『金貨』 (明治42年9月) 

この作品は泥棒を材料にして書いたもので、漱石の「吾輩は猫である」に似たところがある。しかし、登場人物の関係が違う。漱石の「猫」では、泥棒に入られた主人より泥棒の方がしっかりしているほどであったが、鴎外の「金貨」では、主人が立派で、泥棒はヨーロッパの貨幣を知らない程に無知で、泥棒に入る事で主人の人格の立派さを証明する役目を負わされている。妙な所に泥棒に入ると何をやらされるかわからない。
 泥棒が泥棒としてどんな心理を持つかをそれらしく描いているにもかかわらず、この泥棒はインテリのような妙な心理を持っている。インテリの泥棒としてもくどくて臆病で小心で無駄な葛藤を繰り返している。鴎外は瑣末な心理を文士的に面白がって描写しているのであろうが、私小説家であるから泥棒も鴎外に似ている。
 八はもう逃げられないと諦めてからは、頗る平気でゐる。腹懸に這入つてゐる貨幣を隠さうなんぞといふ気は少しもない。それに荒川の四角な大きい顔で、どこか余裕のあるやうな処が、八には初て見た時から気に入つてゐて、跡から附いて来て盗みに這入つたのも、一部分は主人が気に入つた為だと云つても好い位である。今別当の夜遊に出たのを真面目な顔で叱つて、自分に盗んだ物の事を問ふときには、何の訳だか知らないが、却て気色を和げてゐるやうなのを見て、八はいよいよ主人が好になつた。そこで行きなり右の手を腹懸に突込んで、七八枚の貨幣を一握りに握つて、土の上に出して、主人の顔を見てかう云つた。
 「旦那。済みません。」
 八の顔は右のめじりに大きな引弔があつて頗る醜い。それに彼のこれ迄に経験して来た、暗い、鈍い生活が顔に消されない痕跡を印してゐる。併し少しも陰険な処は無い。これを見てみる荒川の顔はいよいよ晴やかになつた。
 「お前は始て泥坊に這う入つたのだらう。」
 「へえ。始てでございます。」
 「そんな事だらう。もう泥坊なんぞをしては行かんぞ。」

・・・・
 「太吉は天晴気を利かした積りで主人に言つた。
 「旦那。此奴を巡査に渡してしまひませうか。」
 「太吉を見る八の目は輝いた。
 荒川は別当に、「余計な事を言ふな」と云つて、八には、「お前は好いから行け、泥坊なんぞになるものぢやあないぞ」と云つた。八は黙つて、お辞儀をして、太吉を尻目で見て、潜門を出て行つた。
 近処の家で、雨戸をがらがらと繰り明ける音がして、続いて咳払の声がした。
 鴎外の精神は貧しい。こうした教訓話をうまくまとめて書くことに何の疑問を持つ事もできないほどに貧しい精神を持っている。主人の立派さにうたれて泥棒が罪を自覚することと、泥棒に対する寛大な態度が鴎外にとっては優れた精神に見える。「太吉を見る八の目は輝いた。」というのは、本来の厳しい処置との落差による感動である。だから、この感動には鴎外の厳格さが現れている。官僚的な冷淡さと厳格さを徹底して発展させてきた鴎外にとっては、その対立物としてこうした寛大さが次第に大きな意義をもっているように感じられてくる。この軽薄な場面の描写は「高瀬舟」を思い出させる。鴎外は結局こうした低俗な精神を超える事ができなかった。

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