『舞姫』  3 

  豊太郎が相沢や天方伯に会えば、豊太郎の優れた資質が認められる。しかし、豊太郎は出世のためではなく、友情のために相沢に会いに行く。豊太郎がそういっている。豊太郎の言葉は嘘ではないが、豊太郎の言葉に現実的な意味がないことも確かである。豊太郎は自分の能力や言動が客観的にどのような意義をもっているかを認識しないしできないのだから、豊太郎がどのように行動するかを、彼の意志や言葉によって判断することはできない。豊太郎の運命は豊太郎の意志と分離されている。豊太郎は出世を求めているのではないが、能力も人格も優れているために、出世が転がり込んでくる。このように想定することでのみ純真なまま出世できる。
 豊太郎は出世の妨げになるエリスを平気で捨てる個性ではない。しかし、エリスとの関係は出世の妨げになるのでエリスを捨てる。だから、エリスを捨てる意志を持たないと同時に出世に対する積極的な欲望を持たない。だから出世かエリスかという葛藤はない。富貴の否定や、出世の意志の否定は、実質的な現実的な意味を持たないし、もたせる能力を鴎外はもたなかった。それはその場限りの無意味な、軽薄な、しかも真面目な言葉として使われる。豊太郎は富貴の否定がどれほど多くの、複雑な、重大な内容を持っているかを想像することもできないからこそほほ笑みながら富貴を否定している。鴎外は次の段落では富貴の否定など忘れてしまって、華やかな世界を大満足で描いており、豊太郎のこの変化の軽薄さをまったく意識していない。鴎外にとってはエリスの前で富貴を否定することは社交界で華やかに生活することと矛盾するほどの意味を持っていなかった。
 相沢の世界は鴎外の好きなエリートの世界である。大理石の階段が鴎外の好みである。この世界とエリスの世界の関係は矛盾しない。豊太郎はこれまでにエリスとの関係がエリート世界の価値観と矛盾しないように説明している。「同じく大學に在りし日に、余が品行の方正なるを激賞したる相澤が‥‥我失行をもさまで意に介せざりきと見ゆ。」と言う、「余が胸臆を開いて物語りし不幸なる閲歴を聞きて、かれは屡々驚きしが、なかなかに余を譴めんとはせず、却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき」と言う。豊太郎はエリスとは、読書を教えたり訛りを直したりする師弟の関係であった。それは不幸な閲歴であっても、相沢が激賞していたすぐれた人格性を改めて証明するものであった。だから、エリスとの関係は社交界でことさらに華やかに活躍することと矛盾するどころか、「却りて他の凡庸なる諸生輩を罵りき」とあるように他の留学生よりもエリートとして優れていることの証明になっている。
 豊太郎には出世の意志はない。出世に対する執着は昇に劣らぬほど根深いが、決してそれを意志として示さない。しかし、エリスとの関係を出世に矛盾しないどころか、他の留学生より出世にふさわしいものとして説明している。そこに出世に対する内的な遠回りな意志が表れている。豊太郎のエリート的な資質を見抜く力を持っている相沢が豊太郎の内的な意識を言葉にする役目を持っている。相沢は第二の豊太郎である。
 「されど物語の畢りし時、彼は色を正して諌むるやう、この一段のことは素と生れながらなる弱き心より出でしなれば、今更に言はんも甲斐なし。とはいへ、學識あり、才能あるものが、いつまでか一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活をなすべき。今は天方伯も唯だ獨逸語を利用せんの心のみなり。おのれも亦伯が當時の免官の理由を知れるが故に、強て其成心を動かさんとはせず、伯が心中にて曲庇者なりなんど思はれんは、朋友に利なく、おのれに損あればなり。人を薦むるは先づ其能を示すに若かず。これを示して伯の信用を求めよ。また彼少女との關係は、縱令彼に誠ありとも、縱令情交は深くなりぬとも、人材を知りてのこひにあらず、慣習といふ一種の惰性より生じたる交なり。意を決して斷てと。是れ其言のおほむねなりき。」
 相沢は俗なエリートの常識を高い教養のごとくに説明している。豊太郎はこうした常識のレベルにも達していない点で若く純粋である。豊太郎の客観的な立場を教え、豊太郎の迂闊さを正して本来のエリートの道に連れ戻すのが相沢の役目である。この作品は、俗なエリートの常識とそれ以下の意識の対立と信頼関係を主な葛藤として描いている。豊太郎がエリスと関係を持ったことは、学識あり才能がありながらその意義をしらない、エリートの自覚を欠いた無分別である。豊太郎は自分の能力に課せられた使命もエリスとの関係の意味をも意識せずに純朴に振る舞っていた。つまり、豊太郎とエリスは身分の違いの意味を知らなかった点で若く純真であった。鴎外は豊太郎の若さを出世に矛盾するものとしてではなく、出世の可能性に満ちたすぐれた、しかしそれを自覚していないみずみずしい自我として描いている。
 豊太郎と相沢は価値観において対立するのではなく、豊太郎が自分の学識と才能の意義を自覚していない点で相沢と違っている。豊太郎はこの時点で自分のエリート的な資質がエリスの世界と交わりえないことを教えられた。ここで豊太郎の葛藤の質が明らかになる。相沢と豊太郎は同じ世界におり、同じ価値観の中で対立している。鴎外が想定できるのは、また鴎外の関心はこの内部的な対立だけである。この対立がエリスとの関係に現象する。豊太郎とエリスの関係は、豊太郎と相沢の関係によって、それを基礎として、それに規定されたものとして初めて理解できる。
 相沢はエリスを別世界の人間と考えている。豊太郎はエリートの地位とエリスを対立的に考えておらず、相沢ともエリスとも無心に信頼関係をもっている。相沢は豊太郎の価値を認めているが、豊太郎がエリスとの関係を持った点で、またエリートの意識を明確に意識していない点で豊太郎と対立している。豊太郎にとっては、相沢に認められるかどうかは、エリートとして復帰できるかどうかの岐路であり、相沢とのこの対立を解消しなければエリート社会に復帰できない。といっても価値観において対立するわけではなく、無自覚のためにエリスと関係をもったことだけが問題であり、エリスとの関係を解消すれば解決する問題である。すべてのき資質において相沢に高く評価されているがエリスと偶然かかわったことだけが解消されるべき課題である。エリスとの関係を選択すべきかどうかが豊太郎の葛藤であれば相沢との対立が意識されるはずであるが、それはまったくない。相沢との瑣末な対立を解消する為にエリスとの関係を絶つことが豊太郎の具体的な課題である。

 現実認識のレベルは相沢の世界とエリスの世界の対立関係をいかに深く具体的に認識できるかに集約できる。鴎外はエリート世界とエリスの世界の対立を相沢の常識的な説明のレベルで認識している。つまり、エリートにとってエリスの世界は意識する必要のない、遠く分離された世界である。豊太郎の弱点はエリスとかかわりを持ったことである。鴎外はエリートの世界とエリスの世界の対立にも関係にも関心はないし、認識する能力もない。エリスの世界は深くかかわってはならない世界として、せいぜいエリートの優位を確認する世界として認識されるにすぎない。エリスとの関係は同情によって不必要に生じたものであって、解消されるべきものとしてのみ意識されている。エリスに対する同情が豊太郎のやさしさであるとしても、エリートの職分を尽くすにはそれを断ち切らねばならない。
 このようなエリート的現実認識を持っている鴎外にとって、エリスと別れることは前提である。その上で、エリスとどのように別れるかという課題は、エリスに対してどのように弁明し、エリスに対してどのように責任を取るか、ではなく、エリートとしての体面、品位を損なわないように、エリスにたいしていかに愛情ないし同情深く、純朴な青年であり続けながら別れるかである。鴎外は俗なエリートの意識を超えるのではなく徹底している。捨てることを前提に、貧しく美しい少女に対する同情を契機に自分に対する愛情を俗物らしい満足をもって描いているために、それをいかに美しくロマンチックに描いても、というより描くほど虚偽になり、偽善になる。
 鴎外は相沢の説明と同じ価値観を持っている。この価値観を超えることができない鴎外にとって、この価値観と対立する純朴な青年として、この価値観をまだ知らない、しかしその価値観にふさわしい青年を描くことが能力の限界である。エリスを捨てることを前提としてエリスに対していかに深い同情や愛情を描くかという鴎外の純粋で単純な関心は、鴎外の限界を超えてエリスを捨てることに対して批判的な意識を持つ立場には、エリスを捨てるにあたって、いかに相沢や天方伯に面目を保ち、弁明できるか、あるいはエリスに対していかに弁明するかというねじれた意識に見える。豊太郎はエリスとの関係を生じたために、天方伯や相沢との関係に生じた溝を埋めなければならない。したがって、作品としての問題は、この溝を埋める方法、展開をいかに深い葛藤として描くかであるが、そのためには埋めなければならないその溝をいか深く描くか、であるが、鴎外の作家としての基本的な弱点はこの溝、対立をまったく想定できないことである。豊太郎と天方伯・相沢の対立が浅く軽薄であるほど、この溝を埋めるための葛藤が浅く軽薄になり、作品の内容が浅く軽薄になるし、実際に軽薄である。エリスとの関係でいえば、相沢との関係に対立や葛藤を引き起こすことなく簡単に捨て去るということである。
 この作品の特徴を簡単に表現すればありもしない葛藤を深い葛藤のように描いていることである。それが品行方正なエリートらしい葛藤である。エリスとの関係は捨てることを前提としていかに深い関係であるかを描くという矛盾を持っている。そのために臆病な、弁解染みた、煮え切らない、且つ横着で冷酷で自惚れた、人生を弄ぶような個性が生まれる。別れることを前提にしていながら積極的であろうとし誠実であろうとし、またそれが可能であるとも、実践されているとも思っている。漱石が「彼岸過迄」で「卑怯」と名付けた精神である。他方、天方伯や相沢との関係でも積極的でないし誠実でもない。それは、エリスとの関係や別れ方という下らない問題を主な関心としており、エリート本来の積極的な意志を持たないままに信頼されようとするからである。小説であるからこのような個性がエリスにも相沢・天方伯にも信頼されると想定することはできる。しかし、具体的には信頼関係を描くことはできず、豊太郎はすべての場面において自己保身的で、不誠実な性格を露呈している。しかし、鴎外は豊太郎を誠実で純真な人物として描いており、そこにあらわれた不誠実や卑劣を認識することができない。豊太郎は信頼関係を形成できないばかりでなく、自己保身において人間関係を破壊している。客観的には豊太郎は誠実を演出し、苦悩を演出し、葛藤を演出しているだけであり、その精神は空虚である。何らの苦悩もなしに文士的に作り出された空虚な葛藤である。

 批評は豊太郎の偽善や空虚を理解できないばかりでなく、ここに深刻な歴史的な矛盾を持ち込む。それは批評の意識が相沢の世界とエリスの世界の対立の意味を、つまりは歴史的な自我の形成の過程を理解していないこと、特にエリスの世界にまったく意識が届かないことを証明している。批評自身がエリート的な空虚な葛藤を超えることができないために、エリスの世界に対して抽象的に高い評価を与える場合でも豊太郎に歴史的な自我の形成や挫折を認めるのである。それが歴史的な葛藤だと考えることは鴎外の単純な認識を基礎にした歪んだ現実認識である。豊太郎の人格性はエリスの世界に接触する場合は、自分がその世界にふさわしくないことを印象づけることにおいて肯定されており決して一致することはない。したがって、エリスとの関係は豊太郎のエリート的な意識になんら影響を与えることはなく、甘い感傷として痕跡を残すだけである。そのために感覚的にエリスを肯定する読者には、豊太郎の精神は近代的自我としてではなく、ややこしい、理解しにくい、しかし、どう見ても冷淡で残酷で、不誠実で、偽善的な印象を与えるのである。
 結果として豊太郎はエリスを捨てることになる。しかし、豊太郎にはエリスを裏切ろうとか裏切ってもよいとか、二つの世界を比較していづれを選択しようなどという意識は一度も生まれなかった。豊太郎にはもともとエリートの世界を否定してエリスの世界を選択する意識などないから、エリスを出世の犠牲にするという悪意は生まれようがない。出世とエリスとの関係の対立を意識してエリスとの生活を選択したのであれば、一時的であっても出世の意志の挫折でありエリート世界に対する裏切りであるか堕落である。しかし、鴎外も豊太郎もそうした曲折を想定する力量を持たない。エリスとの関係においてエリート世界を否定する意識はなかったし、エリスに対する関係や感情もそのようには描かれていない。讒訴による偶然的な不幸があったが、精神や価値観におけるエリート世界との対立は生じなかった。むしろ、失職によって一層エリートらしくなったことがエリスとの関係での成果である。だからエリートの世界への復帰はエリート世界を一度捨ててエリスを選択し、再びエリート世界を選択するという葛藤を持たない。豊太郎はエリスとの関係に決して積極的な意志を示さず、深い関係を持つことができず、その結果として裏切るという意識を持たない。弁明の必要も生じない。つまり単純な偶然的な理由で分離されることは、単純な偶然的な理由で関係がはじまったことに、さらにそれ以上に関係は深まらなかったことに対応している。
 エリスとの分離の説明はあまりに偶然的で単純で無意味である。だから、それを読者はばかばかしく下手くそな弁明であると感じる。しかし、それは弁明ではなく鴎外や豊太郎にとっては可能な限りの愛情や信頼の表現である。エリスに対して残酷でありながら裏切りの意識もないし、自分が残酷であるという意識もないために、それは弁明に見える。少なくとも葛藤があるように、あるはずだと思われる。しかし、何の反省もなく、どんな深刻な苦悩もなく、エリスに対して豊太郎としてできる限りの愛情を持ちつつ、エリートとしての自己を形成することが豊太郎の本質的な、鴎外にも豊太郎にも認識できない弱点である。
 この作品がエリスに対する弁明であると理解するのはこの作品に対する不当に高い評価である。鴎外にとっては、エリスに対する同情を持つと同時にエリートの資質を失わないことがすぐれた個性である。エリートとしてもエリスとの関係においても豊太郎は汚点を残したのではなくて最大限の長所を発揮している。それをエリスに対して残酷に対処し、さらにそのことについて弁明していると批判することは誤解であるし濡れ衣であるし、鴎外の精神をより高度に理解することである。
 鴎外が豊太郎をどのように理解しているかということと豊太郎が実際にどのような個性であるかはまったく別の問題である。鴎外にとって純粋とか有能とか誠実等々に見える豊太郎の客観的で本質的な特徴はエリスとの関係に表れる。それは、豊太郎がエリスに深くかかわることができないこと、さらに一般に深い信頼関係を形成できないことである。換言すれば、エリートの価値観においては、特に問題にすべくもないエリスとの関係をことさら美しく解釈しようとする、扱いにくい面倒な若者である。要するに、貴重な留学時代に「一少女の情にかゝづらひて、目的なき生活を」過ごしたことは、語学力だけでは回復できそうもない情けない経歴であるし、ましてそれを弁明することに神経を使うことはすでに精神の歪みと力量の欠如を意味している。エリート世界においても堕落している豊太郎をエリスの世界に結び付けようとするのは批評がどれほど努力してももともと無理であったし、俗物批評家がエリスとの関係において豊太郎を弁明することは批評の自己弁護であるとはいえやはり無駄な努力であり、無力の表明でもあった。
 明確な出世の意志を持たずに出世する豊太郎は天方伯や相沢に対して卑屈であると同時に自惚れた歪んだ個性になる。エリスとの関係をエリートの価値観の限界内で肯定的に説明することは、相沢や天方伯に対して、エリスとの関係を端的に否定する率直さを持たないことを意味している。豊太郎は自己のすべてを隅々まで肯定せずにいられないほど臆病である。単純に否定すれば足りるエリスとの関係を、エリート的な価値観においても肯定されるように解釈しようとする無駄な努力は、くだくだしい弁明や、自分の判断を示さない煮え切らない態度や、事態の展開に自分の刻印を押さない無責任等々の特徴を持ってくる。エリスとの関係を純朴さとして解釈する要点は、関係の形成においても分離においても自分の意思を否定することである。単純に言えばすべてを状況や人のせいにすることである。意志を否定することで自分の言動や人間関係において純朴さを主張することは、自分の言動の結果を状況や他の意志によって説明することであるから、誰に対しても、自分自身に対してさえも、どんな事柄においてもどんな場合においても誠実にも率直にもなれないことである。豊太郎はすべてにおいて自己を肯定するために、すべての現実認識が自己弁護の形式をとり、他に対して決して誠実であることができない。豊太郎はエリスを捨てることに自分の意志を刻印することなく、天方伯や相沢の意志によってエリスと分離される形式をとる。この横着なやり方は同時に天方伯や相沢に対する卑屈さになる。豊太郎が天方伯や相沢の意志をことごとく受け入れながら、それを積極的な意志によってではなく、弱いこころのために押しつけられるという形式をとるからである。特に深い関係でもないエリスと別れることすら天方伯や相沢の意志、運命のせいにするとはなんと無駄な努力をする自我であることか。
 「貧しきが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言に從ひて、この情縁を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり。」
 このようなエリート的価値観を理解するのは容易でない。エリスとの関係を絶つと相沢に約束をしたことを、「余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり」という言葉で、つまり友情につきうごかされやすい弱さのために、深くも考えずに約束してしまった、という説明はエリスに対する弁明としては露骨で卑劣すぎる。鴎外にとってはこれはまったく逆にエリスに対する可能な限りの愛情の表現である。豊太郎がここで相沢に対する友情だけを問題にしているのは、エリスとの関係を絶つと約束したとしても、決してエリスを捨てる意志はなかったと言いたいためである。鴎外にとってはこれがエリスに対する誠実さである。と同時にそれは相沢に対する友情の強調でもある。
 相沢に対する友情によってエリスを捨てる意志を覆い隠す豊太郎のやり方は、エリスと相沢の両方にに対する不誠実である。しかし、本質的にはここでも何も覆い隠されているのではない。エリスとの関係で言えば、エリスに対する裏切りの意志はないのであるから豊太郎の友情はエリスに対する裏切りの意志を覆い隠しているのでも弁明しているのでもない。豊太郎が友情によって覆い隠すことになっているのは、豊太郎が決してエリスを愛したことはなく、深い信頼関係を形成したことがないことである。豊太郎がエリスを捨てるにあたって、相沢への友情を利用することが、エリスに対する弁明やごまかしであるかのような印象を与え、鴎外の意識しない思いがけない効果として、エリスに対する愛情を想定させる、というのが正しい順序である。鴎外はエリスに対する愛情を表現したいのであって、裏切りを隠したいのではない。
 鴎外ないし豊太郎の意識はエリート世界の限界を超えない。鴎外が想定しうる本質的な対立は、エリスとの関係を持つことによる相沢との対立である。豊太郎とエリスの関係は、相沢と豊太郎の関係に規定されている。豊太郎とエリスの関係は豊太郎と相沢の関係の限界内にある。そのすべてを豊太郎に捧げているエリスの運命は、相沢と豊太郎の関係、相沢に対する豊太郎のつまらない気遣いに左右されている。エリス自身の言葉も運命も相沢にたいする豊太郎の心理になんら影響を与えない。エリスのために富貴を否定するのは、富貴の否定が現実的な意味を持たないからにすぎない。エリスとの関係は相沢との関係の反映としてのみ理解できる。
 したがって、相沢との関係の質がエリスとの関係に現れる。相沢は豊太郎とエリスのごくつまらない関係を理解し、高く評価する人物として想定されているばかりでなく、豊太郎に対する高い評価と信頼によってエリスとの関係を解消する役目を果たしている。そしてこの点で相沢は高く評価されている。相沢もまた、エリスとの関係を肯定的に評価する人物として描かれている点でエリスとの関係に規定されている。つまり、相沢は豊太郎のくだらない性格と言動を高く評価し、その点でのみ豊太郎との人間関係を形成している。豊太郎にとって、相沢は、エリスとの関係を肯定的に評価する良き友人であることで信頼関係とするのであるし、エリスとの関係は、豊太郎の出世に何の影響も与えないことにおいて純粋で愛情深い関係になる。友情も愛情も常識では考えられないほど極端に狭い限界の中におかれているために顕微鏡的に分析しなければその本当の姿が見えてこないのである。
 豊太郎はエリスとの情縁を断つと約束してもエリスに対する愛情を捨てる意志は持たなかった。この約束に表れたのは相沢に対する友情である。豊太郎はエリスと別れるにあたっても友情だけを持ち出して富貴を否定した。そこに偽りはないし、あるはずがない。相沢が富貴よりも大事な友人であるのは、相沢がエリートの世界に引き上げてくれるからである。相沢を肯定することは富貴を肯定することであるからこそ、富貴も大臣も否定できる。だからこの深い友情は富貴の肯定とエリスの否定を含んでいる。豊太郎と相沢の友情はこんな下らない意義しか持たない。

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