2.草枕

 この作品はインテリ的な社会的孤立を芸術の名において肯定した、初期作品ではもっとも批判意識のレベルの低い作品である。漱石は徹底した批判意識を獲得した『明暗』でこの作品と同じ温泉の場面を描写している。『草枕』と『明暗』を比較すれば、漱石が『草枕』の精神をいかに深刻に克服したかが、さらに芸術的な描写にいかに多くの内容が含まれているかがわかる。しかし画工と那美さんの会話と、津田と清子の会話の違いを理解するのは非常に困難である。その違いは『草枕』から『道草』までの作品の分析によって初めて理解できる複雑で深刻な内容の全体を意味している。『草枕』から『明暗』の最後の場面にいたる過程を理論的にたどることによって描写の深さを味わうと同時に理論認識と芸術的認識の内容上の一致を経験することができる。

 画工は金田との関係による苦沙弥の苛立ちや赤シャツとの関係による坊ちゃんの滑稽さを人間関係から逃避することによって解消している。画工は人の世を住みにくいと感じ、人の世との関係を回避することを芸術の名において肯定している。この作品の冒頭の文章は資本主義が生み出したインテリ層の無力な社会認識を肯定的に定式化している。しかしこの作品で重要なのはインテリには名文として受け入れられているこの無内容で形式的な文章ではなく、人の世を住みにくいと感じ、人の世との関係を回避した画工の精神に生ずる特有の矛盾を描いていることである。
 無力なインテリは現実の諸矛盾の旋風に巻き込まれることを恐れ矛盾を回避しようとする。諸矛盾から逃避し第三者の地位に立つことは画工には芸術家の特別の能力や権利に見える。しかし客観的には第三者の地位に立つのは現実の矛盾からの排除であり社会的な孤立である。人間関係から離れることでは人間関係に対する消極性を克服することはできない。世の中の矛盾から一時的に逃避すればいっそう瑣末な矛盾に悩まされることになる。下らない矛盾やその必然的な補完物である下らない理想を廃棄して俗世で平気になる方法は俗世に積極的に関わり現実の矛盾を自分の力とすることである。矛盾を本質化し発展させることが矛盾一般の解決方法である。
 俗世の矛盾を回避した画工は二人の男に思われて悩んだ娘が淵に身を投げたという、社会的な矛盾を含まない単純な関係に典雅とか古雅とかいう趣味を感じている。峠の茶店は開け放ったままで人がいない、出て来た婆さんは素朴で、馬子が鈴を鳴らしながら通りかかって、これから行く宿に離婚した美しいお嬢さんがいて、婆さんがそのお嬢さんについて古雅な言葉で古雅な話をするなどという道具立は世俗の矛盾から逃避した軟弱で俗なインテリの好みである。人間とは、社会とは、芸術とはという巨大な主語に思いつきの述語を付け加えるのは具体的思考を知らない思想的無能である。イタリアのサルワトル・ロザ、中国の書家、万葉集、ターナー、レンブラント、シェレーなどと無闇に引用するのもインテリが現実社会に対する無知を覆い隠すために必要とする常套手段である。
 積極的な矛盾から逃避して下らない矛盾の中で生きる画工には下らない矛盾を面白く解釈する趣味的な能力が発展する。希薄な人間関係を虹の糸だとか霞の糸だとか蜘蛛の糸だと解釈しても関係が面白くなることはない。興味深いとか面白いという表現自体感情の作為性を物語っている。無内容な彼らの精神は自分が興味深く面白い内容を持っていることを表明することを必要としている。
 画工は那美さんに不幸を想定しているが同情の涙をかけるほど俗ではない。画工の非人情に対応して那美さんには同情を受け付けない精神が想定されており、そこに只の女でない那美さんとの「普通ありふれた」境界を通り越した因果の可能性があると感じるのが画工の因果である。しかし画工の那美さんに対する関心は関係の発展が生じないことを前提している。那美さんの積極性に対する画工の期待は無力なインテリに特有の色気であり、那美さんの積極性はその色気に媚びる性格を持っている。しかし、那美さんの積極性は画工の消極性に対応した特殊な積極性である。この特殊性の本質は相互の反発であり、相互否定である。彼らの相互の関心のありかたは発展しない人間関係に特有の形態である。画工と那美さんの関係の発展を夢想するロマン主義的な読者の期待をかき立てながらそれを実現させないのが漱石の現実感覚であり、『吾輩は猫である』以前のロマン主義的特徴を持ちながらロマン主義的傾向に流れない『草枕』の特徴である。ロマン主義の本質的な特徴はインテリの消極的な精神が形成する人間関係を積極性だと幻想することである。漱石の初期作品には消極的な精神が形成する人間関係を肯定する側面とその意義を認めない精神が対立しており、常に後者が優位を占め、自己否定的で発展的な精神として次の作品に受け継がれる。漱石はまだ画工と那美さんの分離の必然性を認識していないが直観的に一致の可能性がないことを理解している。分離の必然性は『三四郎』以降の作品で具体的に描写される。
 自然主義者は女を見ると欲情した上で道徳や人生観を述べる。ロマン主義者は女を見ると不幸を発見して救世主の役を演じたがり、同情しているのか発情しているのか判別し難い。両方を嫌う余裕派の画工は那美さんを前にして羊羹の美しさを鑑賞する。いずれにしても積極的な人間関係を形成する可能性のない世界に特有の感情である。自分で因果をつける力を持たない画工は羊羹の話をしながら相手の方で因果を繋いでくれるのを期待している。那美さんはこういうロマン主義的な、因果とも言えない因果を求める臆病で自己保身的な画工のやり方を嘲笑している。因果を細くし羊羹を鑑賞することは俗な人間関係を端的にする方法ではない。下らない因果と細い因果は同義である。那美さんは画工の趣味を知って隠居した骨董好きの父を紹介し、画工の趣味が隠居にふさわしいと侮っている。羊羹の色はいいがゼリーは重みがないとか、青磁はいいが茶人はもったいぶっているなどと下らない詮議立てをするのは隠居の仕事である。
 画工は身投げの悲劇を外から眺めて芸術的に鑑賞することで解決し、那美さんは二人を男妾にすることで解決する。人の世が住みにくいことは二人の共通の認識である。田舎や芸術を矛盾の逃避場所として求めている画工と、どこに住んでも住みにくいからどこでも同じだと考える那美さんが対立している。矛盾を回避する臆病と矛盾の中で生きる度胸が対置されている。臆病な画工と度胸のある那美さんの対立関係はインテリ精神の必然性を内包した本質的な対立関係であり『三四郎』以降の作品の基本的なテーマとなる。現実の矛盾に対して消極的に観察的に対処するか積極的に利害を貫徹するかという画工と那美さんの対立は、金田と苦沙弥の対立や赤シャツと坊ちゃんの対立として対象化されていたインテリ内部の矛盾をインテリの精神内部に取り戻した精神の現象形態である。漱石の作品内部の消極的な精神と積極的な精神の対立、臆病な精神と度胸のある精神の対立はインテリ内部に生ずるインテリ的精神とブルジョア的精神の対立である。
 画工の退屈な生活には那美さんが必要である。現実には書斎的な退屈な世界に都合よく外界の人間関係が侵入してくることはない。苦沙弥の苛立ちには金田が必要であり坊ちゃんの正義感には赤シャツが必要であり、取り澄ました画工には大胆な美人が必要である。しかし那美さんが部屋の近くをうろうろすることを不思議だとか一種異様だとか超自然の情景だと感じることまでが画工の色気の限界であり、それが人間関係の糸口になり得ないと感じる現実感覚が漱石にはある。画工と那美さんを分離する漱石の現実感覚とはブルジョアとインテリの階級的対立を深く認識する能力であり、画工の那美さんに対する消極性と無力の理解である。一般に人間関係における階級的な対立を認識できないロマン主義的作品では単純な個人的感情が人間関係の本質とされ、階級的関係を越えた非現実的な人間関係が展開される。その場合の本質的な傾向はブルジョアに対するインテリの優位や勝利である。漱石の現実感覚の天才性はブルジョアに対するインテリの優位を決して認めないことである。
 裸で風呂に入ってきた那美さんにどう対処するかという問題は、社会的に孤立した単純な人間関係の中で設定される選択肢であり、矛盾に積極的に対処すべきか観察的に対応すべきか、度胸か臆病か等々の対立の具体例である。この選択肢自体インテリ世界の人間関係の限界を反映しおり、露骨に裸を論ずることも裸を回避して羊羹や芸術論に逃げることも孤立したインテリ世界の限界内部の精神形態である。この対立関係、選択肢自体を越えることがインテリ精神の限界を越えることである。この対立関係を越えるとはこの抽象的な対立関係に現れたインテリの階級的な本質を具体的に認識することである。漱石は『三四郎』からその課題を明確に意識している。
 人間関係を求めつつも決して発展的な関係が形成されないインテリの階級的本質を反映した画工と那美さんの関係は関係を形成できない自己を認識する出発点としての豊かな抽象である。両者の分離の必然性は現実の階級的本質を反映している。認識を本質化する能力のない臆病なインテリにとっては裸を露骨に論ずることや那美さんとの関係を積極的に展開することに臆病を越える大胆さがあると感じられる。そのような精神には人間関係の認識の本質化という飛躍はないし那美さんの大胆さを描写する力もない。漱石の人物像の特殊な魅力は無力なインテリが形成する道徳的な人間関係を越える緊張した対立的精神を対象化していることによる。画工と那美さんの対立自体に抽象的対立形態を越えて認識の具体化に発展する内容が含まれている。
 画工が趣味に興じているとき那美さんは満州に行く夫と会っていた。那美さんと画工の対立は人間関係に関わると明確になる。人間関係を積極的に形成することは常に矛盾に身を投ずることである。人間関係の展開の中で自分の能力を発展させる度胸がなく、人間関係の矛盾を外から眺めることが画工の非人情である。現実的な可能性を積極的に追求するのではなく、身を引くことで関係を維持するのが画工の工夫である。これは画工の自由な選択によるのではない。画工の内的必然性によって強制された回避できない方法である。
 作品の後半では画工と那美さんの対立は画工の否定性を明らかにする傾向に発展している。那美さんは久一さんが場違いな趣味人の席に座らせられたことを気遣っている。鏡の池に行っていた那美さんの精神は戦地に行く久一さんと一致している。那美さんが鏡の池へ行くことを和尚は散歩だと思っている。画工にとっては鏡の池は古雅な話を空想させる場所である。那美さんは画工の空想を挑発して身を投げるかも知れないと言うが現実は画工の好みのように展開していない。趣味人である画工の精神は夫や久一さんに関わる那美さんの世界に届かない。那美さんが夫と会っていた鏡の池で画工は椿について下らない詮索をし、鏡の池に美しい女が浮いていることを画材として空想している。画工の精神は鏡の池では滑稽の域に達している。那美さんは自殺する個性ではない。那美さんの自殺を想像する画工は那美さんの現実をまったく理解していない。自殺する必然性を持たない那美さんと那美さんに自殺を想定する画工の関係には現実的な力を持つブルジョア的精神と、その道徳的な破滅を期待する軟弱で非現実的なインテリ精神の階級的対立関係が反映している。
 画工が求める憐れは那美さんとの関係に対する期待であり画工の保守的な精神である。那美さんに馬鹿にする微笑と勝とうとする意志を発見するのは自分が那美さんに拒否されていること、自分と那美さんの関係が発展し得ないことを理解する自己否定的で発展的な精神である。那美さんが憐れを持たないと感じるのは那美さんが画工の手に負えないこと、手が届かないことを感じとる能力である。この憐れが人間関係を展開させる契機となるのがロマン主義である。
 戦地に行く久一さんの運命と関わりを持たず興味も持てない画工は趣味人らしく因果だとか浮世だとか葛藤だとかの退屈な言葉を並べている。重大な運命に際して感情を共有できずに書物的知識に頼った貧弱な感情しか持てないのは哀れである。画工がロマン主義的なわざとらしい同情の涙を浮かべないのは偽りのなさを示している。しかしそれは久一さんと深い人間関係を形成できず、一般に深い人間関係も深い感情も知らない画工にとって深い感情を示す涙はわざとらしくならざるを得ないという本質的弱点を意味している。那美さんの深刻な人間関係にとって画工は精神上の余所者である。彼は一般に真剣な問題が生ずるところでは無力な傍観者である。人間関係から排除されていることを煩いを避けたと肯定的に表現しても無力で退屈な人生を充実させることはできない。
 画工は不幸でありながら同情を拒否する那美さんがもっとも深刻な運命に直面している場面で憐れを発見して満足している。漱石は画工の満足を最後の一瞬に画工の主観として描くだけである。しかしこのような妥協は画工と那美さんの未分離を反映している。漱石はこの作品では画工の精神に対する批判意識をまだ明確にしていない。漱石はこの後この最後の場面に現れたインテリ性の肯定的描写を厳しく総括することでインテリ的精神に対する批判的認識を具体化して行く。

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