『舞姫』  4


 豊太郎は相沢との約束の後「心の中に一種の寒さを覚えき」と書いている。ここに深刻な葛藤を想定してはならない。ここで肝心なことは、明確でないこと、「一種の寒さ」であって、自分の約束がなにを意味しているかをはっきり認識していないこと、捨てる約束をしたこととエリスを捨てる意志がないことの関係を明らかにしないことである。情縁を絶つ約束をしながらエリスに対する裏切りを意識しないのは、ごまかしにみえる。一種の寒さなどと言わず、エリスを裏切った良心の痛みであることをはっきりさせるべきであろう、と思われる。しかし、豊太郎に裏切る意志がないことは作品全体に一貫した前提であるから、そのような痛みや葛藤を想定することは許されない。豊太郎にエリスを捨てる意志がないという前提では、ここで明らかになる豊太郎の特徴は、この約束が何を意味しているかを理解できないことである。エリスに対しては、情縁を絶つ約束をした事を「友に對して否とはえ對へぬが常なり」という自分の性質によって説明することができる。このような約束の意味をエリスに対してうまく説明することはできるものではないが、豊太郎はエリスとは別れるのであるし、エリスとの信頼関係を形成する可能性も意志ももたないからエリスに対して合理的な説明ができているかどうかは何ら問題ではない。しかし、こんな説明では不安が残る。この約束にはエリスに対する裏切りと同時に相沢に対する責任転嫁という人間関係の崩壊が含まれている。エリスを捨てることを「友に對して否とはえ對へぬが常なり」という性質で説明する事には、エリスや相沢に対するあまりにもはっきりした不誠実と卑劣が含まれているから豊太郎でも一種の寒さを覚えるであろう。実際、このような約束の仕方や、その約束の説明がどのような意味を持つかが明らかにされ、それが一般的な理解になれば、鴎外にとっても「一種の寒さ」ではすまされないであろう。
 豊太郎のこうした漠然とした不安は、エリート世界に復帰する過程での一時的な、自分でははっきり認識できない不安であり、その本質や弱点がどのようなものであろうとエリート世界での汚点になるかどうかの葛藤としてのみ生じているから、豊太郎がエリート世界に接触することで簡単に解消される。「飜譯は一夜になし果てつ。」という言葉には得意と自信があふれている。その得意と自信は、相沢に対してくだらない約束をし、それを気にしている豊太郎らしくごく幼稚である。愚かで真面目で成績のいい、本当の自信を持てない坊ちゃんの不安であり満足である。鴎外はここで天方伯にも他の留学生を批判させることで豊太郎を高めようとしている。「折に觸れては道中にて人々の失錯ありしことどもを告げて打笑ひ玉ひき。」と。それ自身における能力の肯定として語学しかなく、それにエリスとの関係の品行方正を付け加えても全体的能力を肯定するにはまだ足りず、他人を貶めることが自己肯定の方法として自然に、繰り返し出てくる。しかも豊太郎を引き上げるために他の留学生を貶める必要がある豊太郎は同時に天方伯を非難好きの豊太郎のレベルに引き下げているのである。
 一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亞に向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、其爲し難きに心づきても、強て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屡々なり。
 ここまでくると豊太郎の精神の破綻ははっきりしてくる。どんな手段をつかってでも自分の純粋性を保とうとしていた豊太郎も、いよいよエリスを棄てる時が迫ってくると、小の恥で大の恥を濯ぐくらいの覚悟をしないわけにいかない。豊太郎は立場と必要にかられて、つまり彼の本性として、天方伯に対して極端に卑屈な態度をとっている。それはにとっては可能な限りの敬意の示し方である。それは信頼関係にならない。豊太郎がいかに天方伯に平伏しても天方伯の人間的な価値を信頼しているのではない。天方伯の不意の言葉に、「いかで命に從はざらむ。」と応えるのは無条件に卑屈であると同時に、天方伯の意志をエリスを捨てる意志として利用することである。天方伯の意志に無条件に従うことが、天方伯に対する忠誠であると同時にエリスを捨てる手段でもあるという好都合は、実際は両方の信頼関係を裏切る自己保身である。
 しかも、この返事は、とっさの、無意識的な返事としては先の見通しが効きすぎているし、「さてうべなひし上にて、其爲し難きに心づきても、強て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屡々なり」というのはとっさにしては冷静でいきとどいた説明である。豊太郎はなぜ、率然ものを問われたときに、「其答の範囲を善くも量らず、直ちにうべなふことあり」という自分の弱点を恥としてここで披露しなければならないのか。この答えの範囲を知ることが必要であることを知るのは、あるいは、この答えの範囲を知らないことの意味を知ることができるのは、この答えの「範囲」を知っている豊太郎だけであろう。天方伯が問題にしているのは「魯西亞」に行くかどうかである。「いかで命に從はざらむ。」という豊太郎の答えに含まれる「其答の範囲」というのは、ロシアに行くことが天方伯の信頼を生み、そのためにエリスを棄てることになるだろうということである。こんなことは誰も知らない。天方伯の突然の言葉に応じたことがエリスと別れることを範囲として持っているなどと考えつくのは豊太郎だけである。ロシアに行くこととエリスを棄てることは直接結びつくものではなく、偶然が重なってエリスと分離されることになるのであり、豊太郎はその偶然の犠牲になったと主張することで純粋性を維持する。豊太郎はその結びつきを「範囲」としてここですでに意識しているばかりでなく、その範囲を「耐忍してこれを実行すること」までも「我耻」として披露している。範囲を知らずに返事をしてそれを実行したとしても、その内容に問題がなければ耻にはならない。豊太郎はこの返事の範囲を知り、それが恥であることも知っている。鴎外はここで豊太郎の耻を表にだして後の耻を予防したのであるがそれが耻の予告になっている。しかし、伏線を引かないわけにもいかない。でなければ次の偶然が不自然になる。やはり偶然を地道に積み重ねて、どこが破綻しているかを分かりにくくするのが几帳面で地道で周到で執念深い鴎外のやり方である。しかし、基本的にもともと破綻しているのであるから、どれほど破綻を分かりにくくするかの技術の問題であって破綻をなくすことが課題ではない。もともとこの種の課題は真剣ではあり得ず、エリスを捨てることを外面的にでも美しく描ければそれで十分なのである。
 「この日は飜譯の代に、旅費さへ添へて賜はりしを持て歸りて、飜譯の代をばエリスに預けつ。これにて魯西亞より歸り來んまでの費をば支へつべし。」
 豊太郎は弁明において非常に繊細であるが、自分の価値観を率直に書く場合は非常に露骨である。「旅費さへ添へて賜はりしを」には天方伯に対する本能的な卑屈さがあらわれているし、ロシアに行っている間の生活資料を渡すことでエリスに対する誠実さが十分に果たされると考えるエリート官僚らしい感覚も現れている。出会いの時も別れの時も実践的にはエリスに対する誠意は金銭的援助で果たされている。豊太郎の誠実さの現し方はそれ以外にないしそれ以上のことを鴎外は考えていない。エリスも「偽りなき吾が心を厚く信じたれば」と想定されている。
 こうして、エリスとの分離を半ば達成して、つまり天方伯との信頼関係を確定して、鴎外は「鐵路にては遠くもあらぬ旅なれば、用意とてもなし」などという無駄な文章をだらだらと書き込んでいる。なんとしても華やかな世界で活躍することが鴎外にとっては得意で、それを押し隠すことはできないし、無論隠す必要があるとも考えていない。エリートとして社交的な場所で目立つことに何の疑問も持たず、その世界に入れること自体に全霊的満足を示している。
 鴎外、豊太郎の関心は豊太郎自身にある。自分がロシアでいかに華やかなに活躍したか、エリスとの関係ではいかにエリスに愛されているか、社交界にとってもエリスにとってと同様にいかに自分が重要であるか、自分がいればいかに社交界は華やかになり、自分がいなければいかにエリスは悲しみ寂しくなることか、これが豊太郎らしい自己満足である。とはいえ、鴎外には豊太郎の華やかな活躍やエリスの深い愛情を描写することはできない。華やかであった、愛されたと説明するだけである。能力としては語学に堪能であること、エリスとの関係では、「縱令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ」とか「縱令いかなることありとも、我をば努な棄て玉ひそ。」という、棄てることを前提としているエリートが想像しそうな、豊太郎の優位を確認する単純な心情だけである。エリスの悲しみの内容は豊太郎が人並み優れているために自分から離れるのではないかと危惧する点に限られている。豊太郎は自己にのみ関心を持ち、相沢をもエリスをも自己との関係においてのみ、しかも自己の優位、自己の肯定の観点からのみ理解している。豊太郎が相沢に対してもエリスに対しても不誠実でありながら、自分が相沢にもエリスにも信頼され愛されていると空想しているのは、豊太郎自信の感情のレベルの低さを示している。このような関係や感情を信頼や愛情だと考えるのはそれ以上の関係や感情を知らないし空想すらできないことを意味しているからである。
 豊太郎の人格の内容はエリスと別れることを主目的として展開されており、別れる精神のあり方であるから、別れる間際にもっともその面目を発揮する。豊太郎はエリスを捨てるにしても捨てる意志を持たない。この不必要な屈折のための重要な条件として自分の言動の客観的な意味を認識しない、という特徴がある。しかし、事態の進展によって自分の言動の意味を知らないと主張しつづけることは困難になり、そのなかでなお人格性を保つための解釈や方法が発達し、その人格性の意味を明らかにしていく。
 豊太郎は相沢に、自分の能力にふさわしくない少女と情縁を結んでいることを知らされた。さらに、エリスの手紙でエリスもそうした危惧をもっていることを知らされた。そこで初めて、自分がただ直面することを忠実に果たしていたことの思いも寄らない結果に気づいた、としている。「嗚呼、余はこの書を見て始めて我地位を明視し得たり。耻かしきは我が鈍き心なり。」と。さらに、この作品のクライマックスとも言える、しかも俗物インテリが豊太郎を擁護するためにたびたび引用する、手の込んだ、徹底した俗物でなければ思いつかないような、徹底した俗物であれば自然に沸いてくるような説明が続いている。
 「大臣はすでに我に厚し。されどわが近眼は唯だおのれが盡したる職分をのみ見き。余はこれに未來の望を繋ぐことには、神も知るらむ、絶えて想到らざりき。されど今こゝに心づきて、我心は猶冷然たりし歟。先に友の勸めしときは、大臣の信用は屋上の禽の如くなりしが、今は稍々これを得たるかと思はるゝに、相澤がこの頃の言葉の端に、本國に歸りて後も倶にかくてあらば云々と云ひしは、大臣のかく宣ひしを、友ながらも公事なれば明には告げざりし歟。今更おもへば、余が輕率にも彼に向ひてエリスとの關係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
 嗚呼、獨逸に來し初に、自ら我本領を悟りきと思ひて、また器械的人物とはならじと誓ひしが、こは足を縛して放たれし鳥の暫し羽を動かして自由を得たりと誇りしにはあらずや。足の絲は解くに由なし。曩にこれを操つりしは、我が某省の官長にて、今はこの絲、あなあはれ、天方伯の手中に在り。」
 豊太郎は自分の認識能力の拙さを認めることで道徳的に自分を守れると思っている。自分がどのような位置にいるかを知らなかったことを素朴だとか純粋だとかせいぜい軽率という程度の弱点だと考えている。「鈍き心」というのは、自分の能力が相沢や天方伯に認められるほどに優れていることに気がつかなかったということであるから、何ら弱点にならないと考えているのであろう。豊太郎の関心はエリートの地位にさしさわりのないようにエリスと別れることであるから、それさえ達成されれば満足であるから、その過程で明らかになる他の特徴に対して無防備である。エリスと引き裂かれるほど自分の能力がすぐれているとは知らなかったという説明は、エリスと別れることが自分の能力の証明であるから一石二鳥の厚かましい展開になっているが、そのために失うものは遥かに大きい。自分の能力や言動が社会的にどんな意義を持っているかを理解できないことは、積極的な意志がなく、責任能力がなく、全体として社会的に無能であることの証明である。豊太郎は自覚なしには社会的な能力を獲得することも発揮することもできないことを知らないほどに無知であり、社会的能力を獲得した経験なしに能力を誇っている。豊太郎の主な関心がエリスを人格的に捨て去るというつまらないことに限定されているために、社会的な役割や使命について無自覚であることの意味が理解できず、それを謙虚さであるかのように解釈しているのである。
 「大臣はすでに我に厚し」の「すでに」のというのは自分の能力が表に現れ、知らない間に信頼されてしまってはどうにもならないという意味である。信頼される意志も努力もせずに天方伯に「すでに」信頼されてしまうことはないであろう。豊太郎は、能力に任せて目先の仕事を片づけていたら大臣に信頼されてしまった、なんという運命のいたずらであろう、自分の運命は天方伯に握られてしまった、そんなことになろうとは、またなってしまっているとは夢にも思わなかった、という。豊太郎は自分の有能さに驚いているが本当は無能さに驚かねばならない。信頼されるための明確な意識や堅固な意志をもたずに信頼されることはない。信頼される意志もなく、エリスを人格的に棄てることにしか興味がないような若者は信頼に値しない。石橋忍月が感じた矛盾は、こうした優柔不断な、明確な意志を持たない、無責任な若者が大臣に信頼されて帰国することであった。

 豊太郎は、自分は自分が思っていた以上に有能であったがために、思いも寄らず信頼され、望んでいたわけでもないエリートの運命を押しつけられてしまった、という、できの悪すぎる屁理屈をこねつつ出世しようとしている。鴎外は消極性が無能を意味する事を理解できず、消極的であってもエリスには愛されるし天方伯には信頼されるというのが特別に優れた資質のあり方だと思っている。エリスに愛される事もエリスと別れる事も天方伯に信頼されることも豊太郎の意志や欲望によるのではなく、ただ純粋素朴に生きていても優れた資質をだれも放っておかないという、自己保身的な俗物らしい夢想である。この愚かな夢想の世界では、エリスから豊太郎引き離す事情は豊太郎を肯定すると同時に犠牲にしている。豊太郎のすぐれた能力、資質が外界の事情によって、豊太郎の意志や意図をこえてエリスと自分の関係を引き裂いているのであるから、豊太郎は犠牲者として大いばりで嘆き悲しむことができる。豊太郎の場合はエリスと別れる運命が自分の能力を証明し、出世を確定して豊太郎に利益をもたらす。エリスを捨てることになってしまった、という嘆きは、自分がエリスにふさわしくない、もっと華やかな世界にふさわしい人間であった、という喜びでもある。エリスを捨てて悲しむ方が、天方伯から捨てられて悲しむより甘味である。
 豊太郎はこうしてエリスと引き裂かれることにおいて自分を肯定する。エリートの人生としての汚点であるはずのエリスとの関係を自分の長所の証として説明できた。豊太郎の反省や悲しみには心からの喜びが隠されているためにロマンチックで甘ったるい。それは一部の批評家や学者を除いて誰もが感じることであるが、こうした周到で几帳面な虚偽が、鴎外の現実認識に伴う無意識的な虚偽の上に積み重ねられているために、それが偽善的で甘ったるく自己弁護的で、冷酷であると感じても、実際にどうなっているのかを明らかにすることはできず部分的な批判がされてきただけであった。むろん、鴎外と同じ価値観を持っている場合は、すでに十分に積み上げられた虚偽に不自然なほどの虚偽を積み重ねることになるだけで、豊太郎の意識の構造を明らかにする課題など生まれないし、鴎外がなにを描いているのか、自分がそれをどのように解釈しているかを理解することもできないのである。
 鴎外は悪意はむろんのこと積極的な意志、欲望を持たない事を弱点とは認識できない。逆に優れた資質にも関わらずそれを自覚していないことが、純真さとして能力に上乗せされて、それが無意識的な効力を発揮して他人に愛され信頼されると信じこんでいる。このような価値観によって豊太郎を肯定的に描写しようとしている鴎外には豊太郎の主観に二重性や虚偽を想定する事はなかったし、それを隠す必必要もなかった。だからこの作品のどこにも豊太郎の偽善や虚偽や弁明を指摘することはできない。エリスと別れることになっても、豊太郎には別れる意志も、別れてよかったという意識もなく、エリスに対する愛情を持ち続けて、別れを悲しんでいる。豊太郎としてはエリスに対して誠実を尽くしている。しかし、問題は鴎外が想定する信頼が自己保身を意味しており、平凡な信頼関係のレベルにすら到達できないことである。悪意や否定的な感情を持たないことは信頼関係の十分な条件ではあり得ない。この作品には悪意を持たないことが信頼関係を崩壊させる一つの意識形態であることが示されている。客観的には豊太郎はエリスとも相沢とも天方伯とも信頼関係をつくり出すことはできず、 信頼を破壊しつづけている。それにもかかわらず、鴎外はその過程を信頼を形成し豊太郎の評価を高める過程だと信じて描いているために無意識的な二重性が生じているのである。愚かしい、信頼関係を破壊する言動と、それが誠実さや純朴さの表現であり信頼関係の形成であると思い込んで描写していることの二重性である。
 エリスと豊太郎を引き裂くのは豊太郎の能力である。それを高く評価することでエリスと豊太郎を引き裂くのは相沢である。豊太郎にも相沢にも悪意はない。豊太郎は相沢に対する友情に忠実で、相沢の行動は豊太郎に対する信頼と善意と正しい判断を示すだけである。エリスに残酷な運命を押しつけながらすべてが善意で塗り固められている。鴎外は相沢に責任をなすりつけるほど軽率ではない。鴎外は天方伯や相沢との対立や分離を意識する領域に踏み込む能力を持たない。この本質的な臆病が自然にエリスを捨てることの弁護の形式になる。相沢を非難すれば責任の所在を明らかにしようとする契機になる。本当に相沢なのか、それとも豊太郎の責任ではないのかと。そうした契機のすべてを曖昧にするのが鴎外の本能的な周到さである。それが周到に行われれば、つまり豊太郎からも相沢からも悪意を消し去り、責任を消し去れば、エリスの犠牲はエリス自身の責任であるか偶然的な不幸になる。こうして完璧に純粋で誠実であるという外観を整えることがどれほど偽善的であることか。どのような言動においてもエリートらしい品位を守ることにおいて厳格であること、自分が誠実でありつづけるという形式にのみ意識が集中している豊太郎は全体として、一貫して、その誠実さの内容そのものが、常に責任逃れであり不誠実である。
 豊太郎は自分の意志と、自分の資質による運命を分離することで、自分の出世を犠牲として意識する。こうした手の込んだ屁理屈は積極的な意志や責任感をもたない人間の自己認識である。この分離を、したがって出世することが意志に反した犠牲であるという嘘を理論化すると、豊太郎は天方伯と対立していたが対立し切れなかった、内的に対立しているが結果として従ったと解釈して近代的自我の挫折となる。豊太郎の純粋さと誠実さを信じて疑わない批評は、エリスを捨てることが豊太郎の弱さとして、つまりは犠牲として解釈され、天方伯のあやつる糸の犠牲になったという描写が重視される。貧しいエリスを捨てて大臣に信頼されて出世していくとはなんと哀れな青年であろうということである。出世も手に入れるし、人格にたいする高い評価も得るというのが鴎外の本来の狙いであったから、批評が豊太郎に歴史性や悲劇性を認めるのは、たとえそれが不十分とか挫折とかいわれても、出世は実質的に手に入れるのだから十分満足できる評価であろう。
 批評の解釈とまったく違って、この作品には豊太郎の資質が豊太郎の表面的な意志をも超えて天方伯と一致していたという、より深い一致が想定されている。この作品の非現実性は天方伯とのこの一致の想定である。エリスとの一致も非現実的な想定である。豊太郎が優れた資質をもっているために愛され信頼されるという想定が非現実的である。その非現実性は愛情や信頼の具体的な描写が愛情でも信頼でもないことに表れている。それが理解できなければ、豊太郎を肯定したうえで挫折だとか悲劇だといった言葉を並べても無駄である。天方伯との多少複雑な関係を理解するには、現象形態としてまず豊太郎が誠実さのない責任感のない、自己の弁解にのみ関心をもつ無能な人間であることが直観的に理解されねばならない。その場合には、あたかも自分が天方伯の犠牲者になり操られているように解釈することがどんな意味をもっているかを明らかにする課題が生ずるし、その課題を解決することはそれほど困難ではない。そしてここで重要なのは、こうした複雑で曖昧な信頼関係そのものが現実には存在しないことである。ここに描かれているのは、責任を逃れることを主な目的としている豊太郎に必要な空想的な信頼関係であるから、忍月が感じていたように、天方伯に信頼されること自体が非現実的であり、忍月は気がつかなかったがエリスとの愛情、信頼関係はいっそう非現実的で空想的な作り事である。この作品全体に描写されているは、信頼関係や愛情が欠如している人間関係の展開や精神、感情のあり方の見本である。
 自分の運命が天方伯に操られていると観念したからには、自分に対する相沢や天方伯の信頼によってエリスと分離されると説明したからには、自分の意志なしにエリスを捨てることはっきりさせたからには、豊太郎はエリスを捨てることをはっきりした目的として行動する。豊太郎としては当然別れるべき関係にあるから別れないための対策はもともと問題にならない。こうした前提をこしらえた上で、鴎外はエリスの豊太郎に対する愛情を満足げに描いている。といっても自己保身的で愛情というものを知らないために、「唯だ此一刹那、低徊踟ちゅうの思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。」として、肝心なときに必ず陥る恍惚状態を書き込んでいるだけである。豊太郎の愛情を積極的に描写することはできないし、自分に対するエリスの愛情も「見上げたある目には涙満ちたり」と、平板で俗である。鴎外は自己保身を同情や友情として説明することには雄弁であるが愛情を描く能力には欠けている。
 「其氣色辭むべくもあらず。あなやと思ひしが、さすがに相澤の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何らの特操なき心ぞ、「承はり侍り」と應へたるは。」
 ここでも豊太郎に似合わず自分の非を認め、「嗚呼、何らの特操なき心ぞ」と反省している。といっても、ここでそれは相沢のうそですとしか言いようがないかのように書き、「さすがに」とわざわざ書いてやむを得ない事情によると説明し、さらにこのままエリスと関係していては破滅だというエリートの価値観を添えて、そうした盛り沢山の弁解をした上ではじめて自分の人格性を否定的に反省している。しかし、じつはこれも反省ではなく弁解である。豊太郎には自分の非を認める能力がない。
 豊太郎はひきつづいて、「黒がねの額はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。」とまで自責している。さらに批評を泣かせるような苦悩の状況を描き、「我腦中には唯々我は免すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ滿ち滿ちたりき。」と書いている。実際なんという「徳操なき心」であろう、なんという「免すべからぬ罪人」であろう。豊太郎が自分の罪を認めるのは罪を逃れるためである。自分の返事を突発的なものとしたうえで、それを運命として受け入れて何の対処もせず、する意志ももたず、すぐに自分を責めにかかる。この反省は対処をしないこと、この決定を受け入れる宣言である。さらに、豊太郎が何の対処もせずに結果をそのまま受け入れて反省し、嘆くのは、この罪の意識によって意識を失うためである。豊太郎は、エリスを捨てる意志を持たないが、エリスと別れることになった結果をエリスに伝える困難が残っている。エリスとの関係はこの一点にに残るだけである。エリスに結果を伝えることだけが問題であるからこそ、つまり言わずに済ます方法だけが問題であるからこそ、罪の意識によって気を失い、気がついたときにはエリスの気が狂っていて打ち明ける機会を失ってしまうといったやり方が自然に見えるし必然なのである。罪の意識の重さによって罪を逃れるとはなんとつまらない知恵のうまく回ることか。豊太郎にはエリスに対する罪の意識が生ずる要素はなにもない。にもかかわらずここでエリスに対する罪の意識を主張するのは、意識を失って厭な仕事を相沢にさせるためである。こんな手の込んだ努力をするより自分で宣告するほうがよさそうに思うが、人格を重んずる豊太郎としてはどんな努力を払ってもエリスを捨てることに自分に意志を刻印することはできない。そこに豊太郎の価値があるからである。
 豊太郎が自分の人格性を守るためにどれほどつまらない努力をするかは、豊太郎がエリスに別れを告白しなければならないその時に、罪の意識にうちひしがれた姿をエリスに見せに帰ることによく表れている。罪の意識によって罪を逃れるばかりでなく、その罪の意識を見せつけるためにわざわざエリスのもとにかえり、エリスを悲しませるのが豊太郎流の誠意の表し方である。自分の人格性を守るためにはにつまらない努力を惜しまない豊太郎らしい行動である。豊太郎は自分の絶望状態を見せることでエリスの悲しみを食い物にしている。鴎外にも豊太郎にも、豊太郎の言動がエリスとの関係でどのような意味を持つかをまったく理解できていないことがよくわかる描写である。

 「そのまま地に倒れ」は珠玉である。豊太郎はこれによって悪意に染まることなく出世を手に入れ、エリスとの関係を断つことができる。人事不詳は主観から意志を消すための最終的な手段である。エリスとの関係を絶つことはエリートとして当然であろう。しかし、捨てることを自分の意志としないために、人事不詳になるとはあまりにも徹底した自己保身である。しかし、風景に恍惚となって散歩している時にであった貧しい少女に下心なく同情した事を自分の価値としているからには、エリスと別れるときには恍惚から一歩進んで意識を失って地に倒れなければならない。エリスに別れを告げればエリスとの関係を具体的に描かねばならない。豊太郎を信頼しているエリスに別れを宣告しながら、なお自分の意志を打ち消すことはできないであろう。人事不詳を罪の意識の深さによるかのように描いているが、正しくは罪の意識、責任の意識を回避したい意識の深さによる結果である。といっても豊太郎にはエリスを捨てる意志はなく、どういう訳か別れを告げなければならなくなったという罪とも何とも言えないようなわけのわからない罪である。だから、罪の意識によるのか寒さによるのかはっきりわからないほどの曖昧な描写になっている。鴎外としてはこの曖昧さはただただ意味もわからないほどに荒れ狂う吹雪と苦悩の果てに地に倒れたという感情を込めて描いているが、豊太郎と同じ意識や感情を持たないかぎりそうは感じ取れないものである。
 「そのまま地に倒れ」ることが必然であるのと同様、豊太郎が人事を知る時に別れを宣告することができなくなっていることも必然である。エリスに告げるという最後の仕上げを相沢がやることも、相沢の善処がエリスを精神的に殺してしまったことも必然である。同時に、相沢にもエリスに対する悪意がなかったのも相沢との対立的な意識を持たない豊太郎の性格の必然である。豊太郎は自分の厭な汚れ役を相沢に任せた。しかし、それは汚れ役ではないと説明することで相沢との関係に配慮している。つまりエリスの気が狂ったとしても、それはエリス自信の責任であるか偶然の不幸である。このような流れにおいて初めて地に倒れることは意味を持っている。こうしたすべての流れを必要としているために無意識状態が必要なのである。
 こうして豊太郎はエリートにふさわしくないエリスとの関係があったにも関わらず、相沢の関係は丸く治まり、以前より深い絆で結ばれた。彼らはエリスときれいに別れるためにこれほどふざけた田舎芝居を演じている。豊太郎は意識を回復し、起き上がって道徳的な人物としてエリスの家族に金を援助する。「舞姫」論争においても鴎外はエリスに金を与えてやったのにどこが悪いのか、最善を尽くしているではないかと書いている。「大臣に隨ひて歸東の途に上ぼりしときは、相澤と議りてエリスが母に微かなる生計を營むに足る程の資本を與へ、あはれなる狂女の胎内に遺しゝ子の生れむをりの事をも頼みおきぬ。」という文章には、豊太郎がエリスとの関係を首尾よく処理したという満足感が表れている。これが鴎外に想定できる最大限の誠意である。

 この小説は現実の描写ではない。肝心のところで人事不詳に陥り、意識が回復したときには豊太郎の都合のいいように問題が片付いていた、などというストーリーは勧善懲悪よりもっと非現実的である。しかし鴎外の現実認識としてはこのような関係が存在する。鴎外は自分の能力に可能な限りの誠意をエリスに対しても相沢に対しても尽くしていることを信じて疑わない。豊太郎の精神の全体が鴎外にとっては純粋で優秀である。豊太郎は、インテリ世界での課題の喪失や孤立や、非生産的な対立を反映し、それを肯定的に解釈している。この作品の内容がいかに馬鹿げていても、非現実的であっても思想としては広範に存在する。積極的な課題を失ったエリートやインテリの典型的な思想として克服しがたく国民全体の精神に根付いている。
 しかし、現実には鴎外が想定したロマンチックな自己満足は現実的ではない。このような思想は積極的な人間関係がないことによって生ずる、積極的な人間関係がないことの証明である。鴎外にも批評にも思想的には豊太郎の肖像が誠実で純真であり、人格性と感情豊かな、批評のいうようにみずみずしい個性の創造であると思わるとしても、客観的にはリートとしての道徳的堕落の過程であり、偽善や卑劣の徹底であり、その点でこの作品は歴史的作品であった。鴎外が描いた信頼関係が信頼関係の崩壊過程である事を漱石は理解し描いた。しかし鴎外も漱石もいまだに理解されていない。この意味で明治の作品の理解は現代的な切実な課題である。 

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