啄木 ・ 書簡  明治四十五年 (27才)


  ■ 四七八 一月九日  小石川より 杉村広太郎宛
 東京の人々がストライキの中に迎へたといふ、何だか不思議な使命を持つて来たやうな、暗示的な新年も、もう今日一で第九日目になつてしまひました。暮の三十日から少し熱が高かつた為めに新年早々、医者からは成るぺくのむなと言はれてゐる、解熱のピラミドンを毎日のまねばならなかつた私には、どうやら今年の「松の内」は、玄関に名刺だけを置いて、顔を見せずにさつさと帰つて行つたやうな気がしてなりません。一度も笑つてみないうちに松の内も過きてしまつた物足らなさ! しかしこんな事を言ふと、あなたは屹度お笑ひになるでせうね。
 私はこの頃よく去年の一月の事を思ひ出します。「死刑の宣告をされてから被告は万才を叫びました。」かう怒鳴りながら編輯局にかけ込んで来た松崎さんの容子は、今でも目に見えるやうです。私はそれなりもう何も考へずに家に帰つて寝たいやうな気持をしながら、黙つてコツコツ校正をやつてゐると、其処へあなたが何処からか帰つて来られて、「今日は何処へ行つても吾党の景気が悪いね」と言はれたのでした。--思ひ出すと、私はあの頃の自分が弟のやうにいとしくなります。いつとなく腹が膨れて来て、三時間も続けて仕事か議論をすれば、もう額には油汗が滲んで、何処か人のゐない処へ行つてグッスリと寝たい程疲れるのでした。朝に目をさますと、下にして寝た方の腿がしびれてゐて、寝汗も沢山出てゐました。さうして昼は懐炉がなくては腹の工合が悪く、夜は夜でひと晩恐ろしい夢を見つづけたものです。そんな風に色々病気の前兆が現はれてゐたに拘らず、それには殆ど気も付かずに、ただ朝から晩まで追立てられるやうに昂奮してゐて、友達の顔さへ見れば噛み付くやうな調子で議論を始めなければ、気が済まないのでした……
 あの事件を分水嶺にして段々と変つて来たこの国の社会情調の姿を思ひ浮べると、私はいつも自分では結論する事の出来ない深い考への底に突き落されます。
 
 ■ 四八一 一月二十四日小石川より 佐藤真一宛
 前略、老母の病気、或る行違ひのため一日に医者が二人来て見ましたが、診察の結果は二人共意見が一致し、さうしてそれが予想以上に私を驚かしました。
 略血したからこそ「或は……」と思つたものゝ、それまでは少しも私共は知らずにゐたのでしたが、母には何年前よりとも知れない痼疾の肺患があつて、左肺が殆どその用をなさなくなつてゐるのださうです。知らずに過した後悔は先に立ちません。さうして非常に老衰してゐる処への喀血ですから、十中七八はこの寒中にたをれるだらうとの事です。事によると数日中かも知れないといふので、もう遠方にゐる姉や妹へ通知してやりました。喀血はとまり、気分もはつきりしてゐるやうですけれど、寝たつきりです。もう第三期なんださうですから、金があつても恢復は出来ない事、金がなければ猶更の事、私もあきらめました。しかしこの儘別れて入院する事はどうしても出来ません。出来るだけは慰めて薬や滋養をとらせたいと思つてゐます。
 母の病気の事が分ると共に、去年からの私一家の不幸の源も分つたやうに思はれます。私がかうして一年も直りかねてゐたのも、つまりは結核性の体質だつたからでせう。尤も私の病気はまだ肺結核にはなつてゐず、肋膜の患部に近い部分にラツセルが聞えるだけの程度だと、これについても昨日の医者は二人共同じ事を言つて行きました。さうして現在のんでゐる薬を見せたところが、「これで可い、これ以上の方法はツベルクリンの注射と転地だけだ」と言ひました。私は是非いつか注射をうけたいと思ひます。それから妻の結核性肺尖加答児も、矢張母の病気を知らずにゐた結果としか思はれません。これは病院でツベルクリン注射の結果、十二月中に検鏡及び薬物反応試験の上、結核菌の存在しない事に確定し、それ以来血色もよくなり、体重も増しました。たゞまだ寒気のために加答児が直らないで咳をするため、相不変病院通ひをしてゐます(一週二度)。
 申上げねばならぬ事がまだあつたやうですけれど、熱ををかして何本も手紙をかいたあとで、頭がつかれてしまひました。いづれまたアトで申上げますから、どうぞ悪しからず。母の事がどうかなつてもまだ私のからだが直りさうがなかつたらお願ひしますから、太田さんにも然るべくお願ひいたします。今の処は、母とそれから私の薬をきらさないやうにするが専一だと思つてます(妻のは病院からたゞ貰つてますから)
 
 ■ 四八三 一月二十七日小石川より 土岐善麿宛
 その後また御無沙汰。もう「黄昏に」の校正は始まつてゐるだらうね。早く見たいものだ。
こなひだ君の歌について「学生」にかゝうと思つたが、途中でやめちやつた。やつばりひとまとめにしてゞなくちや書きにくい。
 この頃熱が我儘をはたらいて困る。高圧手段を取つてしきりに解熱剤を用ゐてゐるが、仲々うまくいかない。そこへもつて来て数日前から老母が床についちやつた。医者は、今明両月の寒さを過ごすことが出来ないかも知れないと言つてゐる。善い事がどつさり来る筈の四十五年が、一月早々からこの通りぢや、僕も少しがつかりだ。一体誰がかう僕をいぢめるのかな。いくらいぢめたつて仲々降参なぞする僕ぢやないのに。
 医者が頗る横平な奴なので、来るたんび癪にさはる。さうしてそれが癪にさはると僕は何だか生き甲斐があるやうな気がする

 ■ 四八四 一月三十一日小石川より 杉村広太郎宛
 拝啓。一昨日佐藤さんがお出でになり、お集め下すつた皆様の厚き思召のお金、正に頂戴いたしました。何とも有難い次第で御座います。お蔭様で当分安心して寝てゐられる事になりました。
 取分け重病の母に薬価や滋養品の事について余計な心配をさせなくても済む事になつたのが、有難くて仕方がありません。あの幾枚もの紙幣を見せてワケを話した時には母は泣き笑ひして有難がりました。それから、止さうか止すまいかと何度も考へた末にとうとう昨日本を一冊買ひました。
 クロポトキンの、Russian literature これは病気になる前から欲しいくと思つてゐた本の一つでした。
 今度お金を下すつた方々には、今日までかゝつて別々に葉書の御礼状を差上げました。
 私の熱は一昨日以後今日まで、三十八度以上に上りません。
 
 ■ 四八七 三月二十一日小石川より 石川光子宛
 自分ではかけないからお友達に代筆して貰ふ
 母の病気の事は今まで知らせないで居たが、一月半ばすぎに一週間ばかり続けて喀血して床についたのであつた、喀血といへば肺結核の外にないから、びつくりして医者を呼んだが、診断の結果は何年前からとも知れない肺結核であるとの事であつた、初めはそんな筈はないと思つたが、去年俺が入院して居る時に多少喀血した相だし、それ以前からよく咳をして居た事はお前も承知の通りである、それから田村の姉も肺病で死んで居るし、母にきいて見ると母の両親も今の言葉で言へば肺病で死んだらしい、それやこれ★(p383)や考へ合せると、医者の云ふ事がやはり本当だ、それを知らずに居たために節子や俺も危険な目を見たのだ、
 右の様な次第だから、母の夜具蒲団着物等は一切売り払ひ、かたみなどは誰にもやらぬ事にした、櫛かんざしは棺の中へ入れてしまつた、
 俺も母の死ぬよほど前から毎日三十九度以上の熱が出るが床に就いて居たため同じ家に居ながらろくろく慰めてやる事も出来なかつた、お前の手紙は死ぬ前の晩についた、とてもあれを読んで聞かせても終ひまで聞いて居れる様な容態ではないので節子が大略を話しするとお前から金が来たといふ事だけがわかつたらしかつた、それからその晩何時頃だつたかはよく記噫しないが「みい、みい」と二度呼んだ、「みいが居ない」と言ふと、それ切り音がなくなつたけが、この外に母はお前に就て何も言はなかつた、翌る朝、節子が起きて見た時にはもう手や足が冷たくなつて息はして居たがいくら呼んでも返事がない、そこで俺も床から這ひ出して呼んで見たがやつぱり同じ事だ、すぐ医者を迎へたが、その医者の居るうちにすつかり息が切れてしまつた、お前の送つた金は薬代にならずにお香料になつた、
 葬式は丸谷さんや土岐さんが一切世話をして呉れて九日の午後に行ひ、その晩火葬に附して、翌日浅草松清町の等光寺に納骨した、葬式の時はいね夫婦が来た、
 頭を氷で冷やしながら、これまでしやべつたが、もう何もない様だ、くれぐれも言ひつけるが俺へ手紙をよこす時用のないべらべらした文句をかくな、お前の手紙を見るたびに俺は癇癪がおこる、

  


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