『懇親会』 (明治42年5月) 

 鴎外は明治23年に洋行土産の三部作を書いた後、明治42年までに大いに出世したが、小説の内容に大きな変化はなかった。鴎外は、官僚的な出世に伴う私的な不祥事を取り繕うために小説を書いている。「舞姫」も「半日」も「懇親会」も、個人的な不祥事によって危うくなったエリート官僚の威厳を、その不祥事を梃子にいっそう堅固に回復しようとした作品である。その威厳は、エリス、奥さん、新聞記者といった、鴎外との関係で非常に弱い立場にある人々との関係によって表現される特殊な威厳である。

 岩波版鴎外撰集巻末の小堀氏の解説によると、この事件には背景がある。鴎外は赤十字病院の院長人事をめぐって上司と対立し、自分の面子を保つために親友を通じて山県有朋に働きかけ、鴎外自身も陸軍大臣寺内正毅等に働きかけて裏工作に奔走した。作品で新聞記者が『へん、気に食わない奴だ。大沼なんぞは馬鹿だけれども剛直な奴で、重りがあつた。・・・今度の奴は生利に小細工をしやがる・・』というのがそのことである。
 懇親会での事件の真相はこの裏工作にある。しかし、鴎外は殴打事件を現実的な関係と切り離し、道徳的で精神的な問題として描いている。「半日」で、会計にかかわる対立を道徳的な価値観の対立に改変しているのと同じである。鴎外は官僚世界の諸事情を描写する度胸も意志もなかったし、自分の裏工作を批判的に認識する能力も意志も持たなかった。鴎外にとって山県有朋や寺内正毅とのつながりは力の証明であり誇りであって、弱点ではない。彼らとの関係を使い、裏工作をして自分の地位を保つことこそ鴎外の体面であり品位であった。鴎外にとって、仕事であり、体面を保つことでもある裏工作を、一新聞記者に批判されること自体は、意に介すべきことではなかったであろう。しかし、高官である鴎外にとって一新聞記者に殴られたことは屈辱的であり、そのことで自分の権威が傷つくことは許しがたいことであった。そのために、鴎外は、殴打事件が自分の権威や品位を傷つけたのではなく、自分の権威と品位の高さを証明したかのように描こうとしている。
 鴎外は、『舞姫』で自分の将来に関わるスキャンダルを自分の愛情の深さと道徳的品格の証明として描いた。「半日」では家庭生活の崩壊を、自分の忍耐と品格の証明として描いた。この作品では新聞記者に殴打されたことによって自分の寛容と威厳を描いている。しかも、鴎外はこうした解釈上の作業をいつも最後の仕上げとして描いている。「舞姫」は、追いかけてきた女性を外国に追い返してもらった後で作品に描き、奥さんに対しては絶対的な優位を確保したで作品に描き、人事の件では自分の意思を貫き、新聞記者にも新聞社にも謝罪をさせ、すべて自分の現実的な勝利を確定した後に、その力に基づいて自分の威厳と品位を描いている。
 此男の声は好く通る声で聞き取るには骨は折れない。併し耳に骨が折れない代りには、悟性に骨が折れる。かういふ話に頓挫抑揚を附けて聞せられる。その賑やかな音響の中から何等かの概念を覓め出そうとして、僕の悟性は非常に苦しみを覚えるのである。さて稍暫くその苦しさを忍んでゐたが、とうとう何の概念をも含蓄してゐないといふことを発見したので、僕は大いに安堵した。
 ・・僕は別にやかましいから止めてくれゝば好いとも思はない。それかと云つて、長く聞かせて貰ひたいなどゝは思ふ筈がない。
 鴎外は懇談会の席で冷静で超然とした博士を描いている。この冷静さが鴎外らしい。うるさい、とは言わないし思わない。何か意味があると思って理解しようと努力したが、意味のないことがわかって安堵した。この男が愚かであることを理解しただけで、腹も立たなかった、自分はこんな者に何らの影響も受けない、とするのが鴎外らしい徹底した軽蔑である。しかし、概念だ安堵だと言っても、結局は軽蔑の徹底にすぎない。博士の超然とした態度の中身は、周囲に対する陰険な観察と軽蔑である。新聞記者が博士を大家として認めていながらつまらない言いがかりをつけた事や、女が記者に酌をしにきたのを、『年寄の士官がいぢめられるとでも感じたのであらう』といった厭味だとか、『酌をさせながらお酌の体を上から下へ撫でるやうに、例の眇のやうな目で見た。僕は女好きだなと思つた。』といった意地の悪い憶測が博士の冷静な頭の中で自然に湧き上がっている。記者が謡曲を歌うのを嫌とも言わずに聞いてやったことも描いている。超然として冷静である博士の頭の中にはこんな雑念に満ちている。だからこそ超然とした態度が必要になっている。
 博士の周りはつまらない言動に満ちている。あるいは、博士は周囲をこうしたつまらない観点からのみ観察している。周囲をこのように観察する眼を持ち、その観察に徹底した軽蔑が付け加えることで博士の超然とした精神ができあがる。博士の超然とした境地は、周囲の人間関係からの分離であり孤立である。新聞記者がつまらない不躾な振舞いをすることが、博士には非常に気にかかる。博士は、それが無能な人間の行動であると解釈することで自分を説得し超然とてする。怒りや対立で人間関係と関わることを避け、対象と分離し、軽蔑と無視を徹底するのが博士の解決策である。
 この分離的な性格のもとで、神童であった鴎外の知恵は気持ちよく回転する。しかし、廻らないほうがいい知恵というのもある。怒りや苛立ちが当然であると思えるほどに記者の不躾な振る舞いを描いた上で、その振舞いに寛大に耐えている博士を描き、相手を軽蔑し無視するほどに高い境地というものがあることをまず描いている。この境地を新聞記者との対立以前に、博士の独自の境地として描くのが鴎外らしい周到さである。この新聞記者は、鴎外を殴る新聞記者ではなく、博士にさんざん無礼を働いて博士の寛容と忍耐強さと冷静さ、博士の人格的な高さを、あらかじめ証明するための人物である。博士を殴る新聞記者は突然やってくる。そしてそれまでに描かれた博士の寛容さと忍耐が、この突然の事件によって改めて、より高度に発揮されることになっている。殴打事件に対しても、うるさくしゃべり散らす新聞記者に対しても、非難する意志さえ持たず、超然とした境地にいる博士が予期しない事件に驚き、且つ冷静に対処し、超然とした自己を失うことはなかった、ということを事件の真相として描いている。

 鴎外は殴打事件の場面をリアルに描いている。突然脅迫されて、不思議にも「墺太利で一時評判の高かつたLieutenant Gustelといふ小説の事を思ひ出した。」というのはありそうな心理である。しかし、この描写はありそうな事実によるごまかしであり虚偽である。小細工に憤慨した新聞記者を侮辱するこういう描き方は、謝罪させられた新聞記者に追い打ちをかけ、口惜しい思いをさせるであろう。それが鴎外の意図である。「舞姫」がエリスに対して、「半日」が奥さんに対して冷酷に対処しているのと同じである。
 博士は新聞記者の言い分に反論しない。新聞記者の言い分が間違っていると言わない。裏工作を問題にせず、新聞記者の言い分を問題にせず、新聞記者の無礼な態度を問題にせず、博士の意識は裏工作からも、新聞記者の殴打からも分離されている。博士は、突然の事件に動ずることなく、冷静に傷の処理をした。殴打事件は博士の感情にも意志にもなんの痕跡も残さず、博士の人格は傷つかなかった、というのがこの事件についての鴎外の解釈である。鴎外は、新聞記者を無視する形式をとって、自分の言動の一切から眼をそらそうとしている。
 新聞記者は不可解で無礼な態度をとる人物として描写され、博士は、その無礼にもかかわらず、寛容で、冷静で、動揺せず、その無礼に耐えて威厳を守り続けた人物として描かれている。現実の無意味な描写を添える事で、事件からこの人格的対立以外のすべての内容を取り去るのが鴎外の描写の虚偽である。新聞記者の人格は全的に否定され、博士の人格は全的に肯定されている。しかし、それは鴎外の意図であり、鴎外の現実認識である。鴎外の意図や現実認識や描写の客観的な意味はまた別に理解されねばならない。博士の人格の客観的な内容は、博士が自己を全的に肯定し、他を全的否定することに現れており、より具体的にはその肯定と否定の方法に現れている。
 
 裏工作をすることで鴎外は自分の体面を保つことができた。奥さんに会計を秘密にすることで、奥さんに対する強い立場を固めることができた。エリスが破滅することで豊太郎は帰国して出世することができた。鴎外はどの場合でも勝利者である。しかし、鴎外はすべての作品で自分を被害者として描写している。彼は勝利に安堵し、勝利に酔うのではなく、被害者として耐えるている。それだけでなく、被害者であるにもかかわらず、怒りを抑える寛容さと忍耐力によって品位と威厳を保っている。どんな非難にも反論せず、無言で耐える孤高の姿が鴎外の人格性である。
 鴎外は実利を得ることに満足せず、自分の人格性にしつこくこだわる。それは道徳的な意識の高さを証明しているのではない。鴎外が道徳性にこだわるのは、鴎外の出世のための実践が道徳的な弁明を必要としているからである。鴎外の道徳的な意識は自分の利益を守る形式である。その利益と、利益を得る方法が、道徳的な、人格性な肯定による後始末を必要としているために、鴎外は自己肯定として独特の道徳的意識を形成した。
 鴎外の出世主義者としての実践には、人格的、道徳的な満足が欠けており、それを実践の後で自分で作り上げることが出世のためにも必要であった。鴎外は出世の過程で、人間関係上の対立を引き起し、そこで非難されるべき手段を用いて勝利し、その後始末として、その勝利を確実にするために、その非難から自分を守るための道徳的な価値観を造り出す必要があった。鴎外が出世に執着するだけでなく、出世の過程で体面や人格性を問題にせざるを得なかったのは、そこに彼の弱点があったからであり、体面を守る努力を必要としていたからである。鴎外は自分の地位を守る手段として人格性を弁解する必要があり、そのために小説を書き続けた。非難される事態を引き起し、自分の地位を保つために非難を排除しなければならなかった。その自己肯定の方法が出世の方法にふさわしい独特の精神を作り上げた。鴎外は、非難に反論し、非難と闘って自分の正当性を貫くのではなく、対立を避け、問題を糊塗し、問題を覆い隠すために、非難に耐えるという方法をとった。対立し、争って正当性を明らかにできるような内容を持たないために、この歪んだ道徳的な意識が、実践の弁解としてもっとも有効で自然だったからである。エリスを破滅させてどこが悪い、とも、奥さんに会計を秘密にしてどこが悪い、とも、裏工作をしてどこが悪い、とも主張しにくいであろう。対立が鴎外の実践の内容を具体的に明らかにすることになれば、なにををどう言いくるめても、成り行きがどうなるにしても、鴎外の立場が悪くなるのは避けられない。だから、問題を覆い隠すために、耐える力と耐えている自分を主張する方法が発展した。
 鴎外の利害も利害の追求の方法も正当性を持たず、非難されやすく、気に入られ難い。しかし、正当な方法をとる事も人間関係を形成する事もできなかった鴎外は、自分のこうした傾向に則して、それをあくまで肯定する精神を発展させた。それが鴎外の意地である。現実的な対立を回避する臆病な方法としての忍耐が発達し、弁解の知恵が発達した。しかし、それは積極的な内容を持たず、それが事態を打開するわけではなく、自分を納得させるわけでもなく、問題をややこしくし、人間関係の対立を深刻化し、陰険化するだけであった。そうした精神に必要な境地として諦観が発達し、こうした事態と努力のすべてを忘れる悟りの境地が必要となる。それは、特別の実力を持たないために、実力以外のあらゆる手段を使って出世しようとし、その地位にしがみつこうとするエリート官僚の精神の特徴である。不面目な事件を覆い隠し体面を守る方法がいくら発達しても、優れた人格を形成することはできない。それは自分の言動の実質的な内容を覆い隠そうとする、虚偽に満ちた貧弱で空虚な精神を発展させるだけである。


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