7. 近代的自我史観の批評 2


 「浮雲」の「恋愛的苦悶」とは、個別問題の社会的本質が顕在化しておらず、一般的解決の方法が発見できない、ということであった。近代的自我史観の言葉を借りれば、官僚機構と個人の関係は「自由主義の圧政家」や非職という役人の生活現象としてしか発見できず、官僚機構のもとで官僚機構の政策によって発展しつつある経済法則によって分解されつつある「浮雲」的人間関係は、私的な「恋愛的苦悶」にすぎず、官僚機構とは無関係に見えるということである。四迷はこのような状況における人間関係を描き、まったく私的に見える「恋愛的苦悶」が資本主義の発展の結果であり、その解決も資本主義の一層の発展であり、この発展の中で生まれる解決の方法を発見すべく、道徳的批判を捨てた。こうして現実が生み出す解決策の発見の可能性、政治との一致、官僚批判へと高まる契機を獲得し得た。
 近代的自我史観のように、個別問題の社会的分析を捨象すれば、官僚機構に対する批判はまったく無内容になる。政治的批判は個別問題との関連を持たず、個別問題の批判は政治性を持たない。「恋愛的苦悶」の契機と官僚機構に対する批判への契機とに分離したことによって、この両者の一致、すなわち個別問題の批判が政治的批判意識へと高まる可能性と、政治的批判が個別問題の解決となる可能性を同時に失っている。
 この結果、官僚機構の批判は、まったくの当為になる。四迷が描写したのは、資本主義が未発達のために、文三は昇に対抗できないという厳しい現実である。そしてその厳しい現実に対処するには、現象を嘆いたり、道徳的批判をなげつけたり、現状に対立する理想を掲げたりするのでなく、「この世のコンヂションを暗に良きこと」として冷静に認識することであった。このような状況に置かれた文三に対して、あるいは現実を厳しい眼で描写した四迷に対して、批評は官僚機構に対する批判をすべきであった、というつまらない要求をし、さらに批判できなかったのは時代のせいであったという一層無益な反省を行うのである。
 近代的自我史観の批評は、中村氏流の批評と違って社会的批判性を小説の客観的価値と考えているが、「浮雲」の「恋愛的苦悶」に社会性を発見できなかった。そして個別的で私的な苦しみを個別的で私的であることをもって非社会的とし--あたかもこの世界に社会的でない個別問題があるかのように--打ち勝ちがたい歴史的必然によって個別的消耗的対立に追いやられている文三に対して、半世紀以上も後の眼で、官僚批判をすべきであったなどというまったく現実を無視した当為を要求している。この要求は現実的に余りに困難であり、歴史的状況に対して高すぎる点で不当なのではない。彼らは「恋愛的苦悶」の歴史性を理解できなかったために、官僚批判を「高い」と思い込んでいるのであるから、「高い批判」も個別問題とのつながりのない、無内容で空虚な要求であるという点で不当なのである。「浮雲」によって「恋愛的苦悶」の深刻さを少しでも理解すれば、このような要求が、現実的根拠を欠いた、
何の役にも立たない気楽な要求であることに気づくだろう。
 「浮雲」は、昇の俗物根性やお勢の軽薄に道徳的にかかずらわることの無力=非生産性を具体的に描いたことによって生産的である。何百万、何千万の人間が日々経験する人間関係が、道徳的批判の克服という本質的・思想的課題として捉えれている。個別は個別に即して普遍化され、日本の精神史の前進という歴史的課題を果たしている(9)。階級分化も批判意識も未成熟な日本では道徳的批判という「無思想の巣窟」は、日本思想史上特に有害な思想として政治的変革の足伽となっている。社会的利害関係の意識形態として描くことによって、道徳的批判という日本的「人情世態」を暴露し克服することは、個別における精神的桎梏からの解放であると同時に政治的変革の足伽をも破壊するほどの絶大な歴史的カ=土台に対する反作用力を持っている。批評が全生涯を賭け、作品の何倍もの文章によって「浮雲」の失敗を証明し、四迷の自己破壊を証明しようというのも、客観的には中村氏と同じように「浮雲」の持つ反作用の力を相殺しようとする努力にほかならない。
 官僚機構に対する当為としての無内容な現象的批判は、個別問題についてもそうであるように、道徳的批判である。彼らの言う官僚機構の批判は、本質的分析を欠いた単純な否定である。せいぜい官僚機構の非人間性を暴くことである。私生活を舞台にすれば、昇の俗物根性やお勢の軽薄を暴くことを小説の主眼とするようなものである。「浮雲」の価値を非職やわずかに描かれていた役所の描写に見るのも、政治小説のすぐれた部分として官僚的腐敗の暴露をひっぱり出して来るのも、文三に官僚批判を要求しその批判が作品の思想レベルだと考えるのも、批判がごく単純な道徳的批判に想定されているからである。官僚機構の批判とは、その構成や活動が日本史の必然によってどのように規定され、その活動がどのような反作用を与えているかの分析が前提になる。それ自身もやはり「恋愛的苦悶」と同じように、経済関係に還元されねばならない。そのような批判を、主人公にしゃべらせたり、政治小説から引用文として拾い集めたりできるものではない。お勢の軽薄や昇の俗物根性を攻撃するだけの小説が勧善懲悪の三文小説になるように、彼らの考える官僚批判も政治を舞台にした三文小説になる。
 稲垣氏の言う官僚機構の批判に高まるのは、動き始めた資本主義的経済法則=社会的本質の認識から遠ざかり、批判を一現象に固定し、一面化し、極限化することである。このような批判は、経済的発展とともに、つまり四迷が「浮雲」に描写した矛盾が展開しはじめると同時に時代遅れになる(10)。諸悪の根源が官僚機構にあるというような、批評の言葉で言えば「官僚体制下の状況の重さ」などというわけのわからない平板な観察ではどうにも対処できなくなる。四迷も若い時代には「例えば、政府の施策が気に喰わなんだり、親達の干渉をうるさがったり、無暗に自由々々と絶叫したり」全集第五巻266頁)していたが、東京外語でロシア文学や革命的民主主義者の思想を研究することによって青くさい批判意識を払武し、概念的批判力を得て「小説総論」や「浮雲」を書いた(11)。その四迷に対して、政治小説家さえ放棄した官僚批判を求めるのは、歴史に先走ったないものねだり--これもごくつまらない要求であるが--どころではなく時代遅れで不必要な要求である。四迷が批評の要求通りに官僚批判をする文三を描いていれば、批判が高く、鋭く、積極的になるほど滑稽な道化になっただろう。そして後に批評家に発掘されて、その声高な批判のいくつかが引用されるだろう。そんな目に会うより、批評家に失敗作だとか主題が混濁しているだとか言われながら「恋愛小説」として人々に読まれる方がいいのである。
 批評はありもしなし必要もないものを「浮雲」に求めている。ないものがないというのは正しい。どこの世界へ行っても「官僚批判」をテーマにした作品などありはしない。正しくないのは、ないから作品が失敗だとか、四迷の批判力が弱いという結論である(13)。失敗したのは「浮雲」ではないし批判力の弱いのは四迷ではない。
 (9)バラバラの個別の内約統一を発見するのが思想である。文学はこの統一をなお「偶然の形によりて」描く。批評は偶然によらず理論的に必然性を明らかにする。
 (10)自由民権運動後政治小説は平凡な人情本に変わった。政治が人々の目を奪っていた時代に政治的的現象の本質を写実できなかった作家は、恋愛を材料にしても本質に達することができなかった。写実には現象に対する不満や怒りや感動を越えた概念的才能が必要である。批判力がなく、思想性に欠けるのが政治小説の弱点であり、「もっとも正しい意味における真理正道との交渉は、政治小説においてこそ具体的に捕らえられるべきであり、具像せられるべきであった」(稲垣氏前掲書56首)などと考えるのは幻想である。歴史はやはり、あるようにあった。
 (11)「時務評論の記者は動もすれは民友記者の口吻を学びて云々す これ甚だ厭悪すべし総て彼か論する所を読むにちとの文才あるを頼みて妄りに筆を弄し数百言を累ぬれとも固より確かなる旨意ありて之を発揮したるにあらされは浮夸矜驕にして見るに足らず 然れとも彼頗る得意の色あり笑ふべく賎む可くまた憫む可きかな」(第六巻99頁)これによって四迷の批判精神の質が感受できるだろう。
 (12)批評も当為として掲げるだけであって官僚機構の腐敗を並べたてるような仕事を自分で引き受けようとはしない。資料としても役に立たない個別調査に終わるから、実践すれば恥をさらすことになるからある。
 (13)「この主人公は、たたかわずして官僚体制から疎外され、疎外されたのちもたたわかなかった、という意味では、この作品を反官僚的・反絶対主義の小説と規定するのはオーバーであり、そういう面がある、という以上のものではないとせねばならぬ。」(小田切氏前掲書113頁)
 日本の、明治という時代の特質は、先進国の植民地化を避けるために、強制的蓄積によって短期間に資本主義生産様式を育成する必要に迫られ、実行したことである。その強制は、「絶対主義的官僚機構」の権力によって実行され、それ以外ではありえなかった。強制的蓄積は蓄積の薄い層全体からの急速で厳しい収奪を意味している。この収奪された富は、私的所有として蓄積されるのであるから、官僚機構は収奪の機関であるとともに私的略奪の舞台となる。これが官僚機構の腐敗である。収奪においても略奪においても日本の「絶対主義的官僚機構」の反人民性、反人道性、私欲は目に余る現象となる。腐敗に対する道徳的批判の権利は、すべての反政府派に無条件に与えられる。官僚機構を諸悪の根源と考え、これを非難することが政治的意識と思われ、民主的で反体制的で人民的で進歩的で良心的等々と思われやすい。道徳的心情を得意の領分とする文学の世界では特にこのような傾向が強い。反官僚という薄っペらな批判意識は、日本史の特殊性からごく自然に生まれる常識的意識であって、これにインテリらしい小理屈がつけ加えられたものである。
 強制的蓄積は目につきやすい腐敗を手段としているが、他方蓄積という実質的意義をもつている。自由民権運動とともに成長した政治小説や批評が、自分の正当性を確信して非難を繰り返している時、収奪と略奪をテコに蓄積された資本は、その腐敗の背後で独自の運動を展開しはじめる。自由民権運動をひきおこし、解体し、様々の媒介項を形成し、官僚機構をも私生活をも含めたすべての上部構造を規定する新しい土台としての力を発揮するようになる。経済的発展に対応するための官僚機構の整備で免職になった文三は、園田家でも同じ経済法則によって、ただし官僚機構内部でとは違った媒介項の連鎖によって支配される。
 無批判性、思想的無力とは、現実の経済的発展=蓄積が産み出す新しい社会的諸関係に認識が届かないことを言う。官僚機構の腐敗が生産力の発展の契機になることによって免罪されるわけではないが、蓄積された資本による収奪や支配の形態を認識できないならば、その反人民性の基本的形態を理解していないのである。蓄積による新たな人間関係は新たな腐敗を必要とし、批判は腐敗という表面的で部分的な現象を追うだけの現象追随的な批判になる。彼らの批判は、「絶対主義的官僚機構」ないしブルジョアの利害にも、人民の利害にもかかわりのないプチブルの自己規定としての道徳的説教に終わる。
 全般的貧困の中で昇がのさばり文三的批判意識が生まれる。すると、俗物を批判するのは純粋で理想主義的で偉大で見上げたものだ、しかしそれは現実には無能で失敗者で自意識過剰で性格破産者である、昇は実は現実的で正しいのだ、と中村氏的批評が解説してくれる。無能な人間は気のすむまで道徳的批判をしていればよかろうという愚弄である。このような愚弄に納得できない者は、その批判は私的で非社会的である、本当に悪いのは官僚機構だから、官僚機構に眼を向けるべきだ、と近代的自我史観の批評に教えられる。個別的分散状況に追い込まれている人々は、できもせずどんな効果もない要求を押しつけられ、それをできないのは自我の弱さだ、と説教される。
 以上のことを近代的自我史観流に「主体」という言葉で表現すれば、文三は後進資本主義の日本が広範に生み出す道徳的批判形式を克服して現実の諸関係の認識へと進もうとする、歴史の必然を体現した主体的人物だということができる。その文三に対して、官僚機構への道徳的批判を要求する批評は、厳しい現実を持ちこたえて困難な認識への道を進むだけの忍耐力に欠け、批判の質を発展させる困難を批判の対象を変えることでごまかす無力な主体である。文三の苦しみを精神史の段階として理解するのではなく、ただ個性としての弱さや古さを感じるのは、文三の苦しみ以外の解決があり得るという甘い幻想、官僚機構に対する道徳的批判が有効であるという気楽な幻想にもとづいて文三を批判しているということである。彼等は批判の対象を変えることで文三を越えていると確信しているために、認識の立場へ発展する可能性を失っており、したがって歴史の必然に積極的にかかわる可能性を持たない。このような状態を主体性の欠如という。
 近代的自我史観の主体は認識の労苦を知らない。あるいは、現象を突破して本質の認識に深化することのできない意識が生み出す、認識を放棄した主体である。行動の意味を歴史的に認識できずむやみに批判する無責任な主体であり、その積極性の根拠は無知である。
 主体性は写実と同じように当為や主体の抽象的提唱では形成されず、歴史上のあらゆる段階において具体的に規定されねばならない。四迷は「浮雲」でこの時代の主体性の具体相を描いている。ところが近代的自我史観の自我や主体は、近代的と言いながら歴史的規定を含まない空虚な抽象的自我である(14)積極的、深い、強烈な、新しい、真実の等量的に規定された主観の形式である。「その底にひそむ深い真実を追及し、まったく新しいイメージと形象をもった『浮雲』」といいながらその新しさも深さも内容的に規定することができない。だから、文三について、より主体的であるべきだったとか、時代の状況によって主体的たりえなかったとかという実りのない反省しかできない(15)。
 (14)彼らの近代的自我は、理解しようにも批判しようにも、四迷論に限らずどこにも規定されていないし今後も規定されることはないだろう。近代的自我とは客観的世界を反映するあらゆる分野における近代の成果全体を含むべきものである。「浮雲」の分析は、近代的自我の一段階を文学において研究することである。この研究に先立つ近代的自我によって「浮雲」を裁断することはできない。とは言っても、実は近代的自我を与えられた分野で具体的に規定することができないために、抽象的な近代的自我が設定されているのだから、近代的自我を具体的に規定するまでは、彼らの抽象的規定が近代的自我と想定され続ける。
 (15)「作者として、二葉亭がこういう人物を主人公に設定したのは、個人生活にまで及んでびっしりと人間をとらえるようになっているこの当時の官僚体制下の状況の重さと、それに対して強力に対処し闘い切り抜けてゆく主体的な力が知識人のどこにも見いだされなくなっている実情と、この両面の切実な実感から、行動的にはなんの動きもとれなくなっているその知識人の心理の執拗な内面的追及を通して、時代と人間との現実をともども深く照らし出そうとしたためにほかならゐ」 (小田切氏前掲書89頁)時代と人間をともども極く一面的に観察し、その類似点を挙げることは、文学的反映・写実の説明にはならない。文学を判じ物として読むべきではない。
 したがって文三から百年後の我々も近代的自我史観の主体性ではなく、彼らの理解しなかった文三の主体性を受け継がねばならない。昇の俗物根性が露骨であるほど、官僚の腐敗や鹿鳴館の軽薄が目に余る現象であるほど、その現象に対する怒りや嫌悪の情に身を任せているわけにいかない。この現象をも、この現象の一つである無批判的批評をも日本史の一段階として受入れ、性急な批判に走ることなく論理的段階を正確にたどつて内的に克服しなければならない。なぜなら、このような国、このような時代にこそ反動や俗物が強力であり、現象の否定性が露骨であるほど背後にある本質の認識は難しくかつ認識の必要は大きく、また現象に対する声高な批判がはびこるからである。日本に反体制や反権力といった抽象的批判家が大量に生産され、安っぽい気炎を吐くのは、高率の搾取と日本資本主義の構造の複雑さ、そして思想の立遅れによるものである。我々は威勢のいい官僚批判や、時代閉塞がどうのといった深刻そうな空文句を頭から追い出して、文三の批判意識までもう一度引き返す必要がある。我々は文三と同じくらい弱い立場にいるのであるし、空虚な批判で頭をいっぱいにしていては昇に対抗する現実的力など望むべくもないからである(16)。
 (16)文三を余計者とする荒正人氏の批評には触れなかったが「浮雲」論として必要な批判は含まれている。免職を官僚機構からはじき出されたとして余計者論やインテリゲンチヤ論を展開するのは「浮雲」論でない。荒正人氏の批評は「浮雲」論としてよりその時代のイデオロギーとして重要であるから、インテリゲンチャ論の一タイプとして別に論じるべきだろう。
 資本主義経済の発展は、明治の知識人にはまず精神的堕落として目に入る。道徳的批判が現実認識の入口になる。四迷は現実認識のこの偏狭な入口を突破することを思想的課題にした、日本史上たぐいまれな天才であった。四迷が文学史上孤立的・異質的存在だといわれる本当の理由がここにある。
 道徳的批判の立場が克服されないかぎり「浮雲」理解は理論的課題である。道徳的批判の土壌には情熱や自尊心といった高度の感情が育たない。四迷の創造した文三の批判的精神が感じとられず、弱さとか古さとか性格破産と解釈されて甘い感傷の対象になっている間は、文三の個性を理論的に説明しなければならない。現実の変革的激動や理論の前進、新しい文学による批判精神の発見、創造等による精神的発展によって四迷の批判精神が感性として定着すれば、従来の批評は無駄な思考として忘れ去られ、このような批判的分析も必要とせず、生きた作品として自由な鑑賞に委ねられるだろう。この批評も含めたすべての「浮雲」論は、経済的発展と思想的発展の一世紀に渡るギャップを示している。
 我々はこの百年のキャップを埋めるために、先進国の生産手段に対して日本人の労働が支払われたように、ギリシ以来の思想的蓄積に対しても必要な代価を支払わねばならない。四迷や漱石の苦しみはその貴重な代価であったが、批評はその代価がまだ不足だと言っているのである。批評のおしつけた四迷の虚像をはぎ取って四迷本来の偉大さを明らかにするとともに、認識の労苦をひき継ぎ、批評が満足するだけの代価を支払うのもまた批評の責務である。
 この代価は高くつく。日本の厳しい歴史的条件の中で現象的な批判的感情と無批判的批評が生まれる。厳しい環境と現象的、批判的感情が我々自身の精神的桎梏となっている。困難が困難を生むのである。とはいえ、歴史的発展には必ず慰めがある。批評は私的舞台でも歴史的舞台でも「旧来の道義学」に可能なあらゆるセリフをその無内容が誰にでも感じられるほど繰り返して来た。従来の批評の氾濫が観客に新鮮なセリフを受け入れる素地を育てたと考えることができる。批判的感情の広範な存在は、我々が道徳的批判を越える思想を提供できさえすれば、桎梏から批判的思想を理解するための広範な予備力に転化できる。無批判的「浮雲」論が圧倒的力を誇り、彼らを内的に克服する困難が大きいほど、成果の大きさも期待できる。

「其面影」 1へ    「近代的自我史観の批評」 1 へ    四迷目次へ     home