15. 明暗 1
 『明暗』で漱石は小市民世界一般を客観的に外から描写している。この作品には漱石はいない。津田とお延が自分の価値観において生活を守り、向上させるための努力によって没落する過程を総合的に描写している。漱石はこのとき津田やお延の人生の全体を完全にものにしており、彼らを彼ら自身の必然性において自由自在に描く能力を獲得していた。漱石があと数カ月生きていたら津田やお延や吉川夫人に対する、社会的な法則による判決を描写していただろう。漱石が彼らの運命の結末を描写していれば、日本文学史のみならず、日本精神史の発展により明確な影響を与えたでしょう。すでに書かれている内容によってこの小説の行方を抽象的に予測することはできるが、小説においては問題は具体的な展開であり、それは漱石にしかできない。せめてもの救いは、漱石が清子との対立を描きおわったことである。漱石にとっては小林と清子を津田の対立物として描くことが非常に重要な意義をもっていた。それが漱石の到達した肯定的精神だったからである。
 ここではこの小説でもっとも重要な意味を持つ小林については触れない。厳密に規定された、非常に高度な小林の精神を限られたスペースで説明することはできないから。

 この作品の人間関係はそれぞれの社会的な特質を展開すべく設定されており、関係の設定自体が、漱石の獲得した高度の現実感覚をしめしている。津田とお延は結婚してまもないにもかかわらず、互いに不信感を持っている。それは性格的な、偶然的な疑いではなく、彼らの社会的な人間関係の必然性として描写されている。
 津田とお延は勤労的な生活を嫌い、贅沢な、見栄えのよい生活を望み、そのような生活をしていることを世間に示す必要があると考える虚栄心を持つ点で、またそのための手段が限られている点で共通している。津田はそのような生活のために吉川夫人の勧めに従ってお延と結婚した。津田がお延を大事にしているように世間に見せかけているのは、それによって吉川や岡本との関係が維持できるという打算にもとづいている。
 お延は津田とは逆に、自分と津田の実力によって成功しようと考えており、その力を津田が持つと信じて津田を選んだ。このような誤解も自分の地位に不相応な欲望を持つお延の特徴である。お延の立場では津田のような、実際には実力がないが、あるように見せかける実力をもっている男を選択する以外にない。実際にお延が望むような出世主義的な実力を持つ男が、出世を望んでいるだけで出世の手段となりえないお延のような女性を選択する可能性はないからである。津田はこのお延の期待に値しないことを見抜かれないように常に用心しており、それが彼らの不信感になっている。
 このように非常に根の深い相互の不信感は彼らの生活の日常性であり、それは彼らにとっての不幸でも、苦痛でもないし、それよって彼らの生活が破壊されることもない。彼らが危機を深刻に感じるのは常に地位や金の危機においてである。漱石はこのような不信感に満ちた世界が、生活上の危機を孕みはじめた状態から描きはじめている。冒頭に描かれた津田の不安は病気を契機にした、自分の運命に対する不安である。津田は運命が自分の思うように運んでいないことを意識しはじめている。
 漱石は初期作品では津田とお延の互いを探り合う関係を批判し、克服すべきだと考えていた。しかしこのような意識上の対立は小市民的な人間関係の反映であり、その個別の意識形態を批判によって克服することは不可能であり、その人間関係の崩壊のみがこの矛盾の解決であることがこの小説では明らかにされている。津田の危機は彼が依存している人間関係自体の必然性によって生じる。小金をため込んだ津田の父が自分の金をけち臭く守ろうとすることによって生じる津田の危機は、もともと津田がそのような小市民的な人間関係に依存して生きていることに根拠を持っている。津田が京都の父や吉川夫人に依存できることは彼の余裕の保証であると同時にその人間関係に特有の危機を孕んでいる。津田の力で依存できるような人間関係はもともと危機を孕んだ、流動的なものである。このような小市民的な関係からの脱出のみが危機の克服である。
 小林の精神は津田の世界の危機を脱出し、津田の世界から分離された、『こころ』で否定された明治の精神によって生まれた新しい時代精神である。パンを追いかけて歩かなければならない小林と違って津田には余裕がある。しかしこの余裕には特有の不安がある。両者ともそれぞれの階級に特有の矛盾を抱えている。違いは津田が破滅的な矛盾を持ち、小林が発展的な矛盾を持つことである。その内容を小林はこの作品で繰り返し説明している。小林は津田には特有の危機があることを理解しているが津田には自分の生活の危機が認識できない。これが津田に対する小林の優位である。
 小林は都落ちをして朝鮮に渡るかどうかで悩んでいる。津田にとっては門を閉めたのが偶然かお延の意志かが重要な問題である。小林の抱える矛盾も津田の抱える矛盾も彼らの運命にとって決定的な意義を持つ必然的矛盾である。「暖かい家庭の燈火を慕つて、それを目標に足を運んだ」という小市民的な幸福感が信頼関係の崩壊を意味していることは、門が閉まっているだけでその幸福に対する裏切りが意識されることに現れている。彼らの温かい小さな幸福には大きな人間不信と不幸が内包されている。津田はこうした些細な矛盾を乗り切るために全神経を使い、そのための能力を蓄積しているがその些細な矛盾を支配している社会的な巨大な必然性に対処することはできない。些細な矛盾に対する津田の些細な対処自体が没落の巨大な必然性に規定された内部的運動である。

 吉川夫人に関わりを持つ場合、対抗する場合も取り入る場合も破壊される危険がある。破壊されることが気に入られることである。社交的な技術で従順さを示そうとしているお延の態度を吉川夫人は認めない。吉川夫人に従順さを認められるには津田がそうであったように、吉川夫人との違いを現実的に厳しく思い知らされる必要がある。人生全体を通して従順であることを形式的にではなく実践的に確認した後に初めて吉川夫人は自分との関係を認める。お延はその経験をまだ積んでおらず、自分の頭の良さで対抗できると信じている段階にある。
 お延は見合いの席で岡本や吉川婦人とのさらに継子との階級的な違いを経験した。このような孤独感に襲われたとき、彼女は自分の味方が津田だけであると感じている。しかし吉川夫人や岡本との関係こそお延と津田の関係を分離する力である。津田にとってお延は吉川夫人と一致する手段として、お延にとって津田は社交場で成功するための手段として本質的な意義を持っている。その吉川夫人にとって津田やお延は人生を弄ぶ道楽の手段であり積極的な人間関係としての意義はない。わずかの財産と地位だけが彼らの人生の目的であり人間関係は手段とされることにおいて崩壊している。積極的な人間関係の形成とは吉川夫人との関係を絶つことである。しかし吉川夫人との関係こそ二人の基本的な欲望であり二人を結びつける共通の価値観であるから、二人の関係は二人の欲望の実現過程で破壊される。彼らにとって危機は決意を固め緊張関係を形成する原動力でもある。しかし行動の結果はいっそう危機を発展させ、彼らが孤立を感じる回数と時間と深刻さは大きくなる。お延に生じた偶発的な覚醒は繰り返され、長くなることで必然性であることが明らかになる。

 岡本の家の空気で育てられたお延は結婚して岡本から独立することで、彼女の社会的地位にふさわしい人間関係に入り、その関係に必要な精神を獲得する。お延は今自分の社会的地位の意味を経験させられている過程にある。お延に生ずる緊張や充実や孤立感は津田の個性によって生ずるのではなく、彼女の持つ社会的人間関係と彼女自身の欲望による。彼らの欲望は常に非現実的である。彼らの欲望は地位や能力と一致していない。小林にも岡本や吉川にも彼らの地位に応じた現実的な欲望が形成される。津田やお延は現実的な準備や根拠を持たずに成功を望み、その観点からあらゆる現実的な努力や諸関係の認識を拒否し軽蔑する。それが彼らの色気である。彼らは自分の欲望を現実化しようとする努力によって、現実と衝突し破局を迎える必然性を持っている。

 津田の没落のために重要な役割を果たすのがお秀である。お秀が自分の生活に満足していれば他の生活に対する干渉は必要ない。しかし小市民的な生活には一般にそれ自身における充実がない。彼らは相互の干渉的な対立においてのみ充実する。対立が本質であり小市民的な生活のあらゆる現象は対立の契機になる。所帯染みたお秀にとっては、お延の派手さが気に入らない。お秀もお延も津田も自分の置かれた状況を肯定的に評価する精神を持たない。どのような世界にも矛盾があるが、小市民世界での矛盾は瑣末であることと、その矛盾に保守的に対処することが一般的な特徴である。
 人間関係が崩壊している小市民世界ではダイヤや立派な家や容姿は特殊な意味を持っている。彼らの物質的な豊かさは決して幸福の保証にならない。人間関係の崩壊を反映した彼らの物質的欲望のあり方は人間関係に反作用し、人間関係を崩壊させる契機になる。物質的な富に対する彼らの関心も実際は人間関係に対する関心であり、しかもその関心は破壊的である。お延の指輪に対するお秀の好奇心のあり方は彼らの人間関係に規定されている。指輪を契機にした誤解は彼らの人間関係の法則の現象形態である。誤解が彼らの下らない行動を引き起こすのではない。彼らの世界では人間関係の客観的な認識は一般にあり得ない。小市民世界では誤解は偶然ではなく認識能力の必然的形態の一つである。瑣末な対立を本質とする世界ではお秀の誤解を解消する意義はない。誤解も対立形態の一つであり誤解によらない対立と同等である。だからお秀もその誤解を解消する努力をしていない。お秀の主観にとっても誤解を解くことではなく対立を発展させる契機が必要なだけである。誤解は彼らの人間関係上の必要物としてどのような状況でも形成される。誤解を避ける努力も瑣末な対立を形成する要素となるだけである。このような閉じた円環が小市民の必然的な崩壊過程である。
 瑣末な利害を契機に下らない人間関係が展開するのが小市民世界の人間関係の法則の反映であり、その世界内部でこの対立を克服することはできない。津田の横着をなくし、同じことであるがお秀が津田を横着な点で批判しなくなること等々は小市民世界から逃れることであるが、それは岡本や小林になることである。しかし彼らの意志と努力によって岡本になることは不可能であるし小林になることはいっそう不可能である。現在の地位にしがみつき、現在の人間関係を維持しようと努力することにおける小市民世界の矛盾の解決を漱石は描写している。初期作品では漱石はこの対立を批判し解消しようと努力していた。しかし客観的にはその努力もこの世界の内部対立の一つとして消耗的な対立を発展させることであった。この対立形態を克服する方法はこの内部的対立の発展だけがそれ自身に即した法則的な解決であることを認識し、この世界の矛盾の解決をこの世界の自由な意志による対立の発展に任せることである。

 津田とお延は吉川夫人によって結び付けられ吉川夫人によって引き裂かれる。彼らは対立し引き裂かれるように結びつけられている。彼らは吉川夫人に依存した関係を形成し、そのような内容の欲望を形成し、さらに吉川夫人に依存することで関係と欲望を発展させようとしている。彼らには自分自身の矛盾が吉川夫人との関係において生じていることが理解できず、自分の矛盾を解決するものとして吉川夫人を思いついている。彼らには吉川夫人との関係に内在している破滅的な危機は認識できない。労苦を回避することには回避することの利益がある。そして労苦を回避することの結果が合法則的に明らかになるのは、労苦を回避する努力を繰り返し、短期的な利益を蓄積した成果としてである。彼らは労苦を回避することの利益を追求することにおいて、その利益を蓄積することの必然的な結果を認識する能力を失っている。目先の利益の蓄積がその利益の対立物に転化するのが小市民世界の法則である。

 津田が中間的な地位の安定を守るためには対立を避けなければならない。矛盾と対立を避けることが津田の人間関係上の本性であり、その反映として小市民に特有の無能や臆病や卑怯が形成される。しかし矛盾や対立を避けることができないことも無能や臆病や卑怯の特徴であるし、彼らの人間関係はその転化形態である自尊心や怒りをも同時に生み出し、無能や臆病や卑怯に特有の対立を形成する。お秀は津田の置かれた状況を知って金の力で津田の弱みを突いて日頃の鬱憤を晴らす契機にした。しかしお延の金で力関係が急に変化したためにお秀を怒らせた。その結果すべての内部的な計算を無にする関係が生じている。
 お秀の怒りは津田の計算以上の実践を引き起こした。しかしお秀の計算が津田より現実的なわけではない。お秀の計算も客観的な関係の発展と一致することはない。人間関係は常に彼らの計算を越えて展開される。津田は吉川との関係の前に媒介項として吉川夫人やお秀やお延と関係を持っている。この関係にひびが入れば彼が目的としている岡本や吉川の庇護が失われる。したがって津田の用意周到な人生は津田が軽蔑しているお秀に依存している。必然性が津田の没落のために何を契機として使うかはわからない。漱石はこの関係をうまく掴んで小説の展開を面白くしている。津田はお秀に駆け込まれた吉川夫人をうまく取り扱わねばならない。そのためには夫人と差し向かいで話をする必要があり、お延が病院に来ないように処置しなければならない。吉川夫人に対する気遣いがお延に対する気遣いをおろそかにする。だからその処置がまた意外な展開を生む、等々。

 吉川夫人の成り金趣味は趣味の悪い宝石や骨董を集めたりペットを相手にするのではなく、人のプライバシーに首を突っ込み、金と地位の力で人の運命を弄ぶことである。お秀が金で感謝を求める場合は俗物的であるが、地位が高く犠牲と報酬が大きい点で吉川夫人は俗物的であるだけでなく暴君的である。彼女には物質的な利益を与えることが人の精神や運命を弄ぶ権利を与えると思われる。実際そうした取引をする津田のような人物が存在し、吉川夫人に好まれる。これも津田の京都の父がけち臭く小金を溜めて趣味に生きるのと同様この階級内部の金の典型的な消費形態であり、取得形態であり、循環形態の一つである。厳しい労働を嫌い、精神的に従属することで物質的な報酬を得るのもこの世界に発達する生きるための能力である。
 吉川夫人に人生を弄ばれることを辛抱することで報酬を得るのはそれほどうまい話ではない。まず気まぐれな夫人の気分を損ねないこと自体非常に難しい。さらに本質的には吉川夫人の主観と客観的な人間関係の二重性がある。吉川夫人の気まぐれが現実の人間関係と接触する場合どんな結果をもたらすかは吉川夫人自身にもわからないし夫人はそれに関心を持たない。しかし津田は夫人の気まぐれによる危機が吉川夫人の善意によって回復されると信じている。夫人には自分の与えた損失を物質的に回復する良心がある。だから津田は夫人による損失によって夫人から離れるのではなく、より大きな報酬を期待していっそう強く依存する。吉川夫人に依存することに特殊化された津田はあらゆる危機を吉川夫人への依存を強めることによって解決する以外にない。津田と吉川夫人の相互の依存関係のこのような円環が破れる危機が生じている。吉川夫人と津田は相互に依存することで何を失ったかを経験しなければならない。その経験のための策動をするのは吉川夫人自身である。
 吉川夫人とお延の対立は津田の計算になかった。この現象は新しい関係として形成されたものであり、決して予測できるものではない。お延に対する批判意識は吉川夫人自身にとっても新しい感情である。それは津田とお延の結婚後に形成された新しい関係を反映している。この新しい人間関係に対する吉川夫人の対処に再び津田は対処しなければならない。津田の予測以上に変化することは吉川夫人の気まぐれな楽しみの一つであると同時に吉川夫人の社会的地位の必然性でもある。
 津田が自分とお延の関係を幸福に見せたことはお秀や吉川夫人の嫉妬の対象になり破壊的な情熱を生み出す。彼女らには津田とお延の間にある矛盾が理解できない。さらに津田とお延の関係の客観的な認識はもともと彼女らに必要なく関心がない。干渉すること自体が彼女らの目的である。彼女らはこの見せかけの幸福に矛盾を持ち込もうとして客観的に存在する矛盾を発展させる。
 吉川夫人がお延を「根から先へ療治」する手段はまず津田とお延を分離し孤立させることである。吉川夫人に依存し、吉川夫人を媒介しない独自の利害や愛情が形成されない津田とお延の関係はすでに吉川夫人の誘導と一致している。吉川夫人はその場の都合で津田とお延の関係を想定しているが、津田はその都合と一致するように過去の人生を組み立ててきた。津田は夫人の道楽のためにあらゆる点で好都合な性格を持っている。津田が自分の与える利益に期待していることを知っている夫人の気まぐれは常に津田の意志として貫徹される。津田の内面で生ずる葛藤は吉川夫人の意志を津田が貫徹する際の意識形態であり、吉川夫人の意志と対立する内容をまったく持たない。
 お延の人生を弄ぼうとする吉川夫人と岡本は対立する。この側面で吉川夫人との関係を肯定する場合津田は岡本と対立する。津田には吉川夫人と吉川・岡本の対立を教えられても吉川夫人と対立して吉川や岡本との関係を選択する能力はない。吉川夫人との関係が深くなり、吉川夫人の気まぐれに従うほど吉川や岡本との対立的傾向が深まる。
 人間関係の展開の中で津田が関係しているのは吉川夫人だけである。津田が吉川や岡本との対立を覚悟して吉川夫人に個人的な利益を期待する場合は、吉川夫人との関係を含めたあらゆる信頼関係を喪失する危険がある。お延を孤立させる過程は津田の孤立の過程でもある。津田は吉川夫人を利用する形式をとりながら吉川夫人の道楽の材料になり大きな犠牲を払うことになる。吉川夫人との関係の必然的な破滅を吉川夫人の善意で回避することはできない。地獄への道は善意で敷きつめられているというのはこの世界の真理である。
 吉川夫人自身の破滅は彼女の地位を反映した、津田と別の形態をとる。彼女の破滅は津田の破滅の一般化の上に形成される。吉川夫人は津田が破滅すれば新たな津田を探すことができる。吉川夫人の限界は次々に新しい津田を求め、より希薄な、信頼関係のない関係を連続することであり、津田のような打算的な人間にさえ見捨てられる危険を長い期間に蓄積することである。地位の高い吉川夫人は単純な危険を金と地位の力で回避できる。その回避によって危機を積み重ねることが吉川夫人の危機の法則である。
 吉川夫人の親切や好意の純粋さとは、自分の気まぐれを親切や好意として疑いなく、結果を気にかけずに実践することである。津田は夫人の性格的な弱点を理解し夫人の意志に従うことの危険を理解している。しかしそれは吉川夫人に従う場合の危険を回避するための知恵であって批判意識ではない。吉川夫人には有閑マダム的な性格的弱点がある、だから関係を拒否する、ではなく、だからどのように対処すれば利益を引き出せるかが津田の関心である。吉川夫人の弱点の認識はその弱点に徹底して従属するための手段として必要である。津田は吉川夫人の気まぐれの内部で利害を天秤にかけており、吉川夫人との関係の外に出ることはあり得ない。
 吉川夫人はお延の精神を弄ぶための豊富な経験を持っており、その技巧を実践するための地位と金もある。吉川夫人がお延の人生を弄ぶにはお延が不安定な、不安な状況にいるのが好都合である。この不安定な状況も吉川夫人と津田によって形成されている。結婚後の津田との関係に疑問を持ち始めその原因を探ろうとするお延の行動の結果がお延の孤立をもたらした。破滅的な必然性が姿を現しつつある。お延に恩恵を与えるには恩恵を必要とする不幸が前提になる。吉川夫人はまずお延に孤立感、不安を与えてそれを手段として打撃を与え、その後に恩恵を施そうとしている。吉川夫人の与える恩恵の本質がそれを与える手段に現れている。
 人を従属させることに慣れた俗物有閑マダムにとっての決定的打撃は、お延のように夫人に内部的に対立することではなく、彼女を見捨て、彼女が支配するこの矛盾の巣窟から抜け出すこと、小林が津田に対処しているように分離を確定することである。清子は突然、怒ったのでもなく意地を張ったのでもなく、断ち切るように平気で彼らの前から消えてしまった。清子が背を向けたことで吉川夫人の有閑マダム的なわがままと、金持ちと特別の関係を持つことを背景にした津田の自惚れが破壊された。吉川夫人にとっても津田にとっても清子の行動は共通の不可解な謎として残されている。清子の行動は彼らの本質に関わる重要な問題であるから彼らは関わらずにはおれないが、実は本質に関わる問題であるから関わってはならない秘密である。そこには彼らの没落の秘密と危機がある。
 吉川夫人と津田は自分の行動から作意を消し、天然自然に清子に会いに行く形態を整えたいと思っている。しかし天然自然に会うという形態を整える必要があること自体不自然な関係であることを示している。清子と独立に病気のためだけに温泉に行くのであれば清子のいる温泉に行くことも天然自然である。しかし彼らは目的を持たないという形式の裏に目的を隠している。彼らの天然自然は自分の意志を明確にしない、常に逃避場所を用意しておく臆病で卑怯な方法である。清子と関係のない独立的な、天然自然の行動として温泉に行く形式を整えること自体が不自然であること、清子に会うことの明確な意志を持つと同時にその意志を明確に示す行動をとること自体が積極性であり能力であり、端的な天然自然と言うべき態度であることが彼らにはわからない。彼らには特別な関心を持たずに会うことが天然自然に見える必然性がある。
 津田が清子のいる温泉に行くことは彼らの置かれた状況での必要事をすべて満足させる最善策として自然に見える。津田が清子に会いに行くことは、手術後の療養のためにも、お延を津田から切り離し孤立化するためにも、突然身を翻した清子との関係に決着をつけるためにも有効である。この世界の人間関係の展開をうまく組み合わせた吉川夫人の機転はこの世界の俗物的な人間関係の展開に即しており、この世界の矛盾をもっとも深刻に発展させる。この世界内部ではこうした馬鹿げた連鎖が合理的に見える。清子に会うこともお延を教育することも吉川夫人の金で療養に行くことも外部から見ればすべて馬鹿げた目的であり、その手段も卑劣であるがこの世界ではそれが天然自然である。吉川夫人の機転が活躍するにふさわしい人間関係がすでにできており、それにふさわしい機知がこの世界ではいくらでも形成される。それが破滅的世界の必然性の現象形態であり、この策動自体すでに人間関係の崩壊であり精神の破滅を示している。
 津田は清子が温泉に一人で行っており関がいないことを確かめてから温泉に行く決意を最終的に固めている。


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