『舞姫』 論争 4 

  
 其妄五つとして指摘した鴎外の文章は次の通りである。
 「足下は叉メルクが少壮のギョォテを評したる語を引て以爲らく。予はメルクの評言を以て全く至當なりとは言はず。又舞姫の主人公を以て愚物なりとはいはず。然れども其主人公が薄志弱行にして、精氣なく誠心なく、随て感情の健全ならざるは、予が本篇のために惜む所なり。何をか感情といふ。曰く性情の動作にして意思-考察と共に詩術の要素を形くるもの即是なり。蓋し著者は詩境と人境との区別あるを知て、之を實行するに當ては、終に区別あるを忘れたるものなり。薄志と云ひ、弱行と云ひ、精氣なしと云ひ、誠心なしと云ひ、感情健全ならずと云ふ、皆當れり。されどかゝる性質の人を以て詩材となしたるを人境と詩境との区別を知らずとなさば、シエクスピイヤも「ハムレット」を作りしために人境と詩境との別を知らぬ人にや敷へられむ。況や「エルテル」を作りしギヨオテをや。其妄五つ。」
 「其主人公が薄志弱行にして、精氣なく誠心なく、随て感情の健全ならざるは、予が本篇のために惜む所なり。」という忍月の指摘は重要であるし正当である。鴎外はこの指摘について「皆當れり」と単純に認めている。これについては、これまでの二義的とも見える、しかし、豊太郎を肯定する鴎外にとっては重要な意味を持っている問題に対する反論ですでに説明が終わったからである。この弱点は弁明され、別の肯定的形式で解釈しなおされたと考えている。つまり、まったく認めていないことになる。鴎外らしいやりかたである。といっても、それは意図しての誤魔化しではなく、忍月の指摘をまるで理解できず自分の主張の正しさを信じてのことである。
 鴎外はこれまでの反論に加えて、忍月の指摘を逆手にとって、「舞姫」を「ハムレット」や「エルテル」と同列に扱うことで弁護しようとしている。内省的であること、非実践的であることにおいて形式的に共通している。しかし、これまでの論争の検討によるまでもなく、「舞姫」を「ハムレット」や「エルテル」と同列に論ずることができないのは明らかである。ハムレットやエルテルの苦悩はケチな官僚の保身的な苦悩、というよりわざとらしい感傷とは違う。
 また、忍月の指摘を「されどかゝる性質の人を以て詩材となしたるを人境と詩境との区別を知らずとなさば」と形式化し一般化していることもこれまでに見られたやり方である。問題は「かゝる性質の人」の具体的な意味であって、豊太郎とハムレットやエルテルを形式的に理解したうえでならどのような形式論議を連ねても無駄である。
 こうした形式論議は鴎外に任せておいて、忍月の主張の流れを作品の内容に即して説明しておこう。

 まず忍月は、「『舞姫』の意匠は恋愛と功名と両立せざる人生の境遇」であると理解し、この境遇の中に臆病で慈悲心ある人物を置いて、「此の地位と彼の境遇との関係を」描いていると理解した。そこで人物と境遇との関係を精査する必要があるとした上で、人物は小心的臆病的で恩愛の情に切なる者であるのに、「無辜の舞姫に残忍苛刻を加へたり」としている。さらに豊太郎は本来はエリスを選ぶはずの人物だとした上で、鴎外が「其妄五つ」として引用したこの部分の指摘に移っている。
 忍月の指摘の重要な点は、人物を社会的地位において理解しようとすることである。社会的な地位と人物との関係において作品を理解しようとするとこの作品には矛盾が生ずる。まず忍月の現実感覚にとっては、豊太郎が「小心的臆病的」であることがそのまま出世にふさわしくない人物に見える。豊太郎が出世を第一にして出世の邪魔になるエリスとの人間関係に冷酷に対処するような人物でないことはあきらかである。つまり出世コースを歩む人物としては決定的な資質を欠いていると考え、特に論ずる必要のないものとして単純に断定している。忍月にとって豊太郎は功名を選択する余地のない人物であったために、豊太郎は他の選択肢であるエリスの方にいくべき人物であるとして、その地位に於ける弱点ないし矛盾を問題にしてる。
 豊太郎がその性格や資質からして出世主義者たりえないと単純に理解している忍月にとって、豊太郎が出世の方に行くべきではないという当為はありえない。問題は資質であって意志ではない。したがって忍月にとって「恋愛か功名か」は地位や境遇の問題、人物の必然の問題であって道徳的選択の問題ではなかった。忍月が豊太郎を資質として出世にふさわしくない人物だとしているのは非常に重要な、その後の弁護論的な批評では失われた観点である。この規定を出発点として発展的に否定されねばならない。出世から豊太郎を排除する結果として、忍月は実質的に恋愛と功名の葛藤を廃棄しており、論理を一歩すすめることができた。この作品においては「恋愛と功名」の選択が問題ではないことを理解することが決定的な意義をもっている。それは日本史の必然として生ずる現象的な現実認識であって、それを超えることが概念に入るための第一歩であり日本人にとっては非常に困難な課題である。この選択の可能性を認める場合には豊太郎の意志が問題になり、「矛盾の巣窟」としの道徳論に入っていくことになる。忍月はこの道徳論をまったく問題にしなかった点ですぐれていたが、道徳論を考慮した上でそれを越えて展開したのではなかったから、その後の鴎外の肯定的評価によって、忍月が設定したこの常識的な現実認識としての葛藤が中心にすえられ、忍月の批評自身が道徳論的に歪められて理解されることになった。それは意図してのものではなく、このもっとも非道徳的な作品の評価において、道徳的評価を越えることが非常に難しいのである。
 忍月の評価をこの葛藤の図式において単純化すれば、豊太郎は出世にふさわしくないことが単純に断定されており、その上でエリスとの関係が検討されて、そこに矛盾が発見されているから、エリスの世界にもふさわしくない人物とされている。だから、結論としてこの豊太郎はこの葛藤の中にいないことになる。それは豊太郎を否定的に評価していることから生ずる結論である。後の時代の批評はこの評価をまったく逆にして、鴎外と同じように豊太郎を肯定的に評価し、その結果としてこの葛藤が再び注目され、この「恋愛と功名」という矛盾の巣窟を抜け出せなくなった。

 豊太郎を肯定的に評価する場合に、忍月と逆に、まず出世に必要な性格や能力を持つ人物として評価しなければならない。それほどに無批判的である場合は、当然の結果としてエリスの世界の意義を理解して、その世界を選択する能力を持つ人物として評価することになる。豊太郎を肯定的に評価する現実認識のレベルにおいてはエリスの世界を選択することは、出世の世界を選択することより容易にみえ、下層の世界の選択において能力や資質を問題にすることなど考えつきもせず、この作品に則して言えばせいぜい同情心があれば十分だと考えられるからである。実際には、金や地位がこれまでにない支配力を振るいはじめた明治の社会において、金や地位の力に逆らう場合には地位や金を失うことで肯定的な評価をも失っていくという現実に対処しなければならない。四迷や一葉はそれを問題にしていたし、漱石ほどの天才であれば、エリートでありながらエリスの世界に入っていく事は能力の限界を超えていることを理解して諦め、「門」の前に佇むといった精神が生じるのであるが、エリートの世界をもエリスの世界をも理解しえない場合には、このまったく相反するどころか質的に対立する能力、精神の必然を一人の人物のうちに認めるという愚かな現実認識に基づいて、出世を選択するか功名を選択するか、エリスを選択するか天方伯を選択するかが豊太郎の意志の自由に任されていると考える。このような現実認識に立つ場合に恋愛か功名かの選択が葛藤として想定される。したがって、この葛藤を抜け出すにはこのような現実認識自体を超えなければならないし、豊太郎の肯定的評価をも具体的に否定しなければならない。後の批評は、豊太郎を擁護する場合も批判する場合もこの選択枝の問題を克服することができず、忍月の批評から一歩後退して現象的な現実認識の循環論の中に入ってしまった。
 忍月は恋愛と功名の対立を設定しながら、功名を切り捨てたうえで豊太郎の人物と境遇との矛盾を問題にしている。「其主人公が薄志弱行にして、精氣なく誠心なく、随て感情の健全ならざるは、予が本篇のために惜む所なり」というのは、エリスの方に行く以外にない人物でありながら、なおエリスに対して苛酷であることを惜しむべき性質である、あるいはふさわしくないと主張しているのであって、一般的に小説の題材は不健全であってはならないと言う観点にたっているのではない。無論これほど不健全な人物を肯定的に描くことはいずれにしても詩境とは言えないのであるが、そのような形式論議に入らずに(というのは、この問題も結局は豊太郎の人物と境遇の問題としてのみ明らかにされるからである)忍月の批評をさらに前進させるには、エリスに対して残酷であることこそ豊太郎の本質的な特徴であり、エリスとの関係を発展させる資質も意志もない、という事実を認め、その具体的な内容を規定しなければならない。
 忍月は、この流れの中で「精氣なく誠心なく、随て感情の健全ならざる」性格はエリスにふさわしくないとしており、そのあとすぐに、鴎外が第四妄とした、「著者は主人公の人物を説明するに於て頗る前後矛盾の筆を用ゐたり。請ふその所以を挙げむ。」とつづけて豊太郎の描写の矛盾を指摘している。忍月がここに矛盾を発見するのは、彼が「恋愛と功名」の葛藤という主題を抽象的に理解して、その観点からすると矛盾が生ずるということである。忍月は「恋愛と功名」の葛藤という表面的な現実認識の規定によってこの作品に矛盾を発見した。それは忍月自身の現実認識を克服するための、つまりこの作品の表面的な人間関係に「恋愛と功名」の葛藤を見いだすことの誤りを理解する契機としての、この葛藤の図式を克服する内容を含んでいる。それを理解することが後の批評の課題である。

 前回の第四妄での、忍月があげたこの矛盾について、嘉部氏は次のように指摘している。
 「鴎外の指摘は、一面においてたしかに正しい。人間が環境の影響によって変化してゆくのは当然であり、これを矛盾だとする忍月の見方は、あまりにアリストテレスの基準に縛られ、融通がきかない。人間性をあるいは文学作品を理解する能力を欠くとして「情を解せざる」ときめつけられてもやむを得ない面がある。鴎外は小細工をせず、むしろ、主人公の性格に矛盾があるとしても、矛盾があることも人間性の一面を示しているのであり、これが必ずしも文学作品としての欠点につながるものではないという点を正面に押し出すべきであったかもしれない。しかし鴎外の方法は忍月の発言を利用して、逆をとり相手を言い伏せるというところにあったようである。」
                                                            (嘉部氏 157頁)
 嘉部氏のこの指摘は一面においてたしかに正しい。忍月の指摘は、前回書いたように、豊太郎の個性の統一性の面からいえば間違っている。豊太郎は変化し矛盾を抱えているにしても統一的である。しかし、このような指摘はごく形式的で指摘するまでもないことである。忍月のいうように、地位と境遇との関係を精査するとやはりこの作品は矛盾に満ちている。「矛盾があることも人間性の一面を示している」くらいのことは誰でも理解できることで、忍月は環境の影響によって変化することを矛盾だと指摘しているわけではない。豊太郎の性格の統一性に矛盾があるとしたのは間違いであるにしても、嘉部氏の批評からも想像できるが、忍月の指摘が含んでいるこの複雑な間違いを正すことはその後の批評にはできなかった。忍月が矛盾を指摘したことは、以下に見るように、より総体的な視点から見ると正当であることがわかる。忍月のように矛盾を指摘できる場合にのみ豊太郎の矛盾を含んだ統一性は理解できるのである。
 忍月が豊太郎の描写に矛盾を発見するのは、忍月がまず、人物を地位と境遇の関係において豊太郎を理解する観点から主題を「恋愛と功名の葛藤」としていること、さらに豊太郎の個性の特徴をその地位と境遇との関係において否定的に評価できることよる。この矛盾の発見なしに、豊太郎の個性として統一性を理解することはできない。現実には自由意志によるこのような二者択一はないし、豊太郎にとってもそんな問題は存在しない。しかし、このような主題の設定は、現実認識としても作品理解としても、日本人がどうしても陥りがちな現実認識の出発点であり、それをどのように克服して認識を具体化していくかが本来の課題である。鴎外が描いた豊太郎の境遇が、エリスと天方伯の両者と関係してエリスを棄てて天方伯を選択するという形式をとるために、豊太郎があたかもこうした社会的な地位の選択という葛藤の中にいるように見える。鴎外はこのような葛藤を思いつきもしなかったが、このような現実認識は日本史の必然として社会的な空気として常に存在しているために忍月はこの作品を高く評価し、その主題がより深刻に現実的に描かれるべきだとと考えたのである。ところが現実には存在しえないこのような葛藤があるものと考えて作品の具体的な描写を検討すると、ありえないものを求めているのだから当然作品の内容に矛盾が発見される。後の批評と違って忍月にはこの葛藤がうまく描かれていないという矛盾を感じるほどに作品を具体的に理解する能力をもっていた。「恋愛と功名の葛藤」、エリスか天方伯かの選択の葛藤をテーマとして作品を具体的に理解しようとすると、恋愛の選択にも功名の選択にも矛盾が生ずることになる。つまり「恋愛と功名の葛藤」といういかにもありそうな主題にぴったりのこの作品でも、この主題に基づいて作品を理解しようとすると、恋愛すなわちエリスとの関係においても、功名すなわち天方伯との関係においても矛盾があることが理解される。忍月は、その理解を押し進めることなく、なおこの主題のもとに、つまり現象的な現実認識のもとにとどまり、その主題と一致しないことをもって作品の矛盾として指摘しているのである。

 忍月にとっては豊太郎が天方伯に信頼されて出世することは、矛盾といえるものでさえなく、その性格からしてまったくありそうもないことであった。だからありえないことを描いているにもかかわらずそれを矛盾として指摘していない。描かれた内容からすれば天方伯を選択したことになっているのだから、豊太郎が「無神的(ゴットロース)の苛刻は胆大にして且つ冷淡の偽人物に非ざれば」という点を矛盾として指摘し、それを描かれていないことを惜しみ、出世にふさわしい性格として描くことを求めることもできるはずであるが、その可能性は豊太郎の性格にはまったくないと考えている。それは忍月のブルジョア的な、しかも明治初期の素朴な感覚によるものであろう。実際にはここにこそ矛盾がありエリスとの関係に矛盾が存在しないのである。
 豊太郎は作品としてはエリスからも天方伯からも信頼される人物として描かれている。しかし、忍月は、豊太郎の基本的な性格からすれば天方伯に信頼されることはないことを理解した。ただ、忍月にとってもエリスの世界は認識の限界を超えていたから豊太郎の精神、能力がエリスの世界とはいっそうかけ離れており、選択可能性などまったくないことを理解できなかった。だからエリスを選択する過程が葛藤としてうまく描かれれば大きなテーマをもった小説になると考えた。忍月にとっては、「功名か恋愛か」という選択肢の中で功名がありえないのだから恋愛が残る。豊太郎は小心で臆病である点で出世コースとは相いれないが、恩情にあつく、謹直慈悲に満ちている等々を売り物にしているのだから、エリスとの生活にその地位と境遇にふさわしい運命があるはずだということである。しかし、消去法で恋愛が残ったが、その生活を具体的に検討すると矛盾が残る。それは実践において豊太郎が「無辜の舞姫に残忍苛刻を加へたり。彼を玩弄し彼を狂乱せしめ、終に彼をして精神的に殺したり」と忍月は感じるからであるし、実際にそうしているからである。ここに矛盾を発見した忍月がつきあたっていた課題は、この矛盾を豊太郎の精神の具体的な内容として、恩情にあつく、謹直慈悲に満ちている等々の特徴とエリスに対して残忍苛酷であることとの同一性を明らかにすることであった。恩情にあつく、謹直慈悲に満ちている等々の特徴はエリスとの一致ではなく分離的な精神であることを明らかにすることであった。むろんこの時代のエリートであった忍月にはそれは荷の重い課題であったが。
 繰り返すが、豊太郎の残忍苛酷は出世のために障害になる人間関係を否定するといった性格のものではない。そうであれば忍月はそれをそのような地位と境遇における必然的な性格として認め矛盾など感じなかったはずであるし、出世にふさわしい人物と認めたであろう。忍月の疑問は集約すれば、出世を求めるためでもないのに、エリスに対して残忍苛酷に対処することである。実践として残忍苛酷であるにもかかわらず、エリスに対して同情が厚く、慈悲心に満ちていると鴎外か描いていることである。忍月は、ここから一歩すすめずに、豊太郎は出世主義者ではないとして分析を停止した。忍月は、豊太郎の出世に対する欲望の特殊な形式を理解できず、とうぜんエリスに対する苛酷さの特殊な内容も理解できなかった。忍月の到達点は、豊太郎が天方伯に登用されることはまずありえないと考え、他方のエリスとの関係に矛盾があることを指摘したことである。忍月の作品理解を発展させるというのは、忍月の理解ををそのまま先に進めて、豊太郎とエリスの世界には乗り越えることの出来ない隔たりがあること、豊太郎とエリスの関係には考察すべき内容が含まれていないこと、そこから翻って、忍月が切り捨てた天方伯と豊太郎の間に矛盾があることを理解して、その矛盾の具体的内容を明らかにすることである。

 忍月の言う恋愛か功名か、という主題は、この作品の内容が豊太郎とエリスの関係を主な内容としていると理解することによって想定される。忍月は功名の世界から豊太郎を排除しているから、この作品が豊太郎とエリスとの関係を主な内容としていると考えるのは当然である。しかし、この作品を理解する鍵は、エリスとの関係が問題になっていないことを理解することにある。忍月の豊太郎に対する否定的な評価を発展させて「恋愛と功名」の葛藤という主題を廃棄するか、あるいは、豊太郎を肯定してこの葛藤をより普遍的な形式に仕上げるかが、「舞姫」論争で与えられた思想の分岐点である。
 豊太郎はまず他の留学生と対立している。その結果エリスとの生活がはじまった。しかし、それはエリスとの深い関係が生じたことを意味するのではない。エリスとの深い関係を描く契機として留学生との対立が描かれているのではない。鴎外にとってはエリスとの関係が生じたために、他の留学生と対立が生じたこと自体が重要な内容である。この対立によってエリスとの関係が本質になるのではなく、エリスとの関係はこの留学生との対立の側面からのみ描写されている。鴎外にとっては出発点として、その対立が讒訴によるものであることが重要な意義を持っているし、エリスとの関係が留学生との対立や自分のエリートとしての地位にどのような影響をもたらすか、どのように理解されるかが主な関心であり内容である。だから留学生との対立が内容であって、この対立によってエリスとの関係が内容として生ずるのではない。留学生との対立は留学生との分離を意味するのではなく、彼らとの関係の内容を意味する、内部的な対立であり、関係である。
 鴎外は留学生との対立を背景にしてエリスとの関係を肯定的に描こうとしているのではない。エリスとの関係を留学生に対立して豊太郎を肯定的に描くことが鴎外の関心である。留学生の誤解を否定すべくエリスとの関係を描いている。、留学生と分離したエリスとの生活によって、別世界の価値観において豊太郎の独自の精神が描かれるのではなく、他の留学生がエリスとの関係に表れる豊太郎のすぐれた道徳的潔癖さを理解していない、という側面から描かれている。鴎外は、エリスとの関係において他の留学生との対立を意識して、彼らに対する優位を描いている。エリスとの生活においても他の留学生よりすぐれてエリートであったことを描くことは、後に豊太郎が天方伯に登用されるという意味をもっている。鴎外は他の留学生や相沢や天方伯に排除される精神をまったくもっていないし、それを持たないことを鴎外は描こうとしている。
 豊太郎は他の留学生との対立を含みながらも、豊太郎が他の留学生よりすぐれていることを相沢に認められることによって天方伯に信頼され、登用される。つまり対立は内部的である。ところが忍月が感じ取ったように、この関係回復が現実的ではない。忍月にとっては対立が決定的で内部的とは思えない。それはまさに、豊太郎がエリスを切り捨てることによってではなく、エリスとの関係自体を、他の留学生に対する優位を示す形式を整えることに関心を持っているためである。つまりエリスとの関係を出世のために切り捨てるという明確な意識を持たずに、その関係のあり方に関心を持つからである。忍月はこのことから豊太郎がエリスの世界にふさわしいと感じるのであるが、実際はこのような関心の持ち方は、天方伯の世界との矛盾を意味している。豊太郎は天方伯の信頼によって、換言すれば、国家的社会的課題を果たす価値観においてエリスを棄てるのではない。だから、忍月が感じたとおり、エリスとの関係の矛盾、つまり同情に満ちていながら苛酷であること、逆に言えば苛酷でありながら同情に満ちていて、出世の名の元に切り捨てる意志を持たない、という豊太郎の性格からすれば天方伯の関係にも矛盾が生じて、この信頼関係は嘘である、というのが結論になる。実際にこのような関係にあるからこそ、つまり天方伯との関係にもエリスとの関係にも信頼関係が生じない内容になっているために、外見的には「恋愛と功名」の葛藤の中に有るように見える。天方伯との明確な信頼関係があるわけでもないし求めているわけでもないし、エリスとの関係においても明確な信頼関係が形成されるのでもないし求めているのでもない。だから悩ましい葛藤がこの両者の間に生じているように見えるが、具体的な理解からすれば、この両者のいずれの世界にも入れないことが葛藤の内容であり、それが逆転して反映されて両方の世界にも信頼されているような幻想を生み出しているのである。
 これとまったく逆に豊太郎を人間関係において肯定的に解釈する場合には「恋愛と功名」の深刻な葛藤が想定される。豊太郎は留学生と対立する、この下らない対立を根拠として、またこの対立の下らなさを理解できずに、鴎外がこの対立を対立でない対立として描こうとしていることを理解できずに、この対立が深刻な内容を持つと理解する場合、つまりこの対立の具体的な内容を理解できない場合に、他の留学生のエリートの立場との対立であり決裂であると理解され、それがやはり具体的な内容の検討なしにエリスの世界との精神的な一致であると理解される。つまり官僚的なエリートの自我を超える、近代的自我等々の様々の名前の歴史的な自我の誕生だと評価される。臆病な内部的な、対立を恐れる意識であるにもかかわらず、他の留学生との深刻な対立を含んだ豊太郎の肯定的な意識の発展であると評価される。ところが、歴史的なと言われるほどに巨大な誕生があったにもかかわらず、それほどの意義を持つエリスとの関係が生じたにもかかわらず、豊太郎はつまらない理由を並べてエリスを棄てて天方伯に従う。この場合忍月と違って天方伯との関係に矛盾が発見されず、信頼が当然とされ、豊太郎の能力は高く評価されている。エリスの世界との一致の具体的内容がもともと問題にされていないために、この変化も単に挫折とか悲劇と単純に評価されるだけである。このような評価によってエリスに対する苛酷さは、豊太郎の意志でなくても豊太郎の能力の必然として、天方伯の信頼や国家的課題を果たす使命によって肯定される。したがって、エリスとの関係にも天方伯との関係にも矛盾を見いださない場合は、天方伯の世界と分離する場合もエリスの世界と分離する場合も、他方の世界の価値観による肯定という形式によって豊太郎は弁護される。
 天方伯の世界とエリスの世界の両方において肯定される人物として豊太郎を評価する場合に「恋愛と功名の葛藤」があるように見える。豊太郎を肯定的に評価する場合、いづれの世界をも選択できるし、いづれの世界からも選択される人間の葛藤であるように見えるし、鴎外はそう見えるように描こうとしている。豊太郎に描写されているのはいづれの世界をも明確に選択できない人間の葛藤であるが、鴎外にも批評にもこれは転倒して見える。鴎外と違った現実的感覚によって見れば天方伯との関係にもエリスとの関係にも細部に無理があり信頼関係はありえない。ところが、こういう立場で豊太郎を肯定的に描く場合にのみ、エリスが豊太郎を信頼し、豊太郎にエリスの世界にとどまるように懇願するという形式が想定され、同時に天方伯が豊太郎を必要とし、自分に従うように求めると想定される。それはこの二つの対立した世界における信頼関係自体が具体的に対立的な内容を持っていることを知らない、つまりいづれの世界においても信頼関係を形成できない豊太郎に特有の希望的想定である。同じ精神において豊太郎には天方伯の世界を選択する意志もエリスの世界を選択する意志もない。天方伯に信頼される実績もないし、エリスの世界の意義を認識する能力もない。ただ、エリスとの関係が天方伯に誤解され、信頼をえられないのではないかという葛藤がある。その葛藤が、肯定的に描かれるとき、天方伯とエリスの両方が豊太郎を信頼し、豊太郎を選択する意志が天方伯とエリスに与えられ、そのいづれを選択すべきか豊太郎が悩むという形式をとるのである。いうまでもなく、このように悩むことは天方伯を選択することを意味している。社会的な孤立をも覚悟するほどの明確な意志と、明確な思想なしにエリスの世界を選択することはできないからである。
 豊太郎の能力や性格を肯定的に評価すると同時に、天方伯の世界の必然をもエリスの世界の必然をも理解できない場合には、豊太郎に両方の世界の選択可能性があると考え、その場合にはじめていづれを選択すべきかの道徳的葛藤が生ずるように見える。また、この作品を批評する場合に、いづれの選択が正しいかという無意味な道徳的判断を下す必要があると感じられ、しかも、この前提からすると、いづれの選択にも合理的な自己肯定が生ずる関係があるし、そのように描かれているから、肯定しながらそこに肯定しきれない苦悩を想定することになる。エリスを選択するなら国家的使命を否定しなければならない、国家的使命を選択するならエリスに苛酷でなければならない、どちらを棄てても申し訳はたつが、どちらを棄てても棄てたという後悔が、苦悩が残るという、なんら内容のない、愚かしい悩みである。これを批判的に展開すると、エリスを選択することには国家的使命を棄ててもいいのかと言えるし、天方伯を選択することに対してはエリスを棄ててもいいのかと批判できる。しかし、それに対する応えはすでに決まっている。またいずれを選択することも個人の自由であるともいえるであろう。こうして確定することの出来ない循環論のなかで無責任でいい加減な批評を展開できることになる。近代的自我に目覚めたが挫折した、というのはこの「恋愛と功名」の葛藤の前提を認めて、折衷的に両方を肯定したた上で、量的に一方を肯定しすぎると言い過ぎになるし、他方を肯定しても同じであるし、いづれに対しても義理を感ずるとしたところで解決もしないという、思想でも理論でもない単純なあれかこれかの折衷的な苦悩の想定にすぎない。それは豊太郎に描かれているエリスとの恋愛と天方伯の登用という二つの、実際はありえない描写をただ現象的に追認しただけのまったく無思慮な評価である。しかも、それは鴎外が直面し、描こうとしていた苦悶ともまったく関係のない批評独自の苦悩である。

 このように、忍月がこの作品に「恋愛と功名」の葛藤を見いだしたのは間違いである。しかし、このような理解は、この作品を理解するために避けられない誤解であり、この誤解には、鴎外の作品の理解とは別の現実認識の発展の一契機としての思想的な意義がある。鴎外自身はこのような問題をまったく考慮していないが、この作品が必然的に生じさせる誤解、読み間違いに意義がある。この作品にはエリスとの関係によってエリート世界を無批判的に肯定しているために、エリートとエリスの世界の関係という非常に難しい問題を、鴎外の意図を超えて読者に突きつける。この作品を理解するためには、この作品自体の内容を明らかにすることとは別に、この作品に必然的に生ずる無理解を超えるというより困難な課題があり、それがこの作品の理解を難しくしているのである。
 忍月が想定したように、この作品は表面的には「恋愛とし功名」の葛藤を描いているように見える。しかし、その理解を押し進めると矛盾が生ずる。それは忍月の現実認識の誤りを含んでいる。忍月はこのような主題においてこの作品を読むと不自然になることを発見するだけの現実的な感覚をもっていた。それには先ず第一に、弱さとか常なしとかのあらゆるごまかしの描写にもかかわらず、豊太郎がエリスに対して苛酷であることを理解することである。またあらゆる自己肯定的な、他の留学生に対する優位を繰り返し描いていても、出世できる個性でなく能力もないことを理解することである。忍月はこれを理解したにもかかわらず、「恋愛と功名」の葛藤という前提の廃棄には至らなかった。豊太郎の基本的な特徴を「薄志弱行にして、精氣なく誠心なく、随て感情の健全ならざる」等々として理解しているにもかかわらず、それを社会的な境遇と地位における本質的な特徴として豊太郎の全体像を規定することができなかった。だから自分の理解に矛盾を生じ、それを作品の矛盾として指摘した。矛盾を含んだ作品として独自の必然があるという理解に至らなかった。エリスの世界とはまったく関係がなく、功名の世界内部で生じてきた新しい矛盾を反映した新しい歴史的な意識がこの作品に無批判的に対象化されていたことを忍月は理解しなかった。忍月はこの作品の内容を自分のようなエリートの世界と違ったエリスの世界に追いやろうとしていたのであるが、実際は鴎外と忍月の間に生ずる、エリート内部の対立を反映した精神であった。忍月は、この作品に含まれている矛盾が、自分と鴎外との対立を反映したエリートの内部的対立であることを理解しなければならなかったのであり、それができなかったことは、忍月も自分のエリート的な地位に批判的であり得なかったということである。この論争はエリート内部にいる鴎外と忍月がそれぞれの立場の意味を客観化することなく、自然発生的で自己肯定的な意識を表明することで生じた対立であった。
 豊太郎はエリスと生活し、エリスを棄てて天方伯に従った。だから、表面的に見ればそこに「恋愛と功名」という選択肢があると想定される。しかし、具体的に見れば豊太郎は恋愛にも功名にも適さない。豊太郎は恋愛にも功名にも似合わない個性として統一されており、天方伯やエリスとの関係はそうした人物が自己肯定的に現実を逆転して認識し、想定したものである。豊太郎は、天方伯ともエリスとも一致できない世界で葛藤している。豊太郎の精神の基本的な特徴は臆病で保身的なために大きな矛盾を経験できず、大きな葛藤を経験することもできないことである。しかし、抽象的で表面的な認識にはそれこそが深刻で大きな矛盾であり葛藤であるように見える。「恋愛と功名」あるいは天方伯とエリスの世界の選択というのは、おおざっぱで抽象的な思考には深刻な対立に見えるが、この抽象性を廃棄するには豊太郎と天方伯の関係、豊太郎とエリスの関係を具体的に規定しなければならない。それができない場合にのみこの抽象的な葛藤が深刻で歴史的であるように見える。
 実際は豊太郎の精神は、エリスを出世のために切り捨てる点ではエリート世界の精神である。忍月の論理を進めるには、豊太郎が天方伯にふさわしくないとした結果として、エリスとの世界にふさわしいと予測し、その結果としてエリスとの関係を考察することで豊太郎はエリスの世界には一層ふさわしくないことを理解し、--豊太郎は天方伯にも相沢にも留学生にも苛酷ではないがエリスに対しては精神を廃棄させるほどに苛酷であることに現象的には表れている--そこからひるがえって豊太郎は天方伯の世界にふさわしく、しかし、その内部で、その限界内で矛盾を持つ人物であるとして、自分の世界に引き受けなければならなかった。ところが忍月は豊太郎を嫌って自分の世界から排除してエリスに押しつけてしまったのである。

 小説は現実の諸関係を反映する。現実に存在するものすべてが材料になるから、材料を選択すべきだということにはならない。豊太郎が不健全である故を以て、材料にふさわしくない、と忍月が理解しているとするのは間違いである。忍月は単純に展開しているから、その部分を抜き出せばそのように理解できないこともないが、そうした単純な理解を忍月におしつけるのは中傷である。忍月の指摘を、薄志弱行で不健全な人物を題材とすべきでない、という一般論に移しかえるのが鴎外らしいやり方である。この場合も意識してやっているのではなく、豊太郎を肯定的にのみ理解している鴎外には実際にそれいがいに解釈のしようがなかったからである。
 豊太郎のような個性は統一体として現実に存在する。しかし、それを小説として描写するには、忍月の指摘するように、その個性と境遇の関係を客観的に描かねばならない。その個性が現実にどのような位置をもっているかが正しく描かれていなければ、真実の描写とはいえない。現実と照らし合わせた場合、あるいは現実的な感覚からすれば、豊太郎の精神としての統一性はあるものの、地位と境遇との関係においては、豊太郎が出世することは不自然であるし、出世しない個性として豊太郎を理解した場合には、出世のためという理由がないためにエリスに対する苛酷さが不自然になる。しかし、実際に出世のためにエリスを犠牲にする苛酷さとは違った独自の苛酷さを持っているから、この不自然さと豊太郎の苛酷さは統一されている。忍月が感じたように矛盾しており支離滅裂であるという前提においてエリスに対する苛酷さを含めた豊太郎の精神の統一性が理解できる。豊太郎が出世できない個性でありながら出世することと、エリスと信頼関係を形成できない個性でありながら愛し愛される、という関係にあることの具体的内容を理解して初めてエリスに対する苛酷さと天方伯に対する卑屈さの具体的内容も明らかになり全体としての統一性が表れる。出世を求め、地位にしがみつこうとする特殊な形態が、エリスとの関係の特殊な関係と同一であることを理解し、その精神が善意において天方伯には不誠実であるしエリスに対しては苛酷になるという必然を理解して描いたなら、それこそ日本精神史の金字塔となったはずであるが、鴎外はそれをまったく逆に肯定的に、矛盾のないものとして描くことによって、日本のインテリが陥りやすい歪んだ現実認識に一致したという意味での記念碑的な作品を残したのである。
 鴎外は豊太郎を客観化し、豊太郎の個性を現実の客観的な位置において描くことができなかった。豊太郎の人間関係はエリスとの関係でも天方伯との関係でも矛盾しており支離滅裂である。それが豊太郎の統一性である。豊太郎の性格からして天方伯に登用される可能性はないのに天方伯に信頼されるのが作品の矛盾である、人境と違った非現実的空想である、リアルでないところである。この小説では、人間関係は客観的、現実的に構成されておらず、相沢、天方伯、エリスはすべて豊太郎の都合のいいように豊太郎の特殊な利害を守るように作為的に構成されている。客観的世界ではなく人間関係の全体が豊太郎的精神世界の描写である。社会における豊太郎の境遇の客観的描写ではない。それが鴎外の精神の、また作品全体の統一性である。
 堕落した人間が出世する場合もあるが、その場合は豊太郎に対して批判的であるとともに、その個性を出世させる必然性が批判的に描かれねばならない。しかし「舞姫」では豊太郎は不健全であるにもかかわらず肯定的に描かれており、豊太郎を高く評価する相沢も天方伯も肯定的に描かれている。
 忍月が指摘した支離滅裂は、鴎外が新しい特殊な価値観によって豊太郎を肯定的に描いているために生じた現実社会の客観的な姿との食い違いである。忍月は、そのような食い違いを必然性として持つ精神が誕生していることを理解できなかった。鴎外が特殊な価値観を一般的価値を持つかのように描写したために、作品自体が現実との関係において矛盾している。その矛盾において精神としての統一性を明らかにしなければならない。その矛盾を明らかにすることなく、忍月の指摘した矛盾が間違いであるとして、矛盾を廃棄して統一性を認める場合は、批評自体が一層愚かしい矛盾に陥る。豊太郎のような個性がこの作品に描かれた運命をたどることは現実的ではない。肯定されがたい人物であるのに肯定されているのは真実でない。豊太郎の運命が現実に存在するか、といえば、否である。しかし、豊太郎のような精神や運命を想定する人間は圧倒的に多数である。忍月の指摘した矛盾は理解されず、多くの批評が鴎外あるいは豊太郎を肯定的に評価している。だから、この作品の基本的理解のためには、忍月の批判を継承し具体化しなければならない。

 忍月はまず「恋愛と功名」の葛藤を主題として具体的にはエリスとの関係において豊太郎が健全でない個性であると指摘した。忍月にとって豊太郎の個性の特徴は主題を描写する上での第二義的な描写上の欠点であった。しかし、鴎外には作中人物である豊太郎と独立した作品のテーマなどなかった。鴎外が忍月にとって部分的な弱点とした問題をまず取り上げ、形式化し抽象化することによって豊太郎を弁護したたのは、エリスとの関係における豊太郎の肯定がテーマだったからである。「『舞姫』の意匠は恋愛と功名と両立せざる人生の境遇」であることを認めたとしても、それは「恋愛と功名」の選択の葛藤ではないところに忍月の認識とき食い違いがあった。鴎外の関心は、エリスとの関係をどのように処理して天方伯を選択するかであったから、その葛藤を指摘されても問題はなかったが、その葛藤において豊太郎を否定されることはまったく作品の趣旨に背くことであった。鴎外の葛藤は、エリスとの関係を引きずりながらいかに豊太郎を肯定し、天方伯と一致させるかである。忍月はそんな鴎外の苦心に気づかず、単純に天方伯と切り離してエリスの方に追いやったのであるから、意図せずして、好意的なままに鴎外のもっとも痛いところを突くことになった。鴎外にとっては豊太郎がエリスの世界にふさわしいとか、ましてそれが近代的な自我の覚醒であるなどと大げさに評価されることはまったくもって心外であろう。鴎外は豊太郎をエリートとして肯定しようとしている。エリスに対して苛酷であるという指摘より、エリスにふさわしいとする指摘のほうが鴎外にとっては否定的評価になる。鴎外は忍月が指摘した豊太郎の否定的特徴を打ち消し、豊太郎を肯定し弁護するためにさまざまの創作上の工夫をしている。だから、忍月の指摘はこの「恋愛と功名」の葛藤の指摘にによってではなく、豊太郎の弱点の指摘において鴎外と基本的に対立することになり、また説明の順番も逆になったのである。

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