12. こころ 1
 漱石は「虞美人草」までの初期作品でエリートインテリの社会に対する批判意識を肯定的に描写した後、「門」までの作品でその批判的な意識がエリートインテリの社会的孤立を反映した精神であることを明らかにし、「彼岸過迄」から自己の社会的な孤立と無力を意識化する過程を描写した。「こころ」によってインテリの自己否定的な精神が完結するとともにインテリ精神は自己の本質の認識という歴史的な意義を獲得する。
 漱石は「先生と私」で先生の生活の外面的な観察を描写し、そこに現れた矛盾を先生を理解する鍵として与えている。
 まず先生は「私」に対して静かで淋しく近づき難いと同時に近づきたいという印象を与えたとされている。初期作品では世間に対する超然とした態度は外界に対する高さを意味しており、それが特別の印象を与えるものとして描かれていたが、ここでは先生の超然とした態度は外界との断絶を意味しており、先生が世間より高いという意味は失われ、そのために先生と私の海岸での出会いは偶然であることが強調されている。
 この印象は私が先生と近づくことによって新たな疑問に発展する。先生と奥さんは互いに愛し合い、互いの愛情を信じていると同時に深い溝が存在することが明らかになり、彼らの愛情の背後に恐ろしい悲劇が隠されていることが予告される。
 Kの自殺は先生の思想を理解する鍵であると同時に特にインテリにとっては理解を妨げる最大の障害である。それは「彼岸過迄」や「行人」の三角関係が同じように彼等の人間関係や苦悩の現象形態であり、その本質の理解の障害となっていたのと同じである。Kと先生の自殺は異常な、あるいは特別な事件ではなく、Kと先生の人生の必然的な帰結であり日常性の一部分であることが理解されねばならない。悲劇性はこの死が回避できないことにある。Kの自殺を原因としてその後の先生の生活を解釈する場合は、先生とKの関係も彼らの精神の本質も理解できなくなる。
 先生の奥さんは、「然し人間は親友を一人亡くした丈で、そんなに変化できるものでせうか」と私に疑問を投げかけている。読者もこの疑問に答えねばならない。Kの自殺を先生の自殺の原因としてさまざまの意見を述べることは、この作品までに漱石が描写してきたインテリの苦悩を理解しえない傍観者に止まることを意味している。奥さんのこの疑問は先生の精神をKの自殺に対する罪の意識と解釈することを否定している。親友を亡くしたことだけでは先生の精神は説明できない。Kの自殺が答えではなく、Kと先生の自殺の両者が同時にが説明さるべき課題である。
 先生の精神を理解するためのより本質的な事件は、叔父による財産の横領である。この事件は先生の現在の精神をも本質的に規定していることが偶然の形式であるが、強い調子で描かれている。漱石は先生の生活が財産によって守られていること、財産に対する強い執着を持っていることを描くと同時に、財産との直接的関係から遠く離れたKとの友情や奥さんとの愛情を同じ精神の別の側面として描いている。財産の放棄を高度の精神だと考えていた「虞美人草」までの作品と違って、それらの作品の成果として、漱石はこの段階では財産に対する執着を深く反映し、取り込んだ精神が具体的で高度の精神であることをはっきり意識している。

 財産の横領によって意識される善人や不徳義漢という抽象的な範疇は小市民的な財産に対する執着の反映として社会的に蓄積されている。漱石は先生の倫理的な精神の根拠として叔父の横領を想定することで倫理的な批判意識の本質が財産に対する執着であることを単純に示している。漱石の課題は小市民的な財産に規定された先生の精神がどのような運命をたどるのかを明らかにすることである。「虞美人草」の甲野は、財産に対して批判的であったが、思索の世界に逃避していた。漱石がまだ、財産との関係を具体的に理解していなかったからである。
 先生の父親と叔父は小市民階級内部の典型的な対立関係にある。先生の父は財産を保守的に消費しており、肯定的には上品な嗜好とか篤実一方の人物と呼ばれ、財産を積極的に運用している叔父は、働きのある頼もしい人物と評価される。否定的に言えば、吝嗇であるとか貪欲であるとか評価され、利害が対立する場合にこの側面が現実化する。資本主義社会では、叔父の財産も先生の父の財産も安定的ではありえない。社会的な変動にさらされた場合に、まず身近な小市民内部で対立が生じる。叔父と先生の父の対立は、小市民の没落過程で生ずるもっとも醜い消耗的な対立であり、先生の運命もそのなかに取り込まれている。
 先生の父と叔父の関係は小市民的世界に特有の関係である。横領は財産を前提にしている。したがって人間は誰でも叔父の立場に立てば叔父と同じ行動をとると仮定することはできない。大多数の人間はすでに奪われるべき財産を持っておらず、先生の父と叔父の関係から外れている。叔父の立場に立てばという仮定が成立しないことを認識できないのが先生の小市民的な認識の限界である。先生の父は横領されるべき財産をもっており、叔父は横領を必要とするような財産の運用をしている。これは、先生の父と叔父の関係というより財産自身の運動である。だから、財産のある小市民的な世界では誰でもこのような精神、心理が形成される、と考えるべきであって、「人間は誰でも」とは言えない。横領などが、個人の悪しき人格によって起こるという先生の倫理的社会意識は非現実的となる。倫理的な意識ではなく、科学的な認識が現実的精神として要求されるようになる。科学的認識とは叔父や先生の精神を規定している財産の客観的な運動法則を規定することである。それは、財産を持つ人間にとってはできないことであるが、先生の父の財産が収奪されることを社会的な発展の契機として肯定的に位置づけることである。

 財産を運用する能力や意志のない須永が財産の運動から排除される過程が千代子との関係の苦悩の本質であった。代助や須永と同様財産を運用する能力のない先生も財産の積極的な展開から排除されている。叔父に対する憎しみや批判意識は財産の運動から排除されることへの恐怖や財産に対する執着の転化した意識である。社会に対する批判は自分の財産と地位を脅かす者に対する抗議であり、余裕は財産と地位への満足であり、感傷は財産と地位の危機に対する嘆きである。財産の運動は先生のすべての経験に内的に貫徹し、先生の精神を形作り、さらに新たな経験をその蓄積された非現実的な意識によって体系づけることで先生の意識と現実社会を分離し、先生の現実的無力を確定する。漱石はこのような関係を発見することによって緻密で微妙な心理を描き分ける力量を獲得している。
 先生は誰もが金を見ると急に悪人になるという一般的な真理の実例として叔父を考えている。これは思想の形成過程と逆である。先生は叔父との特殊な関係の経験を一般化することで普通の人が急に悪人になるという教訓を得た。このような事件は非常に狭い世界でのみ日常的であり、人間一般の特徴ではない。社会は、世間はこのような欲望などを基本として展開しているのではない。先生は金を見て悪人になったのが人間一般ではなく叔父であることも、叔父が財産を横領するに至る無数の社会的事情も認識できず、財産を横領された事実を「普通のものが金を見て急に悪人になる」という単純な倫理思想に定式化している。
 先生の精神は叔父の横領に縛りつけられている。先生が復讐的な情熱を解消し過去の苦い経験から自由になるには、過去の経験を思想の領域へ引き上げ、経験の個別性を克服しなければならない。叔父は悪人だ、人類は悪意に満ちている、用心しなければならない等々の倫理的な怒りによって先生は人間関係から断絶されている。叔父の行為を否定的に評価する先生の怒りが先生を破滅させる主体的要因である。財産を横領されたことを否定的に評価するのは当然だと思われるだろうが、それは現象的な意識であり、この意識を克服しないことにおいて先生は自殺したことを漱石は描いている。先生の破滅を回避するには、叔父の行為を社会的発展の一契機として肯定的に位置づけるという決定的に困難な認識上の飛躍を必要とする。叔父に対する怒りと自殺に至る先生の運命の必然的連関を理解することによって財産への執着としての倫理の矛盾を克服することができる。漱石は先生の財産に対する執着、叔父に対する憎悪、それを他の者に拡大した倫理思想への転化の経路を描くことで倫理思想の秘密を明らかにしている。倫理的な先生の運命の社会的な意義を認識することが倫理から科学的思想への移行である。

 先生は財産の横領という苦しい経験の後、人間関係を回避して、財産の危機を生じない、彼に優位な人間関係である未亡人の下宿を選んでいる。その家を選択させその選択を可能にするのは先生の財産とエリート的地位である。先生はこのような選択を自分の社会的な威力として肯定的に評価している。財産によって人間関係が未亡人と一人娘との関係に限定されていることは先生には不自由としてではなく、平穏として意識されている。このような選択の社会的な意味はこの限定された人間関係に内在する矛盾が明らかになった後に初めて認識される。
 漱石はまず、先生の心理や行動の基礎が叔父に対する憎悪があることを描写したのち、その基礎のうえにこれまでに描いてきたインテリ一般のよくある心理を積み上げている。財産と学歴のある先生は財産と学歴による余裕と自信がある。しかしその余裕と自信を保証している財産や学歴は先生と社会的人間関係を分離することによって、「三四郎」で初めて意識された臆病を形成している。先生の厭世的な気分、汽車での不安、奥さんや御嬢さんとの関係での緊張、そうした心理を持つ自分に対する嫌悪感等々の心理は財産によって社会から孤立した者の心理として先生に集約されている。
 小市民の財産と地位に対して無批判的な作家はお嬢さんに対する先生の複雑な心理を男女の恋愛心理の機微として描写する。漱石はこのような心理をこれまでの作品で追求してきた結果、それが財産によって社会から分離された者に特有の心理であることを発見し、その特性において先生の心理を描写している。小説が芸術の領域に達するにはその愛や苦悩の社会的本質が明らかにされていなければならない。先生の不安と不自然な態度は恋愛に生ずる一般的感情ではなく、財産によって人間関係から隔離され、人間関係を回避する精神を形成してきた先生に特有の心理である。このような世界にいるか、あるいはこのような精神の限界内にいる場合は、これは一般的な、それ自身がすでに分析された特質であるかのように思えるが、それは誰でも金を見れば叔父と同じになると考えるのと同じ偏見である。
 奥さんやお嬢さんに対する先生の信頼はすべて自分の財産の威力に対する信頼であるから、財産に対する警戒心をも引き起し、対立的なさまざまの心理を生み出す。先生は叔父に財産を横領されたという感傷的な不幸話で彼女たちと親密になった。先生は感傷的な話が受け入れられるような人間関係をすでに選択している。しかし先生との親密化は同時に財産への接近を意味しており、親密化は猜疑心への転化を内包している。先生は財産の力で人間関係を形成すると同時に同じ財産の力で人間関係を回避する傾向を持っている。
 先生が財産を持ち、財産が資本主義社会に特有の力を持つ限り、人間関係の接近は財産への接近であり、財産を目的としていると考えられる。主観の形態に関わらず客観的な利害関係から考えれば先生と関係をつけることは奥さんの利益である。先生は奥さんや御嬢さんに信頼される根拠を財産以外に持たない。すくなくとも、先生が自分についてもっとも大きな関心をもっているのは、叔父に横領された財産と、残された財産である。財産を横領されたことは、残された財産に対する関心、逆に言えば財産による精神の束縛を強くしている。自分が財産以外に信頼される根拠を持たないこと、自分の主な関心が財産にあり、それは誰でも同じであるという理解が猜疑の根拠である。先生の人間的な価値ではなく財産を目当てにしているという先生の猜疑は現実的根拠のある自己不信である。先生はこの矛盾の中で身動きできない状態に陥っている。確定した意志や欲望を持てず、矛盾した憶測を繰り返すことの卑劣さや臆病をもつことを先生自身が自分でも理解し、それがさらに先生の心理を単純なままに複雑な形式をとるように錯綜している。この種の心理が繰り返し蓄積されることで、苦し紛れの現実的対応を引き起こすことは「彼岸過迄」の須永の場合と同じである。

 御嬢さんと先生の身動きのとれない関係にKが登場することは、須永と千代子の関係に高木が登場するのと同じ意義を持っている。御嬢さんは「彼岸過迄」で須永と千代子の関係を促進して須永の本質を明らかにする役割を果たした高木の役割を果たしている。ただし、この作品では、まず先生とお嬢さんの関係の促進の媒介項としてKが登場するが、後に明らかになるのは、先生とKが本質的な関係にあり、御嬢さんは先生とKの関係の展開の媒介項になっていることである。先生とKはお互いに行き詰まった状況で御嬢さんとの関係を媒介に対立することでそれぞれの矛盾を発展させる。恋が罪悪であるという意味は先生とKの関係の必然的な展開を恋が媒介項となって激しく促進したことである。
 先生とKは財産と直接的関係にある点で本質的に一致しており、財産による規定の内部で対立している。財産に執着する先生にとって財産の権利を放棄するKの禁欲主義は高度の精神に見える。道のためには養父母を欺くことも罪ではないとするKの自信は、財産を放棄することの意義を高く評価した初期作品の価値観による自己肯定的な意識である。財産を放棄するKの禁欲主義的な勇気や力は財産に固執する先生の警戒心や猜疑の対象にならない。したがってKの禁欲主義は先生の財産にとって信頼すべきであると同時に財産との関係において力を持たない無害で無力な精神でもある。
 Kは家族との人間関係を絶って孤立した後は自分の体を苛め、貧しい生活に耐えることに自分の価値を見出している。瑣末で消耗的な彼の家庭的人間関係を拒否し克服しようとするKの禁欲主義は人間関係を回避することで矛盾をいっそう瑣末に消耗的にしている。財産によって社会から隔離され、その矛盾を反映した精神がさらに自分を社会から隔離する要因になることがKと先生の同一性である。財産に基礎をもち、そのために社会的孤立に陥っていることが本質的な一致であり、財産に執着するか拒否するかが、その内部の対立になっている。漱石は「虞美人草」を描くことによって、財産を単純に拒否するKの禁欲主義が財産に規定された、内部的精神であることを理解したのであろう。このような一致に置いて描かれている先生はまだこの同一性を認識できず、自分とKを現象的な対立において認識している。Kの否定的側面において先生が肯定され、Kの肯定的側面において先生が否定される関係は先生の父と叔父の関係と同じである。先生のように臆病に自分を破壊するかKのように積極的に自分を破壊するかは他の階級にとっては本質的な意義を持たない。彼らの同一性こそ他の階級と彼らを分離する本質的特徴である。
 Kの禁欲主義と先生の精神の対立関係は財産や地位に対する初期作品の批判意識を代表するKの精神とそれを発展させた「三四郎」以降の作品の精神の関係である。先生はKの財産や地位に対する非妥協的な拒否を高く評価すると同時にその社会的な孤立と無力を同時に認識している。財産や地位に対する批判意識はKの禁欲主義を経て、社会的な孤立を自覚する先生の精神を経た後、その両方の精神が小市民的な財産や地位の運動を反映した同一の精神であることの認識に到達することで、本質的自己認識となる。漱石はこの作品ではこれまでの作品全体の総括として財産を拒否する禁欲主義と財産に執着した臆病な猜疑心との表面的な対立から出発して、その同一性を法則的、具体的に描写している。

 Kと同じ矛盾を持つ先生は自分の厭世的な気分に有効であった奥さんや御嬢さんとの関係をKの苦悩の解決策としている。恋は人間関係に対して用心深く臆病になっている彼らを人間関係に引きずり込む力を持っている。彼等が恐れ、回避している人間関係に引き込むことが恋の罪悪である。恋愛関係は彼らの本質である財産という社会的基礎と独立した男女の個別的な感情的な関係と思われる。しかし、人間関係にが生ずる限り、その展開の中で彼等が恐れている矛盾が展開せずにはいない。恋愛感情は社会的な本質に規定されたもっとも本質的な感情であるから、その矛盾もまた深刻に、運命に対して絶対的、支配的に展開する。お嬢さんへの接近は彼らの意図を越えた現実的な結果を引き起こす。叔父との関係の崩壊には利己心が契機となった。Kとの関係の悲劇の契機になるのは善意である。人間関係の崩壊は彼らの悪意や善意というあらゆる主観の形態を越えた彼らの関係自体の客観的な必然性である。
 御嬢さんとの関係にKが登場することによって先生には御嬢さんとの関係で新しい感情が生じている。先生はそれを嫉妬だと感じているが客観的にはこの感情は嫉妬ではない。これは財産に対する猜疑から身動きがとれなくなっていた御嬢さんとの関係を発展させる契機として生じた先生の特殊な感情である。インテリの趣味である嫉妬が、どれほど複雑な内容を、しかもインテリにとって暴露されたくない内容を含んでいるかを漱石はすでに「彼岸過迄」でと「行人」あきらかにしており、この種の先生の心理は如何に錯綜していても漱石にとってすでに扱いなれたものである。先生は御嬢さんのと関係を阻害するものが猜疑心という先生自身の内的な障害ではなくKであるかのような幻想を生み出している。御嬢さんとの関係で生ずる感情はKとの関係を経由することで財産から離れ、嫉妬という形態をとる。しかし、嫉妬こそは、人間関係を回避した小市民にとって、深い、端的な、強い愛情とともに持つことのできない感情である。嫉妬に狂うことではなく愛や嫉妬を持てないことが彼等の不幸であり弱点である。
 「彼岸過迄」では須永に生ずる嫉妬に似た心理が実際は高木を対象としていないことが明らかにされていた。先生の嫉妬もKを対象にしていない。千代子との関係を断絶しようとしていた須永と違って御嬢さんとの関係を形成しようとしている先生は自分の感情を嫉妬と解釈し、嫉妬を梃にして御嬢さんに対する猜疑心を打ち消そうとしている。先生の感情は形成された愛情の結果としてのKに対する嫉妬ではない。先生が御嬢さんとの関係と御嬢さんに対する感情を発展させられなくなった段階でKとの関係が生じた。財産に対する猜疑心を解消する手段を持たない先生にとって、Kとの関係によって複雑で不可解な心理が形成されることは財産に対する猜疑心を糊塗する意義を持っている。先生は自分の心理や行動と財産の関係を見失うことによってお嬢さんに近づく勇気を得ようとしている。客観的には先生は御嬢さんとの関係を発展させることも、御嬢さんに対する積極的感情を形成することもできない。御嬢さんに接近するためにKとの関係を必要とすること自体御嬢さんとの関係の形成が不可能であることを物語っている。そして、それは、財産の力によって容易に形成できるお嬢さんとの関係に対する先生の不信感である。
 御嬢さんとの関係を深める努力は、もともと深い信頼関係にある先生とKの関係を無意識的に発展させる。自分の存在意義を肯定する価値観において相互に補完関係にある彼らの関係は御嬢さんとの関係と違って決定的な意義を持っている。彼らは御嬢さんとの関係を求めしかも積極的な関係を形成できない同一の矛盾を自己内に抱えている。先生は財産が形成する人間関係に対する不信感によって、Kは財産を拒否する禁欲主義によってお嬢さんと端的な関係を形成できない。彼等には互いに自分の臆病、躊躇がよく理解できる関係にある。

 先生はKのお嬢さんに対する態度の具体的内容を自分の都合で解釈している。先生にとって、Kがお嬢さんとの関係の障害になるのではない。逆である。先生はKが学問や事業ではなく御嬢さんに向かっているという危機意識を御嬢さんとの関係の発展のために必要としている。先生はKを疑い、Kの自信の性質を明らかにしたいと考えながら、それを確かめることはごく簡単であるにもかかわらず、それを確かめようとしない。先生とKのいずれが御嬢さんに接近するかという競争は現実には形成されない。先生とKの関係からすれば、彼等が一人の女性をめぐって競争し嫉妬しあうなどということは、実際馬鹿馬鹿しいほどありえないことである。
 先生がKに御嬢さんに対する愛情を打ち明けない理由は先生自身にも理解できない。打ち明けることへの外的障害はない。しかし先生がKに打ち明ければ先生とKの対立、したがって先生の嫉妬心は解消される。御嬢さんとの関係を阻んでいるのがKであればそれが解決である。しかしお嬢さんとの関係を阻害しているのはKではなく先生自身の内的矛盾である。先生は御嬢さんとの関係を形成するためにKとの関係を必要としているのであって、御嬢さんとの関係のためにKを排除しようとしているのではない。先生がKに御嬢さんとの関係を告白することはKが登場する前の身動きのとれない状態に戻るに過ぎないことは明らかである。
 先生は御嬢さんとの関係にKとの関係と同様の高度の信頼関係を求めている。御嬢さんに対する告白を躊躇させるのは先生の非妥協的で真摯な精神である。それは自分が信頼に値する人間関係を形成できないことにたいする深刻な反省である。この高度の批判的精神を先生は放棄することも克服することもできずに苦しんでいる。
 先生とKが旅行から帰ったのち、御嬢さんは先生に対して好意的な態度を示すが先生はそれを認めようとしない。御嬢さんの先生に対する好意は初めから明らかであり、問題はそれに対する不信感を払拭できないことである。先生の困難は先生が自分の財産以外に御嬢さんに愛される根拠を持たず、それを自分の弱点として意識していることである。先生にとって小市民的な人間関係の形成には何の困難もないが、それは叔父との関係と同じ関係を御嬢さんと形成することである。
 先生は御嬢さんが自分に対して好意的になったことではなく、Kの部屋に御嬢さんがいたこと、Kの部屋に炭が入っていたが自分の部屋には入っていなかったこと、Kと御嬢さんが二人で歩いているところに出会わせたこと等々の偶然を重視している。先生は御嬢さんとの関係を発展させるために自分との現在の関係を否定する契機を必要としている。否定的な条件を乗り越えることに愛の内容を見出そうとしている。

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