14. 「浮雲」理解のために 1


1.「非職」の契機について

「浮雲」」の文三が役所を首になったことでお政にもお勢にも見捨てられ孤立するのはごく自然な現象と思われる。批評家が言っているように、上司にゴマをするのが嫌だなどと青くさいことを言っているからそんなことになるのだと思われる。このような現象と現象に対するこのような感情=理解は日本に特有な自然的現象である。日本の社会に就業機会が少なく官員になることが安定した生活として非常に大きな力をもっていたことがその大きな要因の一つである。このような環境の中では、「非職」は恋愛をも、人生全体をも一挙に破滅に導くのが必然的傾向となる。この必然が「奴隷的な」「犬のように尾をふる」行動と感情を強制する圧力としてすべての人々に重くのしかかっている。終身雇用のおかげで、四迷の時代よりはるかに発展した資本主義下でも同様の感情を生み出す必然は生きており、その感情の理論化である批評が多く生れている。
 だから資本主義の発展が就業機会を多くし労働者の移動が自由になれば、文三の苦しみの資本主義内部での解決になり、実際この種の苦しみは大いに緩和される。始めから純粋な資本主義から出発し、労働力の不足から出発したアメリカでは資本主義が高度に発展しており、労働や資本の社会的シフトがはるかに自由に変更される。このような国では平凡なテレビドラマでさえ「浮雲」のような問題はすでに解決しており課題となりえない。
 アメリカでレイオフされた者が道徳にとりのぼせているせいだとか、主体性がなかったといわれ、それが理論として一般化されるなどとは考えられない。レイオフは社会的経済的変動によることが誰にも知られている。多数のインテリの中には本人の意識の持ち方によるのだと主張する馬鹿者がいないともかぎらないが、例外的であろう。レイオフが必然的に失恋につながるのは、非常に貧しい国での現象である。別の場所で仕事が見付けられるのなら、それまで失業保険でくらせるなら、彼はこのチャンスについて考えばよいのであって、主体や道徳について考える必要はない。それは愚かな感傷である。また上司との対立でレイオフになるとしても、それが決定的な過失になることがなければ、不当に高く評価されることも、青二才として罵倒されることもなく、よくある一つの生き方、個性になるだろう。
 文三の世界では、へつらいはあまりに露骨な形態をとっているし、へつらいを嫌った場合の環境はあまりにも厳しい。この世界での日常性は小さな事件が人生問題となると同時に日常的に大問題に直面しなければならないとい、つ二つの側面をもっている。
 日常の小さな事件を重大な人生問題とすることは、逆に言えば重大な人生問題も実は日常の小事件を重大に表現しただけという、日常性にへばりついた無批判的な、つまり従来の「浮雲」論のやり方になる危険性を持っている。非職が悲惨な結果をもたらすことを当然の前提として、すぐさま一般的道徳的教訓を引き出してくだらない説教をする。遅れた資本主義に生じる特殊な精神的形態の一般化であるから、先進国では通用しないようなせこい根性主義、禁欲主義と、それに照応した卑屈で軟弱な精神の一般化にほかならない。
 他方、非職が悲劇的な運命をもたらすことで、その現象の本質を知る必要に迫られている。つまり日常的に日本の資本主義の構造、経済的法則を認識する必要を迫られているということである。非職による文三の悲劇は日本の資本主義の成立時代の構造によるものだからである。従って文三の運命を文三の主観によって説明するか社会的関係によって説明するかが思想上の分岐点になっている。
 失職に伴う人間関係のもつれと苦悩は、就業機会の拡大によって大いに緩和される。ところが就業機会の拡大は文三の手にあまる課題である。文三個人どころか、成立発展の途上にある資本家と労働者、地主と小作人、農民、そして官僚にとって、つまり日本のすべての階級にとって、資本主義をいかに急速に発展させるかが、自分の階級利害の国内的拡大のためにも、先進資本主義からの収奪を避けるためにも、緊急かつ困難な課題であった。特に支配階級となるべき資本家階級にとって、自分の階級利害を拡大するために、資本主義的関係を日本の支配的関係とすることが急務であった。つまり自由競争が十分に発展できず、競争がげすな遅れた形態をとっていることが障害であった。このレベルにおいては彼らの力は圧倒的であり、したがって卑屈な精神がはびこり、厳しい搾取を可能にするが、彼らは労働者人民のへつらいでなく、彼らの労働による剰余価値の拡大を求めているのであるから文三が就職できず、昇が俗物根性を丸出しにして、上司へのこびへつらいにエネルギーを消費していることは、いずれも搾取のチャンスをみすみす逃がしていることにほかならない。近代的な合理的競争が組織されておらず労働力の社会的ロスが生じている。このロスを絶対的剰余価値によってカバーするのは、前近代的なやり方であり、後進国特有の新たな問題を生じる。こんな時に昇が実際的である、つまりげすな奴隷根性が現実的なのだと主張するのは、どの階級にとっても間の抜けた話である。批評によるこの種の教訓はブルジョアが非常に反動的になった時代に、遅れた資本主義にふさわしい俗で田舎くさい形態で奉仕しようとしているのてある。
 このような単純な説明は「浮雲」を分析する従来のやり方が通俗的で外的であるとを知るには役に立つが、それ自身としても通俗的外的説明である、「浮雲」の内的説明ではない。「非職」は実際「浮雲」の重要な実態ではないのであるから、非職をどのように扱おうと、ないことの説明にしかならないからである。
「浮雲」は非職を含めた総合的な問題を扱っている。非職が決定的な契機になるのは他の現象との連関によるのであり、その連関の仕方が諸現象の本質である。非職は部分的現象である。十七年後の「其面影」では非職の契機は消えているが、同じ日本的法則が貫徹されている。「其面影」を「非職」の観点から分析することは出来ない。作品を単純化して総括することによっては作品の本質に到達できず、精神史としての日本文学の発展形態を研究するこ云出来なくなるのである。
   2.ミジンコについて

 ミジンコのような小動物についても無限の意識を持ち得る。ある者は「いづれ立派なクジラとなって太平洋を泳ぎ回るのだ」といい、他の者は「いや、今に背中が甲羅に固まって、あの優雅な亀になるのだ」という。また「愚かな!この透き通った美しさを見るがいい、背中から甲羅ではなく、白い羽根が生え白鳥になって飛んで行くのだ。くだらんことを言う暇に鳥小屋を作っておくべきだ」という。あるいは「いやきっと頭から角が生えて来て、そのうち真白な馬になるだろう、俺はそれに乗って飛ぶように走るのだ」と言う。
 空想は無限に広がる、意識にくつわをはめることはできない。ミジンコからクジラや亀や白鳥に飛翔する力こそ芸術的想像力であり、主観の特権である。ミジンコを科学的に研究する自然科学者と違って、人間の心を研究する芸術は、このような空想力によって豊かさと自由を獲得する。
 無論空想にもおのずから制限がある。この空想力は、ミジンコの無限の特性の一つを他の動物の無限の特性の一つと結びつける力であるから、この空想が広がる範囲は、ミジンコについての知識量と他の動物についての知識量に量的に制限され、その中での組み合せ方で質的に規定されている。まったく知らないものについては空想のしようがない。ミジンコが八本足で馬が四本足であるとしか知らない場合、空想の広がり方も連関の付け方も多様性、つまり自由をもちえない。従って空想の世界を豊かにするためには、知識を広げるとともに、その連関の付け方についても、訓練を重ねなければならない。
 このように主観、あるいは心は自然科学的制限を受けない自由な意識である。しかし、ミジンコは生涯ミジンコであってカメにも白鳥にもならない、というミジンコ学者の意識も主観であり自由な意識の一つである。彼らは詩的でないとしても、このような空想に異議をさしはさむであろろうし、馬に角が生えることはありませんと専門外のことまでいうかもしれない。そしてミジンコについての、あるいは白鳥や馬についての空想は、小学生に笑われるようなことになり、詩情どころではなくなる。ただ芸術熱に犯されて常識のなくなった文学者しか詩情を認めなくなる。かくして空想の領域は自然科学的研究の発展とともに、著しく制限されぎるを得ない。さらにミジンコであることは、ミジンコ学者の詩情や空想の制限となるものではない。
 ミジンコ学者は、ミジンコが現実にどうであるかという以上の、主観による現象の自由な結合を許されていない。空想は学問として失格であり、エセ学者のやることである。しかしミジンコ学者には、ミジンコが現実に持っている無限性と詩情が与えられている。ミジンコは現実に人類よりも古い歴史を持っており、その中に地球上の生物進化の成果を蓄えている。また同時に進化している地球と他の諸生物との無限の連関をもっている。ミジンコ学者はこの成果と連関を発見し、知識として蓄積し、その知識に基づいて科学的な推論や仮定を行い観察や実験を行う。すべての自然科学がそうであるように、現実そのものの無限性が神秘といわれ、独自の詩情を持って科学者のみならずあらゆる人々の心を引きつける。自然科学の発展は今後すべての人に対して一層このような力を発揮することになるだろう。
 したがってミジンコとクジラ、カメ、白鳥、馬等を結び付けている主観の自由はそれをおこなう主観とそれを認める一般的無知によってはじめて保証されていることになる。現実と掛離れた連関は、人々が正しい連関を知らない時豊かな空想といわれ、知識の広がりによってこじつけ、たわ言と呼ばれるようになる。豊かな空想とはミジンコ学者の場合、正しくは現実の客観的連関との一致である。一致する能力を欠いている、つまり現実にたいして無知である時に、自由な主観的な空想は客観性の欠けた平凡な退屈な愚にもつかない、突拍子もない世迷い言という意味になる。つまり自然科学者は自然の法則を研究するのであるから科学として客観的法則に制限されている。客観的法則をより正確に反映する時より正しく豊かで独創的で自由である。法則から外れる場合は逆である。
 しかし、まだ問題が残っている。ミジンコをクジラや亀や馬に結びつけるのが、無知ゆえの貧しい空想であることは誰にでも分る。これはミジンコやクジラや亀や馬について、我々が多くの知識をもっているからであるし、最初にあげた例が単純すぎるからでもある。芸術の場合自然科学的法則に(描く手段は別として)内容は制約されないことを誰でも知っている。ゴーゴリの小悪魔は月を盗んで懐にしまい込むし、ファウストの魔女はほうきにのってブロッケン山に集まってくる。民話、童謡には自然科学に反する展開がいくらでもある。描き方によっては(これが問題である)ミジンコが亀になって角と羽根が生えた馬に乗って歩いてもなんら不自然ではない。何故なら芸術は自然科学ではなく、自然法則を内容にしているのではないからである。直感の対象となる全てを材料として社会法則を反映するのが芸術の目的であり、社会法則が内容、価値であるから自然科学の観点から内容を批判することはできない。自然科学的常識として直感の一部分に浸透し、芸術家や鑑賞者の意識に浸透する。しかし材料をどのように組み立てるかは、まったく作家の創造力によるものであって、その方法を制限することは出来ない。
 自然科学的なあるいは社会的常識に反している場合でも、何故人々は民話や童謡に不自然さを感じないのか?例えば「裸の王様」のように裸で馬に乗って歩く王様が現実にいるであろうか。こんな王様がかつても今後もいるはずのないことは誰にでも分っている。しかし没落期の愚かな王様が新しい着物を見せびらかすことだけを楽しみにするようなことになることは、誰でも知っている。いかさま師が織る見えない糸は作家の素晴らしい独創である。見えない糸で織るから社会的関係が透かして見える。この糸は正直者の大臣には見えない。自分が馬鹿者であることはしられてはならんし地位に相応しくないからである。人のいい役人も同じである。王にとって馬鹿であることはさらにふさわしくない。これ以上悪いことはない。えりぬきの御共にしても王に見えるものを見えないという必要はない。彼らはいづれも愚かでありそれぞれの地位に相応しいやり方で賢さを装っている。着物を見せびらかすことだけを楽しみにしている王の臣下では賢いことは地位に反する。彼らは賢さによって地位を得ているのではない。だから王も臣下の目によって、臣下も王の目によって真理を確めることは出来ない。王の専制的意志が裸で馬に乗るという必然的流れを作っている。そして王の地位に関係のない子供がまず何も着ていないといい、その言葉が民衆に伝わっていくのである。ありもしない糸を見えない糸と思う意志は王の意志であるという内容規定を持っており、沢山のニュアンスによってその必然を飾っている。王は王としての恥をかくのである。王には王の貴族には貴族の、ブルジョアにはブルジョアの、農民には農民の、労働者には労働者の各々の弱点があり知恵がある。
 このような作品が想像力溢れる作品と呼ばれる。ニュアンスの多様性は無限であるから単純化してはならないが、どのような作品であろうと社会法則の反映の深さによってそのレベルが計られる。民話は人民の厳しい生活から生れる叡智によって、作家は天才によってそれぞれ独特の方法で社会的本質を反映している。それを単に素朴と考え、子供はなかよくしなければならないとか木を切ったら洪水になるといったふうの平凡な教訓を、子供を馬鹿にした幼稚な言い方で表現して読ませる最近流行っている大人の道楽は子供にとっては退屈で迷惑な話である。あるいは無闇に自然法則をぶち壊すことが前衛的と考える詩人や画家も多い。自由な形式で社会法則を表現するアンゼルセンやピカソの天才はなかなか出て来るものではない。
 以上のように芸術もまた客釈的法則から外れることは無知で平凡で下らない作り話にすぎなくなる。自然科学と違うのは芸術の従うべき客観的法則は社会法則だということである。
 従って今度は芸術的空想が自然科学の分野に足を踏込んで恥をかくように、自然科学的精神が社会的法則に足を踏込んで恥をかくこともある。数学者は自分が数学においていかにすぐれていても生物学的な著作を出版しようとは思わないだろう。生物学について一般的価値のある内容を書くほどの力を持っていないと判断できるからである。ところが数学と生物学というおなじ自然科学分野での学問的距離よりも、もっと大きな本質的な違いのある社会法則をあつかう学問分野については日々の経験や時々の感想をまとめることで何か一般的な価値をもつと考える。ただしこれは自然科学者の責任ではない、社会法則を扱う精神が専門的な自然科学者の手におえないと思われる程の仕事をしていないからである。日本の社会的精神の常識のレベルが低すぎるからである。
 以上のことを簡潔に述べたのが次の文章である。

 人が無知識であればあるほど、すなわち、考察の対象の具体的な緒関係を知ることが少なければ少ないほど、あらゆる空虚な可能性の考察に耽りたがるものであって、例えば、政治の領域においては素人政論狂がそうである。さらに実際生活においても、悪意や怠慢が、責任を逃れるために、可能性というカテゴリーの後ろに身を隠しことが稀でないが、こうしたことについては、先に理由の原理の使用について注意したのと同じことが言える。理性的で実践的な人間は、それがまさに可能であるにすぎないという理由によって、可能なことなどに心を動かされず、あくまで現実の物を堅持する」(「小論理学」岩波文庫下巻87頁)

 ヘーゲルのこのような簡潔な言葉をわざわざミジンコで薄めてひきのばして説明したのは啓蒙のためである。自分が特に社会を対象とした分野でミジンコが亀になるというような恥さらしをせず多少ともまともなことを理解しようとするなら、ヘーゲルを読むとよい。へーゲルの著作にはこのような有意義な言葉が体系として述べられている。くり返し読めば社会の分野での無知な空想に陥らずにすむようになる。(と思われる)

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