13. こころ 2
 先生は叔父との関係で人間関係に不信感を持ち、残った財産によってその不信感を維持している。御嬢さんとの関係を発展させる障害はこの不信感である。世間から隔離された先生は、財産によって結びついているのではないかという不信感を解消し、御嬢さんの愛情を確信する契機となる現実的な困難を共有する機会を持てなかった。
 財産による人間関係への不信感は、財産を独欲に守るという明確な意識をとるのではない。そうなれば単純な貪欲とか、吝嗇として明確で単純な自己意識となり、複雑で錯綜した人生の主体的要因とはならない。しかし、財産は社会的地位を規定するものとして、その地位にふさわしい人間関係をもっており、それによって複雑な、財産とはかかわりのない、上品なとか教養のあるとか、上流的なとか洗練されたとかの様々の人間関係と心理を生み出し、財産による規定の側面は多くの媒介によって覆い隠され、その媒介項が諸関係と心理を複雑にするのであり、先生とお嬢さんとKの関係も恋愛感情に反映した財産の運動の一典型として描写されている。
 すでに信頼され、愛されており、愛情を確信するために必要な何らの現実的困難もなく、単純に獲得された信頼や愛情の真実性を改めて確認する手段もない。そこにKが登場することが悲劇を生み出す。
 Kは財産に対する執着のない真摯さにおいて先生に信頼されている。先生はKがその禁欲主義において破滅に向かっていることを理解しているが、先生はKが破滅に向かうほど徹底していることにおいてこころから信頼している。破滅に向かう必然性を徹底することにおいてお互いを信頼していることが、彼らの関係の真理である。先生もKも御嬢さんとの関係には深く踏み込むことができないが、先生とKの関係は本質的であり、相互の運命を規定するだけの深い関係にある。それが御嬢さんとの関係でこの後展開される。
 旅行から帰ってからの描写では、策略を用いて御嬢さんに結婚を申し込んだこと、その後Kが自殺したことに関して先生が道徳的な罪を受け入れないことが先生の高度の精神であり、先生とKの信頼関係の反映であることを理解することが肝要である。

 愛情が深くなり、関係が接近すればより高度の矛盾によって身動きできなくなる状態を克服する方法は矛盾を激化することである。内的な矛盾の蓄積による飛躍を自分の矛盾の克服の契機とするのは須永や一郎と同じである。それが彼等に共通する真摯さであり、その真摯さを生み出すのは、自分の運命を本質的に規定する程に高度に形成された彼等の批判意識である
 Kは先生に御嬢さんに対する愛情を告白した。具体的な内容をまったく持たないKは実践にあたって常に勇気を必要とし、したがって勇気を持っている。しかし先生はKに告白することができなかった。先生にはそれが偶然的な障害によって繰り延べられたように思われる。実際は先生に御嬢さんやKに告白する度胸がないことは非常に複雑な社会的矛盾に規定されている。
 人間関係の拒否を自分の価値とするKにとって御嬢さんへの接近は現実との妥協であり、価値観の崩壊である。Kは御嬢さんとの関係を形成することが不可能であること、御嬢さんとの人間関係に耐えきれないこと、これまでに形成した価値観が失われたことを理解した。禁欲主義が破綻した結果として御嬢さんに対する愛情が形成されたのであり、禁欲主義への復帰はすでに不可能である。Kが先生の批判を求めるのは自分の価値観の破綻を確認するためである。彼らは互いに自分の必要とする、必然に応じた解答を得られる関係にある。だから先生に批評を求める段階ですでにKの意志は確定している。愛するに至ったことは、自分の価値観、人生が終わったことを宣言しているのであって、愛情を実現しようとする意志があるのではない。Kにとってもお嬢さんは問題ではなく、愛情をもったことは自分自身についての告白以上の意味を持たない。
 「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉は先生とKには重要な意味を持っている。このよう重要な価値観においては、先生はKに対して利己的ではあり得ない。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉はKの求めていた禁欲主義的な価値観を肯定する言葉である。それはこれまでに蓄積されたKの価値観と一致しており、Kの利害と対立しない。Kのこれまでの生活の必然性としてKが急に生活の方向を転換して先生の利害と衝突することもあり得ない。自分がKに対して利己的であり、Kに対して策略を弄している、と自分に対してわざわざ否定的に評価していることは、Kを自分と御嬢さんとの関係から排除しようとする意志から先生が行動しているのではなく、自分がKを排除している、排除しなければKに先をこされるという危機意識が必要なためであることをよく示している。先生にとってのここでの真の問題は、偽善的として非難すべきものを求めるなら、Kとの関係においてなんらの策略も何らの罪もないにも関わらず、それを反省していることである。したがって、道徳的反省において不徹底であることが先生の倫理的なまじめさを示している。
 先生がKを突き詰めればそれが明らかになる。御嬢さんとの関係のためにKとの対立を必要としている先生はKを深く追及しない。先生はKに対する不信感を必要としているのであって、それが明らかになることが先生にとっては、Kにとって自分の禁欲主義的価値観が崩壊したのと同じ悲劇性をもつことになり、ここではそれが回避されている。先生はここでは自分を策略や利己心を非難することにおいて自分の本質的な罪を覆い隠している点で、無意識的であるが偽善的と言えるのである。
 先生とKはすでに互いの対立を独自の運命を促進するための契機としてのみ扱っている。先生はKに対して必要な批評を与えて禁欲主義への復帰を促し、Kは禁欲主義的な決断力を示すことで先生の結婚に対する決意を促している。先生はKの苦悩の状態に関心を持たず、Kも先生の苦悩に関心を持たない。
 先生の言葉の悲劇性はKを犠牲にして自分の利益を追求していることにおいてではなく、Kの利害と一致しKの運命を促進させることにある。先生の言葉はKの必然性と一致することにおいて先生の意図以上の悲劇的な結果を引き起こす。彼らの対立がそれぞれの必然性を促進する役割を持ち得ることは彼らの立場の客観的な一致と深い人間関係、信頼関係を反映している。

 Kを利用し、Kを騙し打ちにしても構わないというのは先生のもっとも表面的な意識である。Kを騙すとかKに対して罪深いという意識は先生とKの客観的関係を反映していない。御嬢さんを獲得するために心から策略を必要とするほどの激情に身を任せることができるなら、先生にとっても先生にだまされる結果となるKにとってもどれほど幸福であろう。それは平凡な恋の駆け引きであり、人間関係の充実した展開の一つである。彼等の不幸、悲劇性は彼らにとって平凡な恋の駆け引きなどあり得ないことであり、その点において共通していることが彼等の深く、悲劇的な信頼関係を形成している。それを先生はこの段階では意識できないが彼等の関係の展開自身が特殊な内容を持っており、それを認識するべく展開している。
 瑣末な倫理的軌範に厳格に忠実であることは、人間関係、対人関係を重視する外見をもっているが、客観的な展開を見れば、現実にいつも経験することであるが、そうではないことがわかる。人間関係ができない現実を反映した軌範であるから、それを守ることは人間関係の不動性を確定することを意味する。もしこれが策動を許容する人間関係であればすべては矛盾を含みつつも、平穏に終わったであろう。その展開を不可能にしているのが瑣末に厳格な先生の道徳軌範である。彼等は現実の関係の発展よりこの保守的軌範を守るようにすべてを規定され、それが真摯でであることによって人間関係を展開できなくなっている。初期にはまったく逆であったが、その徹底によって形式上(発展であるから、別のものではない)逆の形をとっている。単純な対立よりはるかに克服が困難であり、初期の批判が非現実的で単純であったことがわかる。
 軌範に縛られて、動きが取れない苦悩である。それをさらに倫理的に、批判するなら、あまりにも狭量であり、先生の思想レベルから遥かに送れているといえる。しかし、倫理的であることは日本の思想の特徴であるから、思想的、先生に対立せざるをえず、先生は厳しく評価されることになる。
 先生にはKに対して卑怯な策動をしているという危機意識が必要である。だから自分が卑怯な策動をしていることを強く意識しながらそれを解消しようとせず自分を卑怯と意識しつつ卑怯な策動を蓄積している。このような策動はKとの信頼関係を前提している。倫理的な先生は深い信頼関係にあるKに対してでなければ策略を用いることはあり得ない。またKに対する策略がKの不利益でないことが前提でなければ先生と御嬢さんの結婚に新たな障害をもたらす。策略はKを手段にしているだけで策略の対象はKではなく先生自身である。だから先生が御嬢さんをKから奪うことについての利己心の反省は深刻ではあり得ない。道徳的な反省の裏に隠されているのは先生とKの社会的必然性である。
 Kが覚悟という言葉を使った時点で先生とKの運命は確定し、御嬢さんを媒介にした対立は消えている。しかしKとの対立の解消、Kがお嬢さんとの関係から離れて、本来の自分の覚悟に復帰することは、Kとの対立を契機に御嬢さんとの関係を形成しようとする先生にとって真の危機である。漱石はKが御嬢さんに接近するのではないかという先生の猜疑と、Kがお嬢さんとの関係を先生への告白という形で断ち切る覚悟をすることの外面上の一致を非常にうまく構成している。先生にとっての危機は、Kがお嬢さんに接近することではなく、お嬢さんとの関係を離れて再び自分の世界に閉じこもることである。

  「Kの果断に富んだ性格は私によく知れてゐました。・・所が「覚悟」といふ彼の言葉を、頭の中で何遍も咀嚼してゐるうちに、私の得意はだんだん色を失なつて、仕舞にはぐらぐら揺き始めるやうになりました。・・・さうした新らしい光で覚悟の二字を眺め返して見た私は、はつと驚ろきました。其時の私が若し此驚きを以て、もう一返彼の口にした覚悟の内容を公平に見廻したらば、まだ可かつたかも知れません。悲しい事に私は片眼でした。私はたゞKが御嬢さんに対して進んで行くといふ意味に其言葉を解釈しました。果断に富んだ彼の性格が、恋の方面に発揮されるのが即ち彼の覚悟だらうと一図に思ひ込んでしまつたのです。

   私は私にも最後の決断が必要だといふ声を心の耳で聞きました。私はすぐ其声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間に、事を運ばなくてはならないと覚悟を極めました。私は黙つて機会を覘つてゐました。・・・
   一週間の後私はとうとう堪え切れなくなつて仮病を遣ひました。」

 先生はKの「覚悟」という言葉を御嬢さんと結びつけようとしている。しかしKの覚悟は御嬢さんに対する関心ではなく、それまでの価値観の徹底としての人間関係一切からの逃避である。したがって先生にとってこの時がKとの緊張関係を御嬢さんに接近する梃にする最後の機会である。これは「彼岸過迄」の須永が千代子が鎌倉に帰る間際に決定的な言葉を口にした状況と同じである。先生はこのときKの言葉を咀嚼して自分の必要に応じて解釈している。Kがすべての関係を断って自殺する覚悟をしたことと、その覚悟を契機に先生が御嬢さんに対する猜疑を乗り越える覚悟をしたことが一致している。先生とKもそれぞれに必要な最後の決断をしている。彼らはこの決意の後に一週間迷っている。彼らの実践の遅れはそれぞれの矛盾を深刻にする役割を果たしている。

 御嬢さんと先生との結婚にはどんな外的障害もなかった。障害は先生自身にあった。先生は結婚を申し込んだ結果Kとの関係を離れて再び御嬢さんとの直接的な関係に突き当たっている。だからKとの関係は先生の主な関心ではない。先生はKとの関係を策略や罪として認識しているもののそれを内的な苦悩に止めており、謝罪しない。道義的な意識にとっては先生とKの信頼関係や先生の道義的な真摯さとKに詫びないことは矛盾する。道義的な意識を持つ先生にとっても自分の言動は理解し難い。客観的には先生がKに詫びないことは先生とKの信頼関係と先生の批判意識の非妥協性の現象形態である。Kに対する策略とKに詫びないことの肯定的な意義を理解することが先生の本質を理解することである。問題は、先生のこれまでの行動には策略も罪もなかったことである。それにもかかわらず策略や罪を、深い信頼関係に有るKに対して克服するなどという偽善は先生にできることではない。先生は説明するのが厭になっている。この説明することが厭になることが先生の本質を理解する契機となる現象の一つである。Kに説明しないことの合理的な理由が見当たらないにもかかわらず説明が厭になることの意味が合理的に説明されなくてはならない。
 先生は「坊つちやん」のように倫理的に反省することで倫理的な正直者として自己肯定して生きることはできない。先生は倫理的な反省を受け入れず、御嬢さんとの関係で立ち竦んだのと同様Kとの関係の前に立ち竦んでいる。先生が倫理的な反省をしないことは倫理的な関係を越えたKとの関係を反映している。須永も一郎も先生も深刻な苦悩の必然的な結果として、自己の倫理的な価値観に反した行動をとる。彼らはその結果を倫理的に反省することで再び倫理性に復帰することはなく、自分の行動を必然性として肯定的に認識しようとしている。自己の非倫理的な行動を倫理的に非難せず必然性として肯定することは倫理的な意識にとって非常に困難である。先生は倫理的な意識と行動において、したがって非倫理的な意識と行動においてもっとも徹底しており、その成果として自己の必然性をもっとも深く理解する人物である。
 漱石は初期作品では小市民に生ずる倫理的な苦悩を本質的な批判的精神であると考えていた。漱石は道徳的な批判意識から出発してその批判意識自体を克服して現実的な自己認識に到達した過程を先生に投影している。先生は倫理的葛藤からより深い自己認識へと深化する。先生を倫理的葛藤において評価する精神はすべて倫理的な精神に必然的な偽善であり卑怯である。Kに詫びない先生は倫理的には卑怯であり偽善的であるが、認識の発展というより本質的で高度な精神において真摯で勇敢である。そして倫理という形式で言えば、より高度の倫理性の獲得である

 先生が自分の策動との比較においてKの潔さを肯定することは先生の倫理的な反省による自己肯定と一致している。しかしKは禁欲主義の破綻を意識して自殺した。だからKの禁欲主義を否定することがKの自殺を選んだ到達点に対する肯定的評価である。Kを倫理的に肯定することは自殺したKの価値を貶めることでありKとの信頼関係に反する。漱石は「彼岸過迄」と「行人」で臆病な精神の展開が自己認識の獲得でもあるという側面を描いた後に初めてKと先生を同一の精神として具体的に描くことができた。Kの禁欲主義を高く評価する幻想から解放されることは小市民的な価値観内部の対立物に移行することではなく小市民的な自尊心を破壊すること、小市民的な価値観において本質的に堕落することが自己認識の発展であること、自己破壊が自己発展であることの認識を意味している。
 簡単で抽象的な遺書はKの人生にふさわしい。人間関係を断ち切る禁欲主義を自分の価値としているKの自己判断は単純である。Kにとって重要なことは覚悟である。自分が現実との関係を持ち得ないこと、現実社会にとって無意義であることの理解の単純さと単純な実践が一致している。自己の無意義を現象的に理解し、その理解の証明として自殺するのがKの禁欲主義の真実性の証明である。だからKの反省は決断が遅れたことにある。Kは決断するために先生のような具体的認識の労苦を必要としない。財産を持つ先生は財産の持つ具体的な矛盾に塗れることによって自己の破滅性を具体的に認識しなければならない。それはKの残した抽象的な言葉の意味を理解することである。先生と本質を同じくするKは先生の到達すべき論理の帰結を実践によって示し、先生の思想を導いている。ここでは「虞美人草」の甲野と宗近の関係が思い出される。初期の作品の単純な関係は、複雑な螺旋状の発展の成果としてこれほどに高度の関係を獲得している。
 先生は財産に規定されて叔父に対する道徳的批判意識を形成した。先生の道徳的批判意識によって信頼関係を形成できるのは本質的な同一性の下にあり対立的な意識を持つKだけである。そしてその信頼関係の必然的な、しかし彼らには意識されない結果が、つまり先生自身の本質が今先生の前にKの自殺として現実化している。Kの自殺によって自分の運命の恐ろしさを感じるのはKとの価値観の一致と、その自己認識の反映である。
 Kの死によって決定的な打撃を受けながらその意味をまだ肯定的に認識することができない先生はKに対する罪の意識に一時的に身を任せている。懺悔や悲しみは先生の苦悩を癒してくれる一時的な心理状態である。しかし、先生もKも懺悔によって自己肯定するほど軟弱ではないし彼らの苦悩は懺悔で解消できるほど浅薄でもない。彼らの関係の展開の全体とKの自殺自体が懺悔と矛盾している。Kも先生も倫理的な苦悩以上の悲劇的な人生を獲得しており、それによって倫理的な真摯さを本質的に越えた深刻な印象を読者に与える。先生とKは自己肯定において、自己の価値観の貫徹において自殺するのであって価値観の破綻や敗北によって自己を否定するのではない。自殺は倫理的な価値観を越えた思想の帰結である。
 Kがどうして自殺したのかという問題は先生にとって自己認識という大きな課題でもある。先生の策略がKを自殺させたのではない。しかし先生とKの自殺は必然的な連関を持っており、Kの自殺と自分を結びつけることは自己認識にとって重要な意味を持っている。先生はまずKを自殺に追いやったのが自分であるという形式でKの自殺と自分を結びつけるがその結びつきを倫理的な関係に解消しない。Kの自殺を失恋による絶望としてではなく御嬢さんとも先生とも関わりのないK自身の必然性として肯定的に理解することがKの本質の理解であり、それは社会的な孤立という先生との同一性においてKを理解することである。彼らにとって御嬢さんとの関係は一般に人間関係を形成できないことの一現象形態である。Kは御嬢さんとの関係の経験によって自己の必然性を理解して自殺したのであり、先生の課題もKと自分と御嬢さんとの関係において自己の本質を理解することである。

 先生は妻に対して何の不足も感じないが、小市民的人間関係一般に対する批判意識が妻との関係に影を落としている。先生が御嬢さんとの結婚で期待した変化は客観的には叔父に対する批判意識や恨みを解消することである。叔父への道徳的な批判意識がKに対する信頼を意味しているという側面から見ればそれはKとの信頼関係を解消することでもある。先生はKに対する信頼と叔父への憎しみを解消することはできないし解消する必要を感じていない。叔父や社会に対する批判意識とKに対する信頼を越える人間関係や精神を獲得できない状況ではこの精神内部の発展によって現在の矛盾を解決しなければならない。それが先生の置かれた状況である。先生の生活はKとの関係を策略という単純な関係に解消できない矛盾を現在も持ち、先生の精神はその矛盾を反映している。先生との断絶を感じている妻の疑惑を罪の告白によって一時的に解消しても本質的な問題は残り、妻の記憶に暗黒な一点を印するだけである。妻に対する配慮は罪の告白が何ら問題を解決しないことを反映した対処である。道徳的な罪にとらわれている場合、策略を弄した自分の弱点を告白することが妻に暗黒な一点を印すことになるという、よくある自己弁護として先生を理解することになる。しかし、そのような愚かしい印象を与えないのが先生の全体像であることを理解すべきであろう。
 先生はKに対する罪の意識を持つ段階では自分の社会的な意義を否定せず、罪の意識の形態をとった不安を社会的な活動によって打ち消そうとしている。しかし先生もKもすでに書物的に生きる努力の無意味を経験している。社会的な孤立を反映した先生の精神は解消されるのではなく、発展し自己の本質として認識される段階に達している。社会的な孤立と社会的な無意義を認識することによってのみ高度化した精神の不安は解消される。孤立生活の積極的な意義づけの試みに満足しない先生はその試みを積極的な活動が不可能であることの認識の契機とする。

 先生はKに対する罪の意識から叔父と自分の同一性を認識している。これは倫理的な自己の内部に反倫理性を認める視点として誰もが認めたい側面であるが、Kとの関係の一側面を策略として否定的、現象的に反省することと叔父と自分の同一性の認識は同じである。倫理思想の内部に対立物を発見することは倫理思想の一形態であり困難ではない。それは「虞美人草」の段階の思想である。Kが登場しない「虞美人草」の段階ではこの矛盾を解決するために財産の放棄が問題になっていた。しかしこの段階では財産を放棄する禁欲主義も財産による規定を逃れているわけではないことが先生とKの同一性に示されている。先生の不安は本質的にはKに対する策略が先生と叔父の同一性を明らかにしたからではなく、叔父とまったく対立的であるKが自己の必然性において自殺したことにある。Kに策略を用いた点で叔父と一致しているならば先生はKと対立しているのであるからKの悲劇を免れている。先生は自分の中に叔父を見出して自己批判することで自分の倫理的な正しさの証とする俗物ではない。叔父との同一性の発見は叔父との対立が倫理思想の内的な対立であることの発見であり、自分と叔父の違いを理解し、その上での自分の限界を克服する契機となる。先生と叔父の共通点の発見は結論ではなく先生の自己認識の一契機であり、倫理的精神の崩壊の第一歩である。
 先生がKの死因を繰り返し考えること自体Kの死因が失恋ではないことを理解する能力を示している。「同じ現象に向つて見ると」という言葉に現象と本質を分離する漱石の現実理解の深さが現れている。Kの死や御嬢さんとの関係をKの人生全体の一契機として理解することが本質的な理解である。先生はKの死を社会的無力の認識の結果として肯定的に位置づけると同時にそれがまだ生きている自分を本質的に否定する思想であることを直観的に理解している。Kに対する罪の意識の解消はKの死の肯定的な評価と一致しており、それは先生をも自殺において肯定することを意味する。

 先生は明治の精神の終焉として自分の死を歴史的に位置づけている。先生の自己否定的な精神は歴史的精神の名に値する。叔父の活動を批判する小市民的道義が社会的思想的意義を持たないことを理解するのがインテリの歴史的課題になった。漱石が初期作品で描いていた明治に生まれたインテリ的価値観を自ら葬り去る時代になった。小市民的な財産に規定された先生の父と叔父の闘いは歴史的な意義を失いそれを反映した倫理思想も歴史的な意義を失っている。
 先生は自分が明治の精神に殉死するという歴史的な位置づけによって、自己否定の肯定的な位置づけによって自殺を覚悟している。先生の必然性が求めていた結論は自己否定の徹底における、合法則的な自己肯定である。Kとの同一性による歴史的精神との一致が先生の思想の論理的な結末である。
 先生は自分の精神の必然性を思想的に規定することはできないが、経験的な事実の連続として自己の必然性を明らかにしようとしている。社会的な存在意義を求める先生は自分の社会的価値の喪失を示すことで自己肯定している。しかし自殺自体は彼らの個別的な解決の方法であり彼らの自殺によって自殺という個人的な否定自体が否定される。死に至る倫理思想の運命を示した先生の運命は破滅的な倫理思想を越えて積極的な思想を形成する課題を残している。Kの自殺が先生の遺書に生きたように先生の自殺は明治の精神を越える後の世代の精神の中に生きる運命にある。先生は先生自身にとっても不可思議と思えるほど必然性に支配された、先生の意図や意志を越えた人生を経験した。先生自身にとって自分の人生の展開自体が不可思議な、認識さるべき課題である。先生が残したいのは先生にも不可思議な、彼の人生を必然性として貫徹している時代精神である。
 先生は自分やKの悲劇的な運命を小市民の没落の必然性の実例として記録し次の世代である「私」に残すことによって自殺を決意している。「妻のために、命を引きずつて世の中を歩いて来た」のは先生が自分の死の意義を認識するために必要な時間を意味している。妻のためという配慮の背後に常に先生自身の必然性が隠されている。先生は自殺に至る自分の運命を意義あるものとして記録できる段階に達した時、妻に対する不憫さにもかかわらず自殺を決意している。先生を自殺に導く力が同時に先生に歴史的な遺書を書かせる力である。
 先生の精神は階級的必然性を時代に先取りして反映している点で特殊であり孤立的である。先生は小市民階級の没落の必然性を反映した自分の精神と妻の精神の分離を前提して妻に配慮している。先生の反映した小市民の没落が一般的な現象として実現し、多くの小市民が没落の危機を反映するとき先生の精神は特殊性と孤立性を解消する。小市民の矛盾が発展し現象化することによって先生の精神は小市民の精神の本質として理解される。先生の悲劇性は小市民の没落の本質を、特別な個人として、特別な認識能力の成果として反映していることである。小市民の階級的な孤立を反映した精神は小市民の安定を反映した精神内部では孤立する運命にある。法則としての没落の理解は、現象形態における小市民世界の安定と深く対立している。先生の批判意識と小市民世界の現状肯定的な精神の分離が先生と妻を分離している。日本の精神の一般的発展段階の限界として、妻が自分の本来の悲劇を、自分の行動の意味を理解することはできない、と判断している。
 先生は自分の運命を歴史的な精神の発展の生贄にできることに満足している。しかし先生は自分の死の意義を理解することを次の世代に委ねている。先生は妻と自分の悲劇を共有せず、妻には小市民的な幸福を与えることで自分と分離しようとしている。妻に対する最大限の愛情が自分との分離であることに先生の精神の孤立性、先生の精神を特殊化する日本の精神のレベルの低さ、さらに日本の小市民階級が歴史的に広範に形成され堅固であることが現れている。漱石にとって、また先生の必然性にとって妻と分離した孤独な死は歴史的な必然性による厳しい止むを得ない選択である。先生の精神が社会的に孤立し、一般的な価値が理解されないことはその後の歴史によって証明されている。漱石は小市民世界の堅固さを理解しそれに対する小市民的な形式的批判の無力を理解し、小市民世界の法則的な没落を認識した。しかも小市民世界に対する批判意識はもっとも小市民的な精神であり、その批判は自己否定に到達することで完結し、小市民世界を客観的に、外部から批判できるようになる。小市民世界に対する内的な批判はこの作品で完了し、漱石は小市民世界を自分と分離して客観的に描写するようになる。小市民世界の客観的な描写がどのような意味を持つかは「道草」以後の作品で明らかになる。

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