出来たら前金申込を勧めて頂きたいものです、(委細は本月のスパル及び「創作」の広告にありますが、定価一部十八銭郵税二銭、半年分税共前金一円十銭、一年分同二円十銭)
 この計画に対して私の今度の入院は一大打撃でした、然し此処でも書くことは許されてゐますから、やつばり広告した通りの期日には出さうと思つてゐます、最初は五百部位しか刷りません、菊版で頁も六七十頁位のつもりですが、紙は厚くしたいと思ってゐます、かうして極く小規模にやってゐるうちには、何れ発展の機もあるだらうと思ひます、二年か三年の後には政治雑誌にして一方何等かの実行運動--普通選挙、婦人開放、ローマ字普及、労働組合--も初めたいものと思つてゐます、またさしあたり文壇の酒色主義や曲学阿世の徒に対する攻撃もやりたいと思ひます、一つ二つ珍無類の面白い趣向もあるのですが、それはまあ申しますまい、
 
 ■ 四二三 二月十四日本郷より 小田島理平治宛
 雑誌「樹木と果実」発行の企ての事は、「スバル」「創作」二誌の広告で御承知下すつたことゝ思ひますが、あれは土岐君と共に私が今後出来るだけ死身になつてやらうとしてゐる仕事なのであります、広告文にも多少書いておいた筈でしたが、雑誌の目的は、単に文学雑誌たるのみでなく、保証金を納めざる雑誌としての可能の範囲に於て、現代の社会組織、経済組織、政治組織乃至いろいろの制度に対する根本批評を青年が進んでやるやうな機運を作りたいといふにあります、今迄我々青年は余りにすべてのことを父兄に任せ過ぎてゐた、私はさう感じます、それも、任せておいて少しも差支がなければその方も可いのですが、事実に於て、我々青年の父兄の営業方針は今やこの日本といふ一つの銀行を恐るぺき取付の日に導いてゐます、ごく簡単な一例を挙げれば、彼等は今猶日本魂といふものが日本の隅々にまで充満してるやうに言ひますけれども、毎年徴兵検査を受ける壮丁の少くとも十分の九までは、皆その検査を一生の大厄と思つてゐます、帝国軍人といふことが既に名誉ではなくて苦痛であることは、君もよく御存じの筈です、いくら立派な建物を持つた銀行でも、一度かういふ資本欠乏の事実が暴露すれば、忽ち取付に会つて破産する外ありません、さうしてかういふ矛盾は今やすべての事に認められます、日本は漸くその営業方針を変へなければならなくなつた、さうしてそれを変へる者は我々青年の外にありません、我々は嘗て我々の好きなロシヤの青年のなした如くに、我々の目を広く社会の上に移し、出来うべくんば、我々の手と足とをも他日その方に延ばしたいと思ふのであります、我々は文学本位の文学から一足踏み出して「人民の中に行」きたいのであります、それでこの手紙の意味は、君の賛成と援助とをこの企ての上に期待する我々の心を表はすにあります、雑誌の経済は、我々の力を尽して集めうるだけを集め、その不足を函館の一友から借りることになつてゐます、それで若し御賛成下さることが出来たならば、早速前金購読者を御勧誘して頂きたいのであります、企てに対して、私の入院は一つの打撃でありました。昨日土岐君が来て、何なら発行日を十日か半月延ばさうと言つてゐました、それはまだきまりませんが然し出すには屹度出します、そしてどんな苦痛があつても継続します、前金は発行所乃ち私の家へ送つて頂いても、此処へでも何方でもよろしう御座います、それから申しかねますが、前記の事情で不足分の借金をする都合がありますから、出来るだけ早く……いつれ米内山君からも申上げて下さる筈です、
 
 ■ 四二五 二月十五日本郷より 並木武雄宛
  予にとつては、病院は牢獄でもない、また小なる宇宙でもない。矢張り病院である。独歩には霊魂に対する信仰があつたが、予は強固なる唯物論者である。其処に二人の悲しき相異がある。
 
 ■ 四五三 八月十五日小石川より 高田治作宛
 もう疲れてしまつたから雑誌の事をカンタンに書ぎます。僕が前述のやうな有様だから一号は万事土岐君一人でやつてくれる事になり、三月の十六七日頃にはチヤンと原稿も出来たのでしたが、京橋桶町にある三正舎といふ印刷所が営業不成績で職工が動かず、殆ど破産しさうになつてゐたのを知らずに頼んだものだから、印刷代前金だけたゞ取りされていつまで待つても雑誌が出来ず、そのうちに五月一日にさへ発行することが出来なくなりさうだつたから、三正舎には契約破棄を通告し、やつてある前金を取りかへして別の印刷所へ頼まうと思つたが、取りかへすことの出来ぬうちに三正舎は愈々破産競売、しかも此方では法律上の手続をしてなかつたものだから、それつきり金がとれなくなり、雑誌も出ず、諸君の同情による購読前金の清算をすることも出来なくなつた次第です、で何れ安原稿でもかいて売つてその処置をしようと思つてゐるのですが、前申す次第でまだそれが出来ない。何とも済まないが(殊に小樽ほど前金をよこしてくれた人の多い所がなく、それが皆二(p361)君の御尽力によるのだから)どうかもう少し時日をかして下さい。決してこのままにするつもりではないのです。今日はたゞニ君の猶一層の御寛容を願ふ外はありません。

 ■ 四五四 八月二十六日 小石川より 宮崎大四郎宛
 目ぼしい本は皆質屋に秋の袷と一しよに入つてゐるし、質屋にもやれない、擦りきれた社会主義の禁売本は、引越の時以来支那鞄の底にそのまゝしまつてあるし、僕は殆んど全く読書することすらない。転居以来読んだのが芭蕉、蕪村の句集と古詩韻範といふ漢詩の本だけだと聞いたら、君も多少の哀れを催してくれるだらう。芭蕉は時々感覚を心地よく働かした句はあるけれども、概してイヤに風流人がつた月並のひねくれが並べてあるので好かないし、蕪村は好きには好きだけれど、二度読み三度読めば、矢張常套の配合法が目について興味索然とする。古詩では李白や杜甫の自在な手法も面白いが、僕は寧ろそれ以前の簡古素朴な作用を愛する--現在の僕の生活とかけ離れてゐることの甚だしいだけそれだけ愛する。
 朝に四種、夕方に郵便で来る三種の新聞だけは真面目に読んでゐる。毎日々々同じやうで変つた記事や論説の間から、時々時代進転の隠微なる消息が針のやうに頭を刺す。
 それが僕には、時として楽しみであり、時として苦痛である。昨日は予告された桂内閣総辞職の日であつた。僕は寝てゐて団扇をつかひ乍ら、もう今頃は閣議が終つて首相の参内した頃だらうと思つてゐた。子供が隣りの家へ遊びに行つてゐて大声に泣いてゐた。午後になると果して総辞職の号外が出た。--それらの事が自分に何の関係もなしに--行はれてゐるといふことが、外の人には寂しい事でないだらうか。
 
 ■ 四五六 八月三十一日 小石川より 畠山亨宛
 申し上げたき事多々有之候へど、今日はさしひかへ候、惟ふに我が日本に大変革期の来る蓋し遠からざるべきか。
 この事既に幸徳事件を縁として、二十七議会当時より人心の帰向漸く改まれるに知るべし、今次の西園寺内閣瓦解の時は、即ちまた政界諸勢力の関係に或る進転を見るの時ならむ、而しその時以後に於て隠れたる潮流は漸次地上に流出し来らむ、
 病床ひとり静かに世事を観測して多少の感あり、僅かに吾人青年の発言の機会また遠からざるべきを思ふて慰む、大兄所思如何。
 
 ■ 四六一  十一月一日 小石川より 佐藤真一宛
 先日関君が久し振りに血色のよい顔をして来て、池辺さんのやめられたことを知らしてくれました。私がかうして寝たり起きたりブラブラしてゐる間に、世の中が私と全く関係なしにズンズン変つてゆくことを思ふと、どうせ健康でゐても大勢に関係のない人間でありながら、矢張何だか唯一人取残されて行くやうな気がします。
 革命戦が起つてから朝々新聞を読む度に、支那に行きたくなります。さうして支那へ行きさへすれば、病気などはすぐ直つてしまふやうな気がします。

  


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