『舞姫』  2 

  嗚呼、何等の惡因ぞ。この恩を謝せんとて、自ら我僑居に來し少女は、シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日兀坐する我讀書の窓下に、一輪の名花を咲かせてけり。この時を始として、余と少女との交漸く繁くなりもて行きて、同郷人にさへ知られぬれば、彼らは速了にも、余を以て色を舞姫の群に漁するものとしたり。われ等二人の間にはまだ癡ガイなる歡樂のみ存じたりしを。
 「嗚呼、何等の惡因ぞ」というほどの因果がここからはじまる。エリスが見いだしたのが「シヨオペンハウエルを右にし、シルレルを左にして、終日兀坐する」ことが立派なことであると考えているエリート青年でなく、金を数える貪欲な高利貸しであったなら、この小説に描かれたほどの悲惨な運命は免れたであろう。無欲な援助をし、読書し、エリートであることをすぐれた特質とすることにはエリスが豊太郎と悲惨な形式で分離されることが必然的に含まれている。
 豊太郎はエリスとの関係を、留学生が讒訴したものとは違う、という消極的な意味で肯定している。エリスとの関係がそれ自身積極的な意義を持つものとして彼らに対して肯定しているのではなく、彼らの価値観と対立しない関係であることが豊太郎にとって重要である。その価値観も鴎外のエリート的な特殊な意識で、下心のない純真さをここでも主張している。さらに積極的には、エリスに本を読ませて意味を教え、言葉の訛りをなくし、誤字をなくすために援助し、それを、貧しく「恥ずかしき業」をしているために「賤しき限りなる業に堕ち」る危険からエリスを救い上げることだと高く評価している。あまりにも狭苦しいエリート的、書生的な価値観であると同時に、豊太郎が他の留学生に対する弁明としてのみエリスとの関係を認識していることがはっきり示されている。
 鴎外は豊太郎をエリスとの関係において誠実で純真な、道徳的な人物として描いている。その具体的内容は貧しい舞姫との関係においてもエリート的な品性を失わないことである。エリスとの関係では常に消極的で、自分のはっきりした欲望によって行動していない受け身の対応として描写して、それを純粋さとしている。「いま我數奇を憐み、又別離を悲みて伏し沈みたる面に、鬢の毛の解けてかゝりたる、その美しき、いぢらしき姿は、余が悲痛感慨の刺激によりて常ならずなりたる腦髓を射て、恍惚の間にこゝに及びしを奈何にせむ。」と鴎外は、エリスとの関係をエリスに対する愛情や関係の積極的な意義においてではなく、ここでも恍惚とした無意識状態として説明している。豊太郎は一時的にエリート的な冷静さを失っただけで、けっしてエリスとの関係に深入りしているのではない、と説明している。豊太郎がエリスと関係で具体的で積極的な意識をもたないと説明することは、エリスとの関係を持ちたくないこと、かかわりを避けたいこと、深い関係になりたくないという保身的な意識であって、純粋どころではない、二重性、偽善性、欺瞞性に満ちた意識である。たとえ鴎外がそれを純真だと思っているとしても同じことである。
 豊太郎はエリスとの関係に限らず、貧しい生活の中でもエリートらしさを失わない。本来なら交わることのない貧しい世界に身を落としても、一見しただけで異様に見えるほどにインテリ性を保つことが豊太郎の品位や力量である。エリートとしての洋行をやっとの思いで手に入れた鴎外にはエリート意識が骨の髄まで染み渡っている。下層の人間の集まる休息所で、コーヒーの冷めるのにも気付かずに文章を書き続けるなどの、これみよがしのインテリ性を誇っている。鴎外にはこういうエリートが、「人並みならぬ面持ちをした」人物だと思われる。しかもそこに美しい少女がくることで特別な人間であることの念を押すなどというのは、あまりにも軽薄であり、自分のエリート性の効果ばかりを気に掛けている人間の考えつく描写である。
 鴎外が「わが学問はすさみぬ」などと豊太郎について否定的なことを書く場合は、露骨な裏返しが見込まれる。鴎外はそれが長所であることがはっきりしている場合にだけ弱点として、しかも弱点と感じられないように表現する。「わが学問はすさみぬ」と二度繰り返すのは、優秀でまじめであった故に誤解されて正規の学問の道は失われたが、その優秀さゆえに勉強を続けた、ということである。しかし優秀さを描写することはできない。「今まで一筋の道をのみ走りし知識は、自ら綜括的になりて、同郷の留學生などの大かたは、夢にも知らぬ境地に到りぬ。彼等の仲間には獨逸新聞の社説をだに善くはえ讀まぬがあるに。」などというのも子供の自慢話のレベルである。少し貧乏をして新聞を読みあさるくらいで知識が総括的になることはない。鴎外自身日本に帰ってから総括的な知識を得ているかのような形式で論争をしたが、ことごとく総括的でない知識であることを証明するばかりであった。実際に知識が総括的でないからこそ、自慢話の仕上げに同郷の留学生は社説を読むこともできない、そんな連中の夢にも知らない境地に入ったとして語学力だけで他人と比較する必要がでてくるのである。

 貧しさに耐え知識が総括的になったはずの豊太郎が実際に経験する葛藤は、エリスが妊娠にしたことを知った時の動揺くらいなものである。こんなつまらないことで常に自惚れている青年が深刻な困難や苦悩につきあたることはできない。エリスの妊娠についても、鴎外はエリートにありがちな苦悩すら描くことはできなかったし、関心もなかった。「嗚呼、さらぬだに覺束なきは我身の行末なるに、若し眞なりせばいかにせまし。」と説明しているだけである。しかも、いかにせまし、というのは自分の身をいかに処するかという保身的な関心であってエリスとの積極的な関係を意味するのではない。
 鴎外自身は几帳面で自制心の強い人物であったから、つまりエリートの道を踏み外すような軽薄さはなかったから、こうした葛藤を具体的に経験することはなかっだろう。そうした道徳的に堅固な人間が考えつく模範的な対応には、エリートとして道徳的に堅固な人間に特有の冷淡な感情が現れている。総括的な精神を獲得して同郷の留学生の知らない境地にいるはずの豊太郎は、エリスの妊娠について、「心はたのしからず」と感じるだけで、それ以上の感情を持つことができない。豊太郎の基本的な特徴は、同情によってエリスと深い関係になり、地位のためにエリスを棄てる冷酷さにあるのではない。鴎外はそれより遙かに深刻に保身的である。豊太郎は自分の地位や評判を徹底して気にするエリートとして、エリスとの関係に決して深入りしないし、できない。事実として妊娠を描いても、豊太郎の精神はエリスとまったくかかわりを持つことができない。
 鴎外はエリートにありがちな瑣末な困難を想定しても、「いかにせまし」と困って、「心はたのしからず」という心理にまでは到達するが、それ以上の葛藤は関係上も精神上も展開できず、相沢の手紙が救いにやって来るだけでなく、自然に沸いて出る智慧でうまく関心をそらしている。こうした智慧は矛盾を逃れようとする知恵ではない。鴎外がどうしても描くことができないのは、エリスとの人間関係の形成であり、信頼関係や愛情である。その結果として鴎外には別れの苦悩を描くことはできないし、それが課題でも関心でもない。鴎外がエリスとの関係において最大限の葛藤を想定した場合でも深刻さはなく、つまらない小知恵だけが働くのである。
 「『故郷よりの文なりや。惡しき便にてはよも。』彼は例の新聞社の報酬に關する書状と思ひしならん。『否、心にな掛けそ。おん身も名を知る相澤が、大臣と倶にこゝに來てわれを呼ぶなり。急ぐといへば今よりこそ。』」
 これは信頼関係のない人間が思いつく信頼関係の実例である。「悪しき便にてはよも」という言葉で、エリスにとって相沢の手紙が朗報であるかのような、豊太郎が逃げ出す口実ではないかのような印象を与えようとしている。「急ぐといへば今よりこそ。」などは鴎外の得意のセリフである。相沢がそう書いているから、悪い知らせではなく朗報だから、急ぐと言っているから、という理由をつけて、エリスにとっても利益であるような形式をとって早々に出世の道に、しかも場所的にも逃げ出している。エリスに対する愛情など考えることもできない鴎外が想定するエリスへの配慮はどれほど工夫しても自分自身への配慮以外ではありえない。鴎外はエリスとの信頼関係、愛情を知らないし描くことができないし、描いていないことをも理解できない。鴎外は豊太郎の貧しい自己保身的な精神を描いているにもかかわらず、豊太郎の純粋な、愛情に満ちた、エリスに配慮した意識としてこの場面を描いている。それが鴎外の二重性である。
 この段階では豊太郎の純粋性の質がはっきりしてくる。鴎外は留学生としての関係やエリスとの生活で豊太郎の運命に多少の困難を想定した。しかし、鴎外の関心はその困難をを内容として具体的に描くことではなく、想定したエリスとの関係からいかに身を汚さずに出世の道に舞い戻るかを描くことである。豊太郎が遭遇する困難が浅く、具体的に描かれておらず、葛藤を引き起こすほどの現実的内容を持たないために、豊太郎は簡単な工夫、浅い智慧だけで矛盾を抜け出すことができる。遭遇する困難、矛盾が大きければそれを解決することも困難でありそこに深い個性や精神、力量が現れるが、鴎外はそれを描くことができないばかりでなく、そのような困難を持たず、わずかの困難を楽にやり過ごすことを力量と考えている。欧州に残るかどうかという葛藤では簡単に母の死を知らせる手紙を書き込み、相沢の手紙でエリスの妊娠から逃げる。小説でこんな手紙の使い方をすることが自然だと考えるのは豊太郎が矛盾を回避することに何の疑いも持たないからである。豊太郎は常に矛盾する一方に対する愛情や友情において他方を単純に捨て去る。豊太郎は深い人間関係を形成できないばかりでなく、人間関係の断絶を固定化し、さらにそれを人間関係や人格性の形成であるかのように認識し、行動している。豊太郎はこうした保守的な自己肯定において、反省することも努力することもない個性として、いかに孤立しようともそれを粉飾するための智慧を発展させ、矛盾の巣窟に落ち込んでいく。
 鴎外の価値観では豊太郎がエリスから逃げだすことが相互の愛情の形式をとる。それは、鴎外にとって豊太郎が有能である事がエリスの世界に住むべき人間でないことを意味しており、同時にそれが豊太郎に対するエリスの愛情の根拠になるからである。鴎外にとって豊太郎と離れることによるエリスの悲しみを描くことが豊太郎をすぐれた人物として描くことになる。エリスは豊太郎の正装を、つまりエリートらしい姿を見て、「わが豊太郎の君とは見えず」と、自分とは身分違いであることを再認識している。エリートの優越を示すことが鴎外・豊太郎の快感である。鴎外は豊太郎がエリートであること自体を肯定しているために、エリートの地位に対するエリスの卑屈な精神を必要としており、そのような精神においてエリスを肯定的に描いている。
 鴎外はこの言葉に続けて「縱令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣ふ如くならずとも。」とエリスの言葉を描いている。豊太郎の関心が富貴にあり、エリスを見捨てる関係にあることがエリスの言葉で示されている。豊太郎がエリスと不釣り合いであることがこの場面で強調されている。エリスにとって遠い存在であることが優れた人物であることの証である。それほどに遠い存在であるからこそ、豊太郎がエリスに無欲の援助をすることが、ことさらにありがたい人格性である。こうした観点から豊太郎とエリスの関係を描いているから、エリスの心からの愛情と、豊太郎がエリスを捨て去ることが切り離せない関係にある。ここで生じる葛藤は、豊太郎が有能な人物として認められ出世していく過程に伴うものであるから、深刻な苦悩になりえない。エリスがの愛情も苦しみも豊太郎がすぐれていることを明らかにする観点からのみ描写されている。豊太郎はエリスと苦しみをともにするのではなく、別れの苦しみによって自己を肯定するのであるから、エリスの苦しみを前にした豊太郎の苦悩は甘い感傷にすぎず、それが苦悩の形態をとるほど偽善性が深まる。
 鴎外がこのような価値観をもっていることを理解して初めて、「『何、富貴。』余は微笑しつ。『政治社會などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか經ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。』」という描写の意味がわかる。この言葉は豊太郎の偽らざる本心である。と同時にこれこそは全くの偽善である。これほど奥深い偽善はない。この偽善は豊太郎の意識の作為ではなく本質であるという点で奥深い偽善である。
 大臣や富貴を、つまりブルジョア的な成功を否定するには高度で具体的な精神が必要である。この時代の天才である四迷や一葉や漱石はその内容を追求した。鴎外の精神は四迷や一葉や漱石と逆の方向に向かっている。それにもかかわらず、というよりだからこそ、漱石や四迷が生涯をかけて取り組んだ富貴の否定が軽々しく口にされる。豊太郎が、富貴にも大臣にも関心はない、相沢に会いたいだけだと言うのは、豊太郎の能力や人格性が富貴や地位にふさわしいと考えられているからである。豊太郎は友情に厚く愛情が豊かであるばかりでなく、他の留学生と比べても人並み優れた能力を持っているとされているが、それは鴎外の価値観ではエリートとして抜きんでているということである。
 豊太郎はエリート的な能力においてだけでなく、貧しいエリスに対してさえ同情深いという人格性においても優れた人物であると想定されている。この愚かな想定によると、豊太郎の優れた資質が豊太郎の意志とかかわりなく、意志に対立してさえも、相沢や天方伯に信頼されることになる。となると、エリスと対峙している今、相沢に対する友情によってのみ天方伯に会いに行ったとしても、それが出世の契機となるのは豊太郎の意志によるのではない。また、相沢との友情を肯定するすることは、出世を否定したり拒否する意識とはなんら関連を持たないのであるから、出世することは豊太郎の意識になんら葛藤をひきおこさない。つまり、豊太郎が自分の意思によってではなく、相沢や天方伯の意志によってその資質にふさわしい地位と富貴を与えられることを内的に含んでいる。だから、豊太郎は安心して、この言葉が自分の運命を左右することも道徳的に暗い影を落とすこともないと確信して、エリスのもっとも苦しい状況において、この言葉を発している。エリスの言葉は鴎外の考える豊太郎の能力の客観的な傾向を現している。そして豊太郎の言葉はこの時点の、自分の運命に気づかない豊太郎の愛情の表明である。その主観に虚偽はない。悲劇をもたらすのは、豊太郎の資質が優れていること、エリスがそれにふさわしくないことである、とされている。

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