11. 行人
 『彼岸過迄』の須永の行動は千代子に卑怯と言われた。『行人』の一郎は妻の節操を試すことを弟に依頼する。『こころ』の先生は親友を出し抜いてお嬢さんと結婚する。このような精神と行動は小市民的な価値観にとっては堕落や自己喪失として重大な関心の対象であると同時に、小市民的な価値観による束縛の破壊としても関心の対象となる。この三作品の葛藤は現象形態として小市民的な苦悩の典型であり、同時に小市民的な価値観の崩壊を意味しているからである。
 インテリはこのような現象を前提としてあれこれと論評することを好む。この現象に対する無批判的精神にとっては、この現象が現実であり、動かしがたい事実であり、その現象をどのように評価するかだけが課題である。しかし漱石はこのように見える現象は実は現実ではなく、この現象形態の背後に、この現象の本質としての小市民的人間関係とその反映である精神が展開されていることを明らかにしている。卑怯や卑劣や裏切りというのは現実に対する小市民的な認識の形態であって客観的な人間関係の展開を反映していないというのが漱石の得た現実認識である。
 現象形態では小市民的な現実認識にとって最悪な行動と精神が描写されています。しかし同時にそのような行動形態にもかかわらず高度の信頼関係が形成されていることも描写されている。現象形態におけるこの矛盾の統一に必然性が現れる。この両者が統一されていることが漱石の特徴である。
 『行人』も細かな心理や行動が綿密な段階を経て描写されている作品であるので短くまとめることはできない。一郎と直の関係に絞って人間関係の一側面だけを問題にしよう。『彼岸過迄』と『行人』は事件のない分かりにくい作品であるために他の作品ほど広く読まれていないと思われるが、ここで頭を悩まさないと『こころ』では激しい現象形態に振り回されて本質に分け入っていくことができなくなる。『こころ』に描かれた現象と本質の対立と一致を理解するための前哨戦としてこの二作品は決定的な意義を持っている。

 一郎の父が引退し社会的に孤立した後の長野家の人間関係は社会的に積極的内容を失い崩壊の危機を迎えている。長野家の危機を長野家内部で理解する場合、危機の根拠は一郎の陰気さであり、その原因は直との信頼関係の崩壊であり、その原因は直の二郎に対する好意である等々として長野家の人間関係の現象形態を単純な因果関係で結ぶことになる。
 直が不貞を働き、一郎がそれを疑い、その結果長野家が陰気になり人間関係の全体が崩壊するという展開は長野家内部に特有の認識形態であり、現実の順序は逆である。現実には長野家の危機が直を疑う根拠である。長野家が没落していること、同時に書斎的な学者である一郎の生活が現実社会から隔離されていることが長野家の危機である。こうした社会的、歴史的、階級的な危機を長野家内部で解決することはできない。しかしだからこそ危機の原因も対策もこの世界内部で暫定的に想定される以外にない。直や一郎の性格的特徴は没落の必然の結果としての現象である。直と一郎の性格から彼らの関係へ、さらに彼らの関係の理解から長野家と社会の関係へ、さらに日本の社会の構造へと深化するのが認識の本質化であり、現象の本質的規定である。長野家の没落の本質が理解されない場合には長野家の没落の結果生ずる様々の現象が他の現象の原因に見える。漱石はこの作品で現象形態からの脱皮の形態を細かに描写することで読者の認識の現象形態から本質への深化を促している。
 一郎は自分を家長として奉ることを人間関係の崩壊と考えている。一郎と直以外の家族は家長的関係の崩壊を人間関係の崩壊と考え、一郎を家長として尊敬しようとしている。直は一郎にとって自分を家長的、形式的に扱わない点でもっとも信頼できる人物である。しかし直との関係も一郎の思想世界で進行している人間関係に対する不信感を阻止できない。一郎が直との信頼関係を形成する唯一の方法は社会的な積極的な関係を直との間に形成することである。積極的な関係は直との単独の関係では形成されない。
 一郎にとって、信頼関係が形成され得ないという長野家の本質を理解するための最後の障害が直である。節操を試すことも直に対する具体的な人格的疑いから起こったのではない。小市民世界の人間関係に対する疑惑が直に対する個別的な疑惑に先行しており、その疑惑の真偽を確かめることが直の節操を試すことである。一郎にとって直の節操を試すことは自分の思想を試すことであり、しかもその手段が馬鹿げており、したがって結果に期待できないことは明らかである。一郎の思想の発展が客観的にも一郎の破滅の過程と一致していることは須永が自分の不安の解消のために自己否定の勇気を必要としたのと同じである。このような疑惑は一郎の世界の人間関係一般に対する高度の批判意識であり、その意識の全体の流れは二郎には理解できない。一郎に卑劣な二重性がないことは正直な二郎には明らかであるから二郎にとっては一郎の言動が不可解になる。
 倫理的な二郎にとっては一郎の試みは直の本心を策略で探ることや直を騙すことを意味している。しかし一郎は直の意志を試そうとしているのではない。一郎の疑惑は二重性のない直に対して初めて生ずる深刻な、思想上の疑惑である。一郎は主観の二重性など問題にしていない。疑惑の対象はこの階級内部の信頼関係である。一郎の精神はこの階級に特有の二重性に対する疑惑という二郎の考える常識的な本来の倫理の領域を越えている。
 一郎の世界内部で主観の二重性に対する批判意識は主観に二重性がない状態を正当な人間関係と認める無批判性である。個人の二重性を批判し、それを正すという初期作品の段階の倫理はこの作品では問題にならない。一郎が直を試すことは直の二重性を疑うという非倫理的な行為ではない。直の節操を試すことが直の二重性、直の悪意を問題にしているのであれば、直に非倫理的な性格を想定することであり、想定も試すことも非倫理的である。
 一郎は直の主観の背後にある現象形態の本質としての心を求めている。現象形態の背後に現象形態と対立する抽象的な心を求める一郎の思想は、決して主観の二重性の背後にある本質に到達できない。彼の求める「奥の奥の底」という純粋な抽象物の内容を一郎は規定することも説明することもできず、ましてそれを二郎に理解させることはできない。一郎は二郎と直の関係によってどんな現象が生じようとその現象形態の背後に「奥の奥の底」を想定することになる。現象形態に信を置かない一郎には「奥の奥の底」を理解する手段はない。自分の求める心が規定できず、それを確かめる手段もないことを理解するのが一郎の思想の発展であり、それは長野家や彼の階級内部に一郎が求める信頼関係を形成する人間関係があり得ないことの反映である。社会的発展から取り残された長野家では積極的信頼関係を形成する現実的材料が失われている。本質的には長野家に生ずる人間関係はどんな形態をとろうと、直を含めた全員の意志に関わりなく関係自体が信頼するに値しない。長野家で生じ得る人間関係自体が、それぞれの個性や精神と独立して疑われるべきものである。だから彼らは個人的には真摯で率直で悪意がない善良な人物であるにもかかわらず、その真摯さと率直さと正直さと相手に対する好意や信頼においてお互いを疑い、遠慮し、陰気に相手の意志を探りながら生きている。
 二郎と直が和歌山に行くことは、沈滞した、積極的人間関係が失われた長野家に持ち込まれた波瀾である。一郎はこの試みの客観的意義を理解していないが、この試みは彼の危機意識と長野家の危機から必然的に出て来る帰結であり、その必然性に応じた合法則的で有効な結果をもたらす。直と二郎が和歌山に行くことが二郎や母に引き起こす動揺が沈滞した長野家の人間関係への対応の合理性を示している。この試みはわずかの人間関係の変化をも長野家の平穏を乱すものとして保守的に対応する二郎や母を動揺させている。一郎にとっては発展的な矛盾を失っていることが長野家の危機であり、二郎や母は危機を感じているものの矛盾をなくすことを危機の回避だと考えている。深刻な危機意識を持っている一郎や直にとってはこの行動自体は危機ではなく、危機の打開策である。したがって直は冷静であり、一郎を信頼して成り行きに任せるつもりでいる。和歌山に行くことは直にとっては一郎と同様倫理とは関係がない。しかしこの試みは長野家内部の人間関係の展開の必然性として倫理的な不合理のみが現象として現れる。二郎と和歌山に行くことが母や二郎にとって明らかに倫理的に不都合であることを理解し、他の合理的な説明ができないにもかかわらず節操を試し、それに従うのが一郎と直の思想上の度胸である。これは『彼岸過迄』に見られたこの階級内部の倫理性に対する合理的な挑戦である。この倫理こそ彼らの不安定で孤立的な生活を反映し、彼らを苦しめる精神的な要因である。
 倫理的意識は長野家での矛盾の発展である長野家の崩壊を恐れる意識であり、長野家の危機の深刻さを理解できず、長野家の波瀾を食い止めることができると幻想することである。この意識に止まれば須永と同様の苦悩に翻弄される。瑣末で消耗的な矛盾が支配する人間関係の中で、矛盾の解消を目的とする臆病な倫理的危惧によっていっそう瑣末な矛盾が再生産されることは初期作品で明らかにされた。こうした保守的な対処は長野家の矛盾の発展を妨げ、長野家の保守的な人間関係に一郎を縛りつけようとする傾向である。母や妹や二郎は現在の一郎の形式的利益を守り一郎に従属することにおいて、一郎と対立しており、一郎の信頼を失っている。直だけがそうした保守的傾向を免れており、一郎を信頼するとともに一郎の信頼を得ている。長野家に不必要ないざこざを引き起こす一郎のわがままと、何事も穏便にすまそうとする家族の対立は、長野家の現状認識と危機に対処する基本的な対立である。
 危機や矛盾を恐れる長野家の倫理思想の堅固さと一郎の不合理な言動の対立は長野家の危機の未成熟を反映している。長野家は没落の矛盾が激化する以前の沈滞した、発展性のない、無為で消極的な段階にある。一郎はその人間関係に動揺を与える必要を感じている。一郎が直の節操を試すのは直の不貞に対する期待であり、したがって直の不貞の可能性などあり得ないことを示している。直の節操が現実問題になるほど長野家の危機が発展している場合は不貞を阻止するか覆い隠すための対策が必要となる。だから長野家の危機が直の節操の一点に集約されていること自体、直の節操が現実問題にならず、長野家の危機も深刻に意識されていないことを意味している。危機の未成熟な段階では長野家の危機が直の節操という倫理的な問題にすり替えられ、危機が矮小化される。
 社会での積極的な活動による社会的矛盾との連関が失われ、なおかつ崩壊が危機的・破壊的状況に達していない段階で、それを危機と反映し、長野家を立て直すことによってではなく、破壊的な危機を引き起こすことに積極的対策を見出だそうとする試みが直の節操を試すことの客観的な意義である。停滞的な人間関係こそが信頼関係の喪失であり社会的意義の喪失であるという価値観のもとに一郎は危機を先取りし、生み出そうとしている。『三四郎』で現実との関係を価値基準に据えた後、矛盾の解消ではなく矛盾の発展、深化を矛盾の解決とし始め、この作品では矛盾を発展させる立場と矛盾を解消しようとする立場の対立が明確になっている。現実との接触を失った長野家での、停滞した状況を危機と認識する一郎の高度の思想と、一郎のためにという形式で安定を望んでいる家族との対立は、作品の発展で言えば『虞美人草』までの思想と、『三四郎』でのコペルニクス的転回の後の激しく発展してきた思想との対立になる。一郎の精神は『虞美人草』までの作品に見られた形式主義を破壊し精神の自由を求めている。だから一郎の自己破壊的な行動が二郎には精神病と見える。
 和歌山行きは長野家の全員にとって勇気を必要とする。勇気の内容は認識の段階によって違う。一郎にとって和歌山に行くことは自分の思想の正体を明らかにする思想的な勇気を必要とする。直は一郎との関係に危機意識を持っており、しかもその危機を打開する方法がわからないので、結果を恐れずに一郎の意志に従う勇気がある。一郎の思想には合理的な結果を生み出す力はない。一郎と直の信頼と彼らの能力が大きく度胸があるほど結果は否定的であり、したがって勇気も必要となる。一郎と直の勇気は節操を疑うという倫理的、個別的問題を越えた危機意識である。
 倫理的な思想を持つ二郎には倫理的な勇気が必要である。直の節操を疑う観点から和歌山に行くのであれば、直との関係に対する危惧と、直を試すという卑劣な行為への危惧に対する勇気がいる。勇気とは倫理性に背くことである。したがって二郎が「自分には全く勇気がなかつた」と考えるのは彼の認識のレベルの低さと、その限界内部での誠実さを表している。
 和歌山で二郎は落ち着かず直は平気である。直は現実を端的に捉え、二郎は二人の関係を倫理的に解釈している。長野家の危機を一郎と二郎と直の三角関係といった単純な関係に解消する倫理的な意識には、二郎と直の危機がまったく別のレベルで進んでいることが理解できない。倫理的俗物は病院での二郎と三沢に対してと同じく和歌山の場面にもあり得ない事件を期待する。しかし二郎の倫理的精神を越えて一郎のレベルに達するには『三四郎』以降の成果をすべて理解しなければならないし、一郎や直を越えた苦悩を現実的に経験していなければならない。したがって二郎の偏見を克服するのはインテリには非常に困難である。
 二郎は和歌山に行ったことを眠れないほど気に病んだ。しかし直は冷静であったし、一郎も二郎の予想に反して冷静である。二郎と直が和歌山に泊まったあと一郎が冷静であることは直の節操を試そうとする一郎の精神の内容を示す本質的な現象である。その意義を認識できない二郎はこれを「天賦の能力」として性格的に特徴づけている。
 「繰返していふが、我々は斯うして東京へ帰つたのである」という文章に続いて「東京の宅は平生の通り別にこれと云つて変つた様子もなかつた」と書かれている。倫理的精神にとってこの現象は矛盾している。一郎の精神を理解するには直の節操を試すこととこの精神状態の両者が一郎の必然性の契機として説明されなければならない。『兄』の全体を通して二郎の倫理的解釈や危惧の正しさを証明するかに見える材料が次々に与えられた。『帰つてから』の冒頭の、「繰返していふが、我々は斯うして東京へ帰つたのである」という言葉は二郎の解釈の誤りを証明する現象の始まりを示唆している。二郎は『兄』の章の事件の後に意外にも平穏が訪れたと考えるが、一郎の人生の連関の全体的な、そして論理的な順序は逆である。これといって変わった様子もない東京の平生から直の節操を試すという一郎の行動が出てくる。直の節操を試すという極端な現象の矛盾は理解しやすい。しかし平穏な日常での矛盾は発見しにくい。漱石は現象的な極端な矛盾から描写して、その矛盾を日常生活の中に発見できるように描いている。『帰つてから』の描写は『兄』に描かれた現象と新しい現象との統一的な理解を求めており、二郎の解釈の誤りを証明している。
 一郎は書斎人であることにおいて他の家族との人間関係が希薄になっている。一郎の書斎生活に一郎の秘密がある。二郎は直が問題にされない平生は問題が解決されていると思い、その平穏が続くことを望んでいる。一郎や直が苦しんでいるのは長野家の平穏な無風状態による。この日常生活の不生産性、人間関係の喪失、それに伴う自分の価値の喪失に耐えきれずに何かを契機に一郎の癇癪が起こる。一郎の癇癪や節操を試す等々の非日常的な積極的行動は問題に対する対処であり問題そのものではない。一郎が口を利かなくなり、書斎に引き籠もることが直との関係を問題にする根拠であるから、一郎の関心を直から書斎の方へ転換させることができはしまいかという二郎の希望はまったく現実の進行と逆を行っている。二郎や母は一郎がこの状態を抜け出そうとする時、その行動を非倫理的とか病的と感じて元の状態に押し戻そうとする。彼らにはこんな瑣事で日を暮していることと直に対する一郎の特別の関心の連関が理解できない。
 立派な講義より直や子供との関係を「肝心の人間らしい心持」として重視する一郎の価値観を理解するには、インテリ階級について初期作品からこれまでに積み重ねてきた多くの批判的考察が必要である。初期作品では一郎の書斎生活に示されるインテリ世界の相対的な安定状態とその反映である人間関係が肯定され、それと対立する生活は出世欲や、技巧を弄する虚偽に満ちた人間関係として否定されていた。インテリの相対的な安定状態こそが社会的発展から取り残され、孤立した、消耗的で不生産的な生活と精神であることが発見されるまでには非常に多くの考察が必要であった。
 一郎は現在の書斎生活を不毛だと感じているが学問を放棄することで家庭生活の矛盾を解決しようとはしない。一郎は学問的生活と家庭生活の両方に同じ矛盾を持ち込んで苦しんでいる。学問的使命を放棄し家庭的幸福に甘んずれば『彼岸過迄』の松本になる。一郎は両方を放棄せずにすべてを失いつつある。
 二郎は一郎の思想の進展に伴って長野家がさらに陰気になったことを嫌って家を出る。しかし長野家の陰気さが二郎を追い出すのではない。二郎が家を出るのは、「然し自分も既に一家を成して然るべき年輩だし、又小さい一軒の竈位は、現在の収入で何うか斯うか維持して行かれる地位」にあるからである。こうした条件下にない他の家族は長野家が陰気になっても出るわけにいかない。
 お貞と二郎が出た後の長野家には二郎に知られない変化が起こっている。一郎は二郎や直を問題にしなくった。一郎が人間関係の一切を諦めた時現象的な対立が消える。直とも二郎とも関係なく苦悩は進んでいる。外的対象に関わることを止め、自分自身に戻り、苦悩の中に純粋に没入している。偏屈とか変人と言われていた人間関係もなくなっている。ここから二郎の無理解、誤解が繰り返し描かれる。無内容な純粋性に向かう一郎の思想の進展はそれ自身としては示されず、誤解との関係として描かれている。誤解との距離が一郎の思想の進展である。誤解の大きさが一郎の内容を影として反映する。
 一郎直を通して外界と関係し、一郎の状態は直との関係で観察されていた。直との関係が切れた結果一郎を理解する材料が失われた。長野家の危機を先取りした危機意識が引き起こした一郎の行動が長野家の無風状態を覆い隠していた。一郎が長野家に積極的矛盾を形成する努力を諦めた結果、長野家の没落の必然性が現象しはじめ、長野家の全員がより深刻な状況に陥る。
 この作品に二郎と直の愛情関係を期待すると「事の起りさうで起らない」進展のない小説になる。一郎の思想的苦悩を理解すると全員の誤解の中で事態が深刻に進展していることがわかる。長野家では、岡田、お兼、お貞に続いて二郎が家を出た。そして三沢にお重を貰う気がないこともはっきりした。こうして長野家では「事の起りさうで起らない」状況が確定している。事件を起こす力を失うのが長野家の危機の進展である。長野家の社会的孤立が明らかになり、一郎の苦しみを被い隠していた現象的対立が解消されると、一郎の苦しみは純粋な展開を始める。ここから二郎らの理解できない平凡でない事件が展開する。
 直の節操を試すことは直に対する一郎の信頼を前提していた。一郎が思想的苦悩に沈潜した結果直との関係も失われている。直にとっても一郎の状態は理解し難くなった。二郎がすべての情報を一郎の神経衰弱の証明だと解釈するのはいかにも俗物的であるが、彼自身の形態での危機意識、一郎に対する配慮の発展である。無力な二郎は長野家や一郎に対して何ら働きかけることもできずに下らない妄想のなかで一人で悩んでいる。二郎の妄想と長野家の現実的危機はいずれ交差し、直と自分の関係についての単純な妄想は妄想として発展しているほど誤解が解かれやすくなる。それが父の訪問に関連した二郎の心理に描かれている。父の訪問によって二郎は和歌山に行った時と同じように様々の妄想をかき立てては打ち壊し、家に着いて初めて自分の考えがまったくの妄想であったことを思い知らされている。
 一郎の苦悩は理解されておらず非難もされているが深く信頼されており、長野家ではもっとも重要な人物である。幸福な家庭で家長として尊敬される三沢にはこのような信頼関係はない。一郎は長野家の崩壊の危機を先取りする能力の現象形態において信頼され、関心の対象になっている。こうした深刻な関心が生じたのは長野家の崩壊と、それを意識する一郎の優れた能力の賜物である。長野家ではこれを成果として全員が獲得し、人生の前提条件としている。長野家にとって一郎は人生において決定的な意味を持っており、一郎との対立が彼ら相互の対立として現象していた。したがって一郎を重視するほど彼らにも深刻な対立関係が生まれる。これは長野家の崩壊の過程に伴う新しい人間関係の形成過程である。それは三沢の家庭に存在する地位や富による幸福を破壊した代償としての新たな獲得物である。
 一郎が自分の関わる人間関係を虚偽だと考えるのは高度の批判精神である。批判精神の結果として直に手を下したり、二郎に節操を試すように頼むのは如何に馬鹿げていても思想的な試行錯誤として理解できる。彼の下らない試行錯誤はそれによって彼が積極的関係を自力で形成することのできないことを理解する現実的手段になり、彼の思想を進展させる。それは彼のとる手段が馬鹿馬鹿しいほど厳しい結果となって彼に降りかかり、手段のないことを確信する契機となる。
 H氏は二郎と同様一郎の精神を理解できない精神の典型として描かれている。H氏は一郎の苦悩を高く評価し、その苦悩に対して一郎が否定しているH氏の階級の現実的果実を与えようとしている。H氏の一郎に対する賛辞はすべて無理解であり、一郎が学問世界においても孤立する必然性が旅行の過程で明らかにされている。
 H氏の手紙の結末は二郎と直が和歌山に行った後の一郎の状態と同じである。一郎は長野家で可能な試行錯誤をやった後平穏になり、二郎が不審に思うほどすやすや眠っていた。H氏との旅行では、H氏が二郎に手紙を書く必要を感じたほどの調子の狂った言動を繰り返した後でぐっすり眠っている。一郎に必要なのは彼の言動の無意義の自己確認である。自分の苦悩や言動が理解され、評価され、自分も肯定する要素をすべて払拭することにのみ一郎の平穏はある。したがって馬鹿げた彼の言動が矛盾に満ち、馬鹿げているほど、一郎の精神は充実と満足を得る。一郎が理解し難い言動によってその苦悩の深さを評価されるその瞬間に一郎は平安を得て、彼らの肯定的評価を払拭する。二郎やH氏との対立は一郎にとって、彼の内部にある現実的果実を払拭するために必要な手続きである。その意味では須永にとって千代子や高木が彼の内部にあるブルジョア像を払拭するための契機であったのと同様H氏は一郎の内部にあるインテリ性を払拭するための契機である。

「こころ」 1へ    「彼岸過迄」へ    漱石目次へ    home