『魔睡』 (明治42年6月) 

 この作品も、鴎外のありのままの日常とその日常でうまれるありのままの精神を描写した作品である。医者が奥さんに催眠術を掛けて破廉恥な行為をしたかもしれない、という疑惑を経験した鴎外は、こうした経験において生じる自分の精神の自然的傾向を冷静に観察している。
 さてここに妙な事がある。それはいつも博士が人に迫害を蒙つた時の反応の為方なのである。博士はかくまで不快を感じながら、磯貝を憎むといふ念は殆ど起らなかつたのである。博士の心ではかういふ時に、いつも卑む念が強く起こつて、憎む念に打勝つのである。卑んで見れば、憎む価値がなくなるのである。博士は往々此性質の為めに人に侮られる。それは憎むことの出来ないのは男らしくないのだと解釈せられるからである。それとも博士には矢張男らしい性が闕けてゐるのかも知れない。
 これは、鴎外の率直な自己認識である。その率直な自己認識には、自分の立場を、「人に迫害を蒙つた」として認識する鴎外の特徴が現れており、これまでの作品に共通している。無数の日常的事実のなかから、こうした不快な事実を描写すべき事実として取り出すことも鴎外の特徴である。人を憎むのではなく、卑しむという博士の精神は、こうした一連の自己認識と必然的な連関を持っている。強い立場にありながらこうした否定的な形式で自分を認識することを鴎外は自分の特徴としてとらえ、それが何であるかを理解しようとしている。
 順調に出世していた鴎外にも、現実に対立が生じ、自分の思い通りにいかず、意に反した結果を押しつけられることがある。そのとき、鴎外は迫害を感じ、不快を感じる。怒りや憤りといった直接的な対立的感情は表に現れない。感情に振り回される事がなく、常に自己を厳しく管理することができる。それを鴎外は「憎む念に打ち勝つ」と表現している。それは憎む念や怒りを抑えることより徹底していて、憎む念や怒りを初めから感じないほどに自己制御している。たとえ、怒りや憤りを持つとしても、その感情に支配されることなく、それを軽蔑という形に変えて自分を抑える事ができる。これが鴎外に見られる冷静さである。
 鴎外には、自分より強い力と対立する感情はどこにも見られない。鴎外は相手に対して社会的な力の優位にあり、相手を軽蔑する事のできる力関係の中で生じる対立を迫害と感じ、認識する。軽蔑というのは、自分の権威の力を可能な限り意識化し、相手にもその力関係、自分の権威を徹底的に押しつける意識である。怒りや憎悪を持つ事は相手と同等の立場において現実に闘う感情である。しかし、鴎外は現実的・直接的対立を回避しながら勝利し、その確実な成果の確認として相手に対する軽蔑を自分の精神として蓄積している。そしてこうした勝利が可能な場合にのみ闘うのが基本的な鴎外の自己保身の基本的な方法である。このために、憎む事ができないことが男らしくないという印象を与える。
 
 鴎外が憎しみを持たない、というのは、寛大に相手を許すことではないし、それを本質的に認識することで宥和することでもないし、現実的な解決を計ることでもないし、妥協する事でもない。迫害という現実認識には、根強い、癒しがたい、さらに言えば、癒そうとしない感情が潜んでいる。これは、博士の現実に対する特殊な対処が生み出す感情である。現実的な直接的な対立を回避し、その上で勝利し、さらに対象を精神に至るまで決定的に否定するのが軽蔑である。現実的な行動のための衝動である怒りや憎しみを押さえ込むのは、現実的な直接的な対立を回避する感情であり、相手を卑しむという感情は、対立を押さえ込み我慢する結果として、復讐的な、陰険な、執念深い気質として蓄積される。それは、非妥協的で、非寛容な、陰湿な闘いが生み出す感情である。
 現実の積極的対立は、その対立にふさわしい積極的な精神を生み出す。現実の対立における敗北を畏れる鴎外は、対立を回避して勝利することのできる対立を選択し、卑しむ事によってその勝利を味わう。鴎外が経験する現実的対立も、対立的精神も、新たな積極的関係や精神を形成することがなく、対立の結果として、対立を回避する智恵とその方法と結果を肯定するだけの、対立の方法に応じた、陰気で消極的で非生産的な精神が内部に蓄積される。その成果が、破廉恥な医者に対する複雑な感情である。この陰気で復讐的な意志に徹底してとらわれている鴎外は、こうした疑惑を小説として公表する事の結果に何の関心も持っていない。
 鴎外は、対立によって対立を解消することも、対立による自己の現実的検証も、まして対立による敗北をも回避し、なおかつ勝利し、自分を肯定する、という無理な課題を抱えている。精神の正当性は、現実的対立によってのみ検証しうる。検証を回避して自分の優位を感じようとする事が相手に対する軽蔑であるが、いかに精神の持ち方を工夫しても、自分の精神の正当性や力を対立によって検証しない限り、自己肯定には達しないし、軽蔑する意志を表に出す事はできても、軽蔑する事もできないであろう。対立を回避するのは、対立に耐えるだけの力を持っていない精神が必要とする自己保身の方法である。
 
 ロマンチックな夢想によって自己を肯定していた初期作品にもこうした傾向は萌芽として含まれていた。エリートの卵から保守的な官僚に成長した鴎外の内面には、長いブランクの間にその萌芽が成長し、このような姿を表してきた。そして、この形成された精神を肯定的に解釈することが、鴎外の精神の一層の成長であるが、その肯定の仕方も必然的に規定されている。鴎外にとって、ここに現れた傾向がどんな性格をもつものかはまだ明らかでない。鴎外は経験的に生まれ出た精神を対立によって検証することなく、あくまで自分の解釈によって肯定する努力を続ける。そして時代の流れとの分離が進んで、この時期にまだ見られた対立をも失うことによって、弁解の必要すら失い、自己を自己自身において肯定することの不可能を身をもって体験する事になる。

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