・田山花袋の見た二葉亭四迷

 定本 花袋全集 第十五巻 (昭和十二年一月初版)より
 
 ◆インキ壺
  二葉亭四迷君を思ふ(p37)
 
 二葉亭四迷君は明治文壇の恩人であるのは言ふまでもない。私などは明治二十二年、『浮雲』の出た頃から、常にその偉才に驚かされて居た。高瀬文淵君には、私は二十五年頃いろいろお世話になつたが、その文淵君の口から私は二葉亭氏の偉い人格であるといふことを常に聞いた。『君、長谷川君には是非一度逢つて置きたまへ、日本には實にめづらしい人物だ。」かう言つて、文淵君は、『浮雲」第三編の『都の花』に載せられたあたりを、節のついたおもしろい調子で読んで聞かせて呉れた。三馬一九、でなければ春水近松などを読んでゐた私の耳に、ロシアのゴンチヤロフ張の細かい心理描写がいかに奇異にひゞいて聞えたか、それは今更言はないでも分ると思ふ。
 『あひびき」の翻訳は二十二年の『国民の友』に二號にわたつて出た。あの細かい天然の描写、私等は解らずなりにも、かうした新らしい文章があるかと思うて胸を躍らした。『あゝ秋だ! 誰だか向うを通ると見えて、空車の音が虚空にひゞき渡つた……」其一節が故郷の田舎の楢林の多い野に、或は東京近郊の榛の木の並んだ丘の上に、幾度思ひ出されたことか知れなかつた。明治文壇に於ける天然の新しい見方は實に此『あひびき』の翻訳に負ふところが多いと思ふ。(p37)
 私は二葉亭氏の名のついた作品は、いかなるものも読まぬものはなかつた。ゴーゴリの『省像画』無名氏の『酒袋』『親心』ツルゲネーフの『くされ縁』などといふものまで読んだ。中でも一番感化を受けたのは、太陽に連載した『うき草』であつた。其頃、私は喜久井町に居た。前の丘を越して、柳田君や國木田君がよく遊びに來た。ある時國木田君が、太陽から一冊にまとめた私の『うき草』を持つて行つたが、それを返して來た時、二人で夢中になつて、それから受けた感化を語り合つたことを覚えてゐる。
 『頭が冷かで心の暖かい人』といふ言葉が其中にあつたが、それが非常に氣に入つて、何ぞと言つては、よくそれを持出した。ルウヂンが別れる前に、ワルレンソーフに断りを言ひに行く鹿がある。あそこが非常に私等に物を思はせた。ルウヂンの手紙も常に話の種となつた。
 『何うだ、一つ杯を合せやうちやないか。もう我々青年の残つて居るものも少い。』
 レジネフとルウヂンとの會合の言葉を眞似て、ビールの盃を合はしたことなども一度や二度ではない。『かた恋』を始めて読んだ時のことも忘られない一つだ。それは丁度國木田君が澁谷に居る頃で、秋の十月から十二月に懸けて、私等はよく出かけて行つた。其家は六畳と四畳で、低い斜阪の上にあつた。斜阪は緑草地で、雨の降る日などは、紅葉が際立つて鮮かに見えた。隣に牛乳屋の牧揚があつて、牛がをりをりモーと鳴いた。ある日行くと、主人は居ない。遠い処を遣つて來たので一休みして行かうと思つて、座敷に上ると、机の上に買立の『かた恋』が載つて居る。私は餓ゑた獣のやうに、何をも忘れて、いきなりそれに読耽つた。私は一氣にそれを読み了るまで、腹の減るのをも忘れて居た。秋雨がザツと降つて通つた。硝子障子からは庭の紅葉が燃えるやうに見えた。
 
 『長谷川君といふ人は、君、豪い人だよ。人生観などといふものは、それは立派なものだ。文藝では駄目だと謂ふので、ダルヰンを此頃研究してるよ。」
 高瀬文淵君がかう言つて私に話した。
 私は幾度紹介して貰ひたいと思つたか知れない。
 始めてお目に懸つたのは、昨年、ダンチエンコが來た時で、その歓迎會を開くといふ打合をした時である。私は其訃を聞いた時、何うして、あの体格の好い丈夫さうな人が、そのやうな病氣に罹つたかと怪んだ。
 二葉亭氏は文学が嫌ひだと言つた。真剣で文芸を遣る氣にはなれないと言つた。それだけ文學を重く見たと言ふよりも、それだけ文學に真剣であつたと私は言ひたい。
 實生活と藝術との問題は、常に難かしい問題である。或はトルストイに行き、或はフロオベルに行く。私は氏が『到底實感は描くことが出來ない。』と語つたのを覚えて居る。『私は懐疑派たらざるを得ない。』と言つたのを覚えて居る。『其面影』、『平凡」が竟に氏の本領を出さなかつたのは、誰も皆な言ふところで(p39)あるが、しかし其本領を出さなかつた処に却つて氏の本領が見えるやうに私は思ふ。
 
 「浮雲』のやうな作品が、明治文壇の初期に顯はれたといふことは、奇蹟以上の奇蹟である。
 また二葉亭氏が其最初開きかけた道を開拓せすに、或る時は却つて紅葉露伴の文藝に從つて行くやうな態度を見せたのは不思議な現象である。
 其の潜勢力が常に識者の間にのみ認められ、或は隠れ、或は顯れ、触れやうとして触れず、離れやうとして離れず、二十余年を端倪すべからざる文壇の位置に送つたのも面白い現象である。
 
 
 ◆東京の三十年
  二葉亭の死

  『長谷川君が來てゐるがね……。』
 かう言つて H 君は編輯室の私の傍に來て言つた。長谷川君! 二葉亭四迷! 私はいそいそとして応接間に行つて、喜んで H 君に紹介して貰つた。
 背の高い、容貌魁偉な人を私は見た。長い間逢ひたいと思ひ、なつかしいとも思つた人に私は始めて逢ふことが出來た。『浮雲』の作者、『あひびき』の訳者、ロシア文學の最初の鼓吹者、外國の文脈を日本に移植した最初の功労者、その人が、その大家が、かうした率直な単純な人であらうとは私は思ひがけなかつた。
 私は嬉しかつた。
 長谷川氏はこれからロシアに行かうとしてゐた。満し難い心、文學に甘んじてゐることの出來ない心、哲學にも深く入ると共に世相にも深く通じた心、さうした心が、故郷に満足されすに、遠くロシアに行かうとしてゐるのであつた。
 其時は確かダンチエンコの歓迎會を八百膳あたりで開きたいといふ相談を H 君と打合せに來たのであつたが、それから暫くして、私達は氏のために途別會を上野の精養軒に開いた。
 文壇に於ける氏の位置は、丁度彗星のやうであつた。立派な才筆を抱いて、當時の作家の群の中に最も高い地歩を占めて居りながら、氏はいつも深く韜晦して、決して文壇の表面にはその形を現はさなかつた。その癖、新しい時代の人達は、皆な間接に氏に感化させられた……。(p663)
 『二葉亭がもう少し書くと好いんだがな。』かういつも私達は言つた。
 ある人は、
 『矢張、あゝいふのがロシア文學だよ。見給へ、相棒の嵯峨の屋を……實に、日本ではあゝいふ人間は見られないよ。汚い服を着て平気でゐる。』
 などと言つた。
 私は高瀬文淵君を透して、氏の消息をいつも喜んで聞いた。氏はダアヰン、ヘッケルの書を最も早く読んだ一人であつた。科學の概要だけではいけないと言つて、動物學までも入つて行つたといふことであつた。世聞がトルストイ、ツルゲネフに騒いでゐる頃には、氏は既にアルッイバセフ、クウプリン、アンドレーフなどに熟してゐた。氏は尠くとも明治文壇の最も早い先覚者であつた。
 しかし彗星のやうな氏は、滅多にその作品を公にしなかつた。『浮雲』以後は、久しく筆を創作に絶つた。そして十年ほどしてから、すぐれたあの『片恋』の翻訳を公にした。それから又五六年は沈黙した。やがてゴルキイの翻訳が出た。そして最近に、『其面影』『平凡』の二作を出した。
 かういふ風であるから、氏には敵といふものはなかつた。敵をつくるやうな巴渦やジヤァナリズムの中に氏は決して入つて行かなかつた。從つてその迭別會が、明治文壇でのあらゆる途別會に比して盛んであた理由もわかる。
 その上野の精養軒の途別會には、鴎外氏と露伴氏と漱石氏とを除いた外は、すべてあらゆる派の文士が出席した。新しい人も、古い人も……。
 席上で内田魯庵氏が演説した。それに、長谷川氏は立つて謝辞を述べた。魯庵氏の演説も旨かつたし、氏の演説も旨かつた。新旧共に氏に熱い送別の意を表した。
 それから、ロシアに行つてから、まだ何事もしない中に、肺を病んで、帰国しようとして、その途中印度洋で、ケビンの中でひとりさびしく氏は逝つたではないか。
 ロシアの小説にある作中の主人公、實際氏の一生はルゥジンにも似てゐれば、叉レルモントフのペチヨリンの最期にも似てゐるではないか。ルウジンは赤共和党の乱に戦死した。ペチヨリンは波斯に行つて生死不明になつた。そして氏は満し難い半生の志を抱いて、印度洋の風濤の中に……。
 遺骨を新橋停車揚に迎へに行つた M 君は話した。『何とも言はれない氣がしましたよ。實にロマンチツクだ。この新しい思想の漲つてゐる中に、新旧両派がしのぎを削つて闘つてゐる中に、さうしてさびしく骨になつて帰つて來たかと思ふと、何とも言はれない氣がしましたよ。』
 紅葉といひ、独歩といひ、眉山といひ、氏といひ、すべてかうして、開けないわが明治の文壇の犠牲となつて早世した。そしてこれ等の人々は、皆な今日の日本の文學あらしめるために、墓となつてさびしく地上に横つた。誰かかれ等のことを思はすにゐられるものがあらうか。誰かまた日本の文學のため(p665)にかれ等を思はすにゐられやうか。かれ等の上にこそ日本の文學の基礎は始めて築き上げられたのではないか。
 
 ・・・・・・・・
 二葉亭四迷が優れた人物である事がよくわかる。
 田山花袋はそれを認め、受け入れる精神をもっていた

「浮雲」 1 へ     四迷目次へ     home