『舞姫』 論争 6 

  
 前回「こんな葛藤より定食にしようか丼物にしようかという葛藤の方がまだ深刻であるし現実味がある。」と書いたことについて、漱石とならぶ文豪とされる鴎外の代表作についてこのように書くことは極端だとか冗談と思われるかもしれないが、これがごく真面目な話であることについてすこし書き添えておこう。
 定食か丼物かという葛藤は現実的で具体的である。定食にしようと思っていたのを、友人に君も丼物にしろ、といわれてつい丼物にしてしまった、あのとき定食にしていれば、と「一点の彼を憎むこころ今日までも残れりけり」という会話は現実的で具体的である。それが日替わりメニューで好物が入っていたとかの条件があれば、多少の深刻さもないとはいえない。これを日記に書きつけるにしても同じことである。
 ところが友人に、実は貧しい「舞姫」を選ぼうと思っていたが、友人に大臣にしろといわれて、つい大臣を選ぶと言ってしまった、その上「舞姫」が精神病になってしまったので、しかたなく大臣を選んだ、病気になっていなければ「舞姫」を捨てるわけにもいかないし、大臣に申し訳なくて今頃自殺していて、こうして食事をしていることもなかっただろう、と言えば冗談とも思えないほど馬鹿馬鹿しい話である。エリスか大臣かの選択は人生の全体を規定するもので、というより実際は人生全体によって意志に先立って規定されているもので、ついとか友達がとかいう話ではないし、自由に選択できるものでもないことを誰もが理解するだろう。エリスとの関係であろうと天方伯との関係であろうと、一般に人間関係は能力の全体によって、さらにあらゆる偶然の蓄積によって形成される過程であって、単純に踊り子か大臣かといった選択肢として眼前に据えられるものではない。ところが、擬古文体で「石炭をば早や積み果てつ」とまじめに書かれると、このような選択がほんとにありそうな、ほんとに深刻そうな、少なくとも真面目にそう思っている話だと思い込まされてしまう。実際、イデオロギー的な偏見に毒されていない常識的な感覚によれば、この作品の葛藤が定食と丼の選択の葛藤よりはるかに馬鹿馬鹿しいことはすぐに理解できるが、そのばかばかしさがどこにあるかを理論的に理解するのは非常に難しい。豊太郎を肯定的に評価する場合はこのような課題は生じない。つまり豊太郎を肯定する立場には一般に理論が成立しないのである。

 さて、前回の続きの部分の「弱性の人の境遇に駆らるゝ状を解せざる言のみ」といった文章は、意味を深く考えることもなくよく使われる文章である。豊太郎がついエリスを裏切る約束をしたことを弱い性格や、友情の深さや、相沢の善意によって説明することは、表面的には自分の責任を回避する弁明であるように見える。ところがこれをより抽象化して一般的な形式で考察すると単純なものではなく、従って自己認識としても二重化された弁解としてではなく、端的な自己認識として形成されることがわかる。そのために、こうした自己認識ないし現実認識は、批評家のより一般的で抽象的な、おそらく彼らの意識としてはより深い理解として、歴史や時代のせいだと考えられ、そのために豊太郎を境遇の犠牲であるとか時代の犠牲であると解釈される。その場合は、現象としてはっきり馬鹿げた弁解であることがわかっても、境遇のせいでないとも時代のせいでないとも言えないから批判は簡単ではなくなる。批評としてはこのような理解を理論的に超えなければ読者の端的な印象に届かなくなってしまう。批評する場合は、一般な形式として、それが弁解であるかどうかではなくて、あるいは、豊太郎の弁解じみた自己認識とはどのようなものかを、境遇と個人、時代と個人の関係一般の問題をも含めて説明しなければならなくなるからである。
 豊太郎が状況に左右されて、自分を明確に持たない、という意味で弱い、つまり、意志を持たずに自分のエリート的な利益のために簡単にエリスを裏切るのは、境遇のせいであると言える。だから境遇がわるいとも言える。実際に境遇が大変悪い。境遇がいかに悪いかは境遇の結果である豊太郎をみても分かる。境遇が悪いせいで豊太郎は大変不誠実な人間である。しかし、境遇に駆られることは強い人物も同じである。強い人物の方が強く深く境遇に駆られているといえる。その場合結果からいえば、それはよい境遇のせいだといえる。その場合には境遇の性にする必要がなく、主観の強固な意志が表れるし、形式として境遇のせいにしたとしても弁明ではなく謙虚と思われるだろう。
 善人でも悪人でも、強い人間でも弱い人間でもすべてが境遇に駆られている。すべての人間は境遇に駆られて行動しているのだから、境遇に駆られることを弱いとするのは、境遇と個人との関係の特殊な解釈である。積極的な内容を目的として持たない場合には、したがって意志を持たず、あるいは消極的には意志を表明することが利害と対立する場合に、境遇に規定されることを「弱い」と否定的に表現される。それが相沢のせいであると具体的に描かれると責任転嫁になるし、実践の内容が出世のためにエリスを犠牲にすることだから、弁明や誤魔化しと見られる。決定的には実践の内容である。
 個人の意志は例外なく境遇に規定されている。意志が境遇に規定されているというのは、意志の内容の規定が境遇にあるという意味で重要である。したがって、個性や意志に対する徹底的な批判は境遇に対する批判と境遇の変革にまで達しなければならないという意味を含むことになる。つまり認識を境遇にまで深めることを意味しているのであって、意志を不問にすること、意志を否定することを意味するのではない。すべての意志が境遇に規定されているならば、悪しき個性や意志の変革は境遇の変化によるしかないであろうし、実際にそうである。しかし、それはその個性や意志が悪いことと対立するものではない。
 形式的にみれば境遇と対立する変革的な主体も境遇によって形成される。境遇は客観的な法則としてそれ自身矛盾を含んで発展している。境遇は内的矛盾を促進する契機として、その境遇に対する変革的な意志を主観として形成する。その主体は境遇の否定的契機を自己の本質として、肯定的契機にたいして対立的に働きかけることを自由と感じる。現象的には肯定的要素が支配的であるので主体性は境遇全体との対立という形式をとる。主体が境遇に対する変革的な契機となりうるのは、もともと境遇に規定され、境遇によって生み出され、境遇を変革すべく形成された、境遇と一致した内容=境遇の特有の否定的内容を持つからである。だから正確にいえば、この変革的個性は境遇の発展的傾向と一致していることになるが、境遇の保守的な肯定的な側面と対立するという意味で境遇にたいして対立的とか破壊的とかいうことができる。

 豊太郎と境遇は、鴎外や大抵の批評の評価とまったく逆の関係にある。豊太郎は出世を自分の利害としている。その利害と対立する意志を持たない。その上でエリスを捨てる意志を持たずに他の事情によって説明している。自分の境遇であるエリートの地位に対する批判的な意識はまったく持たず、エリートの地位を守る必然に従おうと意識している。境遇のせいにする豊太郎の意識はすべて彼がエリートの地位に、あるいは天方伯にいかに従順であるかを示しているだけであり、鴎外も従順さを示そうとしているのであって抵抗を示そうとしているのではない。境遇のせいにするのは豊太郎の場合は、自己肯定的な、自分が優れているために天方伯に信頼されてしまうという意味を持っている。信頼されるための意志を持たないほどに消極的であるために、それが積極性を前提とする意識には弁解に見えるだけであって豊太郎には弁解するほどの複雑な意識はない。境遇の犠牲という形式をとるのは鴎外にとっては豊太郎がいかにエリートの境遇に合致しているか、を逆説的にエリート的な工夫によって示しているだけである。ただ、そのように歪んだ形式で意識されるのは、豊太郎が自己の境遇を保守的に現状維持的に臆病に守ろうとしているからであり、つまり境遇との対立を恐れるからであり、対立的な意識が形成されているのではない。
 豊太郎は自分の行為を境遇のせいにしている。したがって意志が境遇に規定されるという原理を豊太郎に適用する場合は、意志を否定して自分の行為を境遇のせいにするという独特の形式をとる豊太郎の精神はどういう境遇に規定されて形成されたのかという問題になる。豊太郎の意識の保守的な特徴はエリスや天方伯に対する、またエリスや天方伯と自分の関係の認識のなかに現れている。それは抽象的に言えば、エリートではあってもそれ以上の出世が容易でない官僚の立場を無意識的に肯定する意識である。そしてこのような立場による自己肯定的な意識が、この立場と対立する立場にとっては、弁明という形式にみえる、ということである。
 豊太郎の中間的な立場での自己肯定的な意識は、エリスの世界や天方伯の世界の必然性を認識できない。その世界で生き抜くことがどれほど困難でどれほど力量を必要とするかを理解しておらず、その両者に囲まれている自分の境遇の現実的な意味、位置を理解できない。理解できないだけでなく、自己肯定的な意識の特徴として、自分とエリスや天方伯との関係を転倒して認識する。自分の立場がもっとも優位にあるという幻想を持ち、両方の世界が自分の優れた能力を求めているかのような幻想を持ち、そのために、あたかもエリスと天方伯の世界が自分の自由な意志による選択の対象であるかのように考えることが豊太郎の現実認識の特徴である。
 自分の立場や力量に対する不当に高い評価と楽天性は、形成されたばかりの発展的な地位にあり、否定的な契機がまだ弱く、現状に対する批判的な意識、境遇内部の対立的な意識が形成されていないことを反映している。すでに大量に形成されている官僚やインテリにとって天方伯に接近することは非常に困難になっていても、留学生という現状に満足している保守的な若い鴎外には批判的意識は形成されなかった。たとえ自己認識が現実と食い違っても、それを一時的な不当な評価だと思うくらいの、現実に対する甘い認識がこの作品に現れている。時代が変化して、この境遇に矛盾が展開してくると、不当なのは現実ではなく、自分の甘い自己認識であることが、欲望と現実との衝突によって強制的に認識させられ、それを自己の本来の姿だとして受け入れることができない場合は、甘い自惚れが苦々しい屈辱感や不満へと変わっていくのである。

 豊太郎がエリスや天方伯に高く評価されると思うのは豊太郎の幻想である。逆にいえば豊太郎がエリスと天方伯を自由意志によって選択するという葛藤も幻想である。となると、エリスや天方伯に信頼されて、それを裏切ることも幻想であろうし、そのことについての弁明も幻想である。つまり現実的で客観的な意味を持つものではない。この作品に描かれたすべてのくだらない葛藤はエリスの世界とも天方伯との関係のない、また関係がないことによって生ずる、豊太郎の世界内部でおこる葛藤にすぎないことになる。
 豊太郎の意識は自己の立場の必然性に無批判的で、その必然性の内部の偶然性において葛藤している。豊太郎の意識は偶然が支配する非常に狭い世界に閉じ込められている。その矛盾全体を規定する豊太郎の境遇は豊太郎にはまったく意識されず無批判的に肯定的にうけいれられている。そのために境遇の必然性の限界に気づかず、その内部での瑣末で偶然的な選択が人生を決定する大きな葛藤の内容となる。自由の意識で言えば、狭い境遇による規定のために意識が極端に限定されており、そのために境遇内部の偶然的な選択枝が豊太郎にとっての自由の範囲となり、それが拡大、転倒されて歴史的社会的な選択であるかのように意識される。エリスの世界も天方伯の世界も現実的な内容において理解されておらず、豊太郎の自由意志によって規定されるものとして認識され想定されている。エリスも天方伯も相沢も留学生もすべて豊太郎との関係で、豊太郎の優位のもとに、豊太郎を中心に、豊太郎の意志との関係で動いているように想定されている。
 この非現実的で豊太郎の夢想でしかない人間関係の想定によって豊太郎は自分が自由であり自分の意志が容易に実現できるものと想定できる。このような想定においては豊太郎にとって現実的な困難は生じない。鴎外が想定する豊太郎の優位のもとに展開される人間関係に表れる限界は、豊太郎がどんな困難も、課題も葛藤もえられないし、したがって解決もできないということである。そのような立場であるからこそ無課題、無葛藤を肯定的に評価できる。こうした無力な立場では弁明という認識形式が発達する。すべての人間関係が豊太郎の優位によって展開している場合、豊太郎の意志を否定しても豊太郎の能力が関係を動かしていると想定されており、豊太郎の優位を描く必然性においてエリスを捨てることの弁明という形式が現実認識の本質によって形成される。鴎外はエリスとの関係をも天方伯との関係をも否定的批判的に認識する能力はなく、したがってそれを罪悪と思う能力はないのであるから、弁明の必要もない。鴎外は登場人物のすべてと、相互の関係を肯定的に美しく描こうとしている。しかし鴎外の立場とその精神の必然として鴎外の考える肯定的で美しい人物や人間関係が他の立場や精神には残酷で不誠実に見える。多くの批評がこの作品を肯定的に評価しているのは、その立場と精神が鴎外と一致していることを示しており、批評は自分の立場をこの評価によって明らかにしているのである。
 豊太郎の精神は、境遇にまったく縛られた上で、また縛っている境遇が偏狭で孤立的であるために、偏狭で無知な精神がうまれ、その無知に基づいて意志の自由を想定しており、自由の幻想に酔っている。意識におけるまったくの不自由が意志の自由の幻想を生み出し、現実認識のすべては不自然な自己肯定としての弁明となる。恋愛と功名を、換言すればエリスと天方伯の両方を選択可能だと考えることが、実際は、両方から拒否され、両方を選ぶことができず、両方から孤立していることによって生ずる特有の幻想である。豊太郎はエリスと天方伯のいづれを選択するかという葛藤において結局自己をのみ選択する。エリスも天方伯も客観的には豊太郎の認識の彼方にある。彼の選択肢は彼が自分の精神において想定できる限りでのエリスと天方伯の像である。彼はエリスからも天方伯からも選択されるのではなく、自己を自己によって選択し肯定できるだけである。

 境遇による弁明(実際は境遇の認識であるが形式として弁明になるという意味で弁明といっても間違いではない)に続くこの後の鴎外の説明は、この作品の意義をあからさまに示している。
 「其大臣に諾したるは事実なれど、彼にして家に帰りし後に人事を省みざる病に罹ることなく、又エリスが狂を発することもあらで相語るをりもありしならば、太田は或は帰東の念を断ちしも亦知る可らず。彼は此念を断ちて大臣に対して面目を失ひたらば、或は深く慙恚して自殺せしも亦知る可らず。臧獲も亦能く命を捨つ。況や太田生をや。其かくなりゆかざりしは僥倖のみ。此意を推すときは、太田が処女を敬せし心と、其帰東の心とは、其両立すべきこと疑ふべからず。支離滅裂なるは太田が記にあらずして足下の評言のみ。其妄六つ。」
 この文章を読むと、「狂を発」したエリスが悪く、豊太郎の善意をエリスが病気のために裏切ってしまったかの如くである。豊太郎がエリスとの分離に自分の意志を刻印することを避けるために、エリスは不治の精神病にならねばならない。せめて狂わさずに金で片づけるくらいの情があればいいのであるが、自分の人格性の擁護が最優先しているエゴイストらしく、自分にたいして僅かの汚点も引き受ける勇気をも持たない。豊太郎は自分の道徳的品位のためにはすべてを犠牲にする勇気を持っている。
 鴎外はエリスの病気を前提にして、安心して可能性についていろいろと書き並べている。豊太郎が自殺したかもしれないなどというのは余りにも厚顔無恥な、豊太郎にはありそうもない可能性であるが、可能性であればなんとでも言える。それをいいことにこんな極端なことを平気で想定するところに不誠実さが現れている。これさえなければ、ということは、これさえあればなんとでも言い逃れができるという意味でもあり、作品においてそうした意義をこの設定が持っていること、そのように描かれていることを鴎外の言葉が示している。
 鴎外は、豊太郎の位置がこの僥倖によって左右されるものとして描かれていると断言している。鴎外はこの一点だけでどうなるかわからないと解釈できるように描いており、そのように現実を認識している。人事不詳がなければ、またエリスの病気がなければどうなったかわからない、というのは、人事不詳やエリスの病気を帰東の理由として描いたということであろう。これは弁明に見えるが、このような想定が可能になるのは、豊太郎がエリスの世界と天方伯の世界を自由に選択できるという現実認識に基づいている。同情に厚いエリート青年が散歩していると、美しい少女が葬式を出すための金もなくて泣いている、それに同情して信頼されて、それが同僚に誤解されて、貧しい中にも楽しい生活をしながら、珈琲が覚めるのも気づかないほどに勉強して、他の留学生とは比較にならないほど総括的な知識を得て、友人に認められ、大臣に認められ、裏切るつもりはなかったのに、相沢が善意でエリスを狂わせてしまって、気がついたらどうにも仕方がなくなっている、こうした偶然の重なりの全体がばかばかしい現実認識であり想定である。こんな想定のもとではどんな偶然的な非現実的なつまらない想定も可能であるが、その想定の全体は鴎外や豊太郎の現実認識の社会的な質を示している。このような僥倖を想定することは自由な選択ではなく、精神の限界として規定されたものであり、この限界を超えることは非常に難しく、鴎外は超えることができなかった。そのために鴎外はすべての作品において、弁明の意志を持たなくても弁明であり弁解であり自己弁護であるという印象を与えつづけた。

 決定的な場面で、人事不肖という僥倖によって豊太郎の葛藤が失われるところに鴎外の本質的な限界がある。肝心の場面で人事不肖になることは、作家としての鴎外の精神に深刻な葛藤がありえないことを証明している。愛情を持った、深い人間関係を持った人物の別離は、本来ならば、もっとも自分の個性を発揮し、運命に対する対応において自分の能力や価値を示すべき、その人物の本質を表現すべき、もっとも緊張した意義のある場面である。現実においても全個性が発揮される劇的な状況である。このような試練において精神の質は試され自己の価値を示すものである。ところがそんな場面が人事不肖と、友による打ち明け話によって回避され、意識を回復したときにはエリスが不治の精神病になっている。偶然性は人間らしい高度の苦悩を発揮する機会を失っている。鴎外は高度の精神を描写する機会を、偶然を想定することによって失っている。高度の矛盾、葛藤を持たず、この程度の葛藤を想定するのが鴎外の限界であり、その限界内での必要な偶然性が人事不詳である。それは別の立場から見ればすでに現実認識の、精神の極端な限界であるが、エリートの立場を守るという観点からみれば、この偶然こそは、矛盾と葛藤を回避してエリートの道から外れることを免れた幸運であろうし、相沢の行為は友情に満ちた、幸運をもたらした行為として肯定的に評価される。
 豊太郎は現実の矛盾にたいして、主体的に対応するのではなく、矛盾を回避することを肯定する精神を持っている。それはエリートの立場をまもることから生じる特有の対応であり精神である。エリートの立場から落ちこぼれる危機を回避することがもっとも重要な課題であり、それをめぐってのみ葛藤が生ずる。豊太郎はそれ以上の矛盾葛藤を持たない。豊太郎が人事不肖に陥ることは、積極的な能力の投入の機会を、エリスとの関係で言えば愛情を持つことができないことの結果である。人事不詳によって自分の意志の表明の責任を逃れたものとして、自分の人格性を守りえたと肯定的に評価し、その結果をもたらした相沢を恩人として評価することは、積極的な人間関係を形成できない人間に特有の自己肯定の方法であり、それによって現象的にはもっとも卑劣で不誠実な対応をしている。しかし、エリートの立場を守るという観点に立てば、すべては美しく、感傷的で、すぐれた人物に恵まれた麗しい運命なのである。


 鴎外は、「其妄六つ」まで批判したあと、作品に対する総括とも言える評価を下している。

 足下は猶此六妄を以て舞姫の瑕瑾を発きたりとおもへりや。謫天情仙は嘗て此記を評して云く。太田は眞の愛を知らぬものなりと。僕は此言を以て舞姫評中の雋語となす。舞姫を読みてこゝに思到らざるものは、猶情を解すること淺き人なり。六妄なしと雖、未だ得たりとなすべからず。況やこれあるをや。
 然りと雖、僕過てり。足下に向ひて情を解くは、猶盲人に向ひて色を語るがごとくならむ。足下は何人ぞや。白ちりめんの頸巻、ちりめんの羽織、相撲取に似たる下駄を穿き、三百代言といはれ、伴内様と呼ばれて自ら覚らず、書を痴女に寄せて卻けられ、債を負ひて商売の群より逐はれたりといへり。(露予姫)情を解するもの豈能く此の如くならむや。鳴呼独り足下のみならざるなり。試にこれを挙げて浮木淺二郎に問へ。彼も亦知らざるべし。又これを岸村錦藏、露予姫、松葉新一、於八重、園井波之助、河井金藏、於春、於光、江澤良助等に問へ。彼等も又知らざるべし。太田生は眞の愛を知らず。然れども猶眞に愛すべき人に逢はむ日には眞に之を愛すべき人物なり。足下等は能く太田生に慙づる所なきか。

 豊太郎は真の愛を知らない。鴎外は真の愛を知らないという言葉の意味を知らない。鴎外は豊太郎が真の愛を知らないという指摘を、豊太郎が若いということ、さらにエリスが真の愛に値する女性ではなかったこと、だから、時間が立てば、真の愛に値する女性にめぐりあいさえすれば、愛を知ることになるだろうと、解釈している。抽象的な可能性を問題にし、エリスを否定している。この説明自体に真の愛を知らない、ただ自己保身を知るだけの人物を描いていることがわかる。
 真の愛とは何かなどということは真の善とかと同じで一般的に規定できるものではない。それぞれの愛がある。豊太郎が自分の境遇と個性に会った女性に遭遇した場合に愛情を持つことはありうる。自己保身に会った心からの愛情もありうる。エリスとの関係が偶然によって切り裂かれたという鴎外の考え方からすればエリスに対する愛情さえありうることになる。このような想定自体が愛情の欠如を示しているのであるから、好きなだけ可能性について語ればいいだろう。それは豊太郎の意識のあり方の一つであり、これまでの分析で明らかになった必然の内部にある精神である。その必然とは、豊太郎がどのような境遇のどのような個性の女性や友人にめぐり合っても、人間関係に一般において本質となるのは、彼がエリートの地位、境遇を守り抜くことである。その限界内において女性に対する愛情も国家や人類に対する愛情もまたありとあらゆる感情が形成される。しかし、それらの全ての感情はエリートの地位を守るという規定の内部に会って複雑で歪んだ、自己を保身する目的を持ちながら他を愛するという弁護的な詭弁的な形式をとる。それが豊太郎にとっての真の愛である。
 豊太郎は、積極的に出世を得ようとするのではない。彼の能力において自然に得られる物、すでに得ている地位を守ることが彼の関心である。現状を越えるような、あるいは対立を引き起こすような欲望は出世欲においても愛情においても形成されない。こうした立場と精神によるエリスへとの関係が、わずかの金を援助する同情と、そのことによって期待する全的な信頼である。自分の地位の限界を超えず、それを保持することがエリスに対する同情という感情の内容である。だからこの同情がエリスによる全霊的な信頼と愛情と一致しており、さらに形式はどうであれ、断固として、迷うことなく、どんな犠牲を払ってもその地位を守り、エリスを犠牲にすることとも一致している。もともと地位をあやうくする関係をむすぶ可能性はない。豊太郎は自分の地位、境遇、価値観に反しない愛し方をし、捨て方をしている。

 豊太郎は常に冷静、あるいは冷やかな感情をもっており、彼の感情は決して情熱という形をとらない。豊太郎の欲望は豊太郎の精神の全力を注いだものであるし特有の満足を得られる欲望であるとしても、自己保身の特質は感情にも反映する。つまり地位や財産を媒介しない、相手の個性だけを直接的に対象とする感情をもちえないと言う意味で真の愛情を知らないと言える。エリスと違って相手が地位や財産をもっている関係においても地位や財産が直接的関係の障害、あるいは媒介になることは同じである。たとえそれが意識されないとしても。
 豊太郎の主な関心は地位である。地位や財産に執着する場合には信頼は地位や財産にあるのであって、そのために信頼関係が損なわれることはだれにでもわかる。財産や地位の威力は非常に大きいから、それを得ている場合だけでなく、得る可能性がある場合でも、単にそれを望む場合でも、地位や財産に対する執着が人間関係を傷つける。たとえ地位や財産を共通の欲望にした人間関係であっても地位や財産が介入する特有の矛盾を避けることはできない。しかもその矛盾は地位や財産に対する執着を強くする刺戟となる。他方、地位や財産を媒介にしない直接的な愛情は、守るべきものをなにものも持たず、全精神を対象に没入させて対象と一致する形態をとる。守るべきものは人間関係だけであり、それが情熱の対象であり内容である。地位や財産がある場合に、それを守る必要がある場合、まもるべき自己を持つ場合、つまりは地位や財産に自分が支配されている場合に、真の、つまり一点の疑いをももたない全的な没入という実感の満足を得られない。
 こうしたことは原理としてはよく知られている。しかし、現実にどのような必然を持っているかは理解されていないし、それを理解することが非常に難しい課題であることは四迷や漱石がこの時代にすでに明らかにしていた。地位や財産の肯定を反映した思想が一般的な優位にある場合には、たとえ地位や財産がなくても人間関係上の直接的一致、真の信頼関係が形成されない。そして、地位や財産を失うだけでは、地位や財産による規定、人間関係の崩壊を克服することはできず、その必然を具体的に理解しなければならない。その材料をこの作品は提供している。そして、それがまったく理解されていないこともこの作品に対する批評の蓄積が明らかにしている。

 日本の近代文学の誕生を告げる四迷や一葉は、地位や財産がもつ矛盾に悩まされることはなかった。彼等は真の愛情を描写しえた。彼等は、こうした感情やそれを形成する人間関係が引き裂かれて行き、真の愛情が悲劇的な苦悩を経験してますます深まっていく歴史的過程を描いた。しかし、批評にはこの矛盾は理解されず、鴎外の作品に歴史的な矛盾を感じている。
 漱石はエリートらしく、地位や財産に対する批判意識をもって文学史に登場した。漱石が余裕派と言われるのはエリートの地位を反映した批判意識を持つからである。漱石はこの批判意識をさらに徹底して、エリートの地位を反映した自己内の批判意識を批判的に検討することを課題にした。漱石は、四迷や一葉が描いた愛情を描くことはできなかったが、そのことを理解し、直接的な端的な人間関係を形成できないことを意識する精神の苦悩を描き、その法則を徹底的に追求した。そしてそれがどんな苦悩をもってしても、どんな犠牲を払っても、地位や財産への執着を消し去る事はできないこと、地位や財産に規定された精神が真の人間関係、信頼関係を決して形成することができないことを理解したとき、それを自己の真理として発見したとき、「こころ」の先生は自己認識の成果として穏やかに死を選んだ。「こころ」の先生は尊敬され愛されていたが、自己を喪失するほどの、自己をなげうつほどの充実を得る可能性は、自己の本性としてないことを悟った。漱石は実際先生が求めていたような感情の充実を描くことはできなかった。そうした感情から離れていく自分の地位と感情を冷静に、深い感慨をもって描写した。漱石が描いたのはこうした真の愛情や真の苦悩を得られないことであり、それが自己に対する全的な否定にまで到達したときに特有の真に深い苦悩を獲得することになった。それか漱石に特有の、自己否定を含んだ、諦観を含んだ自己肯定である。
 鴎外は漱石と同じエリートでありながらまったく逆の、ごく普通の、日本におけるエリート的意識の形成の一般的傾向の道を進んだ。いうまでもなく鴎外にとって四迷や一葉や漱石のの愛情も苦悩もまったく縁のないものであった。鴎外は漱石と逆方向に、つまりエリートとしての地位を守り抜くことに精神の充実をもとめた。地位と地位を肯定的に反映した精神を守り抜くために鴎外は漱石や四迷や一葉に劣らぬ努力や苦悩を経験したであろう。地位や財産に規定された精神は決して人間関係の深い一致に到達できないことを漱石は認識し、鴎外は体験した。漱石は自己を分離し客観化したが、鴎外は私小説的に自己を投影した。

 漱石はまず精神的、道徳的価値を重視し、地位や財産に対する執着を批判した。地位や財産と精神を分離する立場からの批判が徹底されると地位と精神の関係が認識されるようになる。自己の精神の内部に潜んでいる地位や財産が暴き出されることになる。精神の本質として地位や財産が意識され、精神は地位や財産に規定されたものとして特徴づけられ分析される。どのような批判意識も、その批判意識の限界をこえようとする努力も、すべてが財産に規定された意識であることを発見し、地位や財産との関係が明らかになったときに、その全体像があきらかになり、それを客観化し、その束縛を離れることができる。したがって、漱石と逆の方向とは地位や財産を追求し擁護することではなく、地位や財産を意識から解消すること、地位や財産と精神の関係を抽象化し、形式化すること、現実的、具体的認識を失うことが精神の発展形式になる。地位や財産への直接的な欲望は単にブルジョア的な実践的欲望であって思想としては成立しない。それは封建体制内部でのブルジョアの形成過程でのみ積極的精神として成立する。地位や財産を確保しながら、なお地位や財産を意識から消し去った、精神世界だけを関心の対象とする、非常に精神的な道徳的な人格が外見上形成される。鴎外は地位や財産の否定に向かう意識を決して持ちえず、その内部で自己を守るための努力をした。地位を前提として、地位を目的とせず、地位に触れない、地位を関心に持たない意識形態を、エリスとの関係においても、純粋な、情欲的な下心さえない精神的な関係として描写しようとした。この点が精神的動物である多くのインテリに受け入れられるのである。

 多くの批評も豊太郎の地位や、地位を反映した実践より彼の精神を重視する。批評は豊太郎が天方伯を選択した上で感傷に浸ることをもって豊太郎の精神的な価値とする。天方伯を選択したことによって生じる甘味な感傷を、批評は天方伯との分離を意味すると解釈する。感傷があることは、完全な一致を意味しない。しかし、この感傷の甘味さは一致の肯定を意味するのであり、一致の困難を克服したという幻想上の安堵感であり、インテリが共有している感覚である。もし豊太郎の苦悩が逆の形式であれば、エリスを選んで地位を捨てた場合に、感傷が残るとすれば、あるいは一点でも、地位を選べばよかったという恨みが残るとか、エリスを選んだ結果についての疑念が起こるとすれば、批評は激しく非難し、その精神的価値を認めなかったであろう。彼等は実践と切り離して、意識の中に現れた瑣末な内容を本質として取り上げる。その場合彼が何を重視し、何を批判しているかがわかる。実践的に天方伯を捨てる、というより実際は切り捨てられ分離され、競争に負けていくことであるが、それはエリート的意識にとってはまったく苦々しい現実であるので、その敗北に対して転倒した形式で批判するのである。「舞姫」に近代的自我の悲劇を見る批評は「浮雲」の文三に俗物的な精神を発見するほどに俗物である。一葉に古い女や弱い女を見るのも同じ傾向である。
 エリートの地位に執着する豊太郎には深く強い感情はありえない。真の悲しみもないし真の喜びもない。また自己に対して人間関係に対して、社会的関係一般に対して批判意識を持たず自分の狭い利害を守ることに意識の限界が画されているために、高度の理論もありえない。瑣末な自己執着と自分の都合を肯定するための小理屈だけが発展する。特有の矛盾を克服するための不断の努力において自己を失い、人間関係を失い、誠実さをも力量をも失っていく。現実に下らない人間関係を経験し、自らも実践し、面白くもなく、順調でもなく、つねに危機と隣り合わせであるから、苦悩もする。生産的でなく瑣末であるという意味で深刻な苦悩を積み重ねる。したがって彼等は苦悩の解消を求める。実際は生産的な社会的な苦悩によってのみそうした苦悩は解消できる。しかし、それは主観が自由に選択できる道筋ではない。内的な危機によって強制されてはじめて方向づけられる。エリートがおかれた、あるいは地位や財産に執着する結果としての人間関係や豊かな感情の喪失という過程を、漱石と鴎外はまったく対照的な内容と形式において描き出している。このフタタの文豪の作品を理解することは、生産的苦悩への移行をいくらかでも押し進める要素となるだろう。思想の役割は一般にそうしたものである。
 四迷・一葉・漱石・鴎外が文学史上特別の注目を集めるのは、日本史的な感情・思想の典型を描写しているからである。鴎外は真の愛情を知らない精神の遍歴を描写したことで高く評価されている。多くのインテリはそこに自己を見いだす。そして鴎外を肯定し、それが近代的自我の確立であったかのような幻想を持つ。この観点から理論を展開することは鴎外と同様に自己の喪失を肯定し確定し発展させることである。われわれが真に独立的な自己を、あるいは情熱や論理や誠実さを獲得するには、鴎外が自己の厳しい人生を対象化した作品を批判的に理解し、さらに鴎外と対立的な発展を対象化した漱石や、彼等と独立的な精神過程を描いた四迷や一葉の成果を継承して自己内の意識にする必要がある。それは簡単な過程ではないが、彼等は日本史が生み出した、日本史に特有の精神として我々の内に内在し、自己認識を促すべく我々自身をそこに描き出しているのである。

 「舞姫」における豊太郎の思想の展開も、論争における鴎外の思想の展開も、信頼関係と充実を失う自己喪失の過程である。自己喪失の過程は明確に意識されることなく意識の背後で進展する。こうした思想の法則は、ただエリートの地位にのみ生ずるのではない。エリートの場合は地位の獲得物によってこうした矛盾は覆い隠される。問題は小市民的な立場が強く、思想的に圧倒的に優位にあり、常識的な感覚としても根付いている場合に、こうした自己喪失、信頼関係の喪失が、エリートとはまったく関係のない人々の一般的な思想的となっていることである。鴎外のエリート的地位を反映した思想が、単なる職場での地位やマイホームの獲得といったごく小さな利害によっても大きな力を発揮し、人間関係を崩壊させ、自己を喪失させるほどの思想的力を持っている。近代主義者は小市民的に自己の瑣末な利益を守ることを人間の本質として肯定した。しかし、このような排他的な自己を守ることは人間関係・信頼関係を喪失することによって自己を失う過程でもある。そして残念ながら現在のわれわれは、それを全国民的な成果として日々味わっている。豊太郎は自己を肯定するためにエリスの価値をも貶めようとしている。価値のない人間関係であればそれを捨てることにともなう苦悩は浅いであろう。しかし、このような意味で自分の正当性を押し通しても、そのことによって瑣末な障害を排除しえたとしてもそれは充実した人生とは言えないであろう。それは、わずかしかない、しかも非常にあやうい人間関係の喪失であると同時に、僅かに残された愛情をも悲しみをも失うことである。鴎外が自己を肯定して他を否定するとき、人間関係を失うと同時に情を失い論理を失う。鴎外自身がそれを自覚していなくても、空虚でなくなるわけではない。

 以上で鴎外の「舞姫に就きて気取半之丞に與ふる書」の検討を終わる。忍月の反批判に対する「再び気取半之丞に與ふる書」はまったくとるに足りない、鴎外の弱点が露出した文章である。それに対する忍月の反批判も、自分の指摘を理解しない鴎外にたいして同じ主張を繰り返し、瑣末な反批判に流されている。そのために忍月は「舞姫四評」で次のような文章をもって論争を打ち切った。鴎外の反批判の全体について現象的であるが、的確に特徴づけているので、論争の総括として引用しておこう。

 「世に訳の分らざる人多し、然れども相沢謙吉氏の如きは鮮矣、又世に不能力者なるものあり一隅を挙ぐるも他の三隅を推悟し得ざるは勿論挙示したる一隅さへ大半は誤解して終に挙示者の労を水泡に帰せしむ、是に於てか予は不能力者に向ツて弁論説明するの頗る無用なるを知る、世評に曰く相沢氏は不能力者にあらず聡明の士なりと、是に於てか予は又茲に一文を艸して相沢氏に質すに至れり、
 江湖予曰く人と物事を論議するに当って先方の馬鹿なるは猶ほがまんの仕様あるなり、大抵馬鹿なるは正直ゆゑ此方より懇ろに解き聞かせば合点の参るものなり只閉口なるは一寸利口そうなふりをなし此方より循々数百言を費やすも之を聞き誤り之を解し誤りて人が是は豚の図だよと言へばナニ豚は大好だよと口を尖らし来るが如し云々と真に然り予は相沢氏の喋弁(言論とは言ばず)に於て多少此感なき能はず、相沢君足下、予は足下が昨日の国民新聞に載せたる書慥かに拝見せり、然れども予は之を拝見して一時は是の書果して予に与へられたるものなるや否やとの疑念を生ぜり何となれば足下の言ふ所は総て藁人形に空鉄砲を放つものなればなり、(中略)アゝ足下は天に向ツて唾きするものなり、敵なきに空砲を放つものなり、議論外のことを喋々して独よがりするものなり、足下は他の議論を横にねぢりて強ひて攻撃の材料を附造するものなり、足下が舞姫を改めて「我」となすも「留学生」となすもソハ御勝手次第なり、もし足下予の前陳の問に対し、一々責を予に担はすることを得ば、然る後予は重て堂々お相手致すべし、予に対はざる空砲空拳は之を局外に立て傍観せんのみアゝ足下は堂々たる批評家らしき言を出して其識見殆んど明治の鴎外を圧するものゝ如くなるに、独り「舞姫」を論ずるに当ツては一に何ぞ迂なる、一に何ぞ狂なる、一に何ぞ乱なる」

 これは全く正しい指摘である。「舞姫に就きて気取半之丞に與ふる書」も不誠実と言えるが、それは鴎外の思想の必然であって鴎外の不誠実な性格が出ているわけではない。しかし反論しおわったあとの「再び気取半之丞に與ふる書」は、思想の必然性としての不誠実が主観の悪しき意図としてはっきりでている。思想的な対立と違ってこうした不誠実なやり方に対応することはできないであろう。このように不誠実さを嫌われることで論争が終わることは、いかに忍月が敗退したかのような形をとっていても、すっきりしないであろう。それはエリスを捨てることをどれほどうまく表現しても、というよりいらざる解釈を加えるほど不誠実に卑劣になるのと同じである。このような対応をすることで相手を退けることを勝利と呼ぶことはできないし、勝利の満足を得ることもできないであろう。

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