チェーホフ 「かもめ」 (1896)

              これは1985年に書いたものを、nifty文学フォーラムに96年にupしたものです。今書いているチェーホフノートが「かもめ」まですすめば、大きく変わると思いますが。なかなか到達できそうにないので、それまではこれを掲載しておきます。


 初めに興味をひくと思われる言葉を幾つか引用しておきます。引用は中央公論社版のチェーホフ全集第12巻、神西清訳からのものです。

 ニーナ あなたの戯曲、なんだか演りにくいわ。生きた人間がいないんだもの。
 トレープレフ 生きた人間か!人生を描くには、あるがままでもいけない、かくあるべき姿でもいけない。自由な空想にあらわれる形でなくちゃ。
 ニーナ あなたの戯曲は、動きが少なくて、読むだけなんですもの。戯曲というものは、やっぱり恋愛がなくちゃいけないと、あたしは思うわ… 。

 ドールン それに、もう一つ大事なのは、作品には明瞭な、ある決った思想がなければならんということだ。何のために書くのか、それをちゃんと知っていなければならん。でなくて、一定の目当てなしに、風景でも賞しながら道をあるいて行ったら、きみは迷子になるし、われとわが才能で身を滅ぼすことになる。
 トレープレフ (じれったそうに)どこにいるんです。ニーナさんは?

 ニーナ 女流作家とか女優とか、そんな幸福な身分になれるものなら、わたしは周囲の者に憎まれても、貧乏しても、幻滅しても、りっぱに堪えてみせますわ。屋根うら住まいをして、黒パンばかりかじって、自分への不満だの、未熟ださの意識だのに悩んだって構わない。その代り、わたしは要求するのよ、名声を… 本当の名声を。… (両手で顔をおおう)頭がくらくらする・・ああ!

 トレープレフ (皮肉に)ほんものの天才か!(憤然として)こうなったらもう言っちまうが、僕の才能は、あんたがたの誰よりも上なんだ。!(頭の包帯をむしりとる)あんたがた古い殻をかぶった連中が、芸術の王座にのしあがって、自分たちのすることだけが正しい、本物のだと極めこんで、あとのものを迫害し窒息させるんだ!そんなもの、誰が認めてやるもんか!断じて認めないぞ、あんたも、あいつも!
 アルカージナ デカダン!… 
 トレープレフ さっさと古巣の劇場へ行って、気の抜けたやくざ芝居にでも出るがいいや!
 アルカージナ 憚りながら、そんな芝居に出たことはありませんよ。私には構わないどくれ!お前こそ、やくざな茶番ひとつ書けないくせに。キーエフの町人!居候!
 トレープレフ けちんぼ!アルカージナ 宿なし!

 トレープレフ おれは口くせみたいに、新形式、新形式と言ってきたが、今じゃそろそろ自分が、古い型へ落ちこんでゆくような気がする。… ・そう、おれはだんだんわかりかけて来たが、問題は形式が古いの新しいのということじゃなくて、形式なんか念頭におかずに人間が書く、それなんだ。魂のなかから自由に流れだすからこそ書く、ということなんだ。・・

 ニーナ … 何を話してたんだっけ?……そう、舞台のことだったわ。今じゃもうわたし、そんなふうじゃないの。……わたしはもう本物の女優なの。わたしは楽しく、喜び勇んで役を演じて、舞台に出ると酔ったみたいになって、自分はすばらしいと感じるの。今、こうしてここにいる間、わたしはしょっちゅう歩き廻って、歩きながら考えるの。考えながら、わたしの精神力が日ましに伸びてゆくのを感じるの。……今じゃ、コースチャ、舞台に立つにしろ物を書くにしろ同じこと。わたしたちの仕事で大事なものは、名声とか光栄とか、わたしが空想していたものではなくって、じつは忍耐力だということが、わたしにはわかったの、得心がいったの。おのれの十字架を負うすべを知り、ただ信ぜよ−だわ。わたしは信じているから、そう辛いこともないし、自分の使命を思うと、人生もこわくないわ。
 トレープレフ (悲しそうに)君は自分の道を発見して、ちゃんと行く先を知って いる。だが僕は相変らず、妄想と幻影の混沌のなかをふらついて、一体それが誰になんのために必要なのかわからずにいる。僕は信念がもてず何が自分の使命かということも、知らずにいるのだ。

 次の批評は、1984年の5月にガリ版刷りの(いまでは想像すらできないと思いますが)批評集に書いたものです。当時の特殊な問題意識によって書いたものですが、それだけに書き換えにくいところがあって、いくつかの言い回しを変更しただけでほとんどそのまま転載します。ここに出てくるエルミーロフやベールドニコフはソ連の古い批評家です。この批評は彼らの批評を克服することを一つの目的としていました。我々は寧ろ彼らの批評を、彼らに対する評価が低くなった後にも非常に高く評価していましたし、いまでも特にエルミーロフの価値は彼に対する批判者よりもはるかに高いだろうと思っています。しかし、それだけ一層彼らの批評の限界を合理的に克服することが重要な課題でした。ソ連時代の理論家など今ではまったく問題にならないでしょうが、私にとっては70年代の後半から自分の思想を見直すために、各分野でのソ連の理論家の再評価が重大な課題になっていました。その成果の一つとして書いたのが、これらの一連のガリ版刷りの批評でした。その後のソ連東欧の崩壊によって、教条的なマルクス主義が理論的に克服されることなく実践的、経験的に否定されてしまいましたので、多くの未解決の課題が残されています。この批評は当時せいぜい数十人の手に渡っただけで、その後の情勢から見るとまったく人々の関心をひくはずもなかった内容ですが、もしかすると当時より興味の対象になりうるかも知れないと思って転載することにしました。

  『かもめ』について (1)

 四大戯曲の中でも『かもめ』は芸術的才能の運命を扱っている点で特に興味深い。チェーホフはこれ以前にも芸術にかかわる人物を軽いタッチでいくつか描いているが、大抵才能を持っていると思い込んでいる無能な人物の話である。身近さから言えばこういう人物であるが、興味深さから言えばやはり『かもめ』のように才能ある人達の運命である。
 才能というものが現実に実を結んでいるものよりずっと多く、ことによると--そうあってほしいが--ごくありふれたものだとしても、その才能を歪め、残酷に押しつぶしてしまおうとする力は無数にあり、才能に満ちた仕事をしたいという我々の希望をはるかに圧倒するものだということは、残念ながら誰でも知っている通りである。芸術的才能に人生を掛けるなどというのはどんな賭け事より分が悪い。人生の一番大事な時期を掛けねばならないし、失った人生は取り返しようがない。しかしこういう可能性の少なさが成功の輝きを増し、冷静な判断力を失わせる力ともなる。そして一度だけの人生の一番大事な時期だから悔いのないように掛けてみようと考えるようになる。この閉じた悪循環に一度捕らえられると逃れることはできない。芸術というのは我々の世界では常に浪費的で贅沢なものであるらしい。才能の開花から挫折までありとあらゆる芸術的生活のすべてが芸術のために必要な人生なのであろう。
 この作品では芸術にかかわる人物は4人である。アルカージナとトリゴーリンはすでに才能に応じた地位と名声を得ている。アルカージナは有名な女優であるが、芸術家とか偉大とかいうにはあまりにケチで俗である。トリゴーリンは才能の盛期を過ぎて自分の才能の限界を感じる程度にアルカージナより芸術世界に深く足を踏み込んでいる。彼は自分に不満を感じながら不満な自分に甘んじている。彼の能力は自分の才能の限界を感じることはできてもそれを乗り越えようとする情熱までは進まない質のものである。アルカージナがいるから限界を越えられないのではなくて、アルカージナを必要とする才能である。それに対して若いトレープレフとニーナはこれからの人生を芸術に賭けようとしている。
 結果から言えばトレープレフは自殺し、ニーナは希望を見出した。ニーナもトレープレフと同じように挫折した女だという評価を覆したのはエルミーロフの功績である。これを理解するためには長い時間がかかっているが今はこれを前提にしていいだろう。
 では何がトレープレフとニーナの運命を分けたのか?二人とも田舎らしい家庭的な不幸と芸術に対する愛情とそしておそらく豊かな才能とを持っている。二人は愛し合っていたがトリゴーリンとアルカージナがモスクワから華やかな空気を運んで来てから二人の運命は変わった。トレープレフはアルカージナの浮かれた生活を嫌い、彼女の演技もトリゴーリンの作品もマンネリ化した古い形式主義として批判していた。しかしニーナはアルカージナやトリゴーリンを尊敬し憧れていた。ニーナにとって彼らの華やかな生活は勝利した才能に対する当然の報酬であった。彼らの芸術にくらべればトレープレフの作品は生気のない、陰気で大仰なつくりものに見えた。
 エルミーロフやベールドニコフはこの時期の二人の思想の中に彼らの運命を分けた必然性を見ようとしている。彼らは結果から測ってその思想的な出発点に運命のすべての目印を見つけようとしている。しかし彼らの若い時代の思想は出発点、発端に過ぎない。芸術への入口は無数にある。誰でも自分の置かれた状況から入るのであり、入口を自由に選択することはできない。アルカージナの俗悪や既成の芸術のマンネリズムに対する嫌悪がトレープレフの芸術的情熱であり、トリゴーリンやアルカージナの名声へのあこがれがニーナの芸術的情熱である。トレープレフが曖昧模糊とした思想によって形式主義を嫌悪したにすぎなかったにしても、ニーナが名声という上っ面から出発したとしても、それが運命のすべてを分けるのではない。何を求め、何をきっかけに芸術的活動を始めたかということより、その後に何をやったか、ということの方が重要であるし、生活と社会的状況の全体によって才能の運命は決定される。誰でも訓練の過程ではじめて芸術的創造がどんなものであるかを知る。下らない虚栄や俗物根性が芸術的情熱の衣をまとっている場合もあるが、それは厳しい訓練のなかで試される以外にない。外から見ただけでは誰にも本当のところはわからないし、本人にも本当の動機を理解できるものではない。
 ところが才能を扱った作品というのはチェーホフに限らずたいていこの過程を描かず、結果だけが示される。『かもめ』でもこの一番大事な二年間は第三幕と第四幕の間に進行している。才能の育っていく過程は外見の単純な繰り返しの中で、明確な形をとることなく、脳の中で激しくて複雑な過程が進行しているために結果によって判断するしかないということなのかもしれない。
 その二年間の間にトレープレフの小説は首都の雑誌に載るようになっていた。しかし彼はトリゴーリンやアルカージナの形式主義を越えることができず、自分が一応の成功を収めたときに、自分が形式主義に反対するだけの別の形式主義に陥っていることに気づいた。一方トリゴーリンを追ってモスクワに出たニーナは結局トリゴーリンに捨てられ、彼との間にできた子供は死に、今は地方回りの役者になっている。そしてようやく女優にあこがれ成功を夢見る時代を終わって、大女優になるための修行がはじまっていると感じている。トレープレフはこの二年間にできてしまった自分とニーナとの距離の大きさに気付いて自殺した。
 二人の運命を分けた細かな要因は分からない。しかし、二人の運命を分けた大きな力は示されている。トレープレフもニーナも才能に恵まれたうえに、才能を育てるために必要な大きな不幸をも背負っていた。トレープレフがニーナと違うのは、あるいはニーナに比べてより不幸であったのは、彼が生産的な不幸に出会えなかったことである。どのような不幸が才能にとって生産的であるかを予測することはできないが、才能や個性にとって致命的なもの、もし才能や個性を生かそうと思うならとにかく耳をふさいで逃げだすしかないというような世界があることははっきりしている。チェーホフは彼のよく知っている、どんな才能もどんな愛情をも、ともかくその他どんな人間的生気をもじわじわと殺してしまう世界をトレープレフのために描いている。

 トレープレフの苦悩は、アルカージナやトリゴーリンが少々の才能で華々しい成功を収めていることに対する不満と、自分の愛するニーナがそのアルカージナやトリゴーリンにあこがれて自分を捨ててモスクワへ行ってしまったことを主な内容としている。彼は変化のない草深い田舎でこの単純な不幸に繰り返し浸っていただけでこれ以外何も経験することがなかった。アルカージナのケチのために都会に気晴らしにいくことさえできず、彼の家に集まってくる人達に愛され、満足していたわけではないが、ともかくこういう環境の中で書斎にひきこもり、ニーナに対する愛情だけをたよりに生きていた。彼がこういう生活の中で首都の雑誌に載るほどの作品を書けたのはよほどの才能があったからであろう。しかし、才能は材料を加工することはできるが材料である人生についての知識を生み出すことはできない。限られた世界での、限られているがための出口のない単調な苦悩は人の神経をすり減らすばかりである。耐えがたさという点ではこれ以上のものはないが、それは耐えても無駄だから耐えがたいのであって、こういう苦しみにはどんな才能もどんな巨人も太刀打ちできるものではない。アルカージナやトリゴーリンが骨休めにやってきて、すぐに退屈でやりきれなくなって帰っていくような所で年中生活して、そこでどんな力を汲みとることができるだろうか? 百年後の日本でもこういう恐ろしい力がどこでも感じられる。十九世紀の遅れた広大なロシアでのトレープレフ的生活が才能にとってどれほど破滅的であるかは我々の想像を越えるものだろう。生きようと望むならこのような箱の中から飛び出さなくてはならない。そして、これを息苦しく感じ、生きようと望むことは、飛び出す可能性や、無理にでも押し出そうとする力がすでに生まれているということである。
 モスクワに出たニーナには恋愛上の、芸術上の、そして日々の生活のための厳しい闘いの中で一つの不幸を味わいつくす暇さえなかったに違いない。モスクワの生活は田舎での安定を保証しない。人間を日々追い立て悲惨に引きずり込む。しかしそこには動きと可能性がある。たくさんの不幸はひとつの不幸を薄めはしないがその合力は人間のエネルギーを生み出す。急激な変動の中で何百万という人間を「どん底」にひきずり込むが、こうして寄せ集められ、結びつけられた人間の運命はいかに悲惨であっても、少なくともトレープレフの書斎的なジメジメした苦しみとは違って生産的である。ニーナはこういう中で力を維持し育てた人間の一人である。トレープレフが二年の間入口で足踏みしている間にニーナは様々の経験を積むことによって、トレープレフとの恋愛時代を単なる出発点にしてしまった。
 トレープレフの運命が単に個人的なあるいは文学青年だけのものではなく、彼と同じ世界に住む人々の生活全般にわたるものだということが「五プードの恋」の中に描かれている。才能も恋もひからびている。金があってもなくても、若くても年寄りでも、みんな不幸を抱えている。その不幸は、生活に未来が、積極性が失われており、今後もそうだと感じられていることである。
 個性や能力に恵まれた人間ほどこのような世界の息苦しさを強く感じさせられる。詩的で情熱的なマーシャは酒を飲み喪服を着ている。彼女はトレープレフに見込みのない恋をしなげやりな生活をしている。トレープレフを忘れるために無能で退屈なメドヴェーヂェンコと結婚してみたが、彼をも自分の子供をも愛する気にならなかった。退屈さの形式が変わり、嫌悪感が増しただけである。今はトレープレフを思い切るためにどこかへ行ってしまおうと考えている。しかし、どこにいっても同じであることはわかっている。この世界での恋愛はすべて退屈な生活からの逃避であり、積極的な意義を持たない。どのように展開しても否定的に発展するだけである。トレープレフのニーナに対する愛情もやはり同じ刻印を帯びていた。
 このことについてエルミーロフは次のように言う。「かれらは二人とも自分の無益なうつろな恋にかわるだけのなにものももっていない。この二人には大きな、高邁な、一般的な生活目的がない。彼らは結局乞食のように哀れな人間である。」と。
 また「恋愛はそれだけが目的になるとつまらなくなる」というエルミーロフの言葉をベールドニコフは感動をもって引用している。彼らは自殺したり、人生について悲観的な言葉を吐いたりする人間を厳しく責め、それは彼が個人主義であったための当然の結果であるという。こういう批評のやり方や言い回しが何か高邁で革命的なことででもあるかのように多くの人々が信じた時代もあったのだ。このような言葉を信じ、つまらぬ理論を身につけてしまった人々の不運はまだしも、それに飽き足らぬ人達の息苦しさはどれほどのものだったろう。エルミーロフはマーシャやトレープレフが一般的目的を持たず恋愛だけを目的としたために、そのためにつまらぬ恋をすることになった、としている。一つの現象を二つに言い換えて因果関係にし、そのうえで目的を持つべきだとか社会性がないとかの、きまりきった一般的教訓を投げつけ、そんなことだからつらい目に合うのだと言い放っている。だが恋愛が情熱の唯一のはけ口になるようなみじめな状態がロシアの地方生活の典型でありマーシャはその断片である。しかもそれは愛の情熱ではなく、現状に対する嫌悪の情熱である。愛はマーシャのように、才能はトレープレフのようになるのがこの時代の何百万という人間の運命である。恋愛だけを関心にするから不幸な恋愛になるのではなく、こういうみじめな恋愛が生活のすべてになってしまう地方生活の狭さに彼女は押しつぶされようとしている。マーシャの心構え一つで、エルミーロフの説教一つで何百万というマーシャが社会性をもったり展望をもったりできるものではない。マーシャやトレープレフの不幸の原因を単に道徳的に批判することは思想ではなく、単なる説教であり、自己満足である。

 社会科学を道徳にかえてしまうこういう批評はプチブル的傾向としてマルクス以前からあった。こういう人達は一般理念とか目的とかいうものを単純に、抽象的にそして手軽に考えている。一般理念にもとづいて芸術が創造されるかのように考える愚かな感覚は別としても、一般理念や目的が立場としてアプリオリに与えうるもの、まして説教で与えうると考える感覚は古臭いというより理論的無能である。一般理念や目的は活動や研究の過程で具体的に獲得される。芸術の創造過程に先立つ一般理念とか苦悩に先立つ確信、目的などというものはそれがどれほど高邁で一般的な形式をとっていようと、信仰とかもっと正しくは偏見というべきであって、それによってその人間の思想や運命を推し量ることなど決してできない。芸術的に挫折した人間に向かって一般理念がなかったからだなどと悟り顔で説教するような批評家は俗物とか無能という以外に呼び方はない。エルミーロフやベールドニコフといったソ連の古い批評家はこの種のバカくさい批評を飽きもせず書きまくっている点では非常に害毒を流したと言わねばならない。こういうやり方は具体的な分析の習慣をなくし傲慢な決めつけをはびこらせるため芸術全般にとってはなはだしく有害である。


 「かもめ」について(2)

 この点については作品自体が反論になっている。トレープレフは個人主義者であったが「ニーナは成功も名声も崇高な社会奉仕の報酬として俳優や芸術家に与えられるのだと考えているため、彼女にはトレープレフと共通する点がまったくない」とベールドトニコフは言っているが、ニーナはそうは言っていない。「わたしたちの仕事で大事なものは名声とか光栄とか、わたしが空想したものではなくて、じつは忍耐力だということが私にはわかったの」というのが二年間にニーナが得たものである。ベールドニコフはニーナが、すでに過去のものになった懐かしい子供っぽい空想の中に、「一般理念」を捜し出そうという無駄な努力をしている。挫折した女ではないニーナの過去には「一般理念」を捜し、自殺したトレープレフの過去には個人主義を見つけ、そのあとで必然性を講釈するのがこういう批評家のいつものやり方である。
 エルミーロフやベールドニコフの「一般理念」は得体の知れないものである。一般理念は「人民」とか「社会」という言葉で表現されるとは限らない。ベールドニコフのように過去の空想の中に一般理念を見つけたりすると成長したニーナは一般理念を否定することになる。しかし、ニーナは一般理念を否定し、一般理念や目的ではなく忍耐だと結論したのではない。トレープレフの「僕は信念がもてず、何が自分の運命かということも知らずにいるのだ」と言う言葉はニーナの忍耐力という言葉に対して言われている。トレープレフは少なくともベールドニコフより自分の使命をはっきり理解している。トレープレフは大事なものは忍耐力だというニーナの言葉に、彼女が芸術家としての使命を、エルミーロフ好みで言えば一般理念を掴んだか、あるいは掴む確信を得ていることと、自分がそのチャンスを失ったことを感じ取っている。
 ニーナは失恋、子供の死、自分の能力に対する疑いといったどん底の生活によって忍耐を知った。こういう泥沼に身を浸し、芸術に対する子供っぽい憧れを懐かしい過去の思い出にしてしまい、芸術家として生きることがどんなことなのかをようやく知った。「むごいものだわ、生活って」と彼女は言う。芸術家になるには芸術の美しさや偉大さを愛し、憧れるだけでは、あるいは人類のためとか人民のためとかいう高邁な善意を持つだけではまだ足りない。そしてその物足りない何かこそ芸術を輝かしいものにするのである。その輝きにみとれることとそれを作りだすことはまったく別のことである。忍耐という単純で地味な言葉でしか表現できないものが二年間の苦しみの中で得たものである。だからこの「忍耐力」は言葉で説明することのできない経験的で感覚的な言葉である。こういう言葉の深さはそれを聞く人がそれまでに費やした忍耐によって測る。忍耐とかたゆまぬ努力とかは口うるさい教訓にもなるが、これ以外に言いようのないことを意味することもできる。その言葉の内容はその背後にある長い年月にわたる生活全体である。そして、その意味がどれほど深い意味を持っているかを、ニーナは行動でしめし、トレープレフはそれを独自の実践と感覚と才能によって理解した。トレープレフはこの言葉でニーナの成長と自分の「妄想と原形と混沌」との違いを感じ取り、自殺したのである。
 トレープレフは二年間ニーナほどに生活に学ぶことができなかった。厳しく言えば彼は片田舎で平穏に暮らしていたのである。芸術家になろうと思うならここを出ていくべきであった。地方生活のすべてを束縛と感じ、この世界に止まることはできないという一線を越えてはじめて才能の力が試される。この世界にいるかぎり結果はしれている。マーシャが好きでもない男と結婚しても何もならなかったように、トレープレフが母親と言い争ったりトリゴーリンに決闘を挑んだり自殺を計ったりするのは、才能の成長という点から見れば感情と時間のバカバカしい浪費である。こんなことはいいかげんにやめなければならない。こんないつ果てるともしれないいざこざは才能をすりへらすだけの無意味な茶番であることに気付き、すべてを拒否して逃げだすべきだったのである。
 トレープレフはそうしなかった。彼がそうしなかったのは気弱で意気地がないからでもある。また、芸術的創造に取り組みたいという意欲の大きさが取り組めない状態に対する不満の大きさだとすれば、彼が詰まらぬいざこざにかまけていたのは、なお何かが足りなかったからであろう。だがこれは若い二人の思想上の決定的な違いを示すのではない。二人の個性やおかれた立場の違いは小さなものである。この小さな違いはモスクワに行くか地方生活に止まるかを分けた。ニーナは財産を失い「はだか同然の身の上」になっており、あこがれていたトリゴーリンが好意を見せた。だからモスクワへ行く決心をした。そしてここから二人の決定的な違いが生じる。二人は分岐点の重大さを知らなかった。それは未知の世界であり、ニーナは新しい生活によってはじめて地方生活的な空想をたたきつぶされた。正しく言えば新しい生活が田舎くさい空想を洗い流してくれたのである。そして二年間の厳しい生活の後に突然トレープレフ目の前に現れた時には、モスクワでの生活はトレープレフでさえ気付くほど多くのものをニーナに与えていた。
 二年後の二人の再開はオネーギンとタチヤーナを思い出させるものがある。そこには急速な変化を見せはじめたロシア社会による運命の対立が描写されている。二年後もトレープレフは熱烈な愛を告白している。この愛情はトレープレフが成功したにもかかわらず自分の限界を理解したことによる、彼の運命を賭けた切実さを持っている。だが、ニーナは「なぜあんなことを言いだすのかしら」と当惑している。この時のトレープレフの立場はみじめで滑稽である。それは失敗や不誠実のためではなく、彼の生活と能力のすべてからでてくる切実な言葉として滑稽である。それはトレープレフの生涯がマーシャやその他の「五プードの恋」と同じように成果を生むべくもなく費やされてきたことを示している。こういう世界の限界内に止まるかぎりどのような苦しみも無益なドタバタに終わる以外にないという厳しい批判精神、それがこの喜劇の底流をなしている。
 厳しい生活を経てきたニーナはトレープレフの世界を美しい思い出の世界として肯定している。その世界を裏切った自分はトレープレフに殺されても文句はないはずだと言い、自分を捨てたトリゴーリンをまだ愛していると言っている。
 『もとはよかったわねえ、コースチャ!なんという晴れやかな、暖かい、よろこばしい、清らかな生活だったでしょう−−優しい、すっきりした花のような感情、……おぼえてらっしゃる?……』この告白のあとの、トレープレフのかつての形式主義的なセリフの暗唱は感動的である。この言葉に意義を与えるのは過去と現在の厳しい生活である。彼女が若い時代を美しい時代として懐かしく思うのはそれがすでに過去となっているからである。しかし、トレープレフはこの過去を現在として生きている。悲劇的であるのは、このことをトレープレフが理解できることである。彼はこの時ニーナと自分の違いを理解できる才能によって自殺している。
 チェーホフの批判精神の高さはエルミーロフやベールドニコフの批評と比較すればよくわかる。彼らは作品に必然性の糸を捜し資本主義を批判しようとしている。だが意図と結果は逆になる。彼らの言う必然性は偶然的な構成物にすぎないし、資本主義は批判されるのではなく免罪される。彼らの必然性とは破滅する人間の思想的根拠を発見することである。資本主義批判はこの思想的立場がブルジョア個人主義であると証明する事である。チェーホフは高い立場からそのブルジョア個人主義を体現したトレープレフの破滅性、非人間性を示し、未来の立場を代表するニーナを対置したことになる。
 エルミーロフに欠けるのは二人の運命を分けた社会的変化に対する視点である。人間の可能性がオブロモフ的に眠らされる時代が去ってロシア中からモスクワにニーナが集まり、数年のうちに地方では考えられないような変化をとげる。この分化は一度はじまれば押し止めることのできない全社会的過程である。しかし、地方に散らばる何千万のうち誰が残り、誰が都市に押し出されていくかはささいな偶然によって決まる。ロシアの個人生活はこの巨大な力の暴威にさらされ、わずかのことで、そしてわずかの期間に運命は決定的な宣告を受ける。トレープレフやニーナやマーシャはこの必然性の現象形態である。エルミーロフではこの必然性が消えてトレープレフやニーナの思想が必然性に高められる。何百万の人間を等しく襲う社会問題が諸個人の思想や心掛けに解消される結果、批判から社会的規定の視点が消え、個人に対する説教だけが残るのである。
 チェーホフはロシアの発展の過程でとり残されつつある人間の生活を描き、警告を与えた。これがトレープレフやマーシャの個人的弱点を批判し説教すればすむような問題でないことは明らかである。オブロモフ的まどろみから醒めた今、人間の運命を個性や立場の小さな違いで決定し破滅させてしまうような状態からの脱出が課題になっている。チェーホフが様々な不幸を喜劇としたのは、この課題に取り組むこと以外はすべて無意味なドタバタであることに気付いたからである。その課題とはこの分化を遅らせ残酷にしている農奴制の残存物を一掃し資本主義化をおし進めることであった。エルミーロフは人間の発展の必然性を単純な因果関係に解消するために作品の意義も個人に振り分ける。しかしチェーホフ劇の意義は個人批判よりはるかに深く根本的である。特定の個人ではなく登場人物の関係全体がロシアの基本的社会問題を反映し、そのゆえに、そのようなものとして社会の根本的変革を促す役割を果たすのである。
                             −以上−

 私はこの会議室においては、芥川や大江に対して等、批判的な立場に立つことが多いので、自分の肯定的な立場を表明する必要もあると思ったこともこれを転載する理由の一つです。チェーホフの作品には、反体制とか反権力等の大仰な言葉はいっさい使われておらず、「5プードの恋」と芸術家の苦悩と日常生活に対する愚痴が描かれています。しかし、この作品には巨大な社会的テーマが描かれています。日常的精神が歴史的、社会的な深さにおいて描写されています。
 普遍と個別の関係で言えば、作品の理論的な分析は現象形態で描写された内容を普遍的形式に改変することになります。このような高度の内容を持つ作品を分析するには、そのレベルにふさわしい普遍的範疇が適用されねばなりません。私の基本的な思想的立場は、人間の本質を社会的諸関係の総体と見ること、ロシア文学の作品の場合は、古い農奴制を商品経済の発展が破壊する過程の反映として人間精神を分析することです。
 ロシア文学史は、すでにプーシキンの時代からロシア社会の停滞をどのように克服するかを課題としていました。広大なロシアの大部分をしめる農村の停滞に内在する矛盾を描写することによって、その停滞を破壊し、発展の力を与えるための一契機とすることを目的としていました。プーシキンのオネーギンもこの停滞に苦しむ主人公の一人です。しかし、彼の時代にはロシア社会の停滞を意識するオネーギンは例外的でした。ロシアの停滞はゴーゴリが「死せる魂」に描いたままの状態にありました。経済の停滞、精神的な堕落の中で新しい未来に期待せず、現在を寄生的に消費することが彼らの生活でした。
 チェーホフの時代は既に違っています。オネーギンはいません。あるいは誰もがオネーギンです。「かもめ」の登場人物は誰もがこの停滞を意識し、この停滞に苦しみ、この停滞がどうにもならないことだと感じています。このような道徳的な批判意識や苦悩こそは、農奴制の停滞が商品経済の発展によって破壊されはじめていることを示すものです。
 停滞はすでに誰もが意識する日常的な意識となっています。それが耐えがたいものとして意識されている時代にそれに耐えることは、それが如何に悲惨な運命であろうとすでに喜劇的です。ロシアの停滞を破壊する力はすでに経済的必然性として形成されており、停滞に対する道徳的な批判意識はその反映です。チェーホフはこの作品にアルカージナが自分の領地にいながら町へでかけるための馬を調達することもできない状況を描いています。この領地の経営の崩壊に主な焦点を当てて描いたのが「桜の園」です。
 この段階では停滞に対する道徳的な批判意識の悲劇性は否定されているというのがこの時代の高度の社会認識です。チェーホフがこの作品を喜劇と名付けたことは作品の登場人物の全員を苦悩において描写することと一致しており、チェーホフの高度の批判精神を示しています。チェーホフはすでにこの苦悩を越え、この苦悩を克服することを課題としており、その視点からこの作品を喜劇としています。このような歴史的な観点において登場人物の行動と心理は捉えられており、それがこの作品の高度の内容をなしています。


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