『舞姫』 論争 7 

   
 最後に、この論争を扱うに当たっての基本的な視点について簡単にまとめておこう。
 『舞姫』を理解するにあたってもっとも重要なことは、この作品の道徳性をどう扱うかである。鴎外は、忍月への反論の冒頭部分につぎのように書いている。
 僕は舞姫の一篇、其価の幾何なるかを知らず。又これ問はむと欲せず。然れども初足下のこれを評し玉ふを聞きて、猶自ら慰めておもへらく。是れ必ず鴎外漁史が好事の癖を戒め、太田生が薄倖の行を卑みて、大に彼等をして過を悔い非を悟らしむるものならむと。之を読むに至りて、吾望の虚くして足下の言の取るべき所なきを知りたり。
 鴎外はこの作品に道徳的な内省の価値を認めている。豊太郎の道徳的な非と悔悟が問題にされれば、鴎外としては豊太郎の精神の価値を改めて説明する機会を得るはずであった。鴎外は豊太郎の道徳的な過失と悔悟において高い精神を描写しえたと考えている。その要点は自分の過失を弱点として否定的に反省しているものの、それは過失でも弱点でもなく、豊太郎の長所でもあり、反省は、豊太郎に責任ではないために、豊太郎の不幸や不運であると解釈できるからである。それは弁明に見えるし、客観的にもそうであるが、鴎外にとっては弁解でも誤魔化しでもなく、率直な現実認識であった。
 鴎外は罪も過失も認めずに反省することが純粋な人格性であると考えている。豊太郎に罪がないのであるから道徳的な反省に内容はなく、必要のない無意味な、深刻さのない反省である。

鴎外は豊太郎が天方伯の信頼にこたえて帰東することを豊太郎の能力として肯定しているし、エリスに対する同情も純粋で優しい精神であるとして肯定しており、エリスとの関係を失ったことを意志に背いた悲劇として感傷的に肯定している。エリスとの関係は、豊太郎の能力と深い愛情と純粋性を明らかにする契機として描かれており、エリスとの生活はその純粋さの自然的な結果である。エリートの生活を捨ててエリスとの生活を選ぶなどという判断や葛藤はまったくない。なにもないことに豊太郎の純粋性がある。そうしたロマンチックの気質のままにエリスと分離されるのであって、エリスを捨てる意志も捨てないという意志もあらわれず、予期しない事態の進行にただ驚き悲しむだけである。このような前提のもとに、豊太郎の反省を道徳的に非難する場合は、豊太郎に罪がないことを前提すれば反省する資質を強調するだけである。臆病な鴎外は罪のないことに対してのみ安心して反省することができる。客観的には罪ともいえない罪について反省することは深刻ではありえず、自己肯定を前提にして反省することは、留学生活に浮かれた軽薄さと、軽薄な人間に特有の不誠実さであり偽善である。豊太郎の不誠実と偽善はエリスとの関係では、自分の言動のエリスに対する残酷さを意識しないことに表れる。

 鴎外の期待に反して、忍月は豊太郎の過ちや非を問題にしなかった。豊太郎の傾向からして出世するのは適当でないとしたうえに、豊太郎の薄倖を問題るもせず、逆にエリスに対して過酷、不誠実であるとした。忍月が豊太郎の人格性を問題にしなかったことは、鴎外にとっては豊太郎の反省や不幸を無視するという意味を持っていた。
 鴎外は予想外の批判を受けたが、もともと道徳的な無実の反省と薄幸な運命による豊太郎の肯定以上のことは考えられなかったから、忍月の指摘を理解できないままに豊太郎を肯定する観点から忍月に反論した。鴎外はまず豊太郎の弱点が実は長所であるというひねくれた、説得力をもたない描写について詳しく説明した。鴎外は豊太郎の言動を過失や罪でないと考えること自体が不誠実であることも、それを弁明する反省は一層不誠実で卑劣でわざとらしい偽善であることも、エリスに対する実践も精神のあり方も苛酷であることを、作品を描いたあとでも理解しなかった。鴎外はこの論争で、作品に描いた豊太郎の精神に対してまったく無批判的であることを明らかにし、豊太郎の精神がどのようなものであるかを自分自身の精神のあり方として別の形態でも明らかにすることになった。その上、忍月が指摘した豊太郎の弱点を論争のやり方でもあらわにすることで忍月に嫌悪されて論争を終わることになった。
 表面的に見れば忍月が豊太郎の道徳的な弱点を指摘して、鴎外が痛いところをつかれたように見える。しかし本当は逆で、鴎外は道徳を問題にしていたが、忍月の方はそうではなかったので、予想外の痛いところつかれることになったのである。
 鴎外と忍月の論争にはこういうすれ違いがあった。ところが、後の批評がこのすれ違いに割り込んで、ここに歴史的な自我の問題とか深刻な道徳的な問題をまぎれこませて、このすれ違いすら分からなくしてしまった。
 このことはすでに意識されているらしい。これに関連した、嘉部氏の指摘を紹介しておこう。嘉部氏の著作の「諸家の鴎外論に対するいささかの疑念」という巻末の文章で指摘されているもので、このことについて詳しく展開されているわけではない。しかし、これは重要な指摘である。
 「舞姫」論争における、石橋忍月の「舞姫」論は、往々にして読み誤られている。忍月が「其人物(太田豊太郎)と境遇との関係を精査するを必要となす」とした部分である。忍月は言う。
 今本篇の主人公太田なるものは可憐の舞姫と恩愛の情緒を断てり、無辜の舞姫に残忍苛刻を加へたり、彼を玩弄し彼を狂乱せしめ終に彼をして精神的に殺したり而して今其人物の性質を見るに小心翼々たる者なり、慈悲に深く恩愛の情に切なる者なり、「ユングフロイリヒカイト」の尊重すべきを知る者なり、果して然らば「真心の行為は性質の反照なり」と云へる確言を虚妄となすにあらざる以上は太田の行為--即ちエリスを棄てゝ帰東するの一事は人物と境遇と行為との関係支離滅裂なるものと謂はざる可からず之を要するに著者は太田をして恋愛を捨てゝ功名を取らしめたり、然れども予は彼が応さに功名を捨てゝ恋愛を取るべきものたることを確信す、
 この忍月の論を「道徳的非難」と読み誤る者がいるのである。かつて筆者も指摘したことがあるが、小堀桂一郎氏は『若き日の森鴎外』で「作中人物の行動に対する、モラルの立場からの攻撃」と読み取り、「このように作家への指図に走るに至っては、すでに著者の創作の自由に対する余計な干渉であり、(中略)批評家としては一種の越権行為であろう。」と述べている。しかし忍月の論旨が「人物と境遇と行為との関係」が「支離滅裂」だから支離滅裂でなくするにはという観点からであるので、道徳的非難でもなく、また作家への指図でもない。小川和夫氏は小堀氏のこの発言に対し、「こういう居丈高な口上を吐く前に、まず自分が当の文章を丁寧に正しく読んでいるかどうか、そもそも自分に日本語の文章を正しく読みうる能力があるかどうか、胸に手をあててよくよく考えてみたほうがよいのである。」と忠告している。
 同じ読み誤りを飛鳥井雅道氏もしている。『鴎外 その青春』「『舞姫』の構造」中の「対忍月論争」に於て、
 鴎外は反論の署名を作中人物相沢謙吉に託したがゆえに、忍月の道徳的非難を「ユングフロイリヒカイト」の一点で抗弁しなければならなくなっていたのである。
 と書いている。そして、忍月の「舞姫」論が「道徳的非難」であることを前提として論を展開しているのである。
              嘉部氏 -諸家の鴎外論に対するいささかの疑念- (220頁)
 嘉部氏はさらに222頁で、「忍月の論に対する出発点の誤りは、論全体に影響してくる」とも指摘している。しかし、それがどのように影響するかについて詳しく書いていない。嘉部氏はこの著書のあとがきで「鴎外について論じるにあたって、私が特に留意しているのは、先入観を持たないということである」と書いている。おそらく、この作品や論争に対する道徳的な議論が、まったく解決不可能な、それも分かりやすい矛盾に陥ることを経験的に理解して、あくまで作品や論争そのものを客観的に検討することによって、道徳的な批判による矛盾を回避しようとしているのであろう。しかし、そのために鴎外の論争のやり方に批判の対象が絞られることになった。

 忍月の批評を道徳的批判だと見るのは誤りである。忍月は作品の矛盾を指摘しているのであって、エリスを選択することが道徳的に正しく、天方伯を選択すべきでないなどと指摘しているのではない。忍月にとっては、豊太郎の地位にいる者がエリスを犠牲にすることは何ら矛盾ではない。そういう現実を忍月はよく知っている。そしてそれが現実であるからこそ、出世を最大の欲望とするのではなく、エリスに対する情愛を主な傾向としているはずの豊太郎がエリスに対して過酷であることが忍月には矛盾に見えた。忍月にはこの新しく生まれた道徳的意識の現実性が理解できず、人間関係の展開との関係で現実的でないと指摘しているだけである。
 忍月の指摘が道徳的批判ではないことを理解することそれほど難しいことではない。しかし、忍月の指摘が作品内容の展開の矛盾の指摘であることを理解しても、この作品にたいして生じたその後の道徳的な批評を克服することはできない。忍月の指摘を発展させるには、鴎外がしつらえた道徳的な評価の落とし穴に踏み込まないようにしなければならないが、それが非常に難しいのである。忍月はそれが非現実的であると指摘することで一歩退いたことになる。課題はこの矛盾の現実性を明らかにすることである。
 鴎外の落とし穴といっても、それは鴎外が意識したものではなくて、鴎外自身の精神の特性からくる二重性である。鴎外はエリスとの生活を選択すべきであるなどという感覚をもっておらず、出世にのみ価値をおいていた。こういう精神は忍月もよく知っている。ところがこういう階級が形成する特有の道徳的精神について忍月は無知であった。この作品には、エリスの運命とかかわりのないエリートが、自分の地位を守りながらエリスと接触する精神が対象化されている。それがエリスに対する同情である。しかし、この接近はエリートの地位の保全を前提しているから、分離が前提である。そのために、エリスが豊太郎を信頼し、依存するほど独立性が失われ、したがって分離はエリスにとって悲惨になる。しかし、豊太郎にとっては地位を保全しながら最善を尽くしたという、またエリスに幸運を与えたという満足が残る。そのために残酷な印象を与えるし、残酷にならざるをえない。しかし、その必然性が認識されないために、単に自分の希望や意志や予期に反した悲劇と思われ、甘い感傷を残すのである。
 この作品は表面的な印象として、甘い感傷か非常な嫌悪感を与えるかのいずれかであろう。明治二十三年当時、「『舞姫』に対しては、吾れ一読の復ち躍り立つ迄に憤ふり、亦嘔吐するほどに胸わろくなれり」という巌本善治の批評もあった。それに比べると、忍月の批評は冷静でむしろ好意的であった。それは、忍月が描かれた人物に対する道徳的な批判意識を持たず、鴎外と同じエリートの立場に立って描かれた人物が現実性だけを問題にしたからである。しかし、この作品を読んで「一読の復ち躍り立つ迄に憤ふり、亦嘔吐するほどに胸わろくなれり」という感覚をも同時に持たなければこの作品の現実性を理解することはできない。この、胸が悪くなるほどの俗物根性の社会的な意義を明らかにすることがこの作品の理解である。ところが、その後の問題意識の変化によってこの作品は、道徳的な読み方をされると同時に、この作品に対する「胸わろくなれり」といった感受性も失われて、いっそう俗物的な解釈が定着した。
 巌本善治の感覚がなければこの作品に矛盾を発見することはできない。批評のようにこの感覚から後退して豊太郎を肯定する場合は作品理解はありえないからまず論外としても、巌本善治の感覚を作品理解にまで明確にすることは容易ではない。忍月のように、豊太郎がエリスに対して苛酷であるとするのは巌本善治の感覚と同じレベルにある。この作品の主題を「愛か功名か」という図式でとらえることもこの作品に対する嫌悪感を超えることではない。忍月のこの主題は、この作品に対する道徳的評価の定式化であって、巌本善治の感覚からの一歩後退である。この作品に対する嫌悪感から具体的な内容の分析に入るのではなく、抽象的な道徳的意識と同じレベルで社会関係を図式化している。
 豊太郎はエリスと違った地位にいる。エリスとの関係で豊太郎は自分の優位をエリスに対しても他の留学生に対しても示そうとしている。それ以上の関心を外界に対して持たないのが豊太郎の特徴である。貧しいエリスとの関係はエリートの地位の高さと精神の高さを示すための契機であって、エリートの地位を否定する意味を持たない。
 「愛か功名か」の主題は、豊太郎がエリートの地位を守り、誇っている特殊な形式を覆い隠す抽象的な図式となって解決不可能な矛盾に引きずり込むことになる。豊太郎がエリスを捨てて天方伯を選んだことを道徳的に批判することは、豊太郎の世界の肯定を含んでいる。豊太郎がエリスを選択することがエリスの幸福であることが前提とされている。しかし、豊太郎が地位や金を得ているのは競争に勝ち残っての事であるから、貧しいエリスとの関係を重視することを道徳的な当為として求めるのは社会的な法則に反しておりもともと無理な話である。だからこそ、鴎外の価値観としてエリスに金を与えることを善良さの証と考えるし、別れるに当たって十分な金を与えることが人格性の証だと思える。この地位を前提にすれば、残酷に無慈悲に切り捨てる場合もある。ようするに豊太郎よりひどい対処がいくらでも考えうるし現実にはそれが必然的であり、エリートである豊太郎がエリスとの関係を選択するなどというのは非現実的な空想にすぎない。
 「愛か功名か」の選択が可能だと考え、さらに愛をつまりエリスを選択することが、つまりはエリスをエリートの地位に引き上げることが道徳的であると考える場合は、エリートである豊太郎とエリスとの抽象的な選択に問題が限定されているために、結局はエリートである豊太郎のエリスに対する態度はどのように有るべきかという、いかにもエリート的な、鴎外がその問題の内部で自己を肯定しようとした課題に飲み込まれてしまう。これはエリートの道徳的な処方箋であって、理論的課題ではありえない。それは『浮雲』の昇と『舞姫』の豊太郎のいづれがお勢やエリスに対して人間的に対処しているかといったつまらない課題である。この限界内であれば豊太郎は鴎外が想定した通りの道徳的な人物になる。
 そしてこのような道徳的な価値観をこえることが意外に難しいのである。例えば、中野重治の次のような評価がある。
 しかしこのことは、これらの一連の作、たとえば「舞姫」の価値をそれだけで決して低くするものではない。この作は、恋愛と生活との関係を新しい面、新しい標準から照らしだしてみせた。「女のことでくよくよするやつに天下はとれんぞ!」こういう言葉を、一九三三年に書かれた「人生劇場」のなかの一人の人物が叫んでいるが−そしてこの言葉は、ある意味で一九五三年の今日も妥当でなくはないが、「舞姫」は一九八九年くらいに書かれているのである。太田豊太郎は、外国での恋愛を路傍のものとして捨てて去ることはできなかつた。それは彼の生涯そのものに痛みとして刻みこまれた。同時に彼は、恋愛を生かすことのなかに彼の生涯そのものを生かすという新しい道をえらぶこともできなかつた。彼は決して、恋愛をとるか世俗の功名をとるかという二者択一で単純に一方を取つたのではなかつた。(忍月の評には、問題をそういうふうにとつた傾きが全くなくはない。)結果としてその形になりながら、二者択一でなくて、二者の統一がどこかで望まれている点の文学へのはじめての表現、ここに「舞姫」の力が生れたのであつた。二葉亭の「浮雲」などがあつたとはいつても、時代は、宮崎湖処子の「帰省」、三宅花園の「薮の鶯」の時代だつたのである。
               中野重治「『舞姫』『うたかたの記』他二篇 」
 このような評価は、エリスに対する同情的な心情を多くもっているとはいえるが、思想的に鴎外より高度とはいえない。また心情においても、豊太郎をこのように肯定的に評価している限りでは、エリスに対する同情も差し引いて考える必要がある。エリスに対して過酷であるという視点が失われているからである。中野は、豊太郎は、決して冷酷にエリスを捨て去ったのではない、捨てることを痛みとして持っている、しかし、エリスを選ぶことはできなかった、と物語の粗筋を並べただけの評価を与え、この愚かな選択枝を認めた上で、ありもしない両者の統一を求めている。女のことでくよくよするやつに天下はとれんぞ、という男より、くよくよする豊太郎の方がましで、もっとましな人間としてエリスを捨てない男が求められている。エリートの男が貧しい女を選ぶことが社会問題の解決であるかのようである。
 さて、このような没理論のしかも豊太郎を基本的に肯定する評価が歴史的社会的に拡大されると、近代的自我の覚醒を描いた作品であると評価される。この作品を「愛か功名か」の道徳的選択の主題において理解し、さらに現実社会、歴史をもこのような道徳的形式で理解する場合に、中野のような悩ましくも無意味な矛盾に捕らえられる。歴史を、資本家と労働者とか、上層と下層とか、支配階級と被支配階級とか、富める者と貧しい者とか、の二つの対立的範疇に分け、その上で、下層の世界と利害や精神が一致することが道徳的であるとする観点からこの作品を評価するのは、舞姫で言えば、豊太郎のエリスに対する同情を肯定することである。そして豊太郎に対する批判はその同情を貫徹しなかったということである。同情の質を、同情の廃棄との同一性のもとに理解することなく、同情と残酷さを分離し、同情だけを維持するべきであるという指摘である。このような批評自体、同情の質も残酷の質も理解できず、また理解する課題を持つこともなく、現実的な意味を持たない当為を掲げることに満足するエリート的な道徳的意識である。この当為を徹底し、一般化すれば、エリートがエリスを引き上げ、すべての貧しい人間をエリート化することを求めていることになる。つまりエリートであることを肯定しており、ただ不十分なのは全員がエリートでないので、貧しい物にもエリートは同情し、援助し、できればエリートの地位に引き上げるまで同情を徹底すべきだという、できもしない気楽で無責任な当為を掲げているのである。
 豊太郎はエリスと関係を持ったこととエリスを捨てたことによる感傷を良心として高く評価されている。箸にも棒にもかからない俗物と違って、ある程度は善い精神を持っているから、批判される価値もあるというわけである。つまり程度を問題にしている。エリートの地位に奢っていてはいけないということである。歴史的に言えば、純粋な出世主義者と違って、貧しいエリスの生活をも視野にいれて、自分だけが幸福であることに疑問を感じて、ニルアドミラリーを感じることが近代人として評価される、ということである。すべてエリートの道徳的な心得であり悩みである。要するに、貧しい人間がうようよしている中で、エリートとして競争に勝ち残った場合に、それを静かにかみしめて、貧しい人間のことも考慮するという、エリートの余裕による精神の広がりであり堕落である。
 豊太郎に対するこのような批判は、あまりに厳しすぎると、露骨な出世主義者と同列に扱うことになり、揺り戻しが生じて、豊太郎の苦悩を評価すべきだといった反省が生じる。だから批判も程度問題で、あるところまでいくと緩めねばならない。しかし、あまり苦悩を褒めていると、実践的にエリスに対して苛酷である点が見失われてしまう恐れがある。実際はこの両者は豊太郎の精神として統一されているからその統一性を、連関を明らかにしなければならない。それは同情をも残酷をも具体的に規定することであって、中野のように両者を分離した上で統一を求めるというのは、統一のなんたるかを理解していないことを示すだけである。
 こうした愚かな評価を貫こうとするなら、社会を上層と下層に分けて、さらにその間を任意の数に分けて、どの位置に属するかを明らかにすれば評価は片づくであろう。その場合は中野重治のように、肯定したり否定したり、真ん中だと言ったり、結局どう規定すべきかはっきりしないといった煮え切らない評価をさけることができる。中間で悩む精神は中間で悩む精神としてランク付けし、その悩みの深刻さによって内部でさらにランク付けすればいいだろう。こういう視点では、豊太郎は、純粋な出世主義者ではなく、悩みながら苦しみながら出世を選択した人物である、という単純な評価で片づくし、実際それ以上の分析をしえない。また、この種の歴史意識にとってはそれ以上の分析は不可能である。思想の構造が、純粋な悪人よりましであるが、純粋な善人より悪いといった量的な詮索を超えられない単純な形式を持っているのである。中野重治のように、エリスに対して同情的であっても、単純な批判を避けようとして、あらゆる側面から全体的に規定しようとする場合に、豊太郎の行為は許しがたいがそれを反省している者を無闇に批判しても育つ芽を摘むようなことであるし、もっと悪い人間の方が遙かに多いような気がするというような動揺に陥ることになる。それはエリスの立場からいえば、自分に対して苛酷であった豊太郎に対して寛容で煮え切らない意味不明な評価を繰り返すことである。こうした動揺的な批評に対してはエリスを切り捨てることを肯定する評価の方が明確な点で優位になる。中野重治の場合は、自分の批判的な意識の一面性を理解するだけの良心をもっており、それを表明せずにはいられない善良さとか真摯さが、鴎外の俗物的な精神に翻弄されて、腹立たしいほどに煮え切らない意味不明な批評になっている。中野重治の批評は道徳的な範疇を超えることの出来ない中野自身の思想の内的な苦悩と見ることができる。鴎外の作品に投影した自己の苦悩といえる。しかし、彼は鴎外の限界を克服していないし、その善良で真摯な態度において鴎外と同じ思想を啓蒙する結果になっている。

 歴史を道徳的規範によって規定することはできない。逆である。道徳的な範疇を歴史的に規定しなければならない。階級を道徳的に規定することはできない。道徳的精神が階級的に規定されねばならない。
 出世主義的な欲望に対する道徳的批判は、つまり出世を選択すべきでないという価値観は、小市民的立場を肯定する立場の反映である。それは中間階級の精神の誕生を意味している。そのような道徳意識はその対立物として貧しい生活を、それ自体においてではなく、同情の対象として肯定する。富める者は道徳的に非難され、貧しいものは道徳的な救済の対象となる。この作品で言えばエリートの立場にすこしでも近づけることが対象を助けることだと考えられ、エリートの立場がもっとも肯定されている。
 このような立場を反映した思想は多様に形成される。日本においては特に多様に発達している。鴎外はその一つの典型である。「舞姫」はこのような社会関係を無批判的に楽天的に描写した作品である。鴎外は余裕をもって自分の立場を肯定している。エリスの愛情を獲得しながら精神病で失って、出世の障害にならない運命をたどらせ(このために出世主義者より苛酷な運命を押しつける必然を持っている)、天方伯による信頼に応えて出世コースを歩く、というのは、小市民に特有の甘い夢想である。
 そしてこの夢想のうちに無意識的に示されているのは、彼らが人間関係を形成できないこと、ごく貧しい人間関係を高度の人間関係と思い込んでいること、人間関係に対する認識能力の欠如である。生活に困った少女が泣いているところに行き合わせて、ありあわせの金を与えて絶対的に信頼されて、自分も誤解によって多少の憂き目にあって、しかし実力を認められて大臣に登用される、という人間関係形成の過程は、少女が精神病で関係から離れていくのと同じように、現実にはありえない、真実味のない、困難も課題もない人間関係である。一時的にこんな夢想をすることはありうる。しかし、こんな関係の展開を真面目に考えることは不誠実で、人生に対する不真面目さを意味していることを理解するのはそれほど難しいことではない。こんな甘い夢想は世の中にでることで簡単に払拭される。しかし、鴎外は甘い留学生活のなかでこういう夢想を育ててドイツ土産として持ち帰ったのである。

 豊太郎は非常に道徳的な人物である。人格性や道徳性を重視することは鴎外の特徴で、自分の人格性を守ることにおいては鴎外は終生厳格であった。無論豊太郎に表現されたものは、若い鴎外が持つ道徳的な意識を小説的に昇華したもので、鴎外の日常的な意識とは違う。それは鴎外にかぎらず人間一般についていえることである。鴎外は地位やそれに伴う名誉を熱心に追求しつつ、作品としては、そうした階級に特有の道徳的な意識を生涯を通じて発展させ描きつづけた。鴎外はいかにも俗物らしい生活をし、そういう意識をもちながら、同時に迷うことなく道徳的な高度な精神を追求しつづけていると信じている、現実によく見られる意識の体現者である。
 この意味で豊太郎ないし鴎外は道徳的な意識に満ちた、人格性を重んじる階級であり人物である。しかし、同時に豊太郎のエリスへの対応は不誠実であり卑劣である。それは豊太郎が彼自身の道徳律を裏切ったから、あるいはその道徳を貫徹できずに挫折したからではない。豊太郎が自分の道徳的精神の内部に生きていることは、鴎外の弁護によっても明らかである。したがって、その道徳的精神自体が不誠実で卑劣な内容を持っている。道徳的であること全体において不誠実であり卑劣である。その道徳的な意識は豊太郎の属する階級の人間関係の反映であるから、人間関係自体が不誠実で卑劣な意識を生み出すことを示している。この作品にかぎらず鴎外は、自分の属した階級に特有の道徳的な精神を細かに作品に描写しつづけた。その出発点としてこの作品は意義を持っている。道徳的な意識というのは人類一般に通ずるものではなく、同じ範疇のもとに各階級に特有の内容を持っている。鴎外は特有の道徳の一つを描いている。豊太郎が近代的かどうかとか、反権力とか反家父長的だとかいうのは、作品の具体的分析も歴史の理解も放棄した単純な図式上の遊びである。道徳的な図式によって鴎外の作品を批評するのではなく、鴎外の作品に現れた道徳的な意識が社会的にどのような意味をもっているか、その具体相を明らかにすることが、鴎外を日本における近代的精神の一形態として位置づけることである。豊太郎はエリスを端的に切り捨てる人物とは違う。しかしそれは、そうした人物よりも善良であるとか、より道徳的であるとかいうことではない。他との比較ではなく、それ自体がどのような具体的内容を持つかを明らかにしなければならないのである。

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