16. 明暗 2
 漱石は津田と清子の対立を描くに先立って、津田が清子との積極的な人間関係を形成する必要も欲望も持たないことを明らかにしている。清子に会いに行くことが清子との関係では不自然であることが津田には判っており、そのために清子と偶然に会う形式を整える必要があると考えている。清子に会うことの明確な意志を持たない場合どんな形態をとっても会うことが不自然であることが彼らには理解できない。
 津田がお延を吉川夫人の手に引き渡し、清子に対する自分の好奇心を満足させることは吉川夫人との関係では彼の利益を守ることであるが、全体としては危機の深化である。津田は清子と会うことで自分が彼女にとってまったく無価値であること、彼を信頼しているのはお延だけであることを思い知らされ、その同じ時に吉川夫人は、津田と清子の関係を使ってお延を窮地に追い込んでいる。お延が完全に孤立したと思い込めば吉川夫人に従うことは意味を持たなくなる。吉川夫人は清子の場合と同じように痛めつけるだけで、後の慈善を与える機会を失うだろう。津田はお延との対立によって吉川、岡本と対立し、援助を断とうとしている京都の父に口実を与えることになるという全体的な連関を理解していないし、この関係の進展に逆らう能力を持たない。
 清子に対する愛情によってお延に対する愛情が失われたわけではなく、津田が一般的に愛情を持ち得ないことの現象形態の一つとしてお延との溝がある。津田は吉川や岡本に対する打算によってお延と結びついている。津田の打算がお延には過去の秘密に見える。清子は津田の打算を否定したことにおいて津田がお延に心を開かないのは何故かという疑問の本質的な答えを握っており、津田の人間関係の必然性の秘密を握っている。漱石は、小林との会話で津田の必然性について長々と説明したあと、清子の端的な対応によって再び津田の必然性を描いている。実際ここにおいて津田の運命の秘密が暴露されている。

 清子に会いに行くに当たって津田はこの小説の冒頭の自己認識を繰り返している。津田は清子に背を向けられた後に、偶然性に支配され、夢のような状態で生きる人生を確定した。自己喪失とは吉川夫人や京都の父やお秀との関係に依存して生きることである。プチブル的な対立関係に規定されることが現象的には自己の立場が明確でなく、落ち付かず、色気の多い人生になる。プチブルの絶対的な不安定の内部での相対的な安定状態を彼らは余裕として肯定的に評価し、危機が現象化するときに不安定、動揺、無力、不確定等々の否定的形態で意識する。
 独立的で強固な自己を形成しておらず、自己の必然性の対象として執着すべき対象を持たず、情熱という自己を持たないことが清子との関係で明らかになる。津田は清子に対する愛情によって会いに行くのではない。吉川夫人に強制されて会うのでもない。津田は吉川夫人から独立した意志を持たないし、お延やお秀から独立した意志も持たない。一般に独立的な意志を持たない津田が清子に会うための明確な意志を持つことはあり得ない。津田は清子に会うことで清子にとっての自分の無意義を経験できる。それは色気の多い津田にとって清子による第二の打撃である。しかしその打撃の意味を反映する能力はそれまでの現実的な矛盾の蓄積に規定されている。津田が現実的な打撃を自己の能力として形成するには小林と同様の血の代を払わねばならない。清子に会うだけで自己喪失の不安定状態がからりと覚めるのかという期待自体が非現実的で馬鹿げている。

 津田は小林や清子との関係で自分の孤立を体験し、自分が吉川夫人やお延との関係で生きていく以外にないことを認識させられる。清子が自分と完全に分離しているという厳しい現実を知ることがどんな意味を持つかは東京での吉川夫人とお延の関係の展開で明らかになる。東京での孤立を描写した後に清子と津田の分離を描くことは漱石にとっても楽しい作業であっただろう。

 津田は目的地に着いてもまだ清子に会いに来たのか療治を目的に来たのか決めかねている。清子に会いに来たとも独自に療養に来たとも解釈できることはどうにも確定できない不自由な状態であることを津田は経験している。人間の意志は一般的に必然性に規定されている。津田の場合意志を確定できないように必然性によって規定されている。だから津田は自分に特有の自由を自分の意志で放り出すことはできない。清子に会いに行きながらいつでも療治を目的に来たと逃げを打つことができる状態を自由だと考えること自体確定した意志を持てない彼らの不自由である。
 津田が清子に会いに行くことは客観的に見るとまったく馬鹿げた行動である。しかし漱石は津田の心理に沿って独特の緊張感を描いている。それは臆病なプチブルに特有の不安であり動揺であり色気に満ちた無意味な好奇心である。清子のいる温泉ではこれまでの吉川夫人やお延やお秀との下らない対立を抜け出した新しい人間関係の展開を経験できるという期待がある。その期待と緊張を漱石は力を込めてゆっくり描写している。これまでの展開と違った人間関係に対する津田の期待と、実際に清子との関係で展開される予想外の展開とのギャップが客観的な緊張感を生み出している。この緊張によって何も起こらないことの重要な意味が描かれる。何も起こらないことが津田の必然性であり、津田の無力、破滅性の証明である。何も起こらないことがプチブルの常識を破るもっとも本質的な展開である。そこに凡俗のプチブル的作家と漱石の天才の違いがある。

 津田と清子の出会いの場面は清子が津田から身を翻した必然性を深く理解した漱石の素晴らしい構成である。津田は清子と偶然会うことを期待しながらそれが果たせず、清子のことを考えていない時に突然出会った。この偶然的な出会いは津田の緊張を高めている。この偶然は津田が清子に対して自己の必然性を明らかにする契機になっている。漱石は津田の自己肯定の要因となる偶然を蓄積することによって津田と清子の分離の効果を高めている。
 「此見当だと心得てさへゐたならば、あゝ不意打を食ふぢやなかつたのに」という感想は津田の現実認識の特徴を高度に表している。常に瑣末な計算をして生きている津田は不意打ちを食えばうろたえて何もできない。清子に会うことを明確な目的としていない津田の無力がここに現れている。しかしそれは不意打ちを食ったことが津田の不運であることを意味するのではない。この偶然は自分の都合のよいように解釈する余地を津田に与えた。この偶然は津田の期待と好奇心に材料を与えた。不意の出会いは津田にとってむしろ幸運であった。しかしその幸運をもより大きな不運の契機として蓄積するのが津田の必然性である。

 現実の材料は客観的にはすべて清子と津田の絶縁を示している。この時の清子を観察するまでもなく、このような瑣末な偶然事を材料とするまでもなく、結婚を前に彼女が突然身を翻したことが決定的に津田との絶縁を示している。にもかかわらず清子との絶縁を理解できないのは、津田の認識能力の欠如と、彼の認識を無能たらしめる彼の地位による。津田は清子を愛しているわけではなく未練も生じない。したがって津田はどのような現象をも清子の自分に対する愛情とも拒絶とも認識できない。それは材料が不足しているからではなく津田の欲望自身が清子との関係をいずれにも確定する必要を持たないからである。偶然的な材料を契機に清子の腹の中を探ること自体、予測し、悩み、探りを入れること自体が津田の目的である。津田は清子に対して愛情を持たないにもかかわらず自分に対する清子の愛情に関心がある。津田は清子に愛情や特別の利害がないにもかかわらずこのような詮索をするのではなく、愛情を持たず特別の利害関係を持たないからこそ、このような確定しようのない詮索をしている。清子が津田を悩ましているのではない。津田が清子を契機に下らない悩みを持つだけである。このような二重性の連関が津田の世界では無限に展開される。清子はこの二重性に二重性で応えない。津田の二重性は津田の二重性として終わる。それが津田に特有のプチブル的な緊張を解いている。

  「津田の知つてゐる清子は決してせゝこましい女でなかつた。彼女は何時でも優悠してゐた。何方かと云へば寧ろ緩漫といふのが、彼女の気質、又は其気質から出る彼女の動作に就いて下し得る特色かも知れなかつた。彼は常に其特色に信を置いてゐた。さうして其特色に信を置き過ぎたため、却つて裏切られた。少くとも彼はさう解釈した。さう解釈しつゝも当時に出来上つた信はまだ不自覚の間に残つてゐた。突如として彼女が関と結婚したのは、身を翻がへす燕のやうに早かつたかも知れないが、それはそれ、是は是であつた。二つのものを結び付けて矛盾なく考へようとする時、脳乱は始めて起るので、離して眺めれば、甲が事実であつた如く、乙も矢ツ張り本当でなければならなかつた。」

 清子が二重性を持たないことが津田には緩慢な性格として形式的に理解されている。津田が形式的に感じる清子の肯定的な性格は津田の世界の二重性を持たないことにある。漱石は清子のようなさっぱりした性格をこの世界の葛藤全体から切り離した。あるいは、さっぱりした性格という形式の内容が津田の世界では形成されないこと、それが津田に理解されないことを発見した。津田には清子が何故身を翻したか理解できない。自分に緊張を強いることのない清子の特徴と自分を裏切ったことの同一性が津田には理解できない。清子の緩慢な精神と津田を裏切ることは吉川夫人との関係を受け入れないことにおいて一致している。
 本質的には清子も津田も変わっていない。しかし津田には清子が変わったように見える。結婚を機に吉川夫人との関係で津田と清子のそれぞれの本質の違いが明らかになったのであって清子が変化したのではない。清子にとっては津田も自分も同じ人間であり変わっていない。しかし清子の行動の意味がわからない津田にはそれは形式的な、わけのわからない突然の変化に見える。

 清子は依存的な人生を拒否して自己の必然性を肯定して生きることにおいて一致できる相手を選択した。吉川夫人に依存し、相手の自分に対する評価を常に気にしながら生きることの煩わしさを拒否することが清子の自由なこだわらない性格である。津田に平安を与える清子は津田の前から姿を消し、津田に緊張を強いるお延は津田に能力を発見し津田を愛することが必然である。津田がお延やお秀との対立関係を逃れるには吉川夫人との関係や京都の父や岡本との関係で獲得される物質的な余裕を断念し生活のための労働に身をさらさなければならない。清子の端的な性格と津田の疑り深い性格の違いは本質的な階級的な対立を内包しており、お延との関係の現象的矛盾の認識によって越えられるものではない。

 津田の世界の精神は二重性を本質的な特徴としている。彼らは本当の関係は言葉にされない内面にあると意識しているが、客観的には二重性を持つこと自体が本質であって隠された内面が本質なのではない。漱石は清子に津田との無意識的な分離的精神を想定することで小林との意識的対立関係によって明らかにした津田の二重性を別の側面から描こうとしている。清子が津田に夫のことを端的に話すことは津田との過去の関係を問題にしていないこと、津田との過去は現在において何の意味も持たないことを意味している。しかし津田は飽くまで現在の清子に自分との関係の名残りを探している。津田との過去の関係を完全に払拭した精神を描くことは漱石のこれまでき作品の成果によって始めて可能になった非常に高度の課題である。それは津田を拒否することも批判することも避けることもなく、津田との分離を事実として端的に受け入れることである。このような対処には小林が繰り返し説明した事実という概念の高度の認識が生きている。自分との関係の名残りを過去の記憶に求めることができなかった津田はより瑣末な現象に幻想の拠り所を求めている。

 津田の世界では探りを入れ、相手の心理を憶測し、自分も憶測されるという関係以上の関係は形成されない。だから津田はある目的を持ってこのような探りを入れるのではない。このような方法自体が津田の人間関係のあり方であり、これが結果である。しかし清子の端的な言葉は津田の二重性を反射せず、津田が二重性を対象化する余地を次第に少なくしている。より端的な対処が津田との関係の拒否になる。下らない関係を解消することが人間関係の喪失を意味するのが津田の必然性である。津田と清子の会話の進展によって彼らの合理的で必然的な関係が次第に現実化する。

 清子は温泉に来たことも昨夕清子に会ったことも津田の意志であると考えている。清子のこの誤解は津田にとっては会話を進展させる契機になる。偶然を故意と認められたことが津田に精気を与えている。津田は昨夕偶然会ったことを、他意のない自己を説明する機会だと考えている。しかし津田に他意がなく、清子に偶然会ったことは津田の行動を自然にするのではなく、より大きな不自然を形成するだけである。津田や吉川夫人にとって自然に見える関係の全体が清子や小林にとっては不自然である。津田が清子の誤解を解くことによって津田と清子の本質的な対立が明らかになる。

  「『僕が待ち伏せをしてゐたとでも思つてるんですか、冗談ぢやない。いくら僕の鼻が万能だつて、貴女の湯泉に入る時間迄分りやしませんよ』『成程、そりや左右ね』清子の口にした成程といふ言葉が、如何にも成程と合点したらしい調子を帯びてゐるので、津田は思はず吹き出した。『一体何だつて、そんな事を疑つてゐらつしやるんです』『そりや申し上げないだつて、お解りになつてる筈ですわ』『解りつこないぢやありませんか』『ぢや解らないでも構はないわ。説明する必要のない事だから』」

 清子は津田の必然性として津田が待ち伏せしたと考えている。それはこれまでの関係で確定された本質的な認識である。しかし津田は昨夕清子に会ったことの偶然性だけを問題にしている。津田には清子の誤解を解くことが清子との関係の前進であるように見える。しかし清子は自分の誤解を単純に認めている。昨夕の偶然は津田の必然性の認識を変化させるものではない。昨夕の偶然は単純な偶然として理解され、それで終わりである。津田は自己の必然性を吉川夫人との関係で示し、清子は津田を裏切ることで津田の必然性に対する判断を示した。だから自分の津田に対する判断はわかっている筈であると清子は考えている。清子は必然性内部の細目に関わろうとしない。このような偶然性だけを問題にするのが津田の世界の人間関係であり、それを偶然性として処理し、津田の必然性だけを問題にするのが小林や清子である。清子は津田の必然性を小林のように認識的に問題にしていないが、経験的直観的に津田の必然性だけを問題にしている。津田の行動の瑣末な解釈を問題にしないことが清子の端的な態度である。清子の世界の人間関係を反映した経験的精神と津田の精神の無意識的なすれ違いが生じている。二重性を清子は持たないし、二重性を本質とする津田の心理の細目に関心を持たない。それが対立関係の発展によって自然に明らかになる。小林は津田の社会的な必然性を説明することで津田を苛立たせ、その苛立ちを再び必然性として説明していた。清子は津田を安心させ期待させながら対立を発展させている。
 津田が何のために清子を待ち伏せしていたのかは、清子にはわからない。基本的には関心がない。だから話せない。遠慮し、胸の中にあることを話さないのではない。遠慮をせず、胸の中に何もないことが清子の人間関係の反映である。待ち伏せする人間の目的など清子にとっては津田の自由でありどうでもいいことである。

 「『そんならさうと早く仰やれば可いのに、私隠しも何にもしませんわ、そんな事。理由は何でもないのよ。たゞ貴方はさういふ事をなさる方なのよ』『待伏せをですか』『えゝ』『馬鹿にしちや不可せん』『でも私の見た貴方はさういふ方なんだから仕方がないわ。嘘でも偽りでもないんですもの』『成程』津田は腕を拱いて下を向いた。」

 清子が津田を疑ることは津田にとっては人間関係の手掛かりである。しかし津田の本質に対する判断を終わっている清子にとって津田の二重性に対する疑いは生じない。疑る結果になったのは偶然によってである。清子は津田の必然性に対する断定によってその偶然を問題にしていない。どういう理由から津田を疑ったのかと言う疑問は清子の疑いの質を問う新しい疑問である。津田は昨日偶然会った個別的事件だけを問題にし、清子は津田の全体、必然性を問題にしている。津田の個別的行動を問題にすることと津田の必然性を問題にすることの違いが津田には理解できない。津田は自分を疑うことを自分の二重性を想定すること、自分の本心を問題にすることだと考えている。津田が昨日どのような理由で待ち伏せしたか、あるいは待ち伏せしたかしないかは清子の関心ではない。疑いの根拠は津田が待ち伏せする男であるという確定した判断による。清子は津田の二重性を規定する津田の人間関係全体を、疑る性格と判断している。津田は個々別々には相応の理由をつけられる行動の全体によって自分の必然性が判断されていることが理解できない。それは小林との会話でも同じであった。津田が「成程」と感じるのは、その意味は理解できないが清子の端的な断定によってそれが結論であることを理解したからである。

 お延と津田は常に表面的に対立している。しかし彼らは本質的な一致の内部で対立しており分離的で本質的な対立はあり得ない。津田と清子の会話は瑣末な対立から本質的な対立に必然的に深化する。話が具体的になるほど認識能力の質の違いによる食い違いが明らかになり議論が生じる。清子の前で津田が自由を感じたのは誤解である。津田と清子はお延よりはるかに本質的な対立関係にある。清子の端的な性格は津田との本質的な対立の現象形態である。その必然性を理解できない彼らには偶然話が議論になったと感じられる。両者に議論する意志がないにもかかわらず議論になるのは彼らの対立の本質を描写した小説の構成上の勝利である。小林はこの対立に自分の優位を感じて意識的に論争を挑んでいた。清子との関係でも本質的な対立が現象することによって小林との対立が偶然的な、小林の挑戦的な個性によるものではなく、彼らの階級的な対立の現象形態であることが明らかになる。小林の挑戦的な態度は津田との古い人間関係による小林の親切であり友情である。清子と津田にも過去に人間関係はあるがそれは現在に何の痕跡も残していない。清子の津田に対する否定的判断は確定しており、隠す必要のない事実として率直に表明されている。議論が故意ではないことは彼らの関係の断絶を意味している。しかし津田にはそれは妥協的な、津田を受け入れる態度に見える。このような色気は認識能力の限界に規定された津田の本質であり限界が認識されることも克服されることもない。
 
 「『昨夕そんなに驚ろいた貴女が、今朝は又何うしてそんなに平気でゐられる
  んでせう』清子は俯向いた儘答へた。『何故』『僕には其心理作用が解らないから伺ふんです』清子は矢つ張り津田を見ずに答へた。『心理作用なんて六づかしいものは私にも解らないわ。たゞ昨夕はあゝで、今朝は斯うなの。それ丈よ』『説明はそれ丈なんですか』『えゝそれ丈よ』」

 清子は昨夕津田を見て驚いた、しかしそれは偶然的な、突然会ったことの驚き以上の内容を持たない。昨夕偶然に会ったことも偶然として処理され、津田は清子との関係の手掛かりを失いつつある。津田の無意味な質問に率直に単純に対処することが津田との関係の合理的な拒否である。清子には津田との個別的な関係を拒否する積極的な意志はない。しかし清子の強固な必然性が津田との関係で現象化している。清子の静かで緩慢な精神には吉川夫人と津田を単純に見捨てた確固たる主体性が貫徹している。
 清子は津田には独立して温泉に来る必要があったという説明を聞いて納得している。清子にとって津田がここに来た事情は「何うでも構わない」し、「頓着してゐない」ことである。清子は無意味な話題を切上げ津田の病気に話題を移している。それは津田との過去の関係を無視し、津田を単なる療治客として扱うことであり、津田がこの温泉に来たことの無意味を実践的に証明することである。

 小林に対して津田は温泉に行くことが自分の余裕だと誇っていた。清子にも結構ねと言われている。これは吉川夫人に依存することで安楽に生活しようとする津田との分離的意識である。小林と清子は津田との階級的分離を生活として確定すると同時にその現実を思想的、経験的に認識している。津田との階級的分離の認識が彼らの精神の歴史的な獲得物である。清子の夫は忙しい。仕事を休んで金を貰つて温泉に来れる身分ではない。その忙しい生活を清子は自分の人生として受け入れている。その労苦を逃れるのが津田である。この両者の間に決定的な溝があることを認識することは小林や関の人生を受け入れるかどうかの問題であり津田には不可能な課題である。

 津田は清子の端的な対応によって孤立状態に放り出されながらも自分の幻想を払拭することができず、自分の地位の不確かさと不安をより深くしている。津田がこの不安を持っている時、東京では吉川夫人とお延の対立が津田の決定的な破滅を準備している。

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