「林中書」(明治40年3月)


  啄木は冒頭部分で漱石の「猫」に似た文章を器用に操っている。漱石に比べると、経験的な視野が狭いために文章の技術が目立つ軽い文章である。漱石もそうであるが、こうした文章技術的な面白みは、社会認識が本質化し、その意味で真面目になると消えてしまう。
 
 啄木は明治37年の「戦雲余祿」で日露戦争を熱狂的に支持している。啄木はこの戦争を、「正義の為、文明の為、平和の為、終局の理想の為めに戦ふのである」と評価していた。こういう視点から、ポーランドの独立運動にもポチョムキンの反乱にも共感を示している。啄木はロシアの農民が「酷薄なる奴隷的状態に呻吟する事」に憤慨しており、日本が戦争によってロシアの農民を奴隷状態から解放する意義を持っていると考えており、そこに民族的な誇りを感じていた。
 啄木は、ツアーリとの戦いに勝利した結果を「今や我が新日本は、時を変へ、所を変へ、人種を変へて、東洋の、否世界の、一大普仏戦争に望み、遠からずして独逸以上の光栄と、猜疑と、怨恨と、報酬とを千代田城下に担ひ来らんとす。」(「渋民村より」37年4月)としている。しかし、この新たな時代を担う天才がまだ現れていないというのが啄木の現実認識であった。
 
 ■ 「吾人は我が国民意識の最高調の中に、全一の調和に基ける文化の根本的発達の希望と、愛と意志の人生に於ける意義を拡充したる民族的理想の、一日も早く鬱勃として現はれ来らむ事を祈るの外に、殆ど為す所を知らざる者に御座候。」(「渋民村より」)
 
 日露戦争は国民の期待や予想と全く違った社会的変化をもたらし、社会的な自己認識の新たな展開を引き起こした。啄木の場合は戦争の熱狂的支持の中にあった自由の意識が批判的な現実認識として成長している。啄木は、日本が軍事力や経済力の発展に対して精神の発達が貧弱であるとして、現在にも残る歴史的な特徴を小気味よく批判している。
 
 ■ 「噫、哀れなる驕慢児! 汝は、汝の兵卒が露西亜の兵卒と競走して優勝旗を獲た為めに、軍事ならざる他の一切の事までも世界一な様に驕つて房る。何と情ない話ではないか。」
 「戦争に勝つた国の文明が、敗けた国の文明よりも優つて居るか怎か ? この問題は、少なくとも数百枚の原稿紙を用意した上でなければ、詳しく説明する事ができぬ。」
 
 軍事力で勝利しても、文明として精神として勝利しているわけでない、という程度の批判意識は誰でも持つことができる。啄木の批判は一歩踏み込んだ意味を持っており、それが啄木の社会認識の展開の基礎となっている。ロシアが日本に対して優れている点は、国民が自由の民であり、自由の意識を持つことである。無論自由は具体的な意味を持っておらず、自由が具体的な意味をもたねばならないことすら意識されていないが、それは啄木のこれから後の課題である。
 
 ■ 「露国の農民は実に『自由の民』である。現在では猶野蛮な奴隷的な境遇にあるにしても、此烈火の如き自由の意気は、軈て一切の文明を呑吐し淘溶すべき一大溶鉱炉ではないか、人生の最大最強なる活力ではないか。噫、諸君、日本人が長夜の夢から醒めた許りの十何年前は、自由といふ最高価の賚物を享くべく、未だ其時機に達して居なかつたのではあるまいか。袴着の祝済した許りの小児が家宝の鎧を着せられ三間長柄の鎗を持たせられた様なものではなかつたらうか。着て見、持つては見たものゝ、其の価も知らなければ用法も知らぬ。つまり一切の用意を欠いて居る。日本人は近代の文明を衣服にして纒ふて居る、露人は之を深く腹中に蔵して居る。此両様の文明は、神の審判の庭に、果して孰れが是とせられ、孰れが非とはせらるるであらう ? 更にだ、学問の自由、信仰の自由、言論の自由、之等の高価なる自由は、露人の一も有せざる所にして、耐して日本人の悉く有する所である。にも不拘、レオ・トルストイ伯は何故日本に生れずして露西亜に生れたであらうか ?」
 
 軍備や経済の発展以上に国民の精神や文明を重視することも、そのために天才を求めることも、それ自体は平凡である。しかし、啄木の天才主義は自由の意識と連関しているために高山樗牛の凡俗な天才趣味と違って社会認識上の意義を持っている。
 
 ■ 「天才--即ち大人物は、世界の骨である、眼である、脳である。人生の司配者である、人間の理想的典型である。世界史は矢張天才の伝記である--我等は歴史の意義を知らなくても構はない、唯人生、の意義を知れば沢山だ。
 乃ち、教育の最高目的は、天才を養成する事である。世界の歴史に意義あらしむる人間を作る事である。それから第二の目的は、恁る人生の司配者に服従し、且つ尊敬する事を天職とする、健全なる民衆を育てる事である。然し、最高目的は何処までも最高目的で、第二の目的は矢張何処までも第二の目的である事を忘れてはならぬ。又別な言葉で云ふと、教育の真の目的は、「人間」を作る事である。決して、学者や、技師や、事務家や、教師や、商人や、農夫や、官吏などを作る事ではない。何処までも「人間」を作る事である。唯「人間」を作る事である。これで沢山だ。智識を授けるなどは、真の教育の一小部分に過ぎぬ。」
 
 啄木の求める天才は「世界の歴史に意義あらしむる」人物である。啄木にとっての歴史の意味は国民が「自由といふ最高価の賚物」を獲得することである。国民が「烈火のごとき自由の意気」を持ち、天才がその国民を指導して文明を発展させることが啄木の要請であり、日本の国民にその自由の意気がなく、天才もいない、というのが啄木の現実認識である。
 日本の国民的精神が全体として堕落しており、それを変革すべき天才や人格者が必要である、という現実認識をこの時期の漱石も共有していた。彼等が天才を要請し、天才によって社会を変革することができると考えるのは、社会的な無知であり自分の能力に対する過信でもある。四迷と一葉は、このときすでに、日本では天才に限らずすぐれた才能や人格が孤立と破滅を運命づけられており、その孤立と破滅の運命の中で新たな精神を切り開くことが日本的精神の発展の必然であることを明かにしており、そうした必然にふさわしい精神を生み出していた。日本史のこうした必然を理解するために、漱石も啄木もなお数年を必要とした。
 社会変革のために天才や人格者といった特別の個人を要請するのは、社会に変革の契機が見当たらないことによる現実認識である。国民が自由の意識を持たないからこそ天才が要請され、そういう社会であるからこそ天才が生まれにくいのであるし、たとえ天才が生まれたとしても、それは国民精神の現状から遠い孤立した精神であるから、その天才が影響力を持ち、社会を変革することはできないであろう。したがって、社会変革のために天才を要請する意識の中には、その不可能性の理解も必然として含まれており、この要請は、歴史的な社会変革と個人がどのような関係にあるかを明かにする課題を含んでいる。四迷も一葉も漱石も啄木も、つまり明治の天才達はそれぞれの立場から共通してこの問題に取り組んでいる。
 社会を変革する力を持つ人格、能力を創り出すべきだ、という啄木の要請は、社会をどのように変革すべきかという課題を含んでいない。社会をどのように変革すべきかが見当もつかないほど停滞した国民精神のなかにあるからこそ、天才という空想物に変革の可能性を内容抜きに託している。しかし、社会を変革すべきであるという要請が基本であり、この要請が消えず、この要請において非妥協的であることが漱石や啄木の特徴であり、この要請において彼等の天才主義や人格主義は否定される。天才や人格者による変革は不可能であることを認識することが、社会的変革は歴史的にどのように生ずるのかという課題に移行することを必然として含んでいる。抽象的に反抗的で否定的な自己の肯定としての個人主義は個の肯定にとどまるが、啄木の批判はこの時期には単純で抽象的であるとは言え、具体的な変革主体と方法を求める点で論理的発展を内包した個人主義であり天才主義である。
 啄木は、日露戦争の結果、日本は文明あるいは自由の意識の面では、前進したのではなくむしろ勝利によって傲慢になり、自由の意識が後退していると考えた。だから、一層天才の登場を待ち望んだのであるが、歴史はさらに進んでおり、天才を生み出だす精神的土壌を腐らせ、生まれた天才を凡俗な思想によって押し殺す必然を生み出していた。だから、天才主義や人格主義をかかげる漱石や啄木こそが、社会的必然と戦い、その成果として必然を認識し必然と一致する可能性を持っており、実際に必然の認識に到達したことで文学史に歴史的業績を残したのである。天才を誹謗し、中傷し、俗物を祭り上げることがその後の歴史の展開であったことは漱石や啄木に対する批評が証明している。それを啄木も漱石も生きているうちにも身をもって体験し、それが歴史の必然であることを自己認識とし獲得していった。
  


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