Memocho

50.『浮雲』と『舞姫』の関係-5 (2002.6.26)

 豊太郎を批判的に理解するというのは、地位の規定性を本質的として、したがって昇と豊太郎を本質的な同一性において認識することである。昇と豊太郎の違いはこの同一性においてのみ具体的に明らかになる。豊太郎は出世主義者としてエリスを捨てる。しかし、昇のようにではなく、豊太郎らしく、しかし昇と同様出世主義者として捨てる。エリスと同じ立場にあって、好き嫌いやその他の偶然的な事情によって捨てたり別れたりするのではなく、出世にともなって、出世の為に、日本史の必然に従って捨てる。出世に伴う好き嫌い、出世に伴う偶然的な諸事情によって、つまり出世の必然内部の偶然の絡みによって捨てるのである。
 豊太郎と昇の対立は表面的なもので、表面に出ている対立を廃棄して同一性にたどり着くことが認識の深化であり本質化である。豊太郎を弁護する要点は、出世しているにもかかわらず出世主義者ではないとすることである。出世主義を昇のような出世を直接に誇る単純な形式に解消し、それ以外の形式を出世主義ではなく、さらに出世と対立する精神であるかのように規定することである。豊太郎の具体的な精神のすべてを、出世主義と矛盾した精神を持つかのように位置づける体系が形成される。豊太郎の人生のもっとも重要な、彼の価値のすべてが存在し、人生の目的としている出世が、あたかも彼の人生の苦痛であるかのように、出世を目的としながら出世が苦悩であるかのように、豊太郎の人生全体が悲劇であるかのように、出世が悲劇であり不幸であるかのように規定される。それはお勢やエリスとの関係で言えば、実践的に彼女達を切り捨てることを、あたかも切り捨てたのではないかのように、彼女達を捨てることが、「浮雲」に描かれているように、また文三が認識しているように、出世に伴う必然ではないかのように、偶然的な不幸であるかのように解釈することである。彼女たちや文三と競争して勝利し、さらに対立する階級として自己を形成していく日本史の過程にありながら、それが偶然的な不幸であるかのように現実を認識することである。四迷は昇を出世主義者の典型として突き放し、文三とお勢の運命と精神の形成を主な関心としていた。鴎外は逆に文三やお勢やエリスと違った階級として形成されている豊太郎をいかにロマンチックに、人格の形成過程として描くかを課題にしていた。
 こうしてみると、社会認識そのものが立場の反映である事が分かる。いろいろの粉飾があるにしても、要するにお勢やエリスを捨てて、というより彼らと分離して形成される新しい階級の自己肯定的な精神と、競争に負けていくお勢、エリス、文三の立場を肯定する精神が、対立的に日本的精神として形成されている。現実認識とはこの分離の過程を、それぞれの階級の具体的な精神形成の過程として規定することである。四迷や漱石はその過程の現実的な認識を課題としており、鴎外はその過程を覆い隠し、階級的な精神の分離ではなく、個人としての道徳的な精神の多様性の発展として現実を認識し、その体系の本質的な内容として、出世主義の否定、出世の否定、エリスを犠牲にしてのみ自己を形成することの否定を含んでいる。しかし、無論競争における自己の勝利を決して否定しないのであるから、エリスやお勢や文三の否定をその中に含んでおり、その否定の仕方を否定でないかのような形式に整えるのが現実の粉飾であり、鴎外の課題である。


 49.『浮雲』と『舞姫』の関係-4 (2002.6.25)

 四迷が描こうとしているのは昇の俗物根性の暴露ではない。昇が出世主義的な俗物であることは表面的な分かりやすい事実で、そういう人間は批判するまでもなくうようよしている。昇が出世のためにお勢を犠牲にする個性であることもはっきりしている。ところが、それにもかかわらず、時代の必然が、出世や金の威力が認識能力を曇らせ、お勢もお政も昇を肯定的に評価して、逆に文三が否定的に評価されて孤立していく、そういう力関係、人間関係が形成されると同時にそれを反映した精神が形成されている、という日本の現実の姿を四迷は描写している。
 昇がいかに露骨な出世主義者であっても、その犠牲になるお勢ですら、昇に対する批判意識、ないしその本当の姿の認識が形成されず、間違った意識によって覆い尽くされていく、という四迷の現実認識の正さを『舞姫』の豊太郎が証明している。豊太郎は出世主義者自身が自己を肯定的に認識した精神、価値観、社会認識である。
 地位の同一性から見ると、昇の上司に対する媚びへつらい、出世のためにお勢を捨てる事は、豊太郎の天方伯に対する態度、出世のためにエリスを捨てる事と同じである。無論まったく同じではない。違いは本質的な同一性のもとでの第二義的な違いである。豊太郎は昇とちがって用心深く、自分の言動を道徳的にも肯定的に解釈し示そうとする意識を持っている。昇にはそういう偽善性はない。出世するのが現実の勝利者だという端的に勝ち誇った意識を持っている。豊太郎は出世主義者でありながら複雑な二重性に満ちている。昇についてさえ肯定的に評価する社会では、豊太郎の二重的で偽善的な性格を具体的に認識する事は非常に難しい。四迷によって批判的に描写されている昇が日本史の必然によって自己を飾り自己を本心から偽る時、その本質を具体的に認識することもまた日本史に課された、日本史が必然的に生み出す精神となる。


48.『浮雲』と『舞姫』の関係-3 (2002.6.23)

 「浮雲」の昇は、「業務外の仕事」で、つまり休みの日に課長の家に出向いて何かと手間仕事をするなどしている。出世の為には手段を選ばない、というのは仕事の実質的な内容ではなく上司にゴマをすることで出世することで、豊太郎はこのような昇と対立している様に見えるし、実際に対立しているが、その対立の内容を規定する事が難しい。
 ここで道徳的な意識を本質的と考え、豊太郎の人格、精神性が昇と本質的な対立関係にあるように見る場合には、その道徳的な意識が昇や豊太郎の出世を肯定する価値観の内部での道徳的な意識となる。豊太郎はエリスと一時的な関係を持ち、その後捨てた。昇はお勢と一時的な関係を持ち、作品として描かれていないが構想としては後に捨てる。こうした地位の肯定における実践上の一致は第二義的なものとして扱われる。つまり出世主義者としての同一性が従属的な、非本質的な規定となる。
 出世することが第二義的とされる場合に、豊太郎の精神には出世する自己内部の矛盾が、しかも出世と基本的に対立する矛盾が想定され、悲劇性が想定される。つまり、豊太郎は出世を第一とするのではなく、エリスとの関係に目覚めたことが高く、第一義的に評価され、結局出世したという実践は第二義的とされることになる。出世を求めて出世しているにもかかわらず出世を悲劇として、意志と対立した実践として規定する論理が生ずる。
 昇はお勢を捨てたが悲劇の主人公とは評価されず、出世主義者、俗物と評価される。したがって、昇を出世主義者として俗物として批判することと、豊太郎を道徳的で悲劇的な人物であると評価することはまったく一致することになる。つまり昇に対する道徳的な批判において豊太郎は肯定されることになる。あるいは昇によって豊太郎は肯定されている。つまり、出世主義を昇の形式で批判する場合に豊太郎が肯定されるということは、出世そのものは肯定されており、その形式が問題にされ、昇のような形式での出世はよくない、ということになる。
 豊太郎の本質を昇との対立において道徳的に捕らえる場合は、昇と豊太郎の違いを本質とすることになる。昇との対立において豊太郎を肯定する事である。それは出世から取り残された世界を切り捨て、出世の内部における精神の特殊なあり方を道徳的な意識一般として人格一般として肯定することである。したがって鴎外の精神には日本の出世主義者に必然的な道徳的意識が形成され発展している。


47.『浮雲』と『舞姫』の関係-2 (2002.6.19)

 地位の規定性を問題にしない場合は、(というよりこの地位の規定性を否定することが鴎外を肯定するインテリの思想的本質、傾向性である)昇と豊太郎は性格的に、より本質的には道徳的な意識において対比される。昇は上司に媚びへつらって出世を目指している。お勢を弄んだ上、出世のためにお勢をすてて上司の娘と結婚する。豊太郎は独立的な精神の持ち主で、そのために上司ににらまれ嫉妬され誤解されて職を失う。上司と対立した結果として貧しいエリスと知り合い愛しあうに至ったが、友人に恵まれ、優れた能力が大臣に認められ、自我を貫く強い意志を持たなかったために、エリスと引き裂かれた。
 昇は上司との関係で独立的な自我を持たず、自我と自我による信頼関係としてのお勢との関係を形成することができず、上司ないし出世に支配されている。豊太郎は出世=上司と対立した独立的な自我を持ったが、不幸にも挫折して、豊太郎自身の意志ではなかったにせよ、エリスを捨てて出世の道に入ってしまった。
 こうなると、豊太郎とエリスの関係において日本史上の近代的自我の誕生と同時に喪失の悲劇が描写されており、それが封建制度を残存させる日本近代の歴史を反映している、と思われる。結果は馬鹿げているがそれなりに理屈は通っているように見える。こうした単純な規定も論理的な体系としてこの論理の上に無数の規定が積み重ねられる。それらの一つ一つの規定はどれもこれも作品の内容からみてばかばかしいほどの虚偽に満ちているが、それを批判するのは難しい。というのは一つ一つの規定はこの基本的な規定のもとに全体的な連関を持つから、一つの規定の反論として他の規定が用意されることになり、全体としてこれまでに積み重ねられた厖大な批評が背後で支える事になるからである。一つ一つの規定は馬鹿げているとしても、また豊太郎の印象が吐き気をもようすほどの俗物であるにしても、このような説明の全体のどこがどう馬鹿げているのかは結局は全体系において批判する以外にないから個別の規定の誤りとしては批判しにくいのである。
 豊太郎のこのような特徴付けは、地位の規定性を本質とする場合はすべて虚偽になる。


46.『浮雲』と『舞姫』の関係-1 (2002.6.15) 

 鴎外の「舞姫」は明治23年の1月に発表された。その直前の22年に四迷の「浮雲」第三篇がでている。同じ時期に描かれたこの二つの小説の主要な人物はどんな関係にあるだろうか。「浮雲」の文三、昇、お勢と、「舞姫」の豊太郎、エリスの全体の関係はどのように理解すべきであろうか。

 この二つの作品は近代文学の誕生を示す二つの作品として評価され、その観点から文三と豊太郎が比較される。文三は破滅するから敗北者と見られ、高く評価されない。豊太郎は近代的自我の目覚めをはっきり宣言したが、それを貫徹できなかったと見られ、悲劇を背負った人物と評価される。
 客観的に文三と豊太郎は本質的な対立関係にある。この本質的にということの意味が重要であり作品理解の対立点になる。豊太郎は出世し、文三は競争に負けて破滅し、それぞれの地位を反映した精神を獲得する、と考える場合は社会的な地位の規定性が本質的となる。
 この地位の規定性を本質的とする場合は、豊太郎と昇が同じになる。つまり本質的な対立関係は、文三=お勢=エリス、と豊太郎=昇の対立となる。昇は留学する豊太郎ほど高級なエリートではないが、競争に勝って出世していく官吏である点では豊太郎と同じであり文三やエリスと対立している。豊太郎はエリスや文三と階級的に分離されており、出世する官僚として昇と同一の精神を持っている。豊太郎と昇はこの本質的同一性の内部で対立している。つまり豊太郎と昇の対立は豊太郎と文三との対立に比べると非本質的であり第二義的である。
 これだけでは、単に出世するかしないかを分類基準にしただけのことであるが、この分類基準によってすべての個別的規定性が連関付けられるとその個別の特徴の意味がまったく違ってくる。


45.告白について-17 (2002.6.13) 

 さて、告白についての源さんの話からだんだんそれて、単純なようなややこしいような具体的なような抽象的なような、実は鴎外を扱ってきたこれまでのところで想定できそうなことを自己確認のために書くだけのような話になってしまったが、こうしたことがいかに退屈でもやはり考える必要がある事を、具体的な作品分析では触れる事がないような単純な実例で示そう。ここに書いたことと似たような抽象的な論理が作品を理解するために何か役に立つのかということである。役に立つというのは通俗的な言い方で論理というのは本来は物を考える上で何かの役に立つというようなものではない。役に立たせる場合はすでに論理ではなくて偏見や教条として使われているということだから論理は死んでいて論理ではなくなっている。それはともかくとして、例えばエリートインテリの地位の規定性が本質的である、ということは例えばどんな分析で意義を持ってくるか、作品理解において本質性などという規定はどのような意味を持ってくるのか、タマネギの皮を一枚一枚めくっていくように非本質的な規定をひとまず排除して本質的な規定を探し、再びそれを再構成するというのは、日本的な精神においてどんなことなのかということである。


44.告白について-16 (2002.6.12) 
 
 告白すべき自己とは何か、というその自己は歴史的に捜し求められているものであって、自己とは何かを規定することは日本精神史を規定することである。鴎外も漱石も日本的精神の一分枝である。鴎外と漱石の自我の相互関係を規定するとは日本精神史の重要な一構成部分となる。そのなかで鴎外や漱石の性格の特長などはそれ自体がいくら正しくても自己の規定の微細な一部分にすぎない。
 自我、個の規定がこのような複雑なものであることを理解すれば、近代主義者のように、人間の本質がエゴイズムだなどということがどれほど馬鹿げているかがわかるだろう。また、これと同じレベルで、あたかも畑に埋まったじゃがいもでも探すように、「舞姫」の一作品の一部分の引用によってここに近代的自我の誕生がある、などというのが如何に馬鹿げているかも理解できるだろう。
 よく調べているわけではないが、近代主義者は、豊太郎が近代的自我を確立しながら挫折したという場合、日本精神史上のどこかに、これが近代自我の誕生である、と指摘しているのだろうか。近代的自我が単体としてじゃがいものように存在するわけではないから、捜し出すのは難しいであろう。しかし、豊太郎をとりあげて、ここにはあったはずたが途中でなくなった、というのなら、ないものを指摘するのだから簡単である。たしかにここにあったのだが惜しいことをした、といっていくらでも嘆いて、それを日本史のせいにしたり、封建的残存物のせいにしたりできる。無いものをあったはずだといって、それが無い理由をいろいろ挙げても議論にならないからいくらでも無責任な批評を並べられるわけである。こんな議論では鴎外の全体的精神の規定などまったく消し飛んでいる。
 日本史における近代的自我の発生と展開は、日本史における精神の全体である。その全体は文学史や哲学史や他の芸術の歴史や歴史そのものの全体的連関によってのみ明らかになる。しかし、そういう作業はまだ本格的には手を着けられていないのではないかと思う。どこかですでにやっているのかもしれないが、まだ知らない。


43.告白について-15 (2002.6.11) 

 鴎外は保守的な冷淡な官僚としての自己を地位の優位に基づいて横着に肯定している。その肯定には正当な根拠がないので偽善になり虚偽になる。自己肯定が深刻な俗物根性として発揮される。肯定しがたいものを平気で肯定しているところに日本的な俗物らしさがあり、しかもそこには日本史が形成する立場の矛盾が反映するから批判は容易でない。露骨な虚偽を虚偽としてではなく虚偽の構造として、つまりは保守的な官僚の立場に特有の自己認識であり社会認識であることを明らかにしないと批判にならない。この日本的精神の深刻な矛盾を徹底して研究したのはやはりエリートであった漱石である。漱石ほどの天才でも保守的な精神に対する道徳的な批判から出発した。そのような批判精神は鴎外の自己弁護と対立関係にあり、初期作品に見られる道徳的な意識においては漱石の方が単純に見え、漱石の批判精神は負け惜しみの批判と思われる。しかし、漱石はその出発点からこの道徳的批判の限界を感じてその批判をも批判的に見ており、それが自己否定的な余裕として現れていた。だから道徳的な批判意識を持っていながら当初から鴎外に対して遙かに優位にある。その後漱石は鴎外が肯定している偽善的な精神を批判するのではなく、その精神に対する道徳的な批判意識自体を批判することを課題にした。この意味で漱石と鴎外は日本的精神の本質的な対立を反映している。彼らはまったく別の世界を描いているように見えて、そのことにおいて本質的に直接的に対立している。鴎外の精神との直接的で表面的な対立はそれ自体虚偽である。その対立がどのような展開をするかは、特に明治43年以後の作品では明らかになるのではないかと思う。
 ついでながら、エリートが近代的な精神の啓蒙者として登場した後、下層の世界でも現実認識が発展し、下層の世界を肯定するインテリも登場した。彼らにとっても克服すべき現象的な精神は同じであり、しかも社会に対する批判的認識を得る事はエリートインテリよりも困難な面があった。日本文学史を現象的に見ると、下層の世界による作品よりエリートによる作品の方が優位にあるように思われる。具体的にはまだ分からないが、日清戦争以後ようやく登場して来た下層の立場にたつ思想の担い手も当然ながら日本社会の現象的認識から出発する。そしてここでも克服すべき課題は道徳的形式の表面的で軽薄な批判意識である。漱石はエリート世界を知っていたから、エリート世界に対する道徳的な批判が無力であり彼らがそんなものを問題にせず実践を押し進める事をよく知っていた。彼らと対抗するには道徳的な批判では決定的に無力であることを深刻に理解しなければならない立場にいた。しかし、インテリが下層の世界の味方として登場する場合、自分が下層の世界を肯定し、エリートやブルジョアを否定する立場を表明すること自体に安住するロマン主義が彼らの克服すべき基本的な意識形態となる。社会小説のごときは漱石の批判意識に遙かに及ばない軽薄な現実認識を示している。エリートインテリにとって代わる書き手がどのように現実を認識したのかはまだわからない。プロレタリア文学なども本質的な現実認識として漱石の思想を受け継ぐべきであったが、漱石はあまり高く評価されていないようである。


42.告白について-14 (2002.6.10)

 鴎外は保守的なエリートインテリの自我を道徳的に肯定している。保守的で、冷淡で、誠実さのかけらもないような官僚が自己を肯定するのに道徳的な精神をもってするというのは、意外なようでも理性の狡知によるよくできた方法である。というのは、堕落した官僚に対する道徳的批判こそは官僚に対する本質的な批判を覆い隠す現象的精神だからである。
 ブルジョアやエリートが日本史において積極的な役割を果たしていることも、同時にそれが目に余る堕落にまみれていることも見やすい現象である。したがって、ブルジョアやエリートの堕落を道徳的に批判する事は現実のもっとも表面的な、現象的な、克服されるべき認識形態である。後進国日本の端的な堕落にへばりついた、堕落にまどわされた意識である。また同時にブルジョアやエリートが日本の発展に積極的な役割を果たしていることも表面的で一面的な現象でありその肯定も表面的な認識である。この両者が日本史において統一されて、一つの実体として運動している。したがって、ブルジョアやエリートの堕落に対する道徳的な批判と、ブルジョア的成功に対する俗物的な肯定と、その両者の複雑な絡み合いが現実に対する無批判的な意識として空中に浮遊している。鴎外が道徳的に自己を肯定し、その鴎外を道徳的に批判する事、それは鴎外のような保守的な官僚の実践や思想の本質的な意義を覆い隠す表面的な意識の対立形態となる。鴎外にとって偽善的な自己肯定によって自分に対する批判意識を引き出す事は、自分の官僚としての実践や本質的に反動的な思想に対する批判から目をそらさせることを意味しており、この道徳的な形式における対立では、自分の地位の優位のもとに、いくらでも批判をさせておくことができる。そして反動的な批評家は安心して鴎外に対する道徳的な批判とその批判に対する反批判の中に安住することができる。こうした構造のために鴎外の道徳的な自己肯定は、偽善的でふてぶてしいがゆえに自己肯定として有効である。鴎外に対する批判が鴎外の道徳的な不誠実や偽善性に対する批判にとどまるならば、それは真実であるとともに真実を覆い隠すことでもある。鴎外の不誠実、偽善、自己弁護の内容を明らかにすることが鴎外に対する批判である。鴎外は自己を道徳的な人格として告白する。その告白には偽善が透けて見える。だからその告白は偽善である、と批判するならば、鴎外に内在するより深い客観的な偽善にだまされる事になる。


41.告白について-13 (2002.6.9) 

 鴎外は自分の経験を超える内容を描く事ができない作家であったから、作品の内容と鴎外の私生活が直接結びつけて考察されやすいので、生活と作品を分離することは特に重要である。鴎外は例えば官僚としては脚気問題において疑う余地のない反動的な策動的自我を発揮している。評論のやり方においてもそうである。しかし、鴎外が策士的で反動的で保守的で自分の勝利の為に手段を選ばない不誠実な人物であっても、また評論においてそうしたやり方をしていても、それは鴎外の評論の内容そのものの評価とは別である。同様に、鴎外がそうした自我をもっていることと作品の内容の評価は別である。客観的にはそれは一つの自我として統一されており、鴎外は実践においても評論においても作品においても策士的で反動的で保守的である。しかし、それがどのように現れるかは実践と理論と作品によってそれぞれ違うのであり、それぞれの分野における現象形態こそがそれぞれの分野の具体的内容である。鴎外が作動的で不誠実な人間であっても、鴎外は作品においてそれを肯定する事はない。そのような自我を作品として特有の普遍化を行い、それが社会に対して影響力を持つのであるから、その普遍性においてのみ作品は理解されねばならない。評論も同じである。それぞれの分野における現象形態を具体的に研究した成果として、結果としてそれらの分野が相互にどのような関係にあるかが理解され、またそれがそれぞれの分野のより深い理解を促すであろうが、いずれにしてもそれぞれの分野における内容はそれぞれの分野の法則において具体的に規定される以外にないのである。

 さて、鴎外の自我の全体的な具体的内容がどんなものなのかはまだ分からない。他の天才に比べればはるかに単純であるが日本的な複雑さを抱えている。
 これまでの作品の考察でおおよそ推測できるところでは、鴎外の自我の基礎は保守的なエリート官僚の立場の肯定である。ところがその肯定が非常にややこしい。ストレートに肯定されずに非常にひねくれている。肯定と否定が微妙に入り組んでいて構造を明らかにするのが難しい。このひねくれぶりは日本史の構造と関係があるらしい。
 日本文学史は当初から、エリートインテリに担われた。逍遙や硯友社や四迷によって日本の社会の認識の基礎が築かれて、その後漱石、鴎外、芥川、有島などといったエリートインテリが日本的な精神としての自我を記録していった。しかし、このエリートは複雑な立場におかれている。あらゆる分野において日本が近代化するためにはエリートが必用であった。彼らの積極的な役割なしには歴史の発展はない。したがって彼らは本当の指導的な有能なエリートであるが、同時にその歴史的な発展の果実を独占する階級の一部分でもあった。つまりエリートやブルジョアは生産力の発展の積極的な担い手であるとともに、後進国の独占的な地位に特有の反動的で保守的な側面を持っていた。そのために封建社会の中で成長してくる上昇期ブルジョアの積極的で自己肯定的な精神が発展しない。先進的であるとともに極端に堕落した保守的側面を持つという矛盾が指導的なエリートの内部の対立を生み出すとともに、それぞれの自我の内部にも複雑な矛盾を引き起こした。


40.告白について-12 (2002.6.8)

 鴎外がどのような家系のもとに生まれ、どのような時代状況にどのような地方に生まれ、どのように出世し、どのように転居し、独逸のどの道を散策し、どこで何を読んだか、官僚としてどのような実践を行い、社会とどのようなかかわりを持ったか、等々の資料が鴎外の場合特に詳しく収拾されている。それは鴎外が私小説家として自分の経験を自己弁護的にのみ改変して描いているために事実との関係が作品の理解と直接関係があると思われやすいからである。無論鴎外の生活上の資料も鴎外的精神の一側面として重要な意義を持っているし無限的である。無限的というのは、鴎外の生活は日本の歴史的な事情に連関しているし、それは留学を別としても世界史の事情と深く関係を持っているために日本史そのものの理解や世界史の理解ともかかわるからである。鴎外の生活はそれらの全体の一部分として位置づけられねばならない。
 この外に多くの評論がある。これは理論的精神として全体の中に位置づけられねばならない。この無限性は、一つの評論は、鴎外の全体の精神の発展の一部分として、また日本の理論の歴史の中の一部分として、また世界史の理論的精神の流れの一部分として、その一段階として位置づけられねばならないといった連関を持っている。
 また作品は芸術として別に評価されねばならず、その連関は評論と同じように鴎外の作品の系列とし日本文学史と世界の文学史とかかわっており、その一部分として評価されねばならない。それは比較という意味ではない。この実践と理論と芸術は、一つの自我による実績であり一つの自我の現象形態であるとしても、この三者はそれぞれ独自の法則をもっているために、一つによって他の内容を規定することはできない。せいぜい漠然と推量できるにすぎない。非常に重要なことは、それぞれの側面を他の側面と直接的な因果関係においてはならないということである。連関は結果としての無限的接近としてのみ明らかになる。鴎外の実践によって理論を、理論によって作品を作品によって実践を等々のやり方で説明してはならないということである。それぞれは別の法則をもっているから、それぞれの法則においてそれぞれの内容を規定する以外にない。他の側面での規定によって、例えば実践に対する評価によって作品を評価するのは、特定のアプリオリな評価、つまり偏見によって作品を評価することであり、たとえその結論が当たっていたとしても正しい評価ではないし、そのようなやり方をすることはその結論自身の誤りや無内容を証明している。なぜなら、作品の評価は作品に表現される法則において明らかにされる場合にのみ作品の具体的な評価であり、その内容は結論という形では現れないからである。
 しかし、これは当為として掲げても実行するのは難しい。というのはそれぞれの内容を抽象的に評価する場合は、相互に直接的な関係が生ずるからで、つまりはそれぞれを独自の内容として理解するにはそれぞれをそれ自身において具体的に理解しなければならず、それが非常に難しいからである。


39.告白について-11 (2002.6.7)

 タマネギは大雑把には単純な皮で構成されているので、一枚一枚はぎ取ることもそれを再び組み立てる事も、またそれを観念上で行う事もそれほど困難ではない。複雑な動物の解剖であれば、それはその構造にそった専門的な剥ぎ取りが必要になる。解剖が繰り返された結果としてその構造が明らかになり、その成果として再び解剖の手順もその構造に沿った合理的な方法が確立される。
 ところが、精神の構造となると、タマネギの皮をはぎ取るとか動物の体を解剖して、再びそれを組み立てて内的な構造を明らかにするという過程をたどることができない。それは物質として眼前に存在するものではないし、解剖するメス自体も精神になるからである。
 しかも、複雑化というのは単純な時間的積み重ねではない。子供の頃の意識は社会に出て、大人になるにつれて比重が小さくなる。たとえその比重が大きいとしても、それを大きくするのは大人になってからの意識の規定である。量としての比重が小さくなるだけでなく、社会に出てからの意識によって次々に意識は再編成される。
 ここで、源さんと別れることにして、それは源さんが平凡な個人である上に西瓜を盗んだからではなく、源さんの自我についての記録がないからで、森さん、つまり鴎外について考えてみよう。
 鴎外は源さんと違って大量の文章を残している。その上彼の実践についても夥しい資料が回収されている。鴎外の精神について探索されてきたこの厖大な自我の記録の全体がどのような構造を持つかを明らかにすることが鴎外の自我を知ることであるし、それは恐竜の顎の骨が全体を示すように、日本的精神の全体を示すものでもある。
 鴎外の自我を知ることは、鴎外が自分の自我をどのように認識しているかとはまた別問題である。それも自我の一部分であるとしても。一般に自分で自分をどのように考えているかということと、その人物がどのような人物であるかは別であるし、鴎外の場合は特にその違いが著しい。
 さらに考慮すべき困難がある。それは鴎外の実践と評論と小説では、それぞれ自我の現象形態の基本的な法則が違うことである。しかもそれぞれに当然無限性がある。


38.告白について-10 (2002.6.6) 

 社会的精神としての源さんの全体はどのように規定されるべきであろうか。
 肉体の構造の場合は、源さんが一つの卵細胞から分裂を繰り返してどのような構造を形成したかを明らかにすることができる。そこに食事や環境の影響があればそれをその必然の中に組み込む事ができる。分裂の過程で自己自身が多様になり複雑な連関を持つようになる。
 精神の構造も、そのすべての構成要素の構造を明らかにするためには、その精神の全体の運動を規定するもっとも基礎的な要素にまで降りていって、その上にすべての要素がどのような連関をもちどのような相互作用のもとに運動しているかを明らかにしなければなぱならない。それは形式的に言えば鴎外が、ヰタ・セクスアリスでやっているように、子供の頃の単純な精神から大人になるにつれてだんだんに複雑な精神になっていく過程を辿る。個人の精神は、経験と知識によって次第に複雑になる以外にない。しかし、精神の構造自体はこの形成過程と同じように構成されているのではない。

 ここで、規定を剥がすことに立ち返ってみると、対象の本質に迫るために、偶然的な規定を剥がすことには方法上の合理的な意味がある。たとえば、タマネギの皮をはぎ取るように、一枚一枚をはぎ取って行けばその本質に至るというのは、一面正しい規定である。というのは無数の諸規定を羅列する事は対象の構造を明らかにできず、対象を認識することにならないから、それらの諸側面のなかでより本質的で必然的であるものを選択しなければならないからである。しかし、剥ぎ取ること自体は目的ではない。はぎ取っていくのは、その全体の構造を明らかにするためである。タマネギの構造を明らかにするには、その皮を一枚一枚はぎ取って、その内部構造を知らねばならない。しかし、そのはぎ取った一枚一枚の規定を捨て去るのではタマネギは失われてしまう。このやり方で本質に迫る過程は規定を失いタマネギを失う過程でもある。タマネギを認識するためにその皮を一枚一枚はぎ取っていくのは、はぎ取った後に、それを再構成するため、つまりその構造を認識するためである。


37.告白について-9(2002.6.2)

 源さんの部分的な属性は源さん全体の部分としての意義を持ち、その部分は他のすべての部分と必然的な連関を持っている。したがって、源さんとは何かというのは、これらすべての属性の相互の連関としての構造を明らかにすることである。
 源さんは客観的な必然的連関において形成され、特定の構造を形成している。源さんは、一つの卵細胞の分割の必然的な結果として全体を連関のうちに形成している。その分裂のなかで形成されるすべての細胞の相互関係において個別の属性は規定されており、そのために源さんの個別の特徴は源さんの全体をも示す事になる。
 自然科学の対象としての肉体の場合は、解剖や実験によって顕微鏡によって個別の特徴の相互の連関を明らかにすることが出来る。しかし、精神の構造となるとそれはできない。

 注意しておかねばならないが、告白の内容としての精神を問題にする場合に、自己としては肉体的な特徴をも常に含んでいるものの、それが如何に重要な意義をもっているとしても精神の内容は社会的である。例えば五体不満足であって、そのためにどれほどの困難があり、どれほどすぐれた精神を獲得したとしてもその内容はやはり社会的内容において獲得され発展する。外見が極端に美的に仕上がっていても同じ事である。その精神が肉体的な、あるいは気候的な等々の自然的な要素にどれほど影響されていてもその内容は社会的にのみ規定される。これは自然美は美として扱う事ができない、美は自然そのものの属性ではない、といった問題と関係するが、ここではふれない。


36.告白について-8(2002.6.1)
 
 肉体的にあげた幾つかの特徴がすべて本質的である、本質的となりうる、という場合に、その本質的というのはどういう意味であろうか。個別の特徴が本質的な特徴を持つというのは、客観的には源さんの全体において、認識においては源さんの全体を認識することにおいて本質的である、つまりその個別の特徴が全体の一部分として全体を指し示すからである。源さんの全体を特定することにおいて本質的な意味を客観的に持っているということである。恐竜の顎の骨の一つが他の骨の構造や食生活や歩き方を示しているのと同じである。したがって、その顎の骨はその恐竜の全体を示すものとして認識された場合にのみその顎の骨自身も認識されたことになる。全体を示すことにおいてそれは本質的なものとして捕らえられたのであり、またそれ自身の個別の特徴としても正しく捕らえられていることになる。髪の毛一本や顎の骨が、それ自身単体として転がっている場合は、本質的であるかどうかは問題にならないし、それがなんであるかは認識されない。その個物は源さんの全体や恐竜の全体との連関でその一部分として、つまりは全体との連関を認識されることによって初めて特定される。したがってそれは客観的にも認識においても、源さんだけでなく、特定の恐竜だけでなく、他の人間や他の恐竜や他の生物との連関をも示しており、またその連関がそれ自体において認識されることがそのものの認識の無限的な発展となる。
 これが外的な見方である、というのは、源さんや恐竜の個別の部分はどんな部分でも全体との連関を持っているということは示されるが、その全体そのものがどのようなものかを示すものではないからである。そのものを全体として示すというのは、個別の属性が全体の部分として必然的な連関を持っていることを示すものであっても、その連関自体を示すものではない。だから、課題はこの内的連関、必然性をどのように認識するかである。

( 34 は告白の6に変更した。この文章を入れるつもりで書いたが忘れていた。思いつきの文章をくず紙の裏に書いているので、どこかにころがっているとわからなくなる。これがないとつながりがわからなくなるというほどの文章ではない。)


35.告白について-7(2002.5.31) 

 源さんの全体としての個を認識するために重要な特徴を取捨選択する、という場合に、その意味は複雑である。それは方法としての特有の意義を持つという意味であって、源さんにおいて、あるいは源さんを認識するにあたって、意味をなさない、重要な意味を持たない特徴は絶対的には存在しない。相対的にのみ存在する。
 外的に見てみると、源さんの特徴として、例えば指紋や髪の毛や血液は現在では他の個人と区別する上で決定的で本質的な意義を持っている。指紋や血液の成分や DNA が知られていなかった時代には、ホームズの時代においては、これらは個を特定するための本質的な意義を持ち得なかった。それは客観的に源さんが他との違いとしてもともと持っている特徴であるが、それは人類の認識能力の発展とともに源さんにおける本質的な特徴になった。したがって今後科学の発展によって個を識別する方法はますます発展し、極微小の特徴でも本質的な意義を持つことになるだろう。だから何が重要であるかは相対的である。
 これは源さんの肉体上の特徴で、それを認識するのは自然科学である。源さんの特徴、源さんの規定という場合は、指紋や髪の毛をも含むが、その表情、声の出しかた、考え方感じかたの一つ一つのすべてが源さんの独自的個として統一されている。そして、個の告白という場合、問題になるのは本質的にはその精神の内容である。それは自然科学の対象ではない。しかし、対象認識の方法としては自然科学と似たところがある。


34.  告白にについて-6 (2002.5.30) 

 対象についての知識は歴史的に常に蓄積されて、その結果として無限的に対象の全体が明らかにされる。そのばあい次々に発見されていく対象の諸規定、諸側面がばらばらの状態で羅列されれば対象を見失う事になる。対象がそのもてるすべての内容において一つのまとまった個でなければならない。源さんがいかに無限の内容を持っていても源さんとしてまとまっており、全体としては源さんだけの特徴であるし、個別の特長も源さん固有のものである。いかに他と共有している内容であっても固有でないものはない。
 となると問題は対象の認識とはそのあらゆる内容を全体のまとまりにおいて把握することだということになる。源さんは無限の多様性において源さんとして統一されており、他と区別されている。したがって、問題はこの無限的な、日々形成されまた認識される特長をどのようにまとまりとして理解するかになる。すべての個別の特長を羅列的にばらばらに放置する場合は対象の把握にならない。こうともいえるしああともいえるとして対象が一つであるにも関わらず、対象の認識は分裂する。それは対象と一致しておらず対象認識ではない。


33.  告白について-5 (2002.5.30) 

 個の全体は、その全人生に於いて無限の内容を持っている。それは個の一年の全体でも同じであるし、一日でも同じである。したがってその無限の内容の中で、その個を特徴づけることにおいて何が本質的であるか、何が重要であるかが取捨選択されねばならない。一日の言動のすべてを数え上げる事はできないが、何千も何万も数え上げてもその個に近づくとは限らない。数多くの内容、側面を数え上げるほど本体を見失う、対象がなんであるかわからなくなるという矛盾に突き当たる。
 その昔、対象の本質に接近する方法として、個別の規定をはぎ取っていくことが有効であるようにいわれた時代があった。今でもいわれているかも知れない。たとえば、源さんという名前、魚屋という職業、スイカを盗んだという一事件、等々を一つ一つはぎ取っていけば、源さんの個別的偶然的な規定から離れて、対象である源さんそのもの、個そのものに行き着くと思われた。なぜ一つ一つはぎ取っていくのかは知らない。規定をはぎ取るなら一つ一つでなくて、すべてを一挙に、つまり規定一般、内容一般はぎ取っても同じ事である。この場合の到達点は規定の消去即ち無である。源さんそのものとか対象そのものとかいうのは、源さんとか対象という規定をもっているからそれも消去しなければならない。すると味噌も糞も一緒という話を一歩進めて、味噌も糞もない、何もない=無が本質とされることになる。
 これは楽な手続きであるが面白くない。規定を失って無内容になるからである。対象に接近するのではなく対象を失うだけである。せっかく人類が蓄積してきたすべての対象についての認識を無にするのはもったいないし必要ない事である。


32.  告白について-4 (2002.5.28)

 では自己とは何かというと自己の全体である。本音とたてまえという形式で言えば、本音もたてまえも、またその両者の関係をも明らかにする事が自己の真の規定である。しかし、自己の全体はそこで想定された本音とたてまえの二つの項目とその関係だけで明らかになるわけではない。自己の全体は生まれて死ぬまでのあらゆる行動と意識の全体だからである。それがどれほど無限的に多様であっても一個の個人として自己として統一されており、そのすべての要素とそのまとまりとしての連関を明らかにすることが個の規定である。
 しかし、そうなると個の全体をどのように認識し、また規定ないし再現するかが問題になる。
 (鴎外の鶏の2は他のにましてまとまっていない。しかし、作品が単純なので考えるにはさしつかえないと思う。時間と気力が欠乏状態なので今回はこれで放出した。)


31.  告白について-3 (2002.5.25) 
 
 自己とは何かという本来の課題が、通俗的に本音は何かという問いに置き換えられる場合、その問い自身が欺瞞であり自己弁護になる。自己の質、内容を明らかにすることが課題である場合に、本音とたてまえ、心理の表と裏という形で問題が提出され、さらにその本質が特定の、自己に都合の悪い、不利益な事実ないし側面とされる場合は、自己とは何かという課題が、まずその現象的な表面によって、さらにその表面に隠された特定のしかも予測された不利益を表に出す事だけに限定される。つまり自己は、たてまえによって、さらにたてまえを取り払う事によって明らかにされる本音によって二重に覆い隠される事になる。この関係が鴎外に見られる自己認識の典型的な形式である。これが鴎外の自己弁護である。


30.  告白について-2 (2002.5.24) 

 もちろんこれはありのままの自己の告白とは言えない。それが彼のすべてではないからである。西瓜の側面から言えば、まだ余罪があるかも知れない。カボチャを盗んでいるかもしれない。この場合もどのような事情で盗んだか、盗んだ動機、心理など盗みにかかわる自己も無限に多様で、自己を確定する事は難しい。盗みの側面から無限性を追求するのは警察の役割として、自己とは何かという観点からすると、西瓜を盗んだ事などごく部分的に過ぎない。源さんは、スイカを盗んだとしても人に親切であるし、しかもときには厳しいし、ときにはケチであるし、場合によっては金遣いが荒い、等々。
 源さんに限らず人間はこうした無限的なしかも相互に矛盾した性質を持っている。その上行動の状況も日々その都度変わる。となると、どの行動やどの意識が源さんの本質を表しているのか分からなくなる。そうは言ってもこんなこともある、としてすべてを考察すべきであるし、基本的には死ぬまで自己の全体は分からない。死ぬまで変化し続け、形成し続けるからである。
 つまり、ありのままの自己を告白するとか人間のありのままを描写する、というのは、実は自己とは何か、ありのままとは何かを基礎として展開しなければならないのに、その自己を無批判的に前提として、そのすでに分かっている自己を告白するかどうかに問題があるように思っている点で無理解なのである。本音とたてまえ、と云う場合には、日常会話はともかく、思想の世界では本音とは何かを明らかにする事が本来の課題である。自己とは何か、現実とは何かという問題こそ人類史の全体が追求し続けてきたものであり、告白するかどうかは思想的課題とはなり得ない。


29.  告白について (2002.5.23)

 自己のありのままを告白する、露骨に描写する、という言葉には本質的な無理解がある。明らかにすべきが自己であっても他人であっても同じである。あれはどういう人間だ、隣村の源さんだ、と言えば、住所と名前が明らかにされている。魚屋の源さんだ、と言えば職業と名前である。こんなものは露骨な告白や描写とは言われない。ところが、どんな告白がありのままで露骨かというと簡単ではない。大抵は、告白するのに都合の悪い事、褒められた事ではないことが考えられる。私は西瓜を盗みましたとか、賭け事で借金を拵えましたとか、本当に欲しいのは愛情ではなくてお金です、とか。こういう告白には勇気とか計算が必要になる。都合の悪い事を告白することで却って正直と認められることもあるし、一つ賢くなったと思われるかも知れないし、下手をすると信用を落とすかもしれない。これは本音と建前というよくある告白の内容である。
 都合の悪い事を告白することが重視されるのは、そこにその人物の本質がある、と考えられるからである。隠されていない事はすでに知られているから隠されていることが重要になる。それが新たな認識をつけ加える事になる。それを思想的に粉飾すると、人間の本質は悪だとか獣的だとか説明できる。こんな説明は後で付け加えられたものだからどうでもよい。
 ところで、例えばあの男は隣村の魚屋の源さんで、西瓜を盗んだ、と言った場合に、明らかになっているのは、その性別と住所と職業と、西瓜を盗んだという一つの事実である。それが源さんだと言えるであろうか、源さん自身がこのように告白して、それが露骨なありのままの自己の告白と言えるだろうか。


28.  人間関係の喪失 (2) (2002.4.26)

 人間関係の喪失が孤立無縁を意味している場合は、精神の内容は別として喪失自体は見やすい現象である。それは、内容を失って単純化されている。厳密に見ればそれは悲惨であったり、滑稽でも平安でもあるしその他無限の内容を持っているが、それは過去の人間関係の痕跡として精神に刻印されているのであって、例えば平安や滑稽といった肯定的な側面から見ても、その喪失は、つまらない、嫌悪すべき、煩わしい人間関係を喪失した、解放されたという意味になる。つまりそれは過去の人間関係によってのみ位置づける事ができる。ないほうがよほどいいとも言えるが、それは気分の問題で、内容としてはどちらがいいかではなく、必然的に連関した一つの流れでありどちらも選択されているのである。だから孤立状態の内容は肯定的にも否定的にも、その失った人間関係の質を示していることになる。夫婦でよくこうした現象が見られるのは、法律的に、生活の必要から、人間関係が切れにくいために結果がより徹底され純化されるからであろう。そして解放の結果がまったくの孤立になるのは、他に人間関係がないからで、したがってまた本質的な原因は夫婦関係による拘束ではないこともわかる。
 となると、この孤立状態に見られる人間関係の喪失は、人間関係の成果であり結果であり、形骸であり、その人間関係の喪失の本来の内容、豊かな多様性は、それを生み出した人間関係にあるということができる。無論孤立の中身にそれは現れるが、その本体としての人間関係の展開過程に内容がより豊かに明確にあらわれる、つまり人間関係の中に人間関係の喪失が含まれているということになる。となると、人間関係の喪失を理解することは格段に難しくなる。


27.  人間関係の喪失 (2002.4.25)

 1.大きな家を建てたが、誰も遊びに来ない。大きな家というのはろくなものではない。小さな家にすればよかった。
 2.他人と話をするのが嫌になって、それ以上に他人が自分と話をするのを嫌がるので、ペットの太郎(プードル犬)と暮らしていました。この犬だけが私を理解してくれていたのに、それも亡くなってしまって、今は犬の墓参りだけが楽しみです。夫の墓もこの近くにあるはずです。
 3.私は性格的に哺乳類とうまくいかないので、金魚を飼うことにしたら、その金魚でさえ餌をたべるとすぐに水草にもぐりこんでしまって、振り向きもしない。その上性格的にうまくいくはずのない哺乳類の夫がまだ生きている。
 4.会社で上司風を吹かせていたのも過去の話で、定年が近くなったら人がよりつかなくなった。あとは古女房と二人だけの暮らしとは面白そうでない、と思っていたのも思えば贅沢な不満だった。「おい、とよんだが返事がない」というのは「草枕」の文章であるが、あれは峠の茶屋だから風情があるので、定年が終わって我が家に帰って漱石の文章をこんなふうに味わうことになるとは思わなかった。漱石はやはりすばらしい。
 5.
 6.
 ・
 ・
 ∞


26.  ユニーク (2002.4.24)

 田舎に帰る前に、NHKの「不思議大自然」を見た。この番組はナレーションがべたべたしているのでめったにみないが、蘭の話だったので見た。そこで受粉の珍しいやり方を紹介していたが、この種の番組はマスコミが競って放映するし、珍しさというのは一度知ってしまうと半減するので期待したほどではなかった。蜘蛛が投げ縄を投げたり、アンコウが擬似餌のような舌を使ったりというのも最初は珍しくても知ってしまえば生物のごく普通の生き方である。よく観察すれば、どんな生物でもどんな捕食の仕方でも実は驚異に満ちている。珍しいものを探してくれるおかげで知識の間口がひろがって、もの珍しさに代わって、これまでに知られた生物に対する興味を深めてくれる。
 コモドオオトカゲは大きいものは全長4メートル、体重150キロほどもあって、小動物は無論のこと鹿まで食べる。このトカゲの狩りのしかたはユニークで、体力の続く限りどこまでも追いかけて、相手が疲れたところを捕まえる。そのほか死んだものでも腐った物でも何でも食べる。だから特別の工夫とか不思議な業とか神秘的な知恵ではなく、自分の体調とか相手のコンディションとか、地形による得手不得手とか根気とか空腹の度合いとかがその日の食事の決め手になるのであろう。珍しいものばかりが紹介されていると、こういう地味でストレートなものも味わい深くなる。


25.  真実と虚偽 (2002.4.23) 

 おはぎを食ったのにおはぎなど食いませんというのは嘘である。食ったのが真実で食わないのが嘘で、その証拠に口の周りにあんこがついているし、三つあったはずのおはぎが、二つしかない。
 こんな人物には、お前は嘘つきで卑劣漢だと言うことができるし、実際にそうである。その嘘や卑劣さの内容は、おはぎ一つの実害と、眼前で臆面もなく盗み食いしたことである。だから、対策としては次からは自分が先に食えばいいし、眼前で二つ食えば十分満足できる。我慢しても知れているし、無視することもできる。そんなことを考えている間におはぎが一つになったとしたら、それは彼が迂闊だと言ったほうが真実である。
 こんな嘘は思想としては問題にならないし、日常生活でも大した罪と思われない。現実認識の問題では真実と虚偽の違いはこれほどはっきりしているわけではないし、相互に転化もする。そしてここにこそ精神の質が表れる。
 現実は無限の連関のうちにある。その連関の全体を見渡すことも再現することも決してできない。(無限的過程において可能であるが、それはまた別の問題として)同時に、現実の連関をまったく反映しない意識もありえない。だから、現実の正しい反映としての真実と正しく反映しないという意味での虚偽は現実の連関をどれほど深く広く反映しているかのレベルの問題になる。厳密に言えば思想の世界では真実と虚偽の抽象的な対立はありえない。
 しかし、単純化すれば鴎外の思想は虚偽に満ちているということができる。注意すべきは、その虚偽の内容で、日本の精神史上に必然的な虚偽、すなわち、現実の単純化や歪曲といった、しかし日本の現実に適応した、生まれやすく影響力を持つ現実認識としての虚偽が具体的にどのような内容を持つかをかを明らかにすることである。芸術も思想も日常的な意識もすべて日本の社会を反映した日本的精神である。日常的な意識は痕跡としては失われ、芸術や思想として蓄積される。文学史で言えば、すべての作品は日本人の現実反映としての精神の蓄積である。その中で漱石と鴎外は、同じ時代に同じ対象をまったく対立的な内容において反映したことによって二大文豪と呼ばれるのであろう。漱石と鴎外は日本人の誰もが持つ精神の大部分を代表しているように思われる。その意味では虚偽に満ちた鴎外の作品も興味深いし、研究されなければならない精神である。


 24.  鴎外の真剣勝負 (2002.4.22)

 岩波の鴎外撰集を順に読んで行くと、鴎外の特徴が少しづつ分かってくる。今回アップした『懇親会』では鴎外が身近な経験を、一般的な関心においてではなく、私的な関心において現実を歪めて描写していることがよくわかる。
 この撰集の第一巻の巻末に小堀圭一郎氏の解説があって、『半日』について次のように書いている。

 謂ふ所の自然主義者が唱へる現実暴露にはなほかつまだ観念のもてあそびの様なところがある。謂はぱポーズである。文学が現実生活の鏡であると主張するなら、いつそのことポーズでなく真剣勝負としてうつしてみたらどうなのか、やるところまで徹底的にやつたらどうか、といふのが鴎外の思惑ではなかつたらうか。それは一種の賭の如きものであつた。

 これはまったくの間違いで、これらの作品は、真剣勝負など決してできない、体面を守ることにのみ真剣である鴎外の特徴が現れている。理論的にも真実とは何かという問題は非常に難しいが、芸術作品や現実生活においても真実とは何かと言う問題がいかに認識論における複雑な問題を含んでいるかの一端が、この愚かな誤解を参考することによって理解できるだろう。
 小堀氏が、賭であった、というのは、このような私的な問題を小説として公にした結果のことである。実際個人的なことを公にするのは危うい賭である。しかし、鴎外は体面を守るために、自己を守るために私事を公にしながら、なおかつ賭をしない性格である。小説化の結果についても小堀氏は理解を誤っている。小堀氏はさらに次のように続けている。

 賭としての『半日』の制作は、具体的には「スバル」三月号が三月一日に発刊になり、それが夫人の眼にふれた時どの様な衝撃を与へたか、といふ程度の効果であつたらう。しかしここで鴎外は単なる家庭争議以上の何ものかを乗り越え、彼の人生そのものに新たな血路をひらいた様な気がしたはずである。
 赤十字病院長の後任問題は鴎外の意図した通りに運んだ。四十二年三月二日に鴎外が登庁してみると石本次官はまるで人が変つた様に態度を改め、森局長を相手に初めて真面目に公務を談ずる姿勢を見せたのであつた。家庭内に於ては、やがて夫人もその姑と少くとも和やかな関係を作り成してゆかうとする意向くらゐは表明する様になつた。『半日』に書いてしまつた、自分の母と妻との間での会計の主導権争ひに就ては鴎外自身がそれを引受けるといふ第三の道を講ずることで解決した。鴎外は四月に入つて少し気が楽になつたのを覚えた。そこであの忌はしい二月二日の懇親会の経験を当の『懇親会』といふ題で努めて冷静に書いてみた。

 鴎外が私的な事件を自分の都合のいいように小説に書いて公表する結果として、また裏工作をした結果として妻をも上司をも屈伏させることができたことは信頼関係を失う過程である。「懇親会」の一カ月後には妻が催眠術でいたずらをされたのではないかという疑惑を小説にして、「モデルと取り沙汰された医師が名誉棄損の訴訟に及ぶかも知れぬといふ気配もあった」と小堀氏は書いている。すでに作家として名をなした鴎外が私的な事件を自分の都合で解釈して小説に書くとなると、また山県有朋と裏でつながっているとなると誰も鴎外と争う気は起こさないだろう。しかも、鴎外は事態が自分に有利に展開することを確信したことについてのみ小説にしているのであって決して賭ではなかった。こういう人物は警戒はされても尊敬や信頼を得ることはできないだろう。これを小堀氏は人生の血路を開いた、と評価するのである。



 23.  自己喪失の一典型 (3) (2002.4.21)

 モーパッサンには、「勲章」とまったく逆の自己獲得の過程を描いた作品がある。それが有名な「首飾り」である。
 貧しい家庭に生まれた美しいマチルダは、小役人と結婚したために不満であった。彼女は自分がもっと華やかな贅沢な生活にふさわしいはずだと思っていた。つまり自分の生活と気持ちがしっくりいっていなかった。
 夫が美しい妻のために祝賀回の招待状をもらってきても、余所行きの衣装を持たない自分の惨めさをつのらせるだけだった。しかし、夫は自分のためにためたなけなしの金をはたいてマチルダの衣装を用意し、その衣装にふさわしい首飾りも友達に借りることができた。こうして一時的にせよ、生活の方がマチルダの気持ちに歩み寄るかに見えた。祝賀会で美しいマチルダは大成功を収めた。
 ところがマチルダの喜びはすぐに惨めな生活に引き戻されただけでなく、恐ろしい不幸が待ったいた。マチルダは友達に借りた高価な首飾りをなくしてしまった。
 モーパッサンはマチルダの不満と祝賀会での成功と偶然の不幸を楽しんでいるかのようにうまく対比して描いている。楽しんでいるかのように、というのは、この事件はマチルダにとっていかに大きな不幸であったとしても、それは運命の激変や悲劇を意味するのではなく、マチルダの生活の必然的な流れの一部にすぎないという感覚をもっているからである。しかし、日本人はこうした偶然をマチルダの欲望と道徳的な必然を持つ不幸であるかのように感じる傾向を持っている。それはマチルダの自己肯定の過程を認識できないからである。

 マチルドと夫は、手を尽くして金を借りて、友達に借りたのと同じ首飾りを宝石店で買った。この金を返済しようと決心したときから、美しい自分が貧しい生活にふさわしくないという不満や金持ちの生活に対する憧れが壊れはじめ、10年の努力の後にすべての金を返済しおわったとき、若い時代のこのような気持ちは懐かしい思い出に変わっていた。
 最後にモーパッサンは首飾りを借りた金持ちの友達とマチルダを対比している。マチルダについては「貧乏世帯が身について、骨節の強い、頑固な、荒っぽいおかみさんになっていた。」と書き、金持ちの友達は「あいかわらず若くて、きれいで、なまめかしかった。」と書いている。マチルダが挨拶をしても友達が気づかないほどマチルダはかわっていた。

 「そうよ。ではやっぱり、あなたは気がつかなかったのね。ふふん!むりもないわ、そっくりだったもの」
 そう言って、彼女は得意そうな、子供っぽい歓びをうかべながら、にこにこ笑っている。
 フォレスチェ夫人はよほど感動したらしく、つと友達の手を取った。
 「まあ、とうしましょう、マチルド!わたしのは模造品だったのよ。せいぜい五百フランくらいのものだったのよ!‥‥」

 これがラストの描写である。マチルドは36000フランを返済した。そして独立的な充実した精神を獲得した。これを喪失と思うか獲得と思うかは思想によって違ってくる。マチルドがあのときフォレスチェ夫人に事情を話しておれば、あるいは祝賀会に行くために首飾りを借りようなどと考えなければ、さらに自分の生活に不満をもって華やかな生活に憧れたりしなければ、こんな不幸な目にあうことはなかったのに、と感じる場合は、マチルドの10年間を喪失の過程と考えていることになる。それは批判の形式をとっているが、若い時代のマチルダの感覚を肯定する思想である。マチルダは自分の生活に気持ちを一致させることができなかった。しかし、首飾りのために強制的に、急激に自分の生活と精神をなじませ、貧しい生活にふさわしい精神を獲得した。まずしい娘であったマチルドが金持ちになる可能性などなかった。だから、彼女に必要なことは貧しい生活にふさわしい精神を得る以外になかった。それは得られた。
 このような精神はマチルド個人が不幸な生活にさらされることだけで得られるものではない。社会的な歴史的な精神としてマチルドの生活を肯定する精神が一般に定着していなければならない。それが定着していない日本では、マチルドの精神的な成果の意味を理解できず、したがって10年を自己喪失と感じ、その人生を不幸と感じ、さらには若い時代の欲望に対する罰だとさえ感じる。あるいはこれと同じ認識に基づいてマチルドがかわいそうだと同情する。フランス人であるモーパッサンであるからこそ、「勲章」で得られる小市民的な幸福をも主観的な幸福として客観的に描くことができるし、マチルドの偶然的な不幸をも自己獲得の過程として客観的に同情する事もなく描くことができるのである。


22.  田舎暮らし (2002.4.20)

 用事があってしばらく田舎暮らしをしてきた。田舎は神経を休めるには非常にいい。しかし、不便なことも多い。
 動物も魚も増えているが、食料不足はないから昔のように食うために魚を採ることはなくなった。しかし、空想するほどに牧歌的ではない。田や畑は荒れた山になっている。猪や鹿などの動物から稲や野菜を守るのは難しい。田畑だけではない。家庭用の菜園や椎茸も夜中に食われる。野菜は作るより買う方が安いからなんとかなるが、冬の間に石楠花やセッコクの葉が食われてしまうと対策のしようがない。家の中のものも冷蔵庫に入れておかないとイタチや狸に食われる。昔は猪や鹿を見かけることはなかったが、今ではどこにでもいる。人が山に入ることもなくなり、山焼きもなくなったせいか、山でダニが非常に多くなったので雑木林を歩き回ることも昔ほど気楽にはできなくなった。
 動物や魚が増えて人間が減った。田舎では40歳以下の人口が非常に少ないので子供の姿が見えない。だから子供を育てる環境ではなくなるし、老人だけの世界になりつつあるために老人にとっても住みにくくなっている。ここ10年か20年の間に多くの過疎の村は人口が半分以下になるだろう。
 分散した田舎の村が消滅して、人々が密集した町中に住むようになるのは自然の勢いであるが、それができないのは多くの資金が必要だからで趣味的な選択によるのではない。便利な町中に住むための援助が必要になるだろうし、その上で初めて趣味や習慣による選択ができるようになる。
 田舎では生活費を稼ぐのが難しい。猪や鹿の出るほどの田舎でじゃがいもやキャベツを作ったとしても、車やパソコンと交換するほどの量を生産することはできない。だから都会で稼いで、田舎でくつろぐのが望ましい。そのためには、労働時間が少なくなくてはならない。5時に仕事が終わって、バカンスがあれば、そして交通費が安くなれば田舎が復活する機会も生まれる。しかし、それは当面期待できない。フランスのバカンスはゼネストで勝ち取ったもので自然の恵みではない。だから、田舎は生産的にあるいは人間の生活のために利用されることなく荒れるままに放置され、土木工事によって破壊され、都会は過度の集中によって効率が悪くなる、といった過程がしばらく続く。バカンスではなく過労死と自殺が増えて、リゾート業者ではなく葬儀屋が国民総生産を押し上げる。九州ではすでに熊も絶滅したようだから、鹿や猪が増えつづければ、たまに厳しい冬がやってきた場合に大量に飢え死にするもしれない。個別にはいいこともあるが、大局的には荒廃が進んでいる。無論回復の過程もいつかはじまるであろうし、そう先の事でもないだろうから悲観しているわけではないが、自分がその時代に生きているかどうか分からない。
 田舎でもインターネットがあれば多くの問題が解決する。しかし、電話局から遠いとisdnもadslも使えない。これは社会問題ではなく技術的な問題であるから比較的早く解決されると思うが。



21.  自己喪失の一典型 (2) (2002.4.9)

 「勲章」のサクルマン氏は、典型的な自己喪失の過程を生きている。しかし、すべてを失ったのではない。モーパッサンはサクルマン氏の情熱を描いている。彼がいかに勲章を求めそれに満足したかを描いて、サクルマン氏の精神の限定を滑稽に描いている。現実にはこんな人物はいないであろう。しかし、このような自己喪失の過程はいくらでも見ることができる。
 サクルマン氏の自己喪失はすべての関心が勲章に限定されることによって、つまり積極的な形式で描かれている。これがモーパッサンのセンスである。このような限定された関心をも失ない、一切を失った空虚、というのは逆に肯定的な意義をもってくる。というのは、完全な空虚は、現状の何物にも満足できない、眼前の満足とは違った遠い、一般的なものを求めているという特徴を持つからである。これがインテリがよく使う肯定的な意味での自己喪失である。しかし、このような空虚さは現実には自己満足においてのみ生ずる不足感であって悲劇性はないし肯定的意義もない。何も求めるものがないというのは、求めるものすべてが得られていることによって求めるものを失った状態にのみ生ずる空虚である。サクルマン氏の空虚をさらに一歩進めたものである。すでに望むものを得ているために、そこに安住しているために、そこで生ずる瑣末でくだらない不満や空虚を高度の、無限的な希求として自己認識するのがこの自己喪失であり、真の自己喪失である。
 高度の無限的な精神を求める場合にも現実の個別の対象に満足する事はないし、精神としても永遠の希求にならざるをえない。しかし、それがいかに高度で永遠的で一般的であろうと、常に具体的な内容を求めており、さらに批判の対象が明確であり、その永遠性は一層の具体性を求めるという形式になるのであって、わけのわからない空虚な無限性を求めこととは全く逆である。だから苦悩も具体的であり積極的である。
 鴎外の自己喪失が具体的にどのような過程をたどるかはまだはっきりしない。しかし、明治42年の作品を読むと関心が瑣末な事象に限定されている事はすでに明らかである。そしてこの限定が一層発展することにおいて、そこに何か無限的な一般的なものを求めているがゆえの苦悩や不満を想定する批評が生まれる事もありそうなことである。もしそれがあるなら具体的に明らかにしなければならない。じっさいはそれがなにもないのが鴎外の特徴であろう。つまらない不満と、それに対処するための思想的な自己肯定が発展していくのであろうと思われる。



20.  自己喪失の一典型 (1) (2002.4.8) 

 鴎外の作品をいくつか読んでいくと、日本史に特有のインテリの自己喪失の過程を典型的な内容で見る事ができそうである。神童で、才能もあり、努力を怠る事もなく、自己を喪失しながら、それに抗して自己を保持し肯定し続けた人生である。こうした人生の痕跡を詳しく跡づける事は、日本的な精神の典型だけでなく、アジア的な精神の一典型をも理解するために不可欠であるが、しかし、その詳細な研究は、端的な明快な判断を曇らすことにもなりかねない。ミイラ取りがミイラになりかねない。
 モーパッサンに「勲章」という短編がある。サクルマン氏はパリの中産階級で美しい娘さんと結婚した。子供の頃から勲章に興味をもっていたが、結婚した後いよいよ欲望が強くなった。あらゆる観察と感情が勲章に注がれて一種の情熱にまでなっている。彼は勲章を得るために非常な努力をする。彼は学問をやっていなかったので、専門的な知識がなくても経験さえあれば書けそうに思える、今の日本でもよくある教育論を書き上げさえした。モーパッサンはサクルマン氏の愚かな関心、感情、努力を非常にうまく描いている。サクルマン氏は、勲章のために頼みにしていた代議士のロスラン氏に妻を寝とられてしまったが、それも勲章のためにうまくごまかされて、彼にとって妻との関係すら関心ではなくなって、勲章だけが彼の精神を占領している。サクルマン氏がすべてを失ったときに勲章を得て嬉し泣きに泣いているというのもモーパッサンらしい厳しい描写である。
 モーパッサンは中産階級の生活をより広く深い観点から客観化して軽く描いている。モーパッサンはにとってはそれは明らかに滑稽な、つまらない自己喪失の過程である。だから単純にわかりやすく、明解に描いている。鴎外の場合は非常にややこしい。自分自身がサクルマン氏として生きており、その人生を肯定する努力を事細かに描いているために弁明になる。自己喪失の過程を自己肯定として描くという複雑さをもっている。
 ただ、鴎外やサクルマン氏の人生を自己喪失の過程である、と抽象的に否定的な形式で評価すると、分かりやすくはあるが、抽象化による一面性が生じて、展開において分かりにくくなり、さらには対立物に転化することになる。



19.  善と悪の関係の一側面  (2002.4.2)

 芸術の独立性を明らかにするためには、道徳性の立場を超えなければならない。道徳性の立場は、もっとも高度の道徳的意識において、それを維持することによってのみ超えられる。
 日本では道徳的意識が大きな分裂のうちに発展しており、漱石と鴎外は文学史上の典型として対立している。漱石は善をも悪をも社会全体においてとらえ、金持ちや権力者に対する徹底した批判意識をもっていた。漱石は日本の常識と対立するような善悪の内容を小説に表現しようとした。そして、その主張をもっとも積極的な形式で、つまり善が悪をこらしめる実例を「虞美人草」に描き、自分の道徳的意識の破綻を理解した。漱石が否定しようとする悪は社会的に強力で、善は無力であった。そのために、漱石は自分の思想における善と悪の関係を現実に則して認識しなおさねばならなくなり、「三四郎」から再出発する。
 鴎外は漱石とまったく逆に、地位や財産を求めており、金持ちや権力者に対して極端に卑屈であった。権力や地位や財産に対する批判意識をまったく持たない鴎外の善悪の内容は、自分自身の個人的な関係の中で形成され、その世界に適用される。姑とうまくいかない奥さんや、自分を殴った新聞記者や、奥さんにいたずらをしたかもしれない医者が、つまり、自分に対立している、自分の気に入らない、自分の価値観と違う人間が鴎外にとっての悪であり、自分自身が善である。桃太郎はおじいさんとおばあさんとの幸福な生活をすてて、他人のために、一般的善の実現のために鬼ケ島に行った。鴎外にはこうした視点はまったくなかった。
 鴎外の場合道徳的思想は漱石の場合とまったく違った崩壊過程を辿る。鴎外の善は悪よりも強い。鴎外は自分が優位にある場合にのみ対象を悪として否定的に描写した。このような偏狭で独善的な意識がますます人間関係を崩壊させ、自分を肯定するための批判対象がますます狭い範囲に限定され、さらには批判の対象を失い、思想が具体的な内容を失い、空虚な精神主義が形成される。

 この数十年間、鴎外的な道徳的意識が圧倒的優位にあった。それが今漱石的な批判意識に転化しつつある。鈴木宗男氏は家族や地元の支持者にとっては善である。一緒に利権を分け合いましょう、ということである。それは今は社会的には悪である。社会的には悪であるという視点はこれまで長い間表に出なかった。都市の工業が競争に破れ、日本全体が弱体化すれば、田舎がもっとも深刻な打撃を受けるから地元にとっても悪になりつつある。公共広告機構が宣伝する自己中心主義の批判は、ごくごく瑣末であるために反対の余地のない善であるかのように見えたが、社会的な批判意識を欠いた偽善的な意識、つまり批判対象を矮小化することで社会的な批判意識を薄める意識であることがはっきりしてくる。自民党は不祥事にけじめをつけることで事態を収拾できると考えているが、それは鴎外レベルの個人的な道徳的処置にすぎない。だから、鈴木氏と加藤氏が辞任しても危機は解消されないだろう。



18.  小泉首相の決断  (2002.4.1)

 昨日の横浜市長選挙の結果を受けて、小泉総理は、これまでの自己保身政治を急遽とりやめ、本気で政治改革に取り組むことにした。
 今日の新聞がこんな見出しを掲載していたら、かなり笑いをとれただろう。ニュースステーションくらいがやってくれないだろうか。来年まで今の内閣がもつかわからないし、もし来年も小泉首相であったとしても、来年の4月1日にはブラックユーモアになっているかもしれないし、エイプリルフールではすまされないかもしれない。

 小泉首相は妙な笑い方をする。いまは適当な事を言っているが、本当は内に含むものがあるといった笑い方で、本音をしゃべって欲しいと思うかもしれない。それは誤解である。小泉首相には方針はない。何もない時に、何かあるが隠しているという、つまり何もないことを隠すときに使うのがあの妙な笑い方である。非常に不真面目な印象を与える。



17.  「小説神髄」の紹介 3  (2002.3.30)

 小説神髄を通読して、一応の評価をしたので、しばらく放置することにして(これは生まれつきの悪癖でどうしても治らない)「半日」を書いた。それで、小説神髄と「半日」とのかかわりを簡単に紹介しておこう。ここで、勧善懲悪の克服がいかに難しいかがわかる。
 逍遙は、封建道徳を宣伝するための古い勧善懲悪が時代に合わないとして否定した。では善と悪の内容が新しい場合はどうであろう。「半日」は新しい勧善懲悪である。奥さんが姑を嫌い、子供の世話にも疎く、要するに家庭的でなく、博士が求めていた家庭的団欒をぶち壊している。博士はできるだけの努力をしながらそれに耐えている。鬼ケ島で村人を苦しめている鬼を桃太郎が退治するのではなく、エリートのインテリ家庭で、博士を苦しめているお嬢さん育ちの奥さんを、博士自らが懲らしめたいということと、悪人の奥さんは懲らしめ られなくて善人の博士が我慢するというのが時代的に新しい。
 このような内容の小説が一般的価値を持つであろうか。たとえ、家庭的な矛盾に苦しめられているインテリが、鬼ケ島の村人より遥かに大人数だとしても、鬼ケ島の鬼より奥さんのほうが外見はともかく性格的に悪いとしても、そんなことを描く事に意義があるだろうかという疑問が生ずる。
 この疑問に応えるのは容易でない。逍遥は古い勧善懲悪を否定して人情世態を描写すべきだという。人間は善人と悪人に判然と分かれているのではなく、善人の中にもよくみれば悪が潜んでいるし、悪人をもよく見れば善とすべてものがある、それが現実の人情である、というのが逍遥の「人情」の内容である。勧善懲悪に対するこの批判を「半日」に適用できるであろうか。
 結論から言えば、できない。逍遥の人情の規定は「半日」には適用できない形式規定となる。二葉亭四迷に指摘されたのがこの点である。「半日」は現実を描写していないし、そこに描写された内容は事実ではない、現実はこれほど単純ではない、というのは正しい。しかし、逍遙の言う人情が描かれていないからではない。逍遙の主張を適用して、奥さんにも善しとする点を描写すべきであると言うなら、並外れた美人であることや、無口であることを余計なことを言わない美点として描かれていると指摘することができる。もしこの他に奥さんの肯定的な特徴を描写しても内容は変わらないし、無理に肯定的な側面を探し出しても小説の形式を歪め、事実から遠ざかるだけだろう。そんな側面がないこせいとしてのまとまりを鴎外は周到に描いており、奥さんは個性として非現実的な作り物ではない。奥さんの悪いところと善いところを捜し出してまぜこぜに描くことや、博士にも同等に弱点を描き出すことが小説を現実的にする方法ではない。

 鴎外が描いている通り、奥さんは家庭の団欒を破壊している。博士は可能な限り寛大に対処し、それに耐えている。奥さんが家庭的でなく、博士が寛大で我慢強いことは争いがたい事実である。奥さんにも本当はもっといいところがあるだろうし博士にも弱点があるはずだ、という非難は当たらない。鴎外の経験は小説の価値とは関係がないから、そのような関係が現実に想定できさえすればよい。しかし、それにも関わらず、この小説は真実を描いていない。抽象的に言えばそれは現実であって現実の真実ではない。この小説は真実を描いているのではなく、奥さんに対する博士の不満、非難を描いているにすぎない。つまりは鴎外ないし博士の偏見、狭い了見を写し出しているにすぎず、現実ではなく、事実ではない。
 そうなると、現実とは何かが問題になる。芸術論のすべての内容はこの言葉の理解にかかっており、芸術論の歴史が「現実とは何か」という問いへの答を求める体系だと言える。「半日」は作品としては芸術的な価値を持たないが、どのような意味で非現実的であるか、つまり現実性とはなにかという問いの一端を明らかにするための実例としての意義をもっている。



16.  守銭奴の涙  (2002.3.20) 

 守銭奴が金を失った悲しみを描いても読者を感動させることはできない、と芸術論の分野ではいわれる。守銭奴にとって金を失うことは何よりも悲しいことであろうが、それは利己的で排他的な感情であるから他の人の共感を引き起こさないのであろう。
 このように一般的に言えばなるほどと思える。しかし、現実の複雑な利害関係の中では利己と利他は明確に区別されることはなく、常に関連しており相互に移行する。
 鈴木宗男氏が悲しいのは利権や政治的権力を失うからである。しかし、利権や政治的権力も単に利己的な排他的なものとしては存在できないから、宗男氏は守銭奴のように自分だけの損失を訴えて涙を流す必要はない。宗男氏は単なる守銭奴と違って政治家として公的な立場にあるために、遥かに複雑な諸関係の中に生きている。宗男氏は家族や地元の支持者のために努力し、彼らも自分のために努力してきたという利他的な側面を自他に訴え、それで自分も感動し、国民にも理解を訴えた。多分に芝居的要素があるがそれは第二義的である。

 鈴木氏の涙は国民を感動させなかったし、同情も誘わなかった。それは鈴木氏と関係する利害が一般性を失っているからである。国家予算を田舎に誘導する事が地元全体の利益にならない事はすでにはっきりしている。田舎は過疎化し残された老人の生活は厳しい。地元の土建屋を中心とした一部の企業と鈴木氏が利権を分けあっている。それはもともとそうだったのではなく、そのようになったのである。国家的な利益と地方の利益は一致もするし対立もする。
 時代の変化は、田舎の国会議員が地元に予算を誘導する事で、日本全体の価値の循環を促す事ができなくなったことにある。有効な投資の対象がなくなり、土建屋の利益、というより今ではその生産設備を回転させるために無意味な工事をしている。景気対策としての公共工事は失業予備軍の蓄積にすぎず、つまり生産性の悪い部門を維持し、さらに拡大さえして資本と労働の流動性を失わせ、生産力を発展させるどころか、発展の阻害要因になっている。こうした状況の元でまったく無意味な予算執行が露骨な利権と結びつくにいたっている。
 生産力が発展しているなら、誰が特別に利益を得ているかは国民にとって深刻な関心ではない。国民の生活は誰が利益を得ているかに関わらない。だから利権はこれまでにもあったにも関わらずたいした問題にはならなかった。しかし、現在の政治家の利権や官僚の特権や堕落は国民生活とまるで対立している。社会発展のために予算は使われず、社会発展と対立する利権が生じている。中国、韓国、台湾などが急速に力をつけているときに、EU では資本と労働の流動性が飛躍的に高まっている時に、山奥に必要ないダムを造ったり、使いもしない道路や飛行場を造ったりするために資本を固定していては日本の経済は危機的でありつづける。何百万人もの失業者がいるときに、家族や地元の支援に応えて利権を漁ったことを正しいと信じて涙を流すというのは、本当の意味で古い政治家であるし無知である。情勢とあまりにかけ離れているからばかばかしいと感じる涙であるが、利権にしか興味がないからこそ鈴木氏にはそれは理解できない。しかし、だからこそまた、鈴木氏にとっても大した涙ではないであろう。

 鈴木氏はこれまでのやり方に疑問を抱かずにやってきたしやってこれた。NGO に対する圧力など彼のこれまでの行動からすれば大した問題ではない。だから自分にふりかかった災難は突風的な偶然的な不運に見えるだろう。だから、何とか今をやり過ごせば自分の住み慣れた利権の生活に戻れると思っているだろうし、自民党議員もそう思っているだろう。しかし、それはないと期待できる。何がどうなるか具体的にははさっぱりわからないし、国民がおとなしいから偶然性に依拠するところが大きいが、それでも国家予算が経済的な発展に有効に使われないために起こった騒動であるから、自民党が事件に蓋をしても経済法則は事件を起こし続けるだろう。



15.  「小説神髄」の紹介 2  (2002.3.19)

 「小説総論」の初めには次のような注目すべき文章がある。

「美術とは人文発育の妙機妙用これなり。何を以てか之を謂ふ、美術は人の心目を娯楽し気格を高尚にするを以て目的となせばなり。心目を娯楽するが故に友愛温厚の風を起し、気格高尚なるが故に貧吝刻薄の状を伏す。」

 芸術とは何か、という疑問に対するこのような答は説得力を持っている。理論的な考察に接していなければこうした特徴付けが特に問題を持っているとは思わないだろう。ところが、これは引用文で、逍遥はこの規定ついて、「論理の謬誤なきを保たず」としている。
 逍遥も芸術にこのような効用がある事を認めている。しかし、「こは是れ自然の影響にて、美術の『目的』とはいふべからず。いはゆる偶然の結果にして、本来の主旨とはいひ難かり。」という。勧善懲悪との関係でいえば、芸術の効果が勧善懲悪という道徳的な徳目を教えることから、より広く、「人文発育」と規定されている。その上で、このような教育的効果が、目的ではなく、「偶然の結果」である、と修正している。緒言で、勧善懲悪が主眼ではない、として、その継続として、それは「偶然の結果」とされている。

 論理は大きく進展しているわけではない。ここでの問題は、人文発育という芸術の効用を、「偶然の結果」であると規定することでより複雑な意味をもち始めていることである。偶然や必然についての厳密な規定をこの時代に期待することはできない。逍遥は特有の意味に、しかもそれほど厳密に考察せずに使っている。しかし、少なくとも逍遥の主な主張が、勧善懲悪、一般的には人文発育の効果を主目的にせず、それを従属させ、偶然的な結果の位置に引き下げるべきだと考えている事がわかる。この偶然的な結果というのはどういう意味であろうか。

 このような主張はすでにこの時代の西洋では芸術論としては確定された規定である。逍遥はむろんそのことを知っていた。この規定は正しい。しかし、困難はこの規定を貫徹する事である。逍遥は緒言や総論の初めに宣言しているこのような原則的な規定を貫徹する事ができなかった。しかし、日本における芸術論の課題は、この抽象的な規定の具体的な内容を明らかにする事であるから、理論の基礎を与えようとしている逍遥としては十分な役割を果たしている。逍遥の規定がいかに不十分だとしても、たとえばこの引用文を批判し、そこに内在する矛盾を発見し、より高度の規定に移行することができるかどうか試みれば、逍遥の考察がどれほど不十分であっても果敢な、敬意に値する試みである事がわかるだろう。


14.  「小説神髄」の紹介 1 (2002.3.17)

 「小説神髄」は明治16年から18年にかけて書かれた、文学の草創期にふさわしいすぐれた著作である。有名なわりには一般には読まれていない著作だろう。以前四迷について書いたときに通読したが、それほど丁寧に読んでいなかった。手元にあるのは岩波文庫の古い黄ばんだ本で、柳田泉氏の編集によるいくつかの文芸論が載っている。現在岩波文庫で出版されているかどうかしらないが、今回読み直して、日本文学史を知るためにも芸術論の基礎を知るためにも是非読んでおくべき著作だと感じた。全体が長いし、古い文体なので多少読みにくいかもしれないが、こうした文体も結構楽しめるし、内容も面白い。

 まず緒言に、小説の現状を批判した次のような文章がある。
 「しひて勧善〔勧懲〕の主旨を加へて人情をまげ、世態をたわ〔は〕めて、無理なる脚色をなすことなりけり。此に於てか拙劣なる趣向はますます拙くして、大人、学者の眼を以てはほとほと読むに堪へがたかり。」

 これが逍遥の基本的な立場である。当時すでに勧善懲悪は個人の精神・感情のありかたにも社会的な現実にもそぐわなくなっていた。勧善懲悪が現実の姿を歪めて不自然にしていることがはっきりしていた。だから、その古くささ、不自然さを捨てて現実に則した小説を書くべきである、と主張している。それはよくわかると思う。
 しかし、勧善懲悪が不自然であるから、勧善懲悪をなくすべきだということにはならない。それは論理の飛躍である。勧善懲悪が人情世態を歪めるのが悪いのであるから、勧善懲悪が人情世態を歪めないようにすれば、歪めないような勧善懲悪という条件をつければ、つまり勧善懲悪を従属させれば、人情世態を主眼とした小説は成立することになる。

 勧善懲悪を芸術論から完全に否定することは非常に困難な課題で、逍遥はむろんの事、今でもできていないと思う。この後文学史上でこの否定に接近すべく多くの論争が繰り返され、特にプロレタリア文学では深刻な課題となる。勧善懲悪を否定するには多くの論理を積み重ねる必要がある。「小説神髄」はその端緒としての意義を持っており、逍遥は緒言では勧善懲悪を否定しながらも、内容としては勧善懲悪の意義を肯定する事から出発している。緒言では人情世態によって勧善懲悪は否定され、内容の展開においては人情世態を主眼とする事によって再び勧善懲悪が肯定されている。しかし、その肯定を子細に観察すればやはり論理の必然として勧善懲悪の否定にむかって進んでいくものである。



13.  「半日」に関連して (2002.3.13)
  鴎外は明治23、4年に初期三部作を書いた後、長いブランクがあり、明治42年、48歳になって再び小説を書き始めた。この間、日清・日露の戦争があり、文壇では自然主義が台頭し、38年には漱石が作品を書き始めた。鴎外にとって初期のようなロマン主義的な甘ったるい小説を書く年齢でも情勢でもなくなり、一転して苦々しい私生活を材料にした「半日」を書いている。これは妻と自分の母親の仲がうまくいかず、神経の休まることのない私生活を描いたものである。官僚の余裕のある生活に特有の矛盾をどのように扱うかという日本的な課題という意味では漱石の「行人」や「道草」などと比較すれば興味深い問題を含んでいる。
 むろんそのような内容分析はこれまで行われていないが、初期のロマン主義と同じく無批判的で作品自体としては特に価値のないこの作品は、芸術論的な位置づけによって重要な意義を与えられている。平野謙は、「芸術と実生活」という著書の「森鴎外」でこの作品を取り上げ、芸術と実生活、芸術の自立性などを論じ、さらにプロレタリア文学との関係や近代文学の根源的な歪みなどという大げさな問題を論じている。内容の評価のためにも芸術論を避けて通るわけにいかないようである。しかし、作品分析の中に芸術論の観点を挿入する事も、平野謙の無責任な断定をあれこれと検討するのも煩わしいので、芸術論を別に扱うことにした。
 日本の近代芸術論は逍遥の「小説神髄」に始まる。芸術論もそれぞれの国に特有の論理があって、歴史的な情勢による特有の課題の解決のために特有の論理から芸術論を形成し始める。明治初期のリアリズム理論と作品のあとに自然主義的な理論と作品が続き、鴎外の「半日」はその中で位置づけられる。そうすれば平野謙の没理論でいいかげんな放言にいちいちつきあう必要はなくなるだろう。「小説神髄」の分析には十日ほどを予定している。
 逍遥の問題意識は、勧善懲悪を内容とする古い小説を克服し、西洋の小説を模範として近代的な小説を生み出すために啓蒙する事である。古い勧善懲悪が明治の新しい社会にふさわしくないことは経験的にはすぐに理解できる。しかし、それを理論的に位置づけるのは非常に難しい。興味のある人は考えてみて欲しい。分析が進展する過程で、逍遥の主張からピックアップして、どんな課題が発見されているかをメモ帳で紹介しよう。
 本来の順番からいえば、「小説神髄」を先に片づけているべきである。しかし、鴎外の方が一般的な関心には近いように思われた。ところが鈴木宗男氏の騒動を見ていると、瑣末な関心が、自然に本質的な方向に向かう傾向がでている。もともとは NGO 排除問題に端を発して、鈴木氏が外務省での利権を守るために田中外相を排除し、官邸もそれを認めて鈴木氏が勝利した形になった。しかし、田中外相排除の問題が、鈴木氏の本来の目的であった外務省関係の利権の問題に移行し、さらに鈴木氏の利権一般の問題に深まり、さらに自民党の利権の問題に深まろうとしている。今のところ利権アサリに対する批判と予算は分離されているが、基本的には予算の配分の問題であるから、徐々にそうした方向に向かうかもしれない。それで、鴎外より原理的な問題に早く手を着けておいたほうがいいかも知れない、と感じたのが本当の動機である。国民の関心がより一般的な、より本質的な方向に深まればよいのであるが。


12.  国会中継 (2002.2.20)

 今日の国会での討論は面白かった。鈴木議員も、自分のこれまで通りのやり方がこれほど大きな問題になるとは思わなかっただろう。田中真紀子氏はトラブルメーカーであるかのような中傷を受けながら、よく踏ん張って問題を本質化することに成功しつつある。実際は非常に大きな問題であるのに、言ったか言わないかとか、女の涙だとか、喧嘩両成敗だとか、どっちもどっちだとか、外務省内部の問題だ、などと問題を瑣末な方向に解消しようとする努力が大勢であったが、今はそのやり方も問題を大きくする契機になり、それがごまかしであることが明らかになり、政治家としての致命傷になる可能性すらでてきた。ノーパンシャブシャブは国民をあきれさせたが、スキャンダルに終わり社会問題化することはなかった。それから不況下で急速に時代が変化して、今は一見瑣末に見える問題が、すべて構造改革、政治改革の一端として問題にされはじめている。これまでにも知られていたにもかかわらず、個別の問題として看過されてきた問題がそれぞれ政治改革の突破口になりうるほどに大きな問題として、しかも関連づけられて取り上げられている。経済危機が進行しているかぎり、また政治改革がないかぎり経済危機は克服されないから、一気に進む事はないにしても、どんな小さな問題でも社会的な機構の問題として理解されるようになると期待できる。今日の国会中継も高い視聴率をとったのではないだろうか。ニュースは当然としてワイドショウでも政治を扱うようになっている。ここ数十年の間日本人は家庭や知人との日常的な会話に社会的な話題を持ち込まなかったが、今後は日本人の関心も社会へと広がりを持つだろう。政治が面白いのは、今の情勢ではスキャンダルがスキャンダルに終わらず、政治的なあるいは経済的な社会的問題に広がっていくからである。ようやくそんな時代が近づきつつある。田中真紀子氏は、多くの国民と同様に小泉首相に幻想を抱き、真剣な実践の中で具体的にその幻想を破壊しつつある。その意味で国民の意識に則した影響力の多い闘いをしていると言えるだろう。田中氏のスカート発言はなかなかよかった。ごまかしを本領としなくてはならない鈴木氏には出てこない発言である。


11.  「舞姫」の弁解 (2002.2.14)
 
 「舞姫」論は、久しぶりに書いた長い文章だったので思いつくことを何でも放り込むという悪癖が露呈したひどい文章だった。それで改稿して相当に削除して内容も変更もしたが、今回いくつか指摘されて読み直したところ、予想外にひどく、とりあえず三割ほど削除した。簡単に読み直して、明日からもう一度だけ改稿することにした。少なくとも三割はましになるだろう。ひどい文章だったおかげで、全体を読み通した人はほとんどないと思うので迷惑もそれほど大きくなかっただろうし、苦労して読んだ人にはそれなりのメリットがある。
 形式のひどさはともかくとして、作品理解の要は、まず、豊太郎の描写がエリスを捨てることに対する弁解であるという解釈を否定することである。豊太郎の言動はあまりにもひどいので豊太郎を非難する感情を解消するのが難しく、その感情が論理を歪める。第二稿ではエリスに対する弁解という視点はなくなっているが、相沢や天方伯に対する弁解という視点が残った。この視点は「舞姫」論争では解消されているので、「舞姫」論も修正すべきだと思っていたが、放置していた。今回はエリスに対しても相沢に対しても弁解という形式は解消されて、エリスに対する可能な限りの愛情を描写し、相沢に対する友情を描写しているし、しようとしているという視点で一貫している。
 自己弁護、弁解は鴎外の精神の基本的な特徴で、じつはこの作品にはそれが色濃くでている。しかし、それは古くから指摘されている、誰にもわかる特徴で、問題は鴎外の自己弁護、弁解がどのような内容を持つかである。弁解であるという結論が先行すれば弁解という形式の内容の分析は失われる。弁解の内容を分析した後に初めて、それが自己弁護であり弁解であることを結論として指摘できる。
 鴎外の作品を分析する上でのもう一つの困難は、鴎外の思想があまりにも単純で無内容なことである。鴎外自身の思想を明らかにするには、そこにない思想を投入してはならない。しかし、批評の蓄積や時代の進展によって鴎外そのままの思想の姿に到達するには様々の偏見をはぎ取らねばならない。舞姫論の二回の改稿はこの偏見をはぎ取る過程である。第一稿と第二稿を読んだ人は、たいした利益ではないが、偏見をはぎとるよたよたした思想の進展過程を見ることができるだろう。論理的に難しくはないが面倒でややこしいという意味で扱いにくい作品であるので、一気に偏見を解消することができなかった。論理力の無力を証明するようなものであるが、「舞姫」論ばかりをそうそう抱え込んでいる気分にもならないので、仕上げをしないままにアップして、能力の限界を示すことになった。今後は、鴎外の作品分析が一通り終わるまでは手を入れることはないだろう。やり始めると面白さもあるが、基本的には魅力のない作業である。


10.  イメージ

 エジプトのスフィンクスには崇高な雰囲気がある。首から下がライオンであるというイメージは薄い。それは正面から見るからで、顔のインパクトが強いからだろう。スフィンクスの後ろ姿を写真で見ると崇高な雰囲気は消えてライオンのイメージが強くなる。顔が見えないし、大きな尻尾がついているからだろう。といってもライオンであることも顔のイメージのどこかに影響を与えているにちがいない。顔が同じで、首から下が鶏でも蛙でも大根でも別のイメージになると思う。


9.  詩のボクシング

テレビで詩のボクシングというのを見た。見ようとした。詩の朗読というのはうまくないと寒々しいものがあるが、そうした感覚も慣れないための偏見かもしれないと思うので、努力した。努力しようとした。
 ところが、朗読の最初の一句が、「人間はなぜセックスをするのか、人間はなぜマスターベーションをするのか、」とかいったものだった。こんな問いを大声で叫ばれて肝を冷やしてしまったから、正確には聞き取っていないないかもしれない。
 昔の学生やインテリが、セックスとか思想的な自慰だとかいう言葉を使うことが、勇気とか大胆とか、思い切ったこととか思っているのか、あるいは何か他に理由があるのかわからないが、好んで使うことがあったが、21世紀にもそうした趣味が残っているのは意外だった。
 人間はなぜセックスをするのかという疑問、問い、叫びは不道徳だからではなくて、平凡で無意味だから聞くに耐えない。大声で叫ぶほどのことではない。今ではそれくらいの常識はできていると思う。
 何事にも疑問を持つことが知性の力である。特に誰もが疑問をもたないことについて疑問を持つには才能が必要で、知性の力を感じさせるし、興味をそそる。「人間はなぜセックスをするのか」という叫びが寒いのは問いがあまりにも平凡で、平凡であるのは、おそらく、答えが用意されていないからである。リンゴはなぜ落ちるのかといえば、ニュートンの回答を含んでいるから人類的に驚異的で知的な問いである。ギリシャ人のように、髪の毛が一本抜けるとはげになるか、という問いも非常に高度の真理を含んでいるから面白い。どこからはげになるかを一本の髪の毛で決めることはできない。
 答えを考えずに抽象的な疑問を提出することは簡単である。答えを含んだ問いを発見することは難しい。答えを含まない、答えと関連しない、答えを予定していない問いは無意味である。答えを含まない、答えと無関係な問いや疑問を深いと感じるのは間違いであるし、感性として鈍い。それは深いのではなくて単に空虚なだけである。
 詩のボクシングで、人間はなぜセックスをするのかという叫びに、興味をひくほどの答えがあったかどうか知らない。最初のジャブでダウンしてチャンネルを変えてしまった。答えが用意されていれば、あれほど無意味に力を入れる必要はないだろう。次の放送でまた努力することにした。


8.  私が何か悪いことをしましたか ?

日本人の単純さで、思い出した。かつて山一証券が破産したときに、上品そうなおばあさんが、「私がどんな悪いことをしましたか?」と大まじめで山一の社員を問いただしていた。山一の社員は「株が上がっていたとき、あなたはどんないいことをしましたか?」とも言わずにただ謝っていた。どちらも日本的現象である。株主が儲かるのはいいことをしたからではなくて、投資に剰余価値が配分されるからからである。配当が増え続け、株が上がり続けるようでは資本主義ではない。自由競争の世界では、儲けるための設備が過剰になるから、おばあさんが悪いことをしなくても価値は廃棄されねばならない。あえていえば投資が過剰を生むのだからおばあさんが投資したことが悪い、投資しなければよかったといえる。投資の過剰が生ずるのは資本主義の経済法則だから個人の善意や悪意とはまったく関係がない。山一の不正とも関係がない。おばあさんは経験的にもそれを知らなかった。右肩上がりの時代が長く続いて、株で損をする経験がなかったからであろうが、おばあさんは、悪いことをしなければ損をすることはないと信じている。論理の順番としては社会が善悪を支配するのではなく、善悪が社会を支配していると考えている。自分に過失がないのになぜ損をするのか、と。しかし、理屈はともかく、悪くもないし過失もないのにサラリーマンが苦労して買った土地家屋も暴落しているのだから、おばあさん一人の不幸でないことはあきらかである。といっても金がもどってくるわけではないから納得しにくいであろう。それは論理の問題ではなく利害の問題であるが、実はこの利害を論理として、感情として内化しなくてはならない。株に対する投資が、あくせく働いて体を汚すでもなく、高利貸しのようにむさぼるでもなく、ただ株の値上がりを待つだけの上品な生き方だと思える時代は終わった。従順に働いていれば退職金と土地が財産として残るという幻想も終わった。いつ株が下がるか分からない状況では、財産を守り増やすために投資していることを自分自身の特徴として認めねばならない。どんな悪いことをしましたか、という疑問は、もっと早く、せめて五円の時にでも売り逃げていれば、といった意識に変わることで資本主義の現実に少し近づく。「私がどんな悪いことをしましたか」 という上品で素朴な疑問には株価の暴落が組み込まれていない。その上品さ、素朴さは株の値上がりにささえられており、株の値上がりを内容としている。株の暴落を経験した後も、「どうなっているのでしょう、こんなものなのでしょうか」と素朴で単純なままの疑問を持ち続けるなら、性格としての上品さや素朴さには厳しい経験が折り込まれている。利害の変動に動じない力を持っている。しかし、右肩上がりの経験だけをもとにして、暴落にたいして「私がどんな悪いことをしましたか」と詰め寄る場合は、その上品さや素朴さは、資本主義の自分に有利な一側面だけを反映した無知であるから、説得しがたい、思い込んだらそれまでといった、このうえなく頑固な性格になる。現実との関係でそのようになる。たとえおばあさんの性格そのものに変化はないにしても。むろん性格のあらたな展開という意味で変化せずにはいないであろう。こうした変化は一人のおばあさんだけでなく国民全体に起こるだろう。

7. 「ボーイズ・オン・ザ・サイド」 (2002.2.3)

 先週、風邪で寝込んでしまって、おかげで、ハーバート・ロス監督の「ボーイズ・オン・ザ・サイド」というビデオを見た。なかなか楽しめる。個性も生き方も非常に違った三人の女性の信頼関係がアメリカらしいタッチで描かれている。こういう関係は日本ではなかなか見られない。それぞれの多様な生き方の独立性を認めることは欧米では日常に根づいているが、日本ではなかなかそうならない。明治中頃に描かれた鴎外の初期三部作の精神がまだ生きている。鴎外は非常に低レベルの同情を、それが人格の基本であるかのように高く評価している。日本では同情は相手のためを思う感情だと思われており、同情することを肯定するし、同情されることをも肯定する。同情がないと冷たいと思うし、同情されないと冷たくされたと思う。しかし、「ボーイズ・オン・ザ・サイド」では、またこの作品に限らないが、同情されることを嫌う自尊心が発達しており、同情を嫌う感情は自然な感情として尊重されている。このような世界では、他人の困難に対して力になろうとする感情はより高度に発達している。相手の役に立ちたいという気持ちは、同情を嫌う相手の感情を傷つけないで、相手の独立心を傷つけずに相手の力になろうとする配慮をともなっている。他人に力を貸す場合に、相手の無力を補うという形式、自分の優位を印象づける形式、自分への依存という形式をなくそうと努める。相手の意志の独立性を尊重し、善意の押し付けをなくした、より高度で複雑で繊細な感情が形成され、蓄積され、人生を彩ることになる。同情は他人との関係の一つの形式にすぎないから、全体としては同情を直接に肯定するレベルの関係とは非常に違った感情のやりとりが生じる。日本ではそれほど感情が複雑化しておらず、どれほど自分が相手のためを思っているかを示すことが重視され、そのような感情を持つべきだとされる。あるいはそんな感情を持つこと自体を恥ずかしいものとして否定する臆病な感情が生じる。それは他人のために尽くすという感情が未成熟であることを示している。日本的な同情も相手の事を、他人の事を考える一つの形式であることは当然認めなければならない。しかし、一般に相手や他人の事を考えないことなど問題になりえないのであって、相手や他人のことを考え尊重する精神の内容や形式は無限に発展するのであり、その発展の度合いが、精神のレベルであり人生の内容である。この映画を見れば、彼らが日本人とは違った精神世界にいきていることを日本人でも理解できるであろう。しかし、なかなか、そうした精神を日常に定着させることは難しい。やはり手順を経て獲得せねばならない。インテリ世界で「舞姫」が近代的自我の確立だと言って騒いでいるようでは、とうていあのような人生を楽しむことはできない。喜びも悲しみも浅い人生に甘んじなければならない。


6. 単なるライフスタイル (2002.1.25)

  この寒いのに蚊が、家の中を飛んでいた。何を食料にしていたのか分からない。最近蚊に食われた覚えがない。
 仕事仲間に生き物を大切にする人がいる。蚊も殺さないし、蟻も殺さない。動物だけでなく、植物にも優しい。しかし、説教はしない。同じ仕事仲間で、動物を見るととにかく捕って食おうとする人がいる。元気がなさそうだといって、マムシを採りに行って焼いて食ったことがある。鹿よけの網にかかって死んだ鹿がいると、新しければ手際よく皮をむいて料理する。動物を育てるのもうまい。俺は虫でも獣でも殺す、と弁当を食いながら優しい友人の前で公言する。仕事の帰りや昼休みに獣道に罠を仕掛ける。必ずというのではないが、その優しい友人は、休み時間や仕事が終わってから、疲れた体でその罠を外しに行く。「すぐこんなことをするからなあ」とぼやきながら。で、罠を賭けるときは、気づかれないようにこっそりかける。「〇〇にはだまっとれよ」、というので黙っている。しかし、罠を掛けたんだろう、と聞かれると掛けたと答える。自然破壊は三人とも嫌いで、川につまらない堰堤をつくることには一緒になって反対している。幸いこの堰堤は一基だけ建設されてあとの予定は中止になった。


5. インテリは偉い、か ? (2002.1.24)

 ,鴎外はエリートであることと、インテリ的に知的で教養があることを重視し誇っている。それが実に軽薄である。シルレルを読んでいるとか、ショーペンハウエルを読んでいるとか、語学ができるとか。
 鴎外はこうしたインテリの形式的な特徴を高い精神の表れと考え、特別の生活だと思っている。職業上の違いを精神の質の違いだと思っている。大工が鉋をかける、土方がスコップで穴を掘る、百姓が鍬で畑を耕すのは職業上の違いであって、どれが上等だとは言えない。幸い彼らは自分の職業が他に比べて上等な人間をつくり出しているとは思わない。
 シルレルを読んでショーペンハウエルを読むことがすでに知的であると考えるのはインテリに生まれやすい偏見である。どんな職業であっても、高度の精神はその職業で訓練された後に得られる。大工にも土方にも百姓にも、それぞれに名人ややり手が生まれる。シルレルを読んでショーペンハウエルを読んですぐれた精神を得ることもあるし、そうでない場合もある。インテリとしての能力は、知識を獲得した上での訓練によってのみ得られる。
 ところが鴎外は、エリートインテリの地位を肯定するだけで、内容に入らない。大量の知識を持ちながら、それを道具にすることができなかった。エリートとして競争に勝ち残っていること、大量に知識を仕込んでいること自体を肯定している。明治の中期のインテリは実際に特別の階級であるから若い鴎外が自分を誇るのは当然である。しかし、思想の世界や芸術の世界では、社会認識のレベルが問われるのであって地位の高さが問われるのではない。エリート官僚として出世するのとは別の能力が必要である。エリートの世界にも競争が生じ、深刻な社会的矛盾が発生するが、鴎外はそれを捕らえなかった。出世し勝ち残っていった鴎外にも不満はあったが、その不満は自分の地位をより高くしたいという個別的な欲望にもとづく不満であって、自分が属する地位全体に対する批判意識にまで到達しなかった。常に不満を持ち、その不満の中で自分を肯定する努力をした。初期の三部作は、若々しく、素朴で、自信に満ちて、無知で、無批判的である。しかし、それは初期三部作だけの特徴である。このような自己肯定は維持できなかった。
 大工や土方が仕事をしながらだんだん仕事がへたくそになっていくことはない。しかし、インテリの場合はこれがある。内容に階級性があるから、傾向があやまっている場合は、思想は現実の諸関係からそれて虚偽になる。だから訓練するほど無能になる。自分の知識や認識が現実社会から離れていき、社会の発展から取り残されていくことがある。これは誰にでも生ずることであるが、鴎外の場合対処が特殊で、この傾向を意地でも肯定して自分を守り抜こうとする。それでは守り抜けない。


4. 「舞姫」を読む基本的視点 (メモの2の続きが残っていた。) (2002.1.23)

 一般に対立は同じ基盤の上でしか生じない。四迷は日本の社会全体を見渡していたから、階級的な分化が視野にあった。この意味で認識が深く広い。豊太郎の生活と意識における対立物は、豊太郎が生活の基盤としているエリートの世界にある。豊太郎が一致し、対立しているのは天方伯と相沢である。豊太郎はエリスとも関係しているから、当然エリスと一致し、また対立している。豊太郎は天方伯や相沢と基本的に一致しており、そこにおける対立が豊太郎の人生の全体を規定している。エリスとの関係はその一部分である。天方伯との関係の変化、展開によってエリスとの関係は規定される。この関係の中で相互作用がある。豊太郎にとってエリスとの関係が基本的な関心であり、重要な意義を持っている。といっても、エリスとの関係はそれ自体として、つまり独立して、他との関係の中でもっとも基本的な位置において重要な意味を持つのではない。エリスとの関係は、天方伯との関係において重要な意義を持っている。エリスとの関係は天方伯との関係に傷を付けるのではないか、エリスとの関係があっても自分をエリートとして認めるかどうかという意味でエリスとの関係は重要である。それ自体としてはつまらない関係であるから、つまらない関係であると評価されるのではないか、という危惧があるから、エリスとの関係は解消されるべきものとして、なおかつ、つまらない関係ではないという肯定的な形式で天方伯の価値観において認識され対処されなければならない。エリスとの関係は天方伯との関係において肯定的な形式で否定されねばならない。天方伯の気に障らないように解消しなければならない。
 豊太郎は天方伯・相沢との関係で自己を肯定しているのであって、エリスとの関係で自己を肯定しているのではない。弁明という形式で言えば、エリスに対して弁明する必要を感じているのではない。これが全体を解く鍵になる。

 天方伯との関係によってエリスの関係は認識され対処される。平たく言えば、豊太郎は天方伯に対して、私は不始末なんぞしていません、と弁明している。エリスに対する純粋で同情的で人格的であることは、エリスとの関係においてではなく、天方伯の世界の価値観において必要な対処である。だから、まずエリスを捨てることが前提で、しかも人格的でなければならず、さらにその人格性の内容が天方伯の世界の価値観ということになる。だからエリスとの関係が複雑になる。
 それだけではない。豊太郎にとってエリスとの関係が、天方伯との関係において重要な意味を持っているために、天方伯の世界自身も特有の規定を受ける。天方伯の世界自体もエリスとの関係を受け入れるかどうかという豊太郎の観点から認識され、対処されている。それを前提として豊太郎とエリスとの関係は豊太郎と天方伯との関係によって規定されている。
 このように複雑な関係から、単純にエリスとの関係だけを抜き出し、それが道徳的であるかどうか、あるいは弁明であるかどうか、として作品の全体的構造、基本的性格を問題にしているかのように思い込み、さらにそれによって明治の社会の全体を問題にしているかのように思い込むのは、作品と明治社会の不当な単純化である。鴎外自身は非常に狭い現実認識を持っており、複雑な構造などを意識していない。それゆえに生じた歪んだ現実認識として特有の複雑さを持っている。エリスに対する認識と天方伯に対する鴎外の特有の偏見を含んでいるために構造がややこしくなっている。

 豊太郎のエリスに対する仕打ちは、冷淡で残酷で、しかも天方伯に対する弁明という屈折した虚偽に満ちている。このあまりにもひどい対処を道徳的に批判したり、弁明じみていることを批判したりすると、豊太郎とエリスの関係を直接的な関係として単純化するために豊太郎の本質を捕らえられない。このような感情的な批判は本来の内容を外れているから、豊太郎を擁護する立場からの反論が当然形成されるし、批判する立場にとってもその反批判は説得力を持っていると感じられる。そしてこの両者が対立しながら、解決できるはずもない見当違いの解釈を積み重ねていく。こうして積み上がった思想上のがらくたを取り除いていってようやく、基本的な矛盾は豊太郎と天方伯との対立であり、弁明は天方伯に対するものであるというもともとの形式にたどり着く。またこの視点はこのようにして発見しなければ具体的な作品分析が内容を持つことができない。
 この基本矛盾の視点からこの作品全体を解釈するとごく分かりやすくなる。こうした多重的な誤認の構造の背後にある真の姿を明らかにし、それがどのような誤解を生みだすのかを明らかにすることが出来る。


3. (2002.1.20)

 メモの 1 で、都市論なんか10行以上とても読めない、と弱気なことを書いたら、高校の教師に、認識が甘いと、お叱りをうけた。高校の教科書にあんな文章が載っているらしい。それは高校生も教師も大変だろう。義務としてあんなものに一時間も接していたら頭がどうにかなってしまう。どうにかなってしまっている分には平気だろうが、変になるまでには相当に苦しまねばならない。いづれにしても世間知らずと現状認識の甘さは認めねばならないと悟った。
 世間知らずにとってネットは非常に有力な武器になる。昨年、地上には熊が出るし、頭上には熊鷹が飛ぶほどの山奥で仕事をしていたとき、民宿でパソコンを開けたら、時々メールで質問が入っていた。いま山仕事中で、資料がないので正確な返事ができません、そうですか、ここも結構田舎ですとかいうやりとりをしていたら、その田舎というのが、ニューヨークの郊外だった。ニューヨークと紀伊山地の山奥で特に費用もかからずに通信ができる。大変便利になった。順番を逆に言えば、ニューヨークともパリとも特別に費用もかからずに通信しながら、身体中を日に焼いて、目が落ち窪んでしまうような仕事ができるということである。カンボジアでは、不発弾や地雷を恐れながら、食うために光ファイバーケーブルを埋設する仕事をしている。いかにも資本主義らしい現象である。最先端の技術もまず利潤のためにあって、そのあと、人類全体の役にも立つ。大いに役立たせてもらっている。できることなら、ニューヨークの真ん中に住んで、ニューヨークの真ん中にいながら、日本の山奥とも四川省の山奥とも通信ができる、といって先端技術に驚き感謝するほうが望ましいが、そうはいかない。そんなことを言っているから認識が甘いと言われる。


2.  (2002.1.19)

 基本矛盾・・というのは、関係の順番の問題、いづれがより基本的で、いづれが被規定的かという問題である。『浮雲』のお勢を理解する場合、彼女の運命と「近代的な自我」は、自己を二重化することなく無意識的に大きく変化していく。それを規定しているのは、現象的に言えば昇と文三の力関係である。昇の社会的な力が商品経済の発展とともに支配力を拡大して、お勢の意識をも支配していく形態を四迷はうまく描いている。非常に視野が広く深い。
 「舞姫」の場合、豊太郎と天方伯・相沢との関係と、豊太郎とエリスとの関係のいづれが基本的であるかを理解することが非常に難しい。豊太郎と天方伯との関係が基礎で、この関係によってエリスの運命は規定されている。この関係を論理として貫徹するのが難しくまたおもしろい。この三者の相互作用の構造を明らかにしなければならない。
 豊太郎が持つもっとも抽象的な矛盾としては自己と他人一般が想定される。豊太郎は自己保身的であるからこれは現象的にもすぐに思いつかれる。すこし観点を変えて、肯定的なニュアンスをもって、豊太郎の自我と社会とか、自我と国家とかいうのもごく抽象的な点では同じである。しかし、どんな個人でも他人や国家や社会と同一ではない。豊太郎に限らずこうした対立関係は誰でも持っているから豊太郎の特徴づけにはならない。天方伯も相沢も豊太郎もエリスもこういう矛盾を持っている。
 だから、豊太郎の特徴はこうした矛盾の上で、より具体的な矛盾において規定しなければならない。こうした規定がすでに豊太郎の特徴だと考えるのは無知である。それが豊太郎の特徴づけになっていないことを知らない。
 例えば、私は階段で転んだ、それは重力があるからだ、という場合には正しくても規定にならない。重力を前提して、より具体的な関係を規定しなければ説明とは言えない。睡眠不足だったとか、疲れていたとか、気になることがあったとか、階段が不規則だったとか、何か落ちていたとか、重力と私の間を無限の諸関係が媒介しており、それをいかに具体的に豊富に規定するかが認識能力である。私が転んだことだけでなく、立っていることも、階段を登ることも、つまり地球上での諸現象すべてが重力との関係で説明できるから、重力なしには転ばなかったとしても、転んだことの特定にならない。豊太郎を規定する場合に、近代とか国家とか官僚社会とかいった言葉を連ねることが規定にならないことも同じである。それが日本の遅れた社会とか、前近代的とか、半封建的だとか言っても、それが正しい前提でも規定にならない。まして明治を封建的だとかいう観点がその中に入っていれば、抽象的な上に間違っていることになる。ところが多くの批評はこうした言葉との関係で豊太郎を規定することが社会的な歴史的な規定だと思っている。

 すでに横道にそれかかっているし、長くなっているので、あとは、3 で。


1.  (2002.1.18)

 鴎外の作品は、「舞姫」に限らず無内容であるが、インテリには 深い内容があるように見える材料を、つまり身近で切実な材料を、深い内容があるように描いているし、自分でもそう思っている。特に「舞姫」は、エリスとの関係を扱った偶然によって深刻な内容があるように思われているし、そう思う思想上の必然がある。だから、「舞姫」がどのように理解されているかが作品理解とは別の課題として重要であると思われるので、しばらく時間をとって批評史を調べることにした。
 で、「森鴎外を学ぶ人のために」(世界思想社・1994年)という本を借りてきた。この本の編者である山崎國紀氏の「舞姫」に関する文章に、
「建設途上の国家の中で、いかに生きるかという役割を賦された苦悩する近代知識人の原像でもあった。」とか、「この『まことの我』の問題は、日本近代文学が最初に出会った重大な精神の戦争であったと言えよう。」とあるので、近代的自我の苦悩という評価は最近まで維持されているらしい。ところか、すぐあとに、
 「ただ『舞姫』を作品の展開に即し、素朴に読んでみると、こうした「近代的自我」の問題だけでなく、豊太郎とエリスの"愛"の問題が、この作品の全体の構造を規定していることがみえてくるのではないか。」と書いているので、近代的自我の苦悩というのは単なる図式であることがわかる。自我は精神の全体であるから、本来は愛の問題も近代的自我の具体的内容とし規定しなければならないが、それは別問題とされている。近代的自我は愛とは別に単体で存在する。
 ところが、この近代的自我は愛情とは独立して、豊太郎を道徳的に肯定するためになくてはならない図式である。山崎氏の評価を見ると、1994年の段階では、すでにエリスに対する愛情は否定されている。「エリスは豊太郎にとってだんだんと負担になってくる」と書いているから、作品の本来の内容に近づいている。そして、「『罪人』意識は、他者を傷つけた加害者意識にほかならぬ。真に愛していれば、加害者意識は、かなり軽減されるはずである。しかし、一時の苦難のとき、結局利用して捨てたという意識が豊太郎を領して放さない。」として、愛情のないことが、豊太郎の罪の意識と苦悩を深くする根拠だとされている。愛情は捨てても苦悩は捨てないので、近代的自我は必要である。
 このような評価では、すでに弁解という形式は解消されている。エリスに対する残酷さは豊太郎の苦悩の深さの根拠になる。エリスに対して残酷であるほど、また愛情もなく冷酷に扱っているからこそ、罪の意識が強いと評価できるから弁明という形式は必要なくなる。弁明が豊太郎のストレートな肯定に発展している。苦悩やエリスの人生を弄ぶ思想であるが、それが具体的にどのような思想であるかは今のところ予測できない。彼らの俗物根性は大抵予想を超えている。
 今回の「舞姫」の分析とこのような評価には非常に大きな距離がある。それを埋めるには多くの論理が必要である。批評としてもこのような評価に達するには、いろいろと論理が積み重ねる必要があっただろう。その論理の流れと組み立てが日本精神史の一つの典型である。

 余談だが、この本の「鴎外と都市」という論文に、次のような文章があった。

 「その一つに、文学者(作者)森鴎外にとっての『都市』の意味と鴎外文学の中の『都市』、といった問題とがある。島村輝は、前田愛の言葉を用いて、「文学テクストを『都市というテクスト』のメタ・テクストと見ることによって、実体概念としての作者を関係概念の括弧に括ることが可能にな」ったと述べている」

 都市論という言葉を聞いたことがあるが、こんな文章を読むのは初めてである。いくら批評史を概観する必要があるといっても、これは守備範囲を超えている。これだけ無内容な文章を、二三行なら笑って済ませるが、まじめに十行以上読むことはとてもできない。こうした無内容な文章に内容があると思い込んで読めるようになるにもそれなりに訓練が必要であろうが、いまからでは遅すぎるし、時間と根気があっても、うまくいくとも思えない。


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