『こころ』ノート 両親と私(一)〜(十八)   先生と遺書(一〜十五)  先生と私(一)〜(十)  (十一)〜(二十) (二十一)〜(三十六)



 両親と私 一
 
  私が田舎に帰った時、父親は卒業を非常に喜んだ。私は、卒業をそれほどありがたがらない先生と比較して、父の田舎臭い処に不快を感じた。私の世界では、大学を卒業するものは毎年何百人もいる。私は大学の教授より先生を尊敬しているし、先生は大学の教授をも評価していない。
 田舎の父や母と都会の先生の価値観は非常に違う。当時はよほど経済的にも恵まれていないと大学には行けないし、大学に入れば田舎ではありえない出世の可能性が待っている。田舎には大きな可能性はない。だから、田舎では東京の大学を卒業することは実際に重大な意味を持っている。都会では偽善的に大げさに見えるし実際にそうである精神も、田舎では実質的な意味を持っており、真面目な誠実な素朴な、心からの喜びである。この田舎風の意識は、田舎と都会との分離によって劇的に変化する。私は都会に出たために田舎とは別の精神を創り出している。ただし穏やかな形式である。先生とKは激しい対立によって田舎の人間関係のすべてを断ち切った。
 
 父親も息子の変化を感じ取っている。しかし、父親の価値観は無知だとか軽薄だとか偽善だとか言う部分的な欠点ではなく、精神の絶対的な限界であるから、たとえ息子の価値観と妥協する気持ちを持って、自分の価値観を反省することがあっても限界内で変化するだけである。
 父親は、卒業証書をありがたがる自分の感情を息子が不快に思っていることを感じ取ると、自分の感情をより深い意味に説明した。父親が卒業をありがたがるのは、自分が生きている間に息子の卒業を見ることができたからだ、として自分の死の覚悟と結びつけた。私は、父親の話を聞いて恐縮した。私は、卒業の前に死を覚悟していたらしい父親の心情を理解できなかった自分を愚かだと感じた。
 この時の父親の死の覚悟は、先生とK の覚悟とは違う。自然的な死を受け入れること、そして、息子の卒業を見ることが、死に関わるほど重要な意味を持っている、ということである。先生とK には、この世界に執着すべきものが何もなかった。
 父は私にこんな説明をした後、卒業証書を丁寧に伸した。そして、床の間の誰の眼にもすぐ入るような正面に置いた。田舎では息子の卒業証書が両親の人生を十分に充実させる力を持っている。両親にとってはこうした充実が人生の彩りである。先生もKもこうした充実を遥かに捨て去っている。私もそれを捨てようとしている。(2009.10.07改稿)

 両親と私 二
 
 私の母親は「都会から懸け隔たった森や田の中に住んでいる女」である。母親は病気ついてまるで無知識で、少し元気そうに見えればなんともないように思い、卒倒したときには極端に心配する。偶然的に場当たり的に気ままに、しかしその都度真面目に反応し対応している。そして、その都度なにかわけのわからない適当な理由を見つけ出して納得する。漱石はこの無知な母親の雄弁ともいい加減とも無責任とも真面目とも素朴とも言える精神の特徴をうまく捕らえている。母親の言葉は、場当たり的で適当でしかも真面目だから、現実の状況に当たることもありあたらないこともあり、結局は大きな変化のない田舎では、平均すると現実的な意識になっている。私が父親の病気について教えるように話して聞かせても、別段聞いている風もない。母親の頭の中は、私とも父親とも離れてまるで独自に動いている。そして、それは田舎の現実から自然に生れた田舎にふさわしい意識なので、それでうまくやっていけるし、私よりも的確でもある。だから、私が母親を相手にしても仕方がないと思って父親に注意をすると、父親は母親と同じことを言った。
 私はここで、自分が気がつかなかった父親の覚悟について母親に話した。すると母親は、
 
 「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹のなかではまだ大丈夫だと思ってお出のだよ」
 「そうでしょうか」
 「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家にいる気かなんて」
 
 母親と父親の精神は同じである。まったく違っていても結局は同じであり、だから、お互いによく分かっている。私の卒業について、死の覚悟をしていた、というのも、私をへこませるためのその場限りのうまい思いつきである。深刻な内容を持つわけではない。私が考える様な深刻な内容を持つことは一般にできないものである。だから私を騙すための策略というような悪意はない。あくまで真面目で素朴である。私はこのあと、父の死後についていろいろと考えているが、それもまた、父の覚悟についていろいろと思いめぐらしたのと同程度の、都会で生れた余計な心配である。
 
 「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試しはないんだから安心だよ。お父さんなんぞも、死ぬ死ぬっていいながら、これから先まだ何年生きなさるか分るまいよ。それよりか黙ってる丈夫の人の方が剣呑さ」
 私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐なような母の言葉を黙然と聞いていた。
 
 母親の言葉は理屈からでも統計からでもなく、経験から出てきたもので、まるで陳腐であるが現実的でもある。特に対策はしないのであるから、要するにその場凌ぎの気休めの解釈である。それで田舎の人間関係は回転していく。母親の場合は、気楽な楽観的な呑気な陳腐な解釈を連ねている。生涯こうした解釈を並べて生きている。違った個性では、陰気で悲観的でしつこくて陳腐な解釈を毎日並べて生きている場合もある。すべての個性と現実認識が陳腐なままに噛み合って、お互いに不可欠の要素となって田舎の生活の彩りになっている。この世界に対処するには、この世界から生れたこの世界特有の経験的な意識がもっとも有効である。私は、そうした意識をまったく持てなくなっており、またそうした意識を理解することもまだできていない。だから、母親の言葉を黙然と聞いているだけである。こうしたところにも、私の意識の変化と、私の真面目さが表れている。


 両親と私
 
 私は、卒業を祝って赤飯を炊いて客をするのを厭がっているが、それに反発しても積極的な意義があるわけではないし、止められるものでもない。私にとっては大したことではなくても、田舎では重要である。しかし、重要と言っても、「呼ばないと又何とか云ふから」だとか、「御父さんの顔もあるんだから」だとか、「世間への義理」といった程度の重要性である。この種の同レベルの理由がいくらでも出てくる。それが私にはつまらないと思うが、それは都会の価値観である。たとえそれ自体が重要でなくても、それ以上に重要なものは何も無いからやはり真に重要である。事態はすべてこのレベルであるから、一つの人間関係や価値観で対立しても妥協しても、同等のものがつぎつぎに連鎖的に表れてくる。結局はどうでもいいものとして対処しても、次のどうでもいいことにもまた対処しなければならない。それが無限に続いて日常になる。田舎の人間関係に規定された田舎での自然な関係と感情が、私には仰山に見えてきた。私の精神は、田舎の精神が普遍的意義のない偶然的な精神の対立や妥協の繰り返しに見える様に作り替えられている。田舎で生きていくには、私はそれに慣れて同化しなければならないが、それはできないし、しなくていい条件が都会の生活として生れている。ここにあるのは両親と私の個人的な対立ではなく、日本のすべての地域で経験される、都市と農村の対立である。漱石はそのような視点でのみ描いている。父親や母親の田舎らしい細かな様子だとか田舎の風景や風俗などはなにも描いていない。そんなところに漱石の考えるリアリティはない。
 
 この時も私は父親の心情をくみ取って、「私はその時自分の言葉使いの角張ったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。」と反省し、むしろ父親の方が折れて出ていることも理解して、「私はこの穏やかな父の前に拘泥らない頭を下げた。」しかし、明治天皇の病気という偶然のために、卒業祝いは中止になった。
 卒業証書のことも卒業祝いのことも、私は田舎の両親の気持ちを察して、寧ろ自分が悪いと感じて妥協した。私は、瑣末なことで対立して自己を主張するほど愚かではない。しかし、妥協しても、田舎と同じ精神を持つことはできないから対立が解消されるわけではなく、「それから」と同じように、小さな対立と妥協を繰り返しながら対立が深刻になっていく。このレベルの対立が無限に続くから、一つで妥協しても対立しても、無駄な矛盾をつくり出して消耗するだけである。そして、田舎の精神の全体について疑問を持つと、それは「理屈」に見える。都会がそういう「理屈」を創り出す。


 両親と私 四
 
 私はわけのわからない煩雑さの中で、ようやく書物を開くことができた。しかし、私は気が落ち着かなかった。目まぐるしい、騒がしい東京の方が、「気に張りがあって心持よく勉強ができた。」
 「私はややともすると机にもたれて仮寝をした」。昼寝から目が覚めると蝉の声を聞いた。そして、「時に悲しい思いを胸に抱いた」
 私は友人に手紙を書いた。私が悲しく淋しいのは、友人がいないとか、話し相手がいない、とかいったものではない。田舎の日常には会話はあっても普遍的精神がない。田舎には普遍的精神らしいものがどこにも見当たらず、普遍的精神と対立する意識すらなく、日常の狭い経験的な意識の戯れの中で精神が消耗し死んでいく。それがどんなものかはまだ解らないが、都会には普遍的精神がある。田舎の明確な細かな関心と違った、高い尊い精神がある。高い尊い精神がどんなものかは解らないが、大学の講義にはないし、都会のどこにでもあるのではなく、私にとっては先生の中にだけ存在する。先生の精神は都会で創られたものであり、都会には先生の精神と対立する精神があり、先生がそれを批判することもあった。しかし、田舎には何もない。
 友人に手紙を書いても、書くべき内容は頭の中に生れてこない。先生にも手紙を書いた。しかし、先生は郷里との間で手紙のやりとりをしていない。普遍的精神と関わりのない日常を書いた手紙を先生が読むかどうか、興味を示すかどうか。少なくとも先生が真剣に読む手紙を書くことはできない。書きたいこと、書かなければならないことはなく、それが淋しいから無理に書いているだけである。先生は返事をくれなかった。私は先生が世間的な挨拶をしないのは分かっている。
 田舎での今の主な関心は父の病気である。父親の社会的関心は「天子様」の病気のことで、それを自分の身にひき移している。死は、生物学的な個人的な死であり、普遍的な精神の死という意味を持つことができない。個人的な悲劇である。
 私は、父親が病気を怖がっているように見えた。しかし、母親は「「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」と言うだけである。私は、素直に将棋盤を取り卸して、ほこりを拭いている。よくできた青年である。
 


 両親と私 五
 
 父親の元気は衰えていった。母親は気のせいだというが、私は本当に体が悪いのだと思い、遠くから相当の医者でも呼んだ方がいいのではないか、と思った。母親は気のせいだと思うから、「それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」と言う。天子様の病気もお客も病気とは関係ないように見えるが、田舎では関係がある。それが精神の大きな部分を占めているから、父親の元気のためという意味では母親の言うことの方が現実的である。この場合、医者を読んでももっといい対策があるわけではない。
 
 私はかつて先生から「あなたの宅の構えはどんな体裁ですか。私の郷里の方とは大分趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。
 
 漱石は、家については、「それが薄汚ない屋根の藁に映るのも眺めた」と書いているだけで、その様子から先生の言葉を思い出して、私の感情を簡単に書いている。漱石は、宅の構えについて何も書いていない。日本の作家だと普通はこうしたことを念入りに描くことに、現実らしさを求めたり、描写力だとか観察力を発揮したりするが、漱石にはそんな関心はない。漱石はそんなリアリティを求めていない。
 
 「私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。」
 
 先生は、不安でざわざわしている都会の中で生きている。都会の不安もその中で生きる先生の精神も田舎からは遠い世界である。それを感じると淋しくなる。手紙を書こうと思っても書くことはない。どうしても都会の精神に接触することができず、田舎の生活の中で日に日に先生の精神から遠ざかる淋しいさを味わっている。


 両親と私 六
 
 私は地方の中学教員の口を断った。私は地位に興味を持っていない。両親は、もっと好い口があるだろうという期待から異存はなかった。田舎では、大学を卒業したら自慢出来るくらいの地位につくのが当然だと思われている。私は、こういう田舎の価値観から遠く離れてしまった。「私はあからさまに自分の考えを打ち明けるには、あまりに距離の懸隔の甚しい父と母の前に黙然としていた。」
 先生に対する評価も地位が基準である。尊敬する人とは、相当の地位を得ている人のことである。田舎ではこうした価値観に疑問の余地はない。
 都会ではこうした価値観は多様な価値観のなかでのもっとも優勢な価値観の一つとなり、相対化される。しかし、簡単に超えられるのではなく、まずは田舎のように直接的な素朴な形式が失われて、さまざまの形式に姿を変える。生活者の論理というのも、言葉は難しそうであるが、この田舎の価値観と同じである。


 両親と私 七
 
 田舎の青年は出世するために学問をする。学問をするために都会に行って、都会の新しい価値観を身につけて、まるで人間が変わってしまう。出世のために子供に学問をさせることができるのはまずは田舎の金持ちで、そして、田舎に伽藍堂の大きな家が残る。これは日本の社会全体におこることで、親子の分離に不満を感じてもどうにもならない。この分離がなければ、日本の全体が田舎のままになるが、それはありえない。どこの国でも田舎のこうした崩壊が起こる。ただ、私の場合は、予想を超えて、普通以上に離れてしまった。
 私は先生に、家の事情や仕事のことを手紙に書いた。先生が職を周旋してくれるとは思わなかったが、返事を期待して手紙を書いた。先生に手紙を書かずにおれなくなったし、母は職の周旋だと思っているから、手紙を出せば安心する。だから、先生に手紙を書くことは二重に都合がよかった。こうしたところにも、母親と私の深刻な分離が表れている。しかし、先生の返事も来なかった。
 
 
 両親と私 八
 
 私は、東京へ出ることにした。長く田舎にいることはできない。父は私にいろいろと小言を言った。時代の変化に伴う、無理のない、しかし、やむをえない、どうにもならない、どこでもくり返される小言である。「小言が一通りすんだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父は何時行くかと私に尋ねた。私には早い丈がよかった。」
 私が東京に出れば、田舎の家は淋しくなる。しかし、田舎にいて蝉の声を聞いていると「変に悲しい心持になる」。そして、動いている世の中が気になってくる。
 私は父をよく知っている。父の心情を思えば、病気の父のもとを離れるのは親子の情愛から心のこりがある。しかし、それだけである。先生の多くはまだ私には解らない。その薄暗い、解らないところを通り越して、明るい所までいかなければ気が済まない。この自分の気持ちもどんな性質のものかはまだ解らない。しかし、私にとって先生との関係が絶えるのは苦痛である。この苦痛は、親子の情愛から生れる苦痛とは違う、新しい社会的な意味を持つ苦痛である。私は、母に日を見て貰って、東京へ立つ日取りを極めた。


両親と私 九
 
 私がいよいよ立とうという間際になって、父が倒れたために、東京行きを延ばした。父親は理解して「気の毒だね」と言った。医者は絶対に安臥を命じたが、父親は風邪をひいたときと同じであった。どうせ死ぬんだから旨いものを、といってかき餅をぼりぼり噛んだ。母親は、その食べることを頼んで、父親の丈夫さに安心した。父親は、自分が食べたいものを食べさせてくれない、と愚痴を言うために叔父を引き止めた。父親の病状は進行していたが、状況はあまり変わらなかった。


両親と私 十
 
 父の死期が近づいてきた。私が東京を発つ時、先生も自分の死について話した。「私は笑いを帯びた先生の顔と、縁喜でもないと耳を塞いだ奥さんの様子とを憶い出した。」先生の話は単純な仮定であったが、今の私はいつ起るか分らない事実に直面していた。だから、私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった、と私は思った。
 
 「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒ったら東京へ遊びにいらっしゃるはずじゃありませんか。お母さんといっしょに。今度いらっしゃるときっと吃驚しますよ、変っているんで。電車の新しい線路だけでも大変増えていますからね。電車が通るようになれば自然町並も変るし、その上に市区改正もあるし、東京が凝としている時は、まあ二六時中一分もないといっていいくらいです」
 私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌った。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。
 
 実際は、先生の死は単純な仮定ではなかった。しかし、先生は自分の死を笑いを帯びた顔で話した。そして、奥さんに自分の死について何も話さずに、私が父にかけたような慰めの言葉を聴くこともなく死ぬ覚悟をしていた。二人の死は非常に違ったものである。


両親と私 十一

 私はまた時間的にも気分的にも余裕が出てきた。書物を読む時間もできた。しかし、勉強は思った様に運ばなかった。私は、不快な厭な気持ちに抑えつけられた。
 母親は「少し午眠でもおしよ。お前もさぞ草臥れるだろう」、と私を気遣っているが、私の不快や疲労を理解していない。私も理解を期待できないことを知っている。
 私も母親も先生の手紙を気にしている。一度は、母親を誤魔化して先生に手紙を出したが、結局母親を欺く結果になることがはっきりしてくる。それに、母親のためとはいえ、先生に就職の用件を依頼するのは苦痛である。それは、先生の関心ではないし、私が先生と親しくしているのは、そうした用件のためではない。「私は父に叱られたり、母の機嫌を損じたりするよりも、先生から見下げられるのを遥かに恐れていた。」先生は就職についての依頼に応えることが出来ないだけで、見下げることはしない。重要なのは、先生と同じ思想的な関心を私が持っているかどうかだけである。ただ、私はまだ真剣な思想的関心を証明するほどのことを何もやっていない。だから、このようなことを気にしている。それがこの段階での素朴な真面目さである。
 私は、とにかく先生の思想から長く離れていることに耐えられなくなって、東京に出たいと思う。そして、「どうしても自分で東京へ出て、じかに頼んで廻らなくっちゃ」と、また母親を欺くことになった。
 
 「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」
 「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」
 「そりゃ解り切った話だね。今にもむずかしいという大病人を放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」
 
 どうしても深刻なずれが生れる。母親は、私が就職のためではなく、思想のために東京に出たいと思っていることを理解できない。しかし、偶然にも、「今にもむずかしいという大病人を放ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」という母親の言葉は、私の葛藤を理解しているかのような意味になった。母親は、父親の生きている間に、私の口が決まれば嘸安心するだろう、と思って、私が口を探すことを重視していたから、それでも東京に出て行くわけにはいかないだろう、という葛藤を想定していた。近づいたと思った時には遥かに離れている。
 私は親孝行のできない境遇にいた。東京にいくのは、口を探すためではなかった。それは両親には決して理解できない。だから、私の行動も心理もすべて誤解され、実際に離れつつあることが次々に明かになる。


 両親と私 十二
 
 父は平生から何を措いても新聞だけには眼を通す習慣であった。病気になってもその習慣は止めなかった。兄は、新聞なんか読ましては悪くないか、と心配した。「能く解るのかな」とも言った。父親には理解力が鈍ったところはなかった。乃木大将が死んだ時も、父が一番先にそれを知った。父親が「大変だ大変だ」と騒いだ時には、頭が変になったのかと思ったが、そうではなかった。「その頃の新聞は実際田舎ものには日ごとに待ち受けられるような記事ばかりあった」から、父親は丁寧に新聞を読んだ。父親の理解力は衰えていなかったが、新聞で知ることのできる、また、知りたいと思うものは、表面的な人騒がせな事件だけである。それが田舎での理解力である。
 こうした、「洋服を着た人を見ると犬が吠えるような所」で、私は先生から電報を受け取った。新聞と違って、先生の精神のどこにも田舎者を喜ばすようなものはない。「電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった」先生の意図は、私にも理解できなかった。母親は「きっとお頼もうしておいた口の事だよ」推断した。私は、行かれないと返電し、田舎の細かい事情を手紙に書いた。母親はせっかくの口の話を断ることになったと考えて、「本当に間の悪い時は仕方のないものだね」と言った。田舎では、都会でなにが起こっているのかを理解することはできない。まして、先生の精神を理解することもできないし、先生に近づこうとしている私の精神を理解することもできない。私も、ここで、先生と話す機会を失ったが、そのことの意味はまだ解らなかった。


両親と私 十三
 
 両親と私は都会と田舎の分離の過程で引き離されつつある。精神の分離が生じている。これはもっとも穏やかで幸運な、田舎の裕福な家庭に起こる平和的な分離である。
 
 「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」
 
 都会と田舎の分離の過程では、田舎での破滅や強制的な激しい悲劇的な分離が一般的である。漱石はそうした過程を知らない。都市でも田舎でも豊かな階級の分解過程を描いている。ここで解るのは、漱石がその限定をはっきり意識していることである。ただ、お互いに理解できなくなった、都会と田舎では価値観が違う、といった現実認識ではなく、田舎の裕福な家庭では、都会の代助の家庭と同じような分解過程が進行している、ということを理解して描いている。
 私が母親を適当に誤魔化しながら先生に手紙を出したことが、ここでは、先生の周旋で就職が決まったような話になっている。「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。私は、曖昧な返事をして、わざと席を立つた。


両親と私 十四
 
 「お前の卒業祝いは已めになって結構だ。おれの時には弱ったからね」と兄は私の記憶を突ッついた。私はアルコールに煽られたその時の乱雑な有様を想い出して苦笑した。飲むものや食うものを強いて廻る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。
 
 田舎を出ている兄とはこの点で共通している。性格も違い、距離から言っても私とは遠く隔たっていたが、兄弟の優しい心持ちはあった。しかし、これからどうするか、という話になると、二人にも本当の隔たりが表れる。私の精神は、田舎を出た兄をも超えて隔たっている。


 両親と私 十五
 
 兄は先生の価値を認めない。地位もなく著名でもなく何もしていない人間に価値はないという評価では両親と同じである。ただ、先生が何もしないことについて、父は無能だからと言うが、兄は能力があるのに何もしないのは詰まらん人間で、エゴイストで横着である、と言っている。兄の否定の方がより都会的で具体的である。教授や批評家がよく言う生活者の論理である。
 
 私は死に瀕している父の手前、その父に幾分でも安心させてやりたいと祈りつつある母の手前、働かなければ人間でないようにいう兄の手前、その他妹の夫だの伯父だの叔母だのの手前、私のちっとも頓着していない事に、神経を悩まさなければならなかった。
 
 私が神経を悩まさずにいられるのは、田舎でも都会でも誰にも理解されず評価もされない先生の精神世界だけである。兄はそんな私に、田舎の家を監理してはどうか、と言った。「本を読むだけなら、田舎でも充分できるし、それに働く必要もなくなるし、ちょうど好いだろう」、というのは、なにもせずに本を読んでいるだけなら、田舎で朽ち果てるのが相応だろう、という意味である。兄は田舎の家に未練はない。私が厭なら、伯父さんにでも頼むと言っている。こうして、先生が思想の出発点としていた、財産をかすめ取った叔父とそれに対する恨みの話は、現実にはこのように解決されある。田舎の財産には価値がなくなり、兄も私も必要としておらず、伯父にでも誰にでもに監理を任せなければ朽ち果てるだけであり、たとえそれを失ったとしても、大きな意味を持たなくなりつつある。

 両親と私 十六
 
 父親の病状が悪るくなった。私はよくできた息子で、両親と穏やかな関係を保っている。こうした素直なストレートな精神に普遍的精神が宿る。普遍的精神の発展によって対立が生れるものの、対立を好まない。表面的な対立をできるだけ回避しようとするのは、漱石が反省の上で独自につくりだしたもので、日本では珍しい精神的傾向である。日本では瑣末な対立を好んで、大きな対立では妥協するし、もともと、瑣末な対立に安住して、大きな対立を構成することができない。私が、両親との対立をできるだけ回避しようとしているのは、私の関心が両親との対立とは別の世界に移っているからである。別の精神が生れたことによって、瑣末な対立を避けようとしている。
 しかし、必然的で決定的な対立を避けることはできないし、私はそれを理解しているし覚悟もしている。表面的な対立を回避しても、対立は深化しており、対立の深化が表面的な対立を回避させる。だから、本質的な対立がかならず表面化する。これは、「それから」で漱石が描いた対立関係である。対立の形式としては、『野分』の道也と逆になっている。道也は対立を目標としていたが、ここでは、対立は回避されて、独自の関心によって対立が自然に生れている。
 父親の病状が重くなって、いつどうなるかわからない、という時に、先生から分厚い手紙がきた。しかし、すぐには読めなかった。

両親と私 十七
 
 父の病気は悪くなった。私が厠へ行こうとして席を立ったとき、兄は「どうも様子が少し変だからなるべく傍にいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。私が父親の傍から離れることを予測しているかのように。「私もさう思っていた」が、なにかそうした雰囲気を兄は感じているらしい。
 父親が昏睡状態に陥った時、私は先生の手紙を読んだ。分厚い手紙が何事を語るのか気になった。同時に病室のことが気にかかった。
 「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」
 という文章の意味が理解できなかったが、突然不安に襲われた。そのとき、病室から私を呼ぶ大きな兄の声が聞こえた。愈父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。


両親と私 十八
 
 私は今にも変がありそうな病室を退いてまた先生の手紙を読もうとした。しかし私はすこしも寛くりした気分になれなかった。机の前に坐るや否や、また兄から大きな声で呼ばれそうでならなかった。そうして今度呼ばれれば、それが最後だという畏怖が私の手を顫わした。
 
 その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。
 「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」
 
 私は東京行きの汽車に飛び乗った。この結末は「それから」に似ている。父の死と先生の死が同時に迫る中で私は汽車に乗った。私のこうした行動が自然でリアルであるためには、先生の精神に対する私の深い関心と田舎の精神との関係の必然性を描いていなければならない。ここまでの描写が私の動揺と決意を納得させるだけの十分に深刻な内容を持っている。しかし、たとえ漱石が巧く描いているとしても、先生と私の精神世界を理解できるとは限らない。私の両親も兄も先生と私の精神を理解することはできなかったことを漱石は描いている。彼等にとって、「それから」の代助の行動を理解できなかった両親と兄と同様に、私の行動は不可解である。先生と私の精神を理解出来ない場合、私の行動を理解するために先生と私が同性愛であった、と推理しなければならなくなる。死の床にある父の枕辺を去って汽車に飛び乗る私の行動を説明すべきものがどこにもみつからないからである。その場合は、読者自身を納得させる動機を私の中に想定することになる。それは、先生や私の精神ではなく読者自身の精神である。「こころ」から百年を経た現在でも、日本の社会的精神にとって、先生と私の精神は遠い世界である。
 漱石は、私の関心をこれほどに深刻に描いているのだから、先生の手紙が軽いものではありえない。手紙の内容が深刻な内容を持たないなら、私は不可解な軽薄な青年である。だから、漱石はこの段階で余程覚悟しているし、深刻な内容が生れると予測できたのだろう。


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