『舞姫』 論争 5 

  

 其妄六つは、非常に長いが、エリスとの関係についての鴎外らしい理解を含んでいるので全文引用しよう。
 足下は叉以爲らく小心、臆病、謹直、慈悲、知恩、解情の人は須く「ユングフロイリヒカイト」を重ずべし。太田生は此等の情を具へたり。故に彼は宜く「ユングフロイリヒカイト」を重ずべし。此論法は頗る正し。太田生は實に「ユングフロイリヒカイト」を重したり。故に彼はエリスと交ること久しくなるまで、其「ユングフロイリヒカイト」、其処女たる性を保護せしなり。其言に云く。われ等二人の間にはまだ癡ガイなる歓楽のみ存じたるをと。叉太田生はエリスが「ユングフロイリヒカイト」を傷けたるを、これをおのれが悲痛、感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄に帰せしなり。然れども足下が直に上の「ユングフロイリヒカイト」の論の末に語を添へて、今其人物(太田)の性質を見るに小心翼々たる者なり、慈悲深く、恩愛の情に切なる者なり、「ユングフロイリヒカイト」の尊重すべきを知る者なり、果して然らば、眞心の行爲は性質の反照なりといへる確言を虚妄となすにあらざる以上は、太田の行爲即エリスを棄てゝ帰東する一事は、人物と境遇と行為との関係支離滅裂なるものといはざるべからずといへるは、文理少しく透らざる嫌あるにあらずや。処女を敬する心と、不治の精神病に係りし女を其母に委托し、存活の資を残して去る心とは、何故に両立すべからざるか。若太田がエリスを棄てたるは、エリスが狂する前に在りて、其処女を敬したる昔の心に負きしはこゝなりといはゞ、是れ弱性の人の境遇に駆らるゝ状を解せざる言のみ。太田は弱し。其大臣に諾したるは事実なれど、彼にして家に帰りし後に人事を省みざる病に罹ることなく、又エリスが狂を発することもあらで相語るをりもありしならば、太田は或は帰東の念を断ちしも亦知る可らず。彼は此念を断ちて大臣に対して面目を失ひたらば、或は深く慙恚して自殺せしも亦知る可らず。臧獲も亦能く命を捨つ。況や太田生をや。其かくなりゆかざりしは僥倖のみ。此意を推すときは、太田が処女を敬せし心と、其帰東の心とは、其両立すべきこと疑ふべからず。支離滅裂なるは太田が記にあらずして足下の評言のみ。其妄六つ。
 忍月と鴎外の論の運びには微妙なずれがある。忍月はごく常識的で平凡な指摘をしているだけであるが、鴎外の反論は常識では考えられないくらいに俗物的でひねくれている。
 鴎外はまず豊太郎がエリスの処女性を尊重すべき人物である、という忍月の主張を「此論法は頗る正し」と強調している。作品でも豊太郎がエリスの処女性を尊重していることを強調し、そこに人格性が表れているとしている。忍月は処女性を尊重することをエリスとの人間関係として単純に理解している。だから処女性を尊重していながら帰東するのは支離滅裂と考えたのであるが、鴎外はエリスの人格の全体などまったく無視しているために、処女性を尊重することは単に情欲的であるかどうかだけを意味している。
 豊太郎がどのようにエリスの処女性を尊重しているかの一つの例を、『舞姫』本文から、二人の最初の邂逅の場面から紹介しておこう。
 「今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし、被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。我足音に驚かされてかへりみたる面、余に詩人の筆なければこれを寫すべくもあらず。この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。
 彼は料らぬ深き歎きに遭ひて、前後を顧みる遑なく、こゝに立ちて泣くにや。我が臆病なる心は憐憫の情に打ち勝たれて、余は覺えず側に倚り、「何故に泣き玉ふか。ところに繋累なき外人は、却て力を借し易きこともあらん。」といひ掛けたるが、我ながらわが大膽なるに呆れたり。
 彼は驚きてわが黄なる面を打守りしが、我が眞率なる心や色に形はれたりけん。「君は善き人なりと見ゆ。彼の如く酷くはあらじ。又我母の如く。」暫し涸れたる涙の泉はまた溢れて愛らしき頬を流れ落つ。」
 それにしても豊太郎はいつもいつもどの瞬間においても自分自身に対して神経質に肯定的な関心を持ち続ける青年である。豊太郎自身の観察によると豊太郎は臆病である。つまり処女性を尊重する心で一杯である。しかし、その臆病を憐憫の情が上回ったためについ声を掛けてしまった。善良で純粋な性質がより善良でより純粋な性質に負けてしまったというわけである。しかも、「我が真率なる心や色に形はれたりけん」と自分でも気がつくほどであるから、豊太郎がエリスの処女性をいかに尊重しているかわかるというものである。しかも、「涸れたる涙の泉はまた溢れて愛らしき頬を流れ落つ」と、その効果の大きさも念入りに描いている。鴎外はこのようなあきれるほど馬鹿らしい文章や、「この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の」といった文章によって、エリスをも豊太郎をも純粋な誠実な人物として描いていると考えているらしい。エリスとの関係ではこの種の文章をいくつも引用できる。初期三部作の肯定的な人間関係はすべてこの類である。
 ここには鴎外のあまりにも貧しい精神が現れている。エリスの処女性を尊重していることを豊太郎の特徴として特別に取り出して説明するとはなんと哀れむべき感性であろう。人間関係をこのような消極的で単純な形態でしか理解しえず描写しえないところに、人間関係と感情の希薄さがでている。処女性を重んじることは、相手に接近しない、積極的な関係を形成しないという臆病さで表現することができる。だから鴎外は安心して豊太郎を臆病だと書いているし、豊太郎も臆病を誇っている。エリスをせいぜい情欲の対象としてしか考えられない人間だけが、情欲を持たないことを相手の人格の尊重だと考えることができる。深い信頼関係を形成するには、相手の人格の全体を理解するだけの認識力と、信頼関係を形成するための力量、つまり明確に表明し表現する自己を持たなければならない。人間関係の形成発展におい豊太郎にみられるような自己肯定的で閉鎖的な臆病は最大の弱点である。鴎外がエリスとの関係において臆病を相手を尊重する感情の如く解釈しているのは、エリスに対する積極的な意志も感情もないことを肯定的に描写しているだけである。そしてそれは一般的には鴎外が積極的な人間関係の質をあるいは信頼関係の欠如の意味をも知らないことによる。

 鴎外が肯定的特徴として書いている「臆病」がどのような精神を意味しているかは、エリスの描写によく現れている。「この青く清らにて物問ひたげに愁を含める目の、半ば露を宿せる長き睫毛に掩はれたるは、何故に一顧したるのみにて、用心深き我心の底までは徹したるか。」などという胸の悪くなるような甘ったるい文章は俗物根性を露骨に示している。インテリにはこうした特徴は「鴎外好み」と言われているらしい。エリスの描き方に表れた俗物根性は、より一般的にはエリートに特徴的でより深刻な内容を持っている。「臆病」を本質的な弱点として深刻に捉えていた漱石は、その否定的特徴を具体的には女性に対する臆病、度胸のなさとして『こころ』の「先生」や「K」に描いている。漱石にとって「臆病」はたんに異性に対して積極的になれないなどという恋愛の処方箋のような単純な問題ではなかった。「臆病」は人間関係を形成できないインテリ一般の基本的な特徴として深刻な、真に克服すべき弱点であった。それは余りに根深く、たとえ意を決して人間関係を形成しようと努力しても内面に巣くった「臆病」=自己保身を克服することができないことを、自分の人格の本質的な限界と知って「先生」も「K」も自殺した。それが人間関係の狭い彼等にとっては特に「お嬢さん」との恋愛関係において明らかになった。彼等は豊太郎と違って「お嬢さん」に対して真剣な愛情を持ち、なおかつ「臆病」であったし、真剣な愛情を持つがゆえに「臆病」の根の深さを理解できた。鴎外の「臆病」は単に情欲的でないことを表すだけの、接近するための手段にすぎず何ら深刻な内容を含まない。しかし、臆病が内容を含まないことはその弱点を認識できていないという、より深刻な意味を持っている。エリスとの関係は表面的には、同情を持つだけでエリスが信頼するといった自惚れや、下心にみちたしゃれ者とか、遊び好きのお坊ちゃんの印象を与えるだけであるが、それは現象形態であって、実際は精神はより深刻な問題を抱えている。

 「太田生はエリスが『ユングフロイリヒカイト』を傷けたるを、これをおのれが悲痛、感慨の刺激によりて常ならずなりたる脳髄に帰せしなり」とはエリスの人格の無視であり否定であるが、より深刻にはエリスに対する積極的な意志を否定する、エリートの道を踏み外さないための本能的な自己保身である。鴎外は豊太郎の感情において情欲と愛情を分離しようとしている。エリスとの関係において純粋な愛情を示すために情欲を排除する必要がある。それはエリスとの関係において情欲の対象としてしか認識できない場合に想定する純粋性である。豊太郎はエリスに対して愛情を持たない。愛情の具体的な内容はあり得ない。ただ、情欲的でないことは他の留学生との関係で重要な意味を持っている。豊太郎が日記に書き付けるエリスとの関係は他の留学生の誤解に対する弁明である。処女性の尊重はエリスに対する尊重を意味するのではなく、留学生の讒訴を否定する意味を持つだけである。
 豊太郎はエリスとの関係で自分の意志を否定する。それは自分がエリスとの関係に深くは入り込まなかったことを示す保身的な意識からである。自己の欲望において情熱によって行動することがないという、自己の保身にのみ関心をもっているために、危険を回避する臆病のために対象に没入することがまったくできず、結局は自己を失っていくのが豊太郎の基本的な特徴である。この基本的な特徴の上にエリスに対する関係が生じている。エリスとの関係を隠すためにこのような保身的な精神が出てくるのではなく、保身的な精神がこの作品に表れたエリスとの関係を想定する。エリスとの関係の想定には鴎外の積極的な意志の喪失が反映している。この自己喪失の過程を自覚する過程を漱石は本質的弱点の克服過程として描いたが、鴎外はこの臆病を肯定し誇っている。自分の意志を明らかにせず、情熱をもたないことを、女性に対する尊敬の念の現れだと考え、信頼を獲得する根拠でもあると考えている。エリートの地位を重視する価値観にふさわしく、臆病で下心がなく、慈悲心に富んでいれば、自分で望まなくても人間関係が転げ込んでくるくらいの甘い自惚れた現実感覚を持っている。実際はそれは地位を得て維持しながら人間関係を喪失し自己を失っていく過程である。その過程の一つの段階として鴎外の女性観、人間観が描写されており、この後の作品の出発点をなしている。四迷や漱石や一葉などにはユングフロイリヒカイトを尊重する気分を肯定する精神が書かれる可能性などかけらほどもない。そんなことで肯定しうる人物など彼等は関心がなかっただろうし想定することすら難しかっただろう。彼らと鴎外は出発点において、またその発展の傾向においてまったく対立的な内容を持っており、その意味において日本精神史の一つの典型である。
 エリスは、外面的に、ただ憐憫や好色の対象にすぎない女性として描かれており、独立した個性としては描かれていない。しかし、表面的には捨て易い女性として否定的に描かれるのではない。豊太郎を愛した、豊太郎の面影として残るべき美しい女性として描かれている。エリスも母親も、豊太郎の感傷としてのこる人物として肯定されている。豊太郎は彼女たちの死や破滅を悲しむ事を愛情の表現と感じるのであって、積極的関係を形成し、その中で具体的な積極的な感情を形成することはできない。否定することで産まれる感情に浸ることでのみ肯定する点で非常に薄情で残酷ある。鴎外はこうした感情を深い信頼関係の反映であるかのように、対象を肯定する感情であるかのように考えるほど無批判的であった。豊太郎が本当に肯定するのは自己自身のみである。自己自身に対する関心の反射としてのみ他に対する関心が生じている。エリスに対する愛情に自分自身に対する愛情の歪んだ表現である。
 この作品には愛情において感動させる場面などない。豊太郎の肯定だけである。うなじがどうとか描くだけではエリスのイメージは魅力をもって浮かび上がってこない。鴎外はもともと女性を個性的に描く能力をもたない。せいぜい男の好色的な鑑賞の対像としての美が描かれるだけである。漱石でも四迷でも、女性は簡単に描かれていても魅力的に場面や姿が想像され、イメージが湧いてくる。それは一個の女性として、人格として個性として全体の流れで描かれているからであって、その場面の描写自体がすぐれていることにのみよるのではない。鴎外は美しい個性を描くのではなく、美しいと書く。苦悩を描くのではなく苦悩したと書く。発展する自我を描くのではなく、自我が発展したと書く。しかもそれをそのままにうけとめて高く評価する批評家がいるのだから不思議である。それは彼等も又憐憫の対象としての、捨て去るべき女性としての、感傷としてのみ残って決して人生の邪魔にならない女性が魅力的に映るからであろう。あるいは自己保身の技術に長けた豊太郎に親しみを感じるからであろう。
 忍月が豊太郎に処女性を重んずる特徴を認めたのは、豊太郎が出世できる人間ではないことを指摘するためである。処女性を重んずることに道徳的関心を持っているのではない。忍月は処女性を尊重する豊太郎の性格を、エリスが妊娠したことと矛盾していると指摘しているのではなく、天方伯にしたがって帰東することと矛盾していると指摘している。エリスに対する同情が豊太郎の個性であるのに、なぜ棄てて日本に帰るのか、という疑問である。ところが鴎外は、豊太郎がユングフロイリヒカイトを尊重すべき人物であるのに、関係をもったではないかと忍月が非難しているかのように感じている。鴎外にとってはこれが他の留学生にたいする弁明として重要な意味を持っていたからである。しかし、他の留学生も忍月もこんなことを真面目な問題として取り上げることはないだろう。それが出世にかかわる重大な問題であると考えるのは鴎外だけである。弁明を事とする人物にふさわしく弁明の内容もあまりにも貧しい。
 忍月の説明は非常に端的で単純である。「眞心の行爲は性質の反照なりといへる確言」によって全体的な流れによって的確な判断を下している。嘉部氏は忍月のこの指摘について「『真心の行為は性質の反照なり』という単純な枠の中には収まりきらない条件が設定されているのである。」(172頁)と批判している。しかし、この単純な枠の中に治まり切れない条件などありえない。この観点から作品を評価していることは忍月の非常に優れた感性である。「眞心の行爲は性質の反照なり」というのは動かすことのできない真理である。鴎外は行為の真実をごまかすために、こまかな諸事情や心理を書き込んだ。しかし、どんな説明も全体の流れを変えることはできない。ただ弁解しごまかすことで見苦しさをますだけである。忍月はそうした説明にごまかされることなく、全体的流れの特徴を掴んでいた。


 鴎外は、「ユングフロイリヒカイト」を重んじることがエリスを尊重することだと考えるのと同じレベルで豊太郎の帰東についても説明している。忍月の指摘は、エリスとの関係から見て豊太郎が天方伯に従って帰東するのは個性と一致せず、支離滅裂であると指摘している。ところが、鴎外は、エリスを捨てたのはやむをえない事情によるのだから仕方がないではないかと、また見当外れの弁明をしている。
忍月は豊太郎の性格からしてエリスを捨てること自体を問題にしているが、鴎外は捨てる事を前提にしているために捨て方を問題にしている。
 「処女を敬する心と、不治の精神病に係りし女を其母に委托し、存活の資を残して去る心とは、何故に両立すべからざるか。」
 豊太郎の処女性を敬する心と存活の資を残して去る心とは両立する。豊太郎がエリスに対して示し、エリスが信頼したのは豊太郎が金を与えたからである。ここでも、不治の精神病にかかったエリスに生活の資を残して帰るのは十分の配慮ではないかと主張している。これが作品の内容でもある。
 豊太郎の運命を決定したのはエリスが「不治の精神病」にかかったことである。エリスへの愛情や天方伯による功名への情熱が豊太郎の人生を決定するのではなく、最終的にはこの偶然的な事件がすべてを決定している。豊太郎の意志は常に打ち消されており、豊太郎の運命を決定するのは外的な事情である。特に帰東についてはいかに鴎外の伎倆をもってしても解釈による弁明は不可能であるから、エリスが「不治の精神病」にかかる必要があった。この場合は誰にも責任はなく、ただ諦めるしかない偶然的な不運であり、感傷が残るだけである。豊太郎からエリスを捨てる意志をなくすためにエリスの精神全体を廃棄している。豊太郎の意志を否定する必然的な結果として、偶然性が豊太郎を決定することになり、その偶然がエリスの「不治の精神病」や死となる。「不治の精神病」になったのだから帰東したのは仕方がないという鴎外の主張は、正しくは帰東するのだからエリスが「不治の精神病」になるのは仕方がない、ほかに豊太郎の意志を否定するどんな方法があるのか、ということである。鴎外が「エリスが狂を発することもあらで」という仮定のもとにまったく逆の展開もありえたと説明していることも、鴎外がこの偶然の描写にいかに大きな意義を認めているかがわかる。しかし、このような偶然によってエリスとの関係を説明しようとすることに、この作品に描かれた豊太郎の特徴と同じ思想的な必然が、エリスに対する冷淡で残酷な感情が表れている。

 エリスの病気という偶然によって帰東が決まるというのは、帰東についても豊太郎自身の必然性は表れないということである。日本に帰る舟中での日記には、エリスを捨てたことも、天方伯に従って出世することも豊太郎の意識には表れない。冒頭に描かれている豊太郎の感傷は具体的な葛藤がないことの感情的表現である。豊太郎の感傷はエリスとの関係を選ぶべきであったか、あるいは捨てるべきであったかという内容をどんな形ででも、たとえ後悔の形式であっても含めば、その苦悩の真実性が問われる。偶然的な不幸がもたらした、正体を明らかにしえない悲しみとも憂愁ともごまかしともつかない無意味な気分が、「石炭をば早や積み果てつ」といった類の無意味な文章で描写されている。不治の精神病にかかったのだから、金を与えて帰って来たのだから、それ以上の対処はできないということですべては片づいている。豊太郎は人生上の経験に自分の奇跡を残さず、精神にも何も蓄積しないことにに努力する運命を決定づけられている。それがエリスを犠牲にした代償である。こうした感傷は無意味であるからこそ深いと感じる読者を引きつけるのであるが、具体的な感銘を与えることはない。

 鴎外は豊太郎を弁護しようとしており、そのためには豊太郎の意志を打ち消す、そのために具体的な葛藤の描写を避けねばならない、という流れは作品の分析によって生ずる過程であり、鴎外がこのように意識して描写しているのではない。構造の順序は逆である。この作品の成立においては、鴎外は社会的な意味のある具体的葛藤を知らない、というのがまず第一である。作品に即して言えば、豊太郎にはエリスを捨てるべきではないといった道徳的な当為を(こうした当為は歴史的に後になって生じた批評の意識である)持っていない。また、国家的使命のために留学生としての時間を具体的課題のために真剣に取り組む意識もない。出世に対する意識は道徳的な意識や目的意識とまったく別に強烈に根強くもっている。だから、出世の妨げになる一切の矛盾、葛藤を回避するのが基本的な意識である。この立場において弱点を持たないこと、人格的であること等の道徳的な形式の瑣末な価値観が発達する。抽象的に言えば人格的で、謙虚で、同情に満ちて、等々であるが、その具体的内容は自己保身であり、その観点からする日常的な弁解である。豊太郎に大きな葛藤はなくなっている。関心が瑣末になっている。明確な強い意志は持てなくなっている。そのためにすべての意識形態が他との関係においては自己保身になり弁明の形をとる。だから意識して弁護しているのでも意志を打ち消しているのでも、葛藤を回避しているのでもない。他から見れば意志や深刻な葛藤を失っているような意志や葛藤をもっているために、その意志や葛藤を理解するのが難しいのである。

 この作品がエリスに対する道徳的な弁明に見えても、鴎外の不道徳な経験を弁明するために(このように解釈するとエリスのモデル問題が注目される)生じているのではない。豊太郎にエリスと別れるという悲劇的な葛藤を与えることが豊太郎の高度の精神の描写であり、それによってエリートとして肯定されると考えるのが鴎外の思想である。鴎外はこの論争ではっきり言明しているとおり、豊太郎がエリスに対して非道徳的に対処しているとは思っていない。したがって、鴎外は非道徳的な行為について弁明し歪めて解釈しようとしたのではない。鴎外は豊太郎を否定的に描くことはできなかったし、否定的性質を受け入れるほどの度胸もなかった。鴎外は豊太郎の同情や愛情や善意といった肯定的な精神を可能な限り書き込み、その上で豊太郎とエリスが彼らの意に反して運命を引き裂かれた悲劇として描こうとしている。そして可能な限り豊太郎をも豊太郎とエリスの関係をも豊太郎と相沢や天方伯との関係も美しく描こうとしていながら、その立場を肯定する無批判的な思想のゆえに、その立場の必然性を端的に表現してしまったのである。留学生と外国の貧しく少女との美しくも悲しい物語に自己弁護や残忍苛酷を表現しようなどとは思っていなかったし、結果として描かれているとも思わなかった。豊太郎とエリスの一致などもともと想定することすらできない鴎外にとって、エリスに対して悪意を持つことなく別れることが考えうる最大の善意である。しかし、エリスとの分離と豊太郎の善意を一致させることが不可能であることを理解できない鴎外は、この一致を想定する精神がどのような社会的内容を持つかを意識することなく対象化した。それが他の精神にとっては、しかも表面的な理解においては弁明という形式をとるのは思想の客観的な法則であって鴎外の意志を超えた内容を持っている。
 鴎外にとって豊太郎とエリスの一致はありえないから、作品はエリスを捨てることを肯定している。さらに、それを美しく描こうとしているために、捨てない視点などないにもかかわらず、つまり捨てることについての是非の葛藤などまったくないにもかかわらず、捨てることの弁明に見える。そのために、エリスに対する苛酷な仕打ちを批判なる立場に立つ場合に、しかも、エリスとの関係を選択することが道徳的に善であるといった単純な当為を思想として持つ場合に、豊太郎の弁明を道徳的にどのように扱うべきかという問題に直面することになった。それは作品内容と無関係の、鴎外が描いた葛藤の質を理解できないことの告白である。鴎外にとって豊太郎は人格的である。隠すべき弁明すべき不道徳など存在しない。明らかにすべきは、鴎外にとって高度の人格的な精神が必然に弁明にみちた残忍苛酷な精神になることであって弁明を批判することではない。弁明はエリートの立場を肯定する思想の必然である。忍月がこの作品に社会的葛藤を見いだしたのは、より本質的な意味で間違っている。この作品を理解する場合に重要なのは、大きなあるいは重要な社会的葛藤がないことである。そしてこの作品に社会的葛藤を見いだすことは、現実の社会的葛藤を認識できず、ここに描かれているエリート的に浅薄な社会的葛藤を批判的に理解できなかったことを意味するのである。

 「其妄六」の次の後半の文章は、そのまえの文章の流れとして必然的にでてくる文章であるが、実際にこのように露骨に書かれるとあまりにも恥知らずだと言わざるをえない。
 「若太田がエリスを棄てたるは、エリスが狂する前に在りて、其処女を敬したる昔の心に負きしはこゝなりといはゞ、是れ弱性の人の境遇に駆らるゝ状を解せざる言のみ。太田は弱し。其大臣に諾したるは事実なれど、彼にして家に帰りし後に人事を省みざる病に罹ることなく、又エリスが狂を発することもあらで相語るをりもありしならば、太田は或は帰東の念を断ちしも亦知る可らず。彼は此念を断ちて大臣に対して面目を失ひたらば、或は深く慙恚して自殺せしも亦知る可らず。臧獲も亦能く命を捨つ。況や太田生をや。其かくなりゆかざりしは僥倖のみ。此意を推すときは、太田が処女を敬せし心と、其帰東の心とは、其両立すべきこと疑ふべからず。支離滅裂なるは太田が記にあらずして足下の評言のみ。其妄六つ。」
 この弁明が問題にしている、エリスが狂する前の豊太郎の裏切りは、次の場面からはじまる。
 「これにて見苦しとは誰れも得言はじ。我鏡に向きて見玉へ。何故にかく不興なる面もちを見せ玉ふか。われも諸共に行かまほしきを。」少し容を改めて、「否、かく衣を更め玉ふを見れば、何となくわが豐太郎の君とは見えず。」又少し考へて。「縱令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ。我病は母の宣ふ如くならずとも。」
「何、富貴。」余は微笑しつ。「政治社會などに出でんの望みは絶ちしより幾年をか經ぬるを。大臣は見たくもなし。唯年久しく別れたりし友にこそ逢ひには行け。」
 これは、豊太郎がはじめて天方伯に会う直前の場面である。ここでは、鴎外はエリスと別れることを意識して描いている。エリスが「縱令富貴になり玉ふ日はありとも、われをば見棄て玉はじ」と言うのも、豊太郎が「何、富貴」と、「大臣は見たくもなし」というのも、別れの悲劇性を強く意識しているからである。このあと豊太郎の弱さによってエリスと別れる過程を描くが、豊太郎の弱さがエリスと別れる要因となるには、その弱さを押し切る他の事情が必要になり、相沢や天方伯の意志や偶然が悲劇の要因として描写されていく。
 豊太郎の運命を決定するのは偶然である。豊太郎は意志を持たない、したがって葛藤もない。それが豊太郎の弱さである。意志も葛藤もないから豊太郎には自分の運命に対して責任が生じない。豊太郎は常に善意をもったままである。鴎外にとってはエリスに対してそれが人格的であり美しい。それがどれほど無責任で不誠実で冷淡であるかを理解できない。エリスを捨てる意志を持たずに捨てるために、捨てる要因が天方伯や相沢や偶然になる。だからそれが弁明に見える。実際は豊太郎が捨てているにもかかわらず、豊太郎は捨てる意志をもたないままだからである。積極的な意志を表明しない豊太郎の形式においては、どれほど工夫しても運命的な分離という形式も、運命的な葛藤という形式もとることはできない。強い意志や情熱と客観的な諸関係との対立においてのみ高度の葛藤や運命的といわれるほどの展開を描くことができる。豊太郎は一般に運命に対して保守的にのみ対処しているので葛藤や情熱や運命とは縁のない人物である。だからそれは弁明に見える。それは表面的な理解であるが、正当な理解でもある。

 作品ではこのあとすぐに手順よく、すでに紹介した、相沢が設定した豊太郎に都合のよい選択肢が書かれている。そして、その結果として既に引用した次の言葉が来る。
 「貧しきが中にも樂しきは今の生活、棄て難きはエリスが愛。わが弱き心には思ひ定めんよしなかりしが、姑く友の言に從ひて、この情縁を斷たんと約しき。余は守る所を失はじと思ひて、おのれに敵するものには抗抵すれども、友に對して否とはえ對へぬが常なり。」
 これがエリスに背いた第一の場面である。すぐに第二の場面がある。
 「一月ばかり過ぎて、或る日伯は突然われに向ひて、「余は明旦、魯西亞に向ひて出發すべし。隨ひて來べきか、」と問ふ。余は數日間、かの公務に遑なき相澤を見ざりしかば、此問は不意に余を驚かしつ。「いかで命に從はざらむ。」余は我耻を表はさん。此答はいち早く決斷して言ひしにあらず。余はおのれが信じて頼む心を生じたる人に、卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり。さてうべなひし上にて、其爲し難きに心づきても、強て當時の心虚なりしを掩ひ隱し、耐忍してこれを實行すること屡々なり。」
 エリスを捨てることになる原因は、あるいは運命は「友に対して否とはえ対へぬか常なり」とか、「卒然ものを問はれたるときは、咄嗟の間、其答の範圍を善くも量らず、直ちにうべなふことあり」という豊太郎の弱い性格によって決定されている。この運命の岐路の質は、それを決定する具体的要因の中に示されている。ここで問題になっているのは、豊太郎が自分の意思をはっきりさせることができなかったことだけである。それが気が弱いせいであるか、友を思う気持ちのせいであるか、急に聞かれたせいであるか、とかの事情はこの場合問題ではない。要するに、ここで問題になっているのは、こうしたごくごく瑣末な要因に左右される葛藤であって、階級的な分岐点とかの社会的必然性の巨大な岐路が描かれているのではないし、悲劇といえるほどの岐路でもない。急に言われたからという事情で説明できるほどの岐路である。鴎外はエリスを捨てる事情をたくさん書き込んでいる。たくさん書く必要があるほどに一つ一つの事情はつまらないし、そのために、それは言い訳にみえる。どのように工夫して表現しても悲劇とは見えず、言い訳とか見えない岐路であるし説明である。鴎外はそうした岐路しか知らないし、そうした葛藤しか知らない。臆病で弱い豊太郎にはそうした瑣末な岐路しかありえない。ただ豊太郎にとってはそれは巨大な岐路であるから、そのつまらない葛藤を大げさに表現したり認識したりする能力は発達する。しかし客観的には岐路の質と認識の内容も表現の仕方も一致している。豊太郎の葛藤はエリスと別れるべきかどうかという深刻さに届かない。別れることを前提にした瑣末な、どれほど美しく描こうとしても弁明にしか見えないような葛藤が豊太郎の精神の限界である。

 このあと、豊太郎は運命の糸に捕らわれていることが、その糸をつくったのも豊太郎の下らない性格であるのに、他人ごとのように語られる。
 「今更おもへば、余が輕率にも彼に向ひてエリスとの關係を絶たんといひしを、早く大臣に告げやしけん。
 嗚呼、獨逸に來し初に…今はこの絲、あなあはれ、天方伯の手中に在り。
 豊太郎は自分が天方伯に信頼されていることを知った。のみならず、相沢が自分の軽率な言葉を大臣に告げたかもしれない、と思いつくと「あなあはれ、天方伯の手中に在り」と詠嘆している。これは葛藤ではなくて結果の追認である。天方伯に信頼されたと悟ることはエリスを捨てる悲しみや自分の運命を追認して哀れむことだけを結果している。自体はすでに意識されているにもかかわらず豊太郎には対処する意志は生まれない。
 こうして隠すことのできない太い尻尾を出しつつも、作品ではまだ運命的な葛藤を演出している。
 「善くぞ歸り來玉ひし。歸り來玉はずば我命は絶えなんを。」
 我心はこの時までも定まらず、故郷を憶ふ念と榮達を求むる心とは、時として愛情を壓せんとせしが、唯だ此一刹那、低徊踟※の思は去りて、余は彼を抱き、彼の頭は我肩に倚りて、彼が喜びの涙ははらはらと肩の上に落ちぬ。「幾階か持ちて行くべき。」と鑼の如く叫びし馭丁は、いち早く登りて梯の上に立てり。
 田舎芝居のようなばかばかしい描写である。栄達と愛情が単純に対比され、この抽象的な葛藤のなかでエリスがはらはらと涙を流すなどというのは、下手な台本のセリフである。栄達にしようか愛情にしようか、という抽象的な葛藤であるからこそ、具体的な内容を持たないからこそ、突然言われたときはつい栄達を受け入れるが、エリスの涙をまえにしてはつい愛情に引かれるといった、その場その場での転化が生じる。葛藤の内容が抽象的で巨大であるからこそ非現実的であり信用しがたい。エリスを捨てることを当然と考える感覚のもとで葛藤を想定するばあいに下らないつくりものになる。こんな葛藤より定食にしようか丼物にしようかという葛藤の方がまだ深刻であるし現実味がある。
 このあと、決定的にエリスを裏切る場面を描いている。鴎外の感覚では、理由をはっきりさせさえすれば何でも弁明できるから、エリスの悲しみも、自分の否定的特徴も平気で描いている。

 「われと共に東にかへる心なきか、君が學問こそわが測り知る所ならね、語學のみにて世の用には足りなむ、滯留の餘りに久しければ、樣々の係累もやあらんと、相澤に問ひしに、さることなしと聞きて落居たりと宣ふ。其氣色辭むべくもあらず。あなやと思ひしが、さすがに相澤の言を僞なりともいひ難きに、若しこの手にしも縋らずば、本國をも失ひ、名譽を挽きかへさん道をも絶ち、身はこの廣漠たる歐州大都の人の海に葬られんかと思ふ念、心頭を衝いて起れり。嗚呼、何らの特操なき心ぞ、「承はり侍り」と應へたるは。

 語学だけというのも、立身出世の具体的目標や意志を持たない留学生らしい能力である。「さすがに相澤の言を僞なりともいひ難きに」という言葉には、意志の障害のレベルの低さが、つまり豊太郎が断る意志の弱さが、というより断る意志などまったくないことが現れている。このレベルの困難ならいつどんなときでも思いつくことができるし実際に存在するであろう。常に無数の障害に囲まれているなかで彼に意識されるのがこの程度の障害しかないということであり、したがって断る意志のないことを、彼が発見しえた困難が証明しており、それが不自然なほどつまらないために、言い訳に見えるのである。こうした困難の想定も鴎外の社会的認識能力のレベルの低さを示している。
 「嗚呼、何らの特操なき心ぞ」という言葉には、豊太郎がまったく徳操など持ち合わせていないことが現れている。自分の言葉に徳操がないとしつつも、何ら対処する意志が動かない。それは徳操がないことを反省しているのではなく、徳操がないぞ、と宣言することである。徳操がないといわれるかも知れないが、そんなことは自分で分かっているぞ、非難しても無駄だという宣言である。鴎外がこのように描くことができるのは徳操についての葛藤がまったくないからである。ここで徳操が問題になるとは思っていないからである。エリスとの一致を深刻に考えていない鴎外にとって、また相沢や天方伯との関係がすべてである鴎外にとって、豊太郎に捨てる意志がないのであるから、天方伯に対する忠誠や相沢に対する友情を理由としてあげることで十分に徳操は説明されている。鴎外はつねに肯定的に説明できる場合にのみ豊太郎を否定的に表現している。だからそれもまた弁明に見える。「嗚呼、何らの特操なき心ぞ」と反省すること自体がいかにも徳操のない精神を印象づける結果になる。
 このあと「黒がねの額はありとも、歸りてエリスに何とかいはん。『ホテル』を出でしときの我心の錯亂は、譬へんに物なかりき。」と書いているが、豊太郎は錯乱を引き起こした内的矛盾をさけるための対処はなにもしなかったのであるから、錯乱と言っても大した事情のもとで起こったものではない。強制されたものでも、避けられなかったものでもなく、彼がそれをよしとして選択したものである。彼は天方伯の申し出を断る勇気はなかったが、エリスを裏切る勇気はあったのだから、たとえ、「我腦中には唯々我は免すべからぬ罪人なりと思ふ心のみ滿ち滿ちたりき。」と考えても、そう考えるだけで、罪を回復する気はなく、ただ自分でそう思っていると言っているに過ぎないから、葛藤としても実践的に対処する必要を感じるほどではない深さ、真面目さである。そのまま倒れて数週間人事不肖に陥ったとしても同じことである。結果は重大に見えるが、それは豊太郎がこうした瑣末な葛藤ですぐに人事不肖に陥る性格、傾向をもっていること、多少でも自分に不都合な事情が迫ればすぐに人事不肖に陥って使い物にならなくなることを、つまり豊太郎自身の信用しがたい必然性を示しているだけで打撃の大きさを示すものではない。豊太郎としてはエリスに対して最大限の誠意を尽くすことが人事不詳に陥ることである。豊太郎にはこれまでの経過からしてこれ以上の誠意を見せることはできない。たとえそれが残酷で不誠実で卑劣であっても、豊太郎の能力においては限度一杯の誠意である。

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