『こころ』ノート  先生と私 (十一)〜(二十)    先生と私 (一)〜(十)  (二一〜三六)


 先生と私 十一

 私は奥さんに対して何の窮屈も感じなかった。先生も奥さんも淋しい人であるが陰気な人ではない。
 私は先生の学問や思想に敬意を持っているというが、先生の思想とはどんなものであろう。先生の思想についてこれまで書かれているわけではないし、私は先生と学問や思想の話をしたのでもないだろう。私は、先生の生活と言葉に思想を感じ取って、それを世間に公表し世間に働きかけるべきだ、と考えている。それは大学の講義で教える思想とは違ったものである。
 先生は私が敬意を持つほどに学問や思想を持っていながら、世間と関係を絶って孤独に生きており、世間に向かって働きかける資格がない、と考えている。「済まない」とか「資格がない」というのはどういう意味だろうか。
 先生は「宅で考へたり勉強したり」している。著名な友人に無遠慮に批評を加えることもあった。だから、先生が世間に出ようとしないのは、批判精神がないのでも、世間に対して関心がないのでもない。積極的な関心をもっている。だから、世間に働きかける資格がない、という「先生の顔には深い一種の表情がありありと刻まれた。」
 先生は、世間を働きかける価値のないものと、働きかけてもどうにもならないものと、見下しているのでも諦めているのでもない。世間との関係を絶つことに意義を認めて、世間と対立的に孤立することに自己の立場を求めているわけではない。やむを得ずそうなっている。
 
 「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」
 
 奥さんは先生を深く理解している。先生は世間を否定しているのでもなく、孤立した自己を肯定しているのでもない。やはり何か遣りたい、世間に対して積極的に働きかけたい。つまり、働きかけるべき自己を肯定している。働きかけることのできない自己を否定している。『野分』の道也の情熱を持っている。しかし、何かの理由でそれができない。だから、先生は淋しい。世間に働きかける意義を認めないか諦めているのてあれば、世間と関係が切れていることに意義を見いだし幸福を見いだすこともできる。しかし、先生は世間を見つめ、世間に働きかけようとして、それでいて、それができないことをも発見している。孤独を求めるのではないにも関わらず孤立せざるをえないから、孤独と孤立は深刻である。先生は孤独に満足するほど無力でも俗でもない。奥さんはその苦しみを気の毒に思っている。
 
 「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」
 「丈夫ですとも。何にも持病はありません」
 
 これも漱石らしいレベルの高い会話である。先生が世間に働きかけない理由として、健康以外には考えられない。しかし、別に悪いところはない、としている。つまり、
 
 「それでなぜ活動ができないんでしょう」
 「それが解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」
 
 奥さんも私も経験的な常識的な理由を想定していない。奥さんと私が知りうるるかぎりの、想像しうるかぎりの理由では説明出来ないことを二人とも理解している。まったく理解できない理由がある、と想定して、対策も忠告も援助もできないために、心から先生を気の毒に思っており、気の毒に思うことしかできないから、いっそう気の毒である。
 
 奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。
 
 漱石は先生についての理解力では、私より奥さんを高い位置に想定している。奥さんにとって先生の苦しみは深刻であるが、それが日常になっている。そして、理由はわからないことを理解している。だから、口許だけには微笑が見えた。下らない、つまらないことで先生が苦しんでいるのではないことは分かっており、苦しみの理由は判らないままに先生を信頼している。私は奥さんほどには先生の精神に深く関わっていないので、真面目にむずかしい顔をしている。漱石は「外側から云へば、私の方が寧ろ真面目だつた」とわざわざ説明している。
 奥さんは、先生を理解するための重要な現象として、先生は若い時は今とは丸で違っていて、全く変わってしまった、ことを思い出した。それは、先生との書生時代のロマンスと関わるらしい。「奥さんは急に薄赤い顔をした。」と漱石は書いている。奥さんにとって、書生時代の先生とのロマンスは甘い思い出である。そして、その時代から丸で変わってしまった先生をも愛している。


 先生と私 十二

 ここでは、先生についてまだ説明の出来ないいくつかの疑問を並べている。
 先生と奥さんの結婚には花やかなロマンスがあった。しかし、美しい恋愛の裏に恐ろしい悲劇があった。恐ろしい悲劇とは何か。先生が恋愛について話をしなかった「深い理由」とは何か。
 「恋は罪悪ですよ」という先生の言葉の意味はどういうことであろう。まさか三角関係で友人を裏切るというようなことではないだろう。そんなことは悲劇だとは言わない。


 先生と私 十三

 漱石はここで「恋は罪悪である」という言葉の意味を一歩踏み込んで説明している。私が先生を訪ねるのは恋であるかどうか、という新たな問題がその説明である。恋であるという先生の指摘に対して、私は胸の中が案外に空虚であることを理解して、「私の胸の中に是といふ目的物は一つもありません。」と反論している。恋であることと目的物がないということが対立している。先生は、私が目的を持たない事を当面の一時的な偶然的なものだと解釈しており、つまり目的があると解釈している。
 私の胸の中が空虚であることは、これまでに描かれてきたことで、だから先生は私を受け入れていた。しかし、先生は私がまだ目的物を見つけていないだけで、目的物を求めているのであり、「目的物がないから動くのです。」と解釈している。目的物がまだ見つからないだけで、先生のところにはないことをまだ理解していないから先生を訪問している、ということになる。
 私は、世間的な生活に飽きた時に先生を思い出した。そして、世間的な経験的なものとは違った精神が先生の中にあると感じている。しかし、それははっきりとした何かではなく、目的物としての何かでもなく、空虚で漠然としたものである。しかし、何かがあると思っている。先生はその何かが恋である、が恋である事がはっきり認識できないだけである、と言っている。私が求めているのはやはり経験的な世界の経験的な目的物であり、ただそれが自分にあった満足できる形で発見できていないだけである、という理解である。
 
 「恋に上る楷段なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」
 「私には二つのものが全く性質を異にしているように思われます」
 「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」
 
 私は、二つのもの、つまり恋と先生に対する尊敬は性質が違う、性質の違った精神を自分は求めている、と思っている。しかし先生は、私が二つのものを区別する精神を持つことを認めていない。私は現在の状況、人間関係に満足しておらず、恋をしていない。私は充実した人間関係を求めているが、それは恋の満足を求めることに変わりはなく、自分にあった恋を見つければ満足するだろうと先生は考えている。(十二)で先生は、私が「恋を求めながら相手を得られないといふ不快の声」を聞いた。そして、「恋の満足を味はってゐる人はもつて暖かい声を出すものです。」と答えている。私の不満、空虚は、まだ恋をしていないことにある、というのが先生の理解である。
 恋を求めることと先生を訪ねることが、人間関係を求め、人間関係における精神の充実を求める衝動として同じレベルにあるのか、質の違ったものであるのかを漱石は問題にしている。先生は「いや同じです」と強調している。その根拠は、私の能力の限界でもあり、同時に「私は男として何うしてもあなたに満足を与へられない人間なのです。」という先生自身の限界でもある、と先生は考えている。
 私が先生に何を求めているかはまだわからない。だから、二つのものの区別の点で言えば、先生に求めているものと恋に求めているものの区別はできない。恋とは別の人間関係や精神を提供する力が、つまり恋と区別できる関係や精神を与える事が先生にはできない。たとえ潜在的に私が恋とは別のものを求めることができるとしても、それを自分は与える事ができない、と先生は考えている。だから、私が先生を訪れるのは一時的で、恋を求める一段階で、恋を見つければ恋に満足して先生の元を去っていくだろう、と理解している。先生にとって淋しいことであるがそれは仕方がない。なぜなら、先生はそうした世界とは別の精神世界に生きており、しかもその精神において満足を与える事ができないからである。自分の精神世界における人間関係を諦めている先生は、私が自分の精神世界とは別の世界である恋によって充実し、幸福になることを願っている。私も、奥さんもそうした幸福の中に生きることを先生は願っている。然し……
 先生はこの「然し」の後を説明していない。私は先生の説明を聞いて悲しくなった。私は、先生を訪れることと恋とを分離している。先生のところには、自分の知る経験的な満足とは別の、恋とも別の精神を求めていると思っている。だから、たとえ恋を経験する事があっても、先生に対する尊敬は、先生の意義は変わらない、と思う。しかし、先生は、私は恋と同じような人間関係を自分に求めているのであって、個別的な人間関係の満足を求めているのであって、私が求めるものは自分の元にはないから、現実にどこかでそれを見つけたら私は自分の元を去っていくだろう、と考えている。先生は自分自身と私の精神を分離している。先生は、自分の精神は孤立したままに終ると考えており、私が先生の精神を理解しうるとも、また理解できる精神を、理解する価値がある精神を自分が創り出しているとも創り出す事ができるとも考えていない。
 そして、先生はここで再び「恋は罪悪なんだから」とくり返している。ここで問題になり、理解されなければならないのは恋の話ではない。恋とは別の目的があるかどうか、それは何かである。その精神において先生と私の一致ができるのか、恋とは別の精神を創り出せるのかどうかである。先生はそれを説明していないしできない。私の関心のレベルは非常に高度で、先生の説明が朦朧としていることを理解しており、不愉快になっている。
 
 「先生、罪悪という意味をもっと判然いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」
「悪い事をした。私はあなたに真実を話している気でいた。ところが実際は、あなたを焦慮していたのだ。私は悪い事をした」
 
 この会話は、漱石自身の告白であろう。漱石も罪悪という言葉の意味がまだはっきり掴めていない。そして、判然と判るまではそのことについて話をすべきではない、と感じている。曖昧な話をするのはじらす事であり、要点の周りをぐるぐるまわるだけになることを理解している。この問題を判然と理解するためには、さらに多くの矛盾を綜合していかなければならない。そこで先生は、「君は私がなぜ毎月雑司ヶ谷の墓地に埋っている友人の墓へ参るのか知っていますか」と、答えている。それは問題を広げる事であり、さらに焦らせる事であるが、しかしこれだけが正しい答である。先生はさらに、恋は「神聖なものですよ」と付け加えている。そして、漱石は「私には先生の話が益々解らなくなつた」と書いている。問題が広がって、益々解らなくなることだけが正しい説明である。


 先生と私 十四

 私は、学校の講義より教授の意見より、先生の談話を有益と思い、先生の思想を有難いと思っている。大学製造でない思想をありがたいと思う私は日本では例外的である。私は、学校の講義や教授の意見に覚めた結果として先生の偉さを理解している、と自信を持っている。しかし、先生は私が先生を理解できるとは考えていない。私が先生を偉いと思うのは、熱に浮かされているだけで、いずれは熱はさめる、恋をするだけでもさめる、と考えている。
 私は、先生が私を信用していないのか、それほど軽薄だと思っているのか、と抗議しているが、そうではない。先生は、自分の精神が理解されることはない、と絶望しており、その上で先生自身にも自分の精神がはっきりしておらず、それを今追求しているところである。先生は、私に理解されるべき精神をまだもっていないから熱に浮かされているだけだと考えるのは正しい。しかし、今何かの精神を追求しているそのことが大学の講義とは違った本当の追求である事から言えば、私が先生の思想をありがたいと思うのも正しい。
 
 先生の精神は先生自身にもその姿を表していない。しかし、その姿を表しつつあり、内容が獲得されつつある。先生は私を信用していない、という。これが、僅かに姿を表した先生の精神の内容である。先生が私を信用しないのは、私という個人に何か特定の信用できないところがあるからではない。先生は私の個別の特徴を信用しないのではない。先生は私を信用しないことの内容として、人間全体を信用していないから私をも信用しないことになる、と説明している。私を信用しない、というのは人間全体を信用しない、という意味である、と説明している。説明が問題をより複雑にしている。
 先生の答えに対する「ぢや奥さんも信用なさらないんですか」という質問は、よくできた質問である。これは、漱石自身に自然に湧いてくる自問であろう。「その時生垣の向うで金魚売りらしい声がした。その外には何の聞こえるものもなかった。」という文章に、漱石の自問の気分が現れている。
 私を信用しないことの内容が人間全体を信用しない、ということになると、奥さんを信用しないことになるはずである。しかし、先生は奥さんを愛し、信用している。先生の人間不信は、こうした矛盾を持っている。この矛盾が先生の人間不信の内容である。
 
 先生は人間全体を信用していないと言うが、人間全体の何を信用していないのかを説明していない。先生は不信感の内容に踏み込むことなくさらに問題を広げて、人間全体を信用しないだけでなく、自分自身を信用していない、と説明している。そして、自分自身を信用していないから他人をも信用できず、さらに人間全体を信用できない、としている。これもまだ、不信の内容ではない。ただ、不信の量が拡大されて、不信の順が問題になっている。この不信感を形式的に捕らえれば、ただ「誰だって確かなものはなくなる」というだけの、一般的な人間不信にすぎないことになる。インテリの頭によく生れる妄想である。だから先生は、しかし、それは考えたものではない、と外的な規定をさらに一歩を進めている。
 
 「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」
 
 これも不信の内容の説明ではないが内容に一歩近づいている。人間不信は、考えてできたことではなくて、実践的な経験的な事実に基づいて反省して得られた結論であることが付け足されている。私はこの議論をもう少し進めたかったが、漱石は、「すると襖の陰で『あなた、あなた』という奥さんの声が二度聞こえた。先生は二度目に『何だい』といった。奥さんは『ちょっと』と先生を次の間へ呼んだ。」と書いている。これは、問題の先のばしであるが、同時に、先生と奥さんが信頼し合っていることの描写でもある。先生と奥さんの深い信頼と愛情の背後で、その信頼と愛情を前提として先生の人間不信は進展している。それは、決して奥さんや私に対する不信感にはならない。
 
 「私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代りに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」
 
 前半は、先生を信頼していても求めるものは見つからないから、いづれは私は離れていくだろう、というこれまでの予測である。ここでは私が先生のもとを離れていく理由は説明されていないし、不信の内容にも言及していない。「自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」という説明は、抽象的で平凡で、まだ漱石も先生の孤独と人間不信をはっきりと把握していないことを示している。
 ここで明かなことは、先生が、自分を含めた特定の個人を特定の内容で信用できないのではない、ということである。不信の内容が特定できるのならば、それを持つ個人を、その特定の内容において批判することができるし、それを治す努力を求めることができるし、それが反省され変更されないにしても、それを部分的な弱点として許す事もできるし、それを放置して全体を信頼する事もできる。また、そうした先生の価値観が正しいかどうかも議論することができる。しかし、先生は、私をも奥さんをもむしろ全体的に信頼し信用しているように見えるし、実際に信頼している。先生の人間不信は、奥さんや私や自分自身の特定の内容に不信感を持っているのではなく、全的な信頼の中でなにか明確でない不信感を生み出して、それを育て探求している。その姿は漱石にもはっきりしていない。「私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。」という私の言葉の通り、漱石にとってもまだ先生の覚悟が先行しており、その覚悟がどのような精神を生み出すかはまだはっきりしないのであろう。
 しかし、漱石が抱える問題は深く大きく捕らえられており、したがって問題は解決される。主な困難は、問題をいかに深く捕らえるか、だからである。
 

先生と私 十五

 私は、先生の人間不信と奥さんに対する愛情はどんな関係にあるのか、奥さんは先生の人間不信をどのように理解し感じ取っているのか、そして、先生のこの覚悟は何処から来るのか、に疑問を持っている。何処から来るのかという疑問は、その覚悟とは何かという疑問に届いていない。漱石もまだこの覚悟を捕まえていないからであろう。ただ漱石は、この覚悟が頭の中で観念として生み出されたものではなく、現実の中で、経験的に実践的に生れてきた生きた覚悟であること、先生の思想には「強い事実が織り込まれている」ことを強調している。先生の人間不信は、私や奥さんといった、特定の人間に対する特定の内容を持った不信感ではない。この点から言えば、現実から離れた、先生の頭の中で観念として生み出された思想に見える。しかし、現実に存在する具体的な人間不信ではないにも関わらず、先生の思想は、空想的な観念ではなく、事実から生れた事実を折り込んだ現実的な思想である、とされている。大学の講義で教えている思想は頭がひねくるだけの観念であるが、先生の思想はそうではない。漱石はこれまでの作品で、西洋から輸入してきた借り物の思想ではなく、日本の現実で生れた生きた精神を生み出す課題に取り組んできた。その課題において漱石が獲得した現実的精神とは、徹底した人間不信である。それは、深刻な信頼や愛情なしには生れない深刻な不信である。
 
 先生の人生観、思想は、過去の事実、事件に関係していると思われる。先生は恋は罪悪と言った。しかし、先生は現在奥さんを愛している。だから、先生の言葉は、個人にではなく、「現代一般の誰彼就いて用ひられるべき」であると思われる。しかし、それでは、現実の経験・実践から生れた生きた覚悟であることはどうなるのか。やはり、何らかの形で、生きた現実の人間にかかわりをもたなければならないのではないか。
 では、「雑司ヶ谷にある誰だか分らない人の墓」が関係しているのであろうか。しかし、それは寧ろ先生と私の「間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。」実際、ここに先生の人生観・思想を理解する鍵がある。しかし、またそれは、先生の思想の理解を妨げる魔物でもある。
 

先生と私 十六
 
 漱石は、屈託の無い理性的な女性を描くのがうまい。奥さんをそんな女性の一人として巧く描いた後で、漱石はここでも先生の人間不信と奥さんに対する愛情の関係を問題にしている。奥さんは、先生はだんだん人の顔を見るのが嫌いになる様です、と言うが、「別段困ったものだといふ風も見えなかった」とある。奥さんは、先生が人の顔を見るのが嫌いになるようであることを理解しても、なお先生を信頼している。
 
 「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」
 「いいえ私も嫌われている一人なんです」
 「そりゃ嘘です」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」
 「なぜ」
 「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」
 「あなたは学問をする方だけあって、なかなかお上手ね。空っぽな理屈を使いこなす事が。世の中が嫌いになったから、私までも嫌いになったんだともいわれるじゃありませんか。それと同なじ理屈で」
 「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」
 
 これは抽象的で理屈っぽい会話である。形式的には両方ともいわれる事は言われるが、この場合は奥さんの方が正しい。奥さんは、「私も嫌われている一人なんです」と理解していながら、嫌われていないという確信もある。この場合は奥さんのいう順番になる。自分が嫌われていないという確信を持つ奥さんは、自分が嫌われている事と愛されていることの矛盾を受け入れることがのるが、この矛盾を理解する事ができない私は、奥さんの言葉に「嘘」を想定している。先生が奥さんだけを好きになって、その結果世間を嫌いになる、と想定する場合は、奥さんの言葉が嘘になる。どちらかを好きになり他方を嫌うというのなら誰もが納得できる。これが経験的で常識的な理解である。しかし、奥さんは説明できない、そうではないことを理解している。私は学問的な常識的な空っぽな屁理屈をこねている。それは現実的な思想ではない。現実は矛盾に満ちている。
 奥さんが好きになったから世間が嫌いになったのか、世の中が嫌いになったから奥さんまでも嫌いになったのか、というのは嫌う内容に入らない形式論議である。しかし、世の中が嫌いになったから奥さんまでも嫌いになった、という場合は、世の中を嫌いになることが前提になり、世の中を嫌いになることの内容が問題になり、それは経験的な内容ではないので理解しにくい。この場合は、世の中を嫌いになるという一般的な思想が基礎になっているために、奥さんを個別的に嫌うこととは質的に違ってくる。奥さんにはその違いが感覚として解るだけで、具体的には理解できない、つまり先生が世間を嫌うというのはどういうことなのか解らない。そうした経緯で自分も嫌われていることを理解しているが、それがどんな嫌い方なのか、したがってどうすればいいのかが解らない。そして、その苦悩は深刻なので、私が並べている軽薄な理屈を嫌って厳しい言葉を使っている。「奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。」というのは、先生の世間を嫌うことには深い意味がある事を想定し信頼しているからである。私はまだ、そこまで先生を理解していないが、私は奥さんをも信頼しており、奥さんの言葉を正しいと信じて理解しようとしている。
 

先生と私 十七
 
 奥さんと私の会話には、奥さんと私が先生を深く信頼していること、先生の苦悩を、先生の人生観をなんとか理解しようとしている真摯さがうまく描かれている。先生に対する関心は、先生の人生観に対する関心であり、その点だけが疑問であるから、非常に真面目な真剣な関心になる。
 先生の苦悩や人生観の内容は解らない。先生の苦悩を理解するために、私は真面目に探求的に愛情を問題にしている。そして、奥さんもそれを理解して真面目に答えている。照れる事もはにかむ事もなく、真剣に問題にしている。そんな関心を持つ事自体、先生と奥さんの愛情については疑問の余地が無いと言う事である。奥さんが先生を愛しているのは、自然な当然のことで、奥さんにとっても私にとっても疑問の余地の無い単純な事実である。この単純な事実からすると、奥さんがいなくなれば、先生は不幸になる丈である。生きていられないかもしれない。奥さんは、「私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」と言っている。奥さんは、自分が先生を愛しているのと同様に先生も自分を愛していると確信し、先生をこの点で信頼している。だから、個人的な関係としては信頼が揺らぐ事はない。
 この信頼が先生の心に映って、先生の人間不信が消えるはずだと私は思うが、奥さんは、それは「別問題ですわ」だと答えている。
 
 「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃では人間が嫌いになっているんでしょう。だからその人間の一人として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」
 奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑み込めた。
 
 私が、奥さんの嫌われていると言う意味が飲み込めた、というのは、奥さんは、個人として先生に嫌われていない、という確信のことである。先生が人間一般を嫌うのなら、自分も人間の一人として嫌われていることになる、ということである。しかし、こうなると、先生が人間を嫌う、ということの意味が解らなくなる。具体的な人間を嫌うこととは違うことになるからである。この、先生が人間を嫌うということの意味が解らなくなる事が重要である。
 

 先生と私 十八
 
 「私は奥さんの理解力に感心した」。奥さんは、日常生活の瑣末な事実や個人の噂にしか興味のない女性ではないし、最近流行の思想にかぶれる女性でもない。日本では男であろうと女であろうと、奥さんの理解力を期待することはできないし、私の理解力もまだ育っていない。奥さんが端的で素直であるのは、瑣末な個別性に頭をつっこまないからである。「私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。」私と奥さんの会話は、全体として日本では見ることができないほど高い精神を示している。
 先生は、奥さんや私が「希望するような頼もしい人」であった。そして、その成果として、段々あゝなってきた。急な変化でないことは、経験的な事実を契機にした単純な反省ではないことを物語っている。
 だから、原因は解らない。先生がどうなっているのかもわからない。ただ、反省的で内省的になって先生が苦しんでいる事だけがわかる。奥さんが事情を打ち明けてくれるように頼むのは、先生にはその原因と内容が分かっていると思うからである。原因がわかれば対処ができるからである。奥さんの愛情と先生との信頼関係からすると、できることならどんなことでもする覚悟はあるしできる。しかし、覚悟だけではできないこともある。
 先生は、「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです。」これが説明にならないことは先生にも理解できる。これでは心配が増すばかりであるが、先生も説明できるほどには自分の苦悩の正体を理解していない。だから奥さんは、仕方なく自分に責任があるのではないか、と思っている。これは解釈の試みである。そんなことはないが、そうでも仮定してみないと心配が治まらないからそう言っている。
 
 「私に悪いところがあるなら遠慮なく云つて下さい、改められる欠点なら改めるからつて、すると先生は、御前に欠点なんかありやしない、欠点はおれの方にある丈だと云ふんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」
 
 奥さんに責任はないし改めるべき欠点もない、それは分かっているが、そう言われると奥さんは悲しくなる。奥さんに責任があり、奥さんに原因があるのなら、それを治すことができる。そうすると、先生に接近することができるし、先生の苦しみを和らげる事が出来る。そうでないのならば、どうしていいかわからないから、悲しい。そして、こういうと先生が怒る。それは誤解だからである。奥さんに悪いところがあるのなら、先生も楽である。修正を求めることができるし、許す事もできる。そうした個別の対処が出来ないところが先生の苦悩の特徴である。そして、欠点はおれの方にある丈だ、という所から見ると、やはり先生はまだ自分の苦悩を捕らえる事ができていない。


 先生と私 十九
 
 先生と奥さんの間には何の蟠まりもない。しかし、やはり何かある。しかし、それは何かはわからない。だから、先生が厭世的になったから自分が嫌われているとも考えるし、自分が嫌う結果先生は厭世的になった、とも考えられる。しかし、奥さんがどれほど悩んだにしても、奥さんが先生に愛されていることは、奥さんにとってもはっきりしている。問題は、そこに何もないことである。何もないものについてどんな解釈をしても納得することはできない。
 先生の苦悩の原因について、ここまで長い描写をしてきた漱石は、その流れの中で新しい問題を提出している。奥さんは、自分が原因でないとすると、一つだけ思い当たる事があった。それは、大学時代の友人の変死である。何故その友人が死んだのかは解らないが、その事件の後に先生は変わった。奥さんがこのことを問題にしていなかったのは、「然し人間は親友を一人亡くした丈で、そんなに変化できるものでせうか」と思うからである。
 
 私も奥さんも、先生が変わった原因を見つけられなかった。そうだとすれば、個別的な原因はないと考えなければならない。個別的な事件と直接的な関係のない何かが先生の中で生れている、と考えなければならない。そう考える場合、親友を一人亡くした丈で、人間はそんなに変わるものではない、とする疑問は大きな意義を持つ事になる。そして、やはり、個別の原因によって変化したのではない、と考える事ができる。
 ここまでの展開の意義を考えない場合は、先生の変化の原因を奥さんとは別の個別事件に求めることになる。先生の変化の原因がわからなかったのは、すべての事実を取り上げていないからである、奥さんとは別の人間との関係が原因である、とする場合は、先生の変化、先生の思想をめぐるこれまでの疑問はすべて解消される。ある別の個別的事実が原因として発見されることによって問題が解決されることになる。漱石は、問題のとらえ方について、手順を意識して描写しているようである。それだけこの問題は難しいからである。


先生と私 二〇
 
 十時頃になって先生の靴の音が玄関に聞こえた時、奥さんは急に今までのすべてを忘れたように、前に坐っている私をそっちのけにして立ち上がった。そうして格子を開ける先生をほとんど出合い頭に迎えた。
 
 先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜った涙の光と、それから黒い眉毛の根に寄せられた八の字を記憶していた私は、その変化を異常なものとして注意深く眺めた。
 
 私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。
 
 帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰させて気の毒だというよりも、せっかく来たのに泥棒がはいらなくって気の毒だという冗談のように聞こえた。
 
 そうしてそれを食う時に、必竟この菓子を私にくれた二人の男女は、幸福な一対として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。
 
 「こりゃ手織りね。こんな地の好い着物は今まで縫った事がないわ。その代り縫い悪いのよそりゃあ。まるで針が立たないんですもの。お蔭で針を二本折りましたわ」
 こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒くさいという顔をしなかった。
 
 
 抜き出して並べるまでもないが、全体としていい文章である。こうした文章は、これまでに描いてきた深刻な内容によってのみ生れてくる。奥さんの涙が深刻であればこそ、先生を迎える奥深い喜びもある。喜びも心配も深い内容を持っている。そうした奥さんの感情まで私はまだ届いていない。
 機嫌をよくした奥さんは、うまい冗談を言う。冗談にも奥さんらしい喜びが出ている。苦情ににしてもそれは事実を言うだけで愚痴ではないし、この仕事をすることを嫌っているわけでもない。漱石が創り出す端的な精神である。


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