『金比羅』 (明治42年10月) 

  この作品も日常的な経験を無批判的に描写している。これは鴎外の基本的な特徴なのでここでは問題にしない。ただ、この作品にはこれまでの作品には見られなかった描写がある。
 博士は長椅子に腰を掛けて、革包の中から日記を出して、万年筆で書き始めた。先づ高松で講演をしてしまつたことを書く。それから小川光に送られて、琴平華壇へ寄つて、船に乗つたことを書く。皆で二三行である。博士の日記はいつも粗い筋書で、読み返して見れば興味索然たるものである。形式があつて内容がない。或は博士の生活その物もその通りで、回顧すれぱ興味索然たるものではあるまいか。
 博士はいつも自分の為た事を跡から考へて見て、その瑕瑾を気にする人である。講義なんぞをするときには紙切に、あの事から此事と順序を書き附けて、所々に字眼のやうなものさへ書き入れて持つて出るのであるが、扨講義をして見ると、それに性命を吹き入れるといふやうな事が出来た事がない。それが第一に気になる。どうも総てが紙の上の辮舌になつたやうな気がする。それから書いたときには論理が立派に整つてゐた積であつたのに、話してみるうちに連続を失つて、慌てて順序を変へたり、別の事を入れたりしたのを思ひ出して、嫌な心持になる。しまひには間違を言つて言ひ直した処、吃つた処、と切れた処まで思ひ出して気にする。併しそれは皆形式ばかりの事だから、どうでも好いと、自ら辮護もして見る。そこで内容はどうかといふのに、講義をする前には、参考書は随分広く調べる。そしてそれを雑然と並べて置くやうなことは決して為ない。自分の立脚地から、相応な批評を加へる。跡で速記を読んで見ても、智力の上から概念を洗つて見て、別に不都合な廉はない。それであるのに、つひぞ人を感動させた、人に強い印象を与へたと思つたことのないのが、気に入らない。事に依ると思想までが紙の上の思想になつてしまつてゐるのではないかと思はれてならない。それに博士は、自分の判断の標準になる立脚地といふものに満足してゐない。
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 一寐入すれば大阪に着くから、早く寐ようと思ふが、脳髄の上に疲労が鈍い重りを加へてゐる割に寐附かれない。何だか自分の生活に内容が無いやうで、平生哲学者と名告つて、他人の思想の受売をしてゐるのに慊ないやうな心持がする。船の機関ががたがた云ふのが耳に附く。自分の体も此船と同じことで、種々な思想を載せたり卸したり、がたがたと運転してゐるが、それに何の意義もないやうに思ふ。妻や子供の事を思つて見る。世には夫婦の愛や、家庭の幸福といふやうな物を、人生の内容のやうに云つてゐるものもある。併しそれも自分の空虚な処を充たすには足らない。妻も子供も、只因襲の朽ちた索で自分の機関に繋がれてゐるに過ぎない。あゝ、寂しい寂しいと思ひながら博士は寐た。
 形式的で無内容な反省であるが、鴎外としてはめずらしく自己弁護の形式を持っていない。自分の精神を否定的に意識している。明治42年の鴎外の文壇復帰は、鴎外の人生の転機を示すものだった。鴎外は官僚として最高の地位に上り詰めていた。日露戦争以後文壇が活気を持ちはじめ、明治42年に「昴」が創刊されて鴎外が書く機会を得た時、鴎外が書く事の出来る内容は、身近な個人に対する不満とそれにまつわる自己弁護であった。鴎外の置かれた立場と、その立場が形成した精神は、明治の社会を深く反映する能力を失っていた。もともと鴎外には深刻な社会認識の能力はなかったが、社会的な認識能力の欠如が文壇への復帰によってはっきりしてきた。社会的発展から取り残されていることが、私小説的な作品に対する文壇と読者の反応によって、鴎外自身にも深刻に感じられている。
 鴎外はこれまでの作品では、自分の立場の優位のもとに詭弁をつかって自己を肯定し事実を粉飾することができた。それが作品としてうまく描けているかどうかは本来の目的ではない。立場の優位にもとづいて強弁し抜くことが目的であったから、説得力を内容にではなく地位の優位に頼っていたから、問題は力関係であった。この力関係が変化しつつあった。
 鴎外は小説によって自己弁護をした報いとして、作品に対する厳しい評価を受けた。それをネタに小説を書いても結果は同じであった。初期作品では経験的な事実の自己弁護が偶然的に時代の流れを捕らえたが、同じ自己弁護がこの時代には、意外にも、鴎外の精神が時代後れになっていることの告白になってしまった。そして、個別的な人間関係の対立における自己弁護ではなく、自分の精神の社会との関係における弁護が必要になった。
 鴎外の精神と社会的必然との対立においては、エリート官僚であることは何ら優位にならない。保守的官僚である事の弱点がこの関係において表に出てくる。鴎外は山県有朋との関係によって自分の地位を強化していた。それは保守的官僚としての優位を確立することであると同時に小説家として時代の発展から立ち遅れることを意味していた。それは、鴎外の特徴である私小説的な描写が、自然主義の流行にもかかわらず、受け入れられなかったことにはっきり現れている。自然主義に対立する漱石の作品は鴎外の届く世界ではなかった。自然主義の流行は私事を書く機会を与えるかに見えたが、高官の不満にみちた私事の描写など誰も褒めなかったし興味を持たなかった。文壇の活気はエリートインテリに変わる書き手を生み出し、下層世界が社会の担い手として登場していることを反映していたから、高官の私事が問題にされないのが当然である。さらに、鴎外が鴎外らしいやりかたで事実をねじ曲げてでも主張していた脚気問題もすでに鴎外に不利に展開しつつあった。
 鴎外はこのような状況によって、こうした寂しさや孤立を感じ、表明し、それに対峙する必要を意識したのであろう。鴎外にとってこの自己否定的な感情は対決的な意志の自己確認である。鴎外はこれまで個人的人間関係における分離・対立を肯定的に描いてきた。その精神の発展の結果として、これからははっきり社会との分離・対立を意識し、それを肯定的に描くという意味で、鴎外自身の精神をより一般的な形式で対象化する事になる。社会との、あるいは人間関係一般との分離、対立、深刻な孤立的意識の肯定が作品の課題になる。社会的な孤立によって生じる自己内の矛盾をこの作品では意識化しているが、すでに社会的な地位の優位を誇る可能性を失っており、時代後れになりつつある自分を現状のままで肯定するのが鴎外の負けじ魂である。この強烈な負けじ魂と努力にもかかわらず、鴎外が社会との接点を失い、歴史物に逃避して、自己を満足させるためにのみ自己を弁護するようになるのに、あと数年しか残っていない。
 社会から取り残されつつある事を自覚させられたことで、鴎外はまけじ魂によって、用心深く、臆病にであるが、社会的に自己を肯定する努力をし復権を果たそうとする。それが43年からの作品である。

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