『妄想』-2 (明治44年3月) 

 
 只奮闘してゐる友達には気の毒である。依然として雰囲気の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに喘ぎ苦んでゐる。雰囲気の無い証拠には、まだForschung といふ日本語も出来てゐない。そんな概念を明確に言ひ現す必要をば、社会が感じてゐないのである。自慢でもなんでもないが、「業績」とか「学問の推挽」とか云ふやうな造語を、自分が自然科学界に置土産にして来たが、まだForschungといふ意味の簡短で明確な日本語は無い。研究なんといふぼんやりした語は、実際役に立たない。載籍調べも研究ではないか。
 奮闘している友達は高圧の下で働くことを選んで、それを自分の人生としているのだから、保守的な出世主義者が気の毒がるには及ばない。彼らには彼らの矛盾があり成果がある。それは出世に邁進して出世した鴎外にも多くの矛盾と成果があったのと同じである。鴎外が気の毒がっておられるのは視野が狭く、出世すること以外の人生を認める事ができないからである。鴎外は「真の研究」をしていないし、「真の研究」をしている世界を何も知らない。鴎外が「真の研究」と関係を持つのは、わずかに語学的な知識を介してのみである。「自慢でもなんでもないが」とただし書きをしているがこれだけでは自慢になる。自然科学界の状況を鴎外が関わる一つの造語で代表させるのは馬鹿げたことである。
 奮闘する自然科学界を気の毒がる鴎外には奮闘する気がない。奮闘しないことを思想的に肯定する努力をしていて、そのための理屈が雰囲気がないという長たらしい説明である。そして、その雰囲気の中で自分の才能を延ばせなかったという得意気なグチである。遅れた日本ではすべての分野で遅れた条件の元で研究しなければならない。「依然として雰囲気の無い処で、高圧の下に働く潜水夫のやうに喘ぎ苦んでゐる」かもしれないし、実際にそうであるが、いい雰囲気ができるまで待つことは出来ない。いい雰囲気を造るにもまず「高圧の下に働く潜水夫のやうに喘ぎ苦んでゐる」必要がある。しかし、鴎外は、「真の研究を」するにはそれなりの雰囲気が必要である、ということが「真の研究」をしないことの理由になると思っている。官僚的な出世の努力だけをした後に「真の研究」ができなかったのは残念だと後悔している。「真の研究」のために出世を諦めるという選択は、「真の研究」をするほどの能力を持たなかった鴎外だからできたことである。「真の研究」をする能力はあったが、事情のためにできなかった、というのは虚勢である。「高圧の下に働く潜水夫のやうに喘ぎ苦んでゐる」友達はその努力に応じた成果を残したであろう。「真の研究」をしなかった鴎外もそれなりの業績を残した。この作品もその一つである。
 鴎外は、「真の研究」をする才能も資質も持っておらず、チャラチャラした社交界で目立つことや官僚世界での出世を人生の目的にしていた。それはいやいやながらの選択でもなく、やむを得ない選択でもなく、能力と資質のすべてをかけた目的であった。その目的を果たした後に、これ以上のこともできたのだが、と後悔するのは出世主義者の甘い道楽である。鴎外にも保守的な官僚の出世を露骨に誇る事はできない。だから、鴎外は今の自分を否定する形式で、しかも否定にならない形式で否定することで自分の立場を肯定している。これは「舞姫」以来の方法である。順序を逆にして本来の言い方をすれば、官僚的な出世のために大いに努力して望みを果たした、学者的な仕事もやろうと思えばできたのだが、自分の能力を十分に延ばすための条件がなかったからからやめにした。自分に才能がなかったから官僚になったわけではない。どちらもできたところであるが、結局のところ自分はいい選択をした。気の毒な無駄な努力をせずにすんだのは自分がどちらもできたし、日本の雰囲気について深く理解していたからである、それは現状を見れば、結果を見ればすぐにわかる、という意味である。
 「真の研究」をするためのもっとも重要な条件は、社会的にそれが期待され受け入れられるかどうかであり、その雰囲気は十分にあった。物質的な条件が悪いことを理由に「真の研究」ができなかったというのは、「真の研究」をする意志と能力がなかったということである。実際、コッホの衛生試験所に入ったときに、下水の汚水を触るのを嫌って命じられた仕事をしなかったという鴎外らしい言い分である。手を汚さずに、いい雰囲気で一体どんな「真の研究」ができるというのか。自分の人生についてこんな無能な反省を公表して自分の無能を披露しているのは、官僚でありながら作家でもあった身の不運である。
 かう云ふ閲歴をして来ても、未来の幻影を逐うて、現在の事実を蔑にする自分の心は、まだ元の儘である。人の生涯はもう下り坂になつて行くのに、逐うてゐるのはなんの影やら。(p136)
 これも繰り返しである。なにを反省し、なにを煩悶しているのか書けないために形式的な反省を繰り返すことになる。鴎外は「現在の事実を蔑にする自分の心」と書いても現在の事実が否定されることはなく、現在の事実の上に、現在の事実を否定している高い自己が積み重ねられるだけだと思っている。具体的に否定していないことで自己を肯定できると思っている。しかし、自己を具体的に否定できないことこそ無能である。人間の精神の発展は、現在の精神を具体的に否定することによってである。現在の事実を丸ごと「蔑にする」ことは否定ではない。鴎外には否定する意志がなく、肯定できるようにのみ否定する。具体的に否定しないことは、現状への無批判性であり、保守性である。漱石は具体的に否定することができたが、それには天才がいる。鴎外は、「蔑にする」ことが否定することにならないことを知ることはできても、それが無能の証である事を知る事はできなかった。
 自分が求めていると主張しているものについて、「なんの影やら」というのはおとぼけである。「逐うてゐる」のも「逐うて」きたのも出世であり、それが得られて呑気な苦悩を披露することである。他のことではなく、出世のための努力を怠らなかった。「逐うてゐるのは何の影やら」と書くのは「逐うてゐる」ものを得た満足である。何の努力もせずに、出世以外の何かを追っている自分を表現する事はできない。それができると思うのが妄想である。鴎外はゲーテの言葉を自分の妄想によって理解している。ゲーテは鴎外のような妄想を持たなかったばかりでなく、鴎外が引用した言葉によって、こうした妄想に陥らないように注意している。
 「奈何にして人は己を知ることを得べきか。省察を以てしては決して能はざらん。されど行為を以てしては或は能くせむ。汝の義務を果さんと試みよ。やがて汝の価値を知らむ。汝の義務とは何ぞ。日の要求なり。」これはGoetheの詞である。
 鴎外は書物的な知識としてゲーテを知っている。しかし、この引用のすぐあとの文章は、鴎外がこの文章の意味を理解していないことを示している。
 自分が何であるかを省察によって知ることはできない。行為によって自己を対象化し、それによって自己を形成するとともに自己のなんたるかを証明し、自己を知ることもできる。愚かしい抽象的な煩悶や自己満足に満ちた妄想に身を任せていては堕落するだけであるし、自分を優れた精神として映し出すこともできない。自分の義務を日々果たすことで自己を形成し、自己を刻印し、自己を知ることが出来る。これは、「花子」で引用されていたロダンの言葉と同じ意味の言葉である。しかし、私生活と出世のためには几帳面であったとはいえ、思想的にはなまけものであった鴎外には、ロダンの言葉の意味もゲーテの言葉の意味も理解できない。
 日の要求を義務として、それを果して行く。これは丁度現在の事実を蔑にする反対である。自分はどうしてさう云ふ境地に身を置くことが出来ないだらう。
 日の要求に応じて能事畢るとするには足ることを知らなくてはならない。足ることを知るといふことが、自分には出来ない。自分は永遠なる不平家である。どうしても自分のゐない筈の所に自分がゐるやうである。どうしても灰色の鳥を青い鳥に見ることが出来ないのである。道に迷つてゐるのである。夢を見てゐるのである。夢を見てゐて、青い鳥を夢の中に尋ねてゐるのである。なぜだと問うたところで、それに答へることは出来ない。これは只単純なる事実である。自分の意識の上の事実である。
 自惚れた自己満足と俗物根性が露骨にでた文章である。鴎外はゲーテの言葉を理解できないために、自分がゲーテの境地に身を置くことができないことを告白して自己を肯定できると思っている。
 日の要求を義務として果たせというのは、無駄な反省に時を費やしてはならない、ということである。しかし、鴎外は繰り返し無駄な反省に時を費やしている。そしてゲーテの言葉を、たんに、不満を持つかどうかという心得として理解している。
 「日の要求に応じて能事畢るとする」とゲーテは言っていない。義務は抽象的に掲げられ求められるのではなく、日々具体的に実践的に果たせ、ということである。義務を忘れて日々の生活に埋没せよということではない。しかし、鴎外はそう理解しているばかりでなく、そこに満足すべきだという独特の解釈をしている。満足という主観の形式をゲーテは問題にしていない。鴎外の感覚では、理想や義務と日常性は対立する。したがって、「足ることを知らない」、「永遠の不平家」は現実性、日常性とちがった遠い義務を重んずることになる。現在に満足せず、高邁な思想、目的を追い求めるという意味になる。そう解釈しているから自分を「永遠なる不平家」と称している。」常に不満がたまっているという意味では鴎外は「永遠の不平家」であった。創造的な仕事の満足はありえなかった。鴎外は、「自分のゐない筈の所に自分がある」と考えることが、高邁な理想を求める自己である、と考えている。鴎外には、こうした妄想は理想や普遍性を知らないことを意味していることを理解できない。
 こうして、青い鳥を夢見ていることを繰り返し主張されて来ると、この鳥がどこに留まろうとしているのかが自然にわかって来る。ゲーテの言葉を、この高邁な、理想を追い求める苦悶をやめて、日常に満足し、足るを知るべきだ、という当為の意味に理解することで、自分の不満を高邁な理想を求めていることだ、と解釈しようとしている。不真面目な「あそび」を楽しく仕事をやっていることがそう見えるのだと解釈したのと同じで、自分の不満は、高いものを求めているからなのだ、と解釈しなおそうとしている。高邁な理想を追い求め、苦悶を経験した、と書いてもそんなものはなかったから具体的に描く事はできないので、無目的で無理想な日常性を自分の到達し難い理想として掲げる事で、高邁な理想を求める苦悶を印象づけようとしている。官僚の出世主義的日常と、無内容な思想ないし理想の両方が肯定される。不平と不満にみちた、「あそび」といわれる不真面目で横柄な生活がなんと見事に粉飾されたことか。
 謎は解けないと知つて、解かうとしてあせらないやうにはなつたが、自分はそれを打ち棄てて顧みずにはゐられない。宴会嫌ひで世に謂ふ道楽といふものがなく、碁も打たず、象棋も差さず、球も撞かない自分は、自然科学の為事場を出て、手に試験管を持たなくなつてから、稀に画や彫刻を見たり、音楽を聴いたりする外には、境遇の与へる日の要求を果した間々に、本を読むことを余儀なくせられた。(p136)
 知的で教養的な生活をしているにしては、辻褄の合わない事を平気で書いている。謎が解けないと知ったのならその謎は解けたのである。しかし、知ったと書きながら、解けない事の証明を書かないのは、知っていないからであるし、知るという事自体が何かを知らないからであるし、実は謎がどこにもないからである。解けないと知って、あせらないとか、顧みずにはゐられない、というのは、謎を知らず、謎が解けることの意味を知らないからである。謎がと解ければ、謎は積極的に対処されたのであるから、こうした意味不明な曖昧な感慨は残らないであろう。解こうとしてあせらないのは、解く必要がないからで、それは解く必要の或る謎を発見する能力がないからで、つまりは抽象的な疑問をなげることが高度であると思っているからである。鴎外は謎を解いたことはないし解こうとしたこともないし謎を持った事もない。自分の表面的で経験的で常識的な意識をそのまま正しいと信じて、小理屈やごまかしや地位の力で押しつける努力をしただけである。だから「謎は解けないと知って」などという愚かしい文章を書くのである。
 こんなつまらないことを書いて、それに自分の死についてしんみりしたようなことを付け加えて、その上でまた退屈な繰り返しである。鴎外は死について考察しているのではなく、死を弄んでいる。しかも、ゲーテの言葉を使って、「境遇の与へる日の要求を果した間々に本を読むことを余儀なくせられた。」などと往生際の悪いことを書いている。これは、自分は官僚としての義務を果たした上に、「碁も打たず、象棋も差さず、球も撞かない」で読書をした、ということである。つまり、官僚の世界でも、文壇世界でも、家庭でも、不真面目だといわれたことへの回りくどい弁明である。鴎外の書いている通り、鴎外は遊ばずに仕事をして読書をした、そのことは誰でもよく知っている。その上で不真面目だといわれている。それが何故かこそ鴎外の抱えた謎であったが、鴎外は正面からこの謎を突きつけられているのにその謎を知る事さえできなかった。それを知る事ができないのは、その謎を解く能力がなかったからである。
 ハルトマンは人間のあらゆる福を錯迷として打破して行く間に、こんな意味の事を言つてゐた。大抵人の福と思つてゐる物に、酒の二日酔をさせるやうに跡腹の病めないものは無い。それの無いのは、只芸術と学問との二つ丈だと云ふのである。自分は丁度此二つの外にはする事がなくなつた。それは利害上に打算して、跡腹の病めない事をするのではない。跡腹の病める、あらゆる福を生得好かないのである。(p138)
 「跡腹の病める、あらゆる福を生得好かない」のは鴎外の作品を読めば分かる。官僚としての出世も学問も芸術も、鴎外にとってはそれ自体が目的ではなく、常に何らかの手段であり、その実現で充実を得て幸福を感じることもなかったようである。それは、自分の名誉のためか、森家のためか、体面のためか、家族の生活のためか、その目的ははっきりしないにしても、何らかの義務のような、自己を統制する何かのために精進したのが鴎外の人生である。鴎外は出世のためにあらゆる努力をし、あらゆる手段を尽くしたが、それにもかかわらず、自己の幸福や自己の快楽を追求するという形式でなく人生を生きた。そこに幸福を見いだすことはなかった。常に自分がしていることを他人に対してと自分に対して説明し弁明する必要を感じておりその努力の連続であった。しかし、だからといって、それは鴎外が外的な力に強制されたのではないし、何か偉大な目的のために、なにか一般的な義務のために生きようとした人生が、境遇のために歪められて、本来の「真の研究」を奪われてしまったということでもない。それは日本における保守的な官僚の出世主義に伴う典型的な感情の一つであって、鴎外が追求した地位や思想が歴史的な必然と対立しており、本当の充実を与えなかったということである。鴎外は社交的な成功や名誉や体面を求め続けた。しかし、鴎外の出世や文学的な成果が、鴎外の求めるほどの名誉や地位を与えなかった。鴎外の望むものと得たものとの間に常にギャップがあり、常に不満に満ちていたとしても、それは鴎外の精神の高さを示すものではない。逆に、鴎外が、歴史の発展に対立する精神と欲望を持っていたことの結果であった。
 鴎外は不満の多い自分の人生を自分の偉大さの故であるかのように解釈してみせている。臆病な絶え間ない自制に満ちた労苦の多い人生をあり得た使命を諦めざるをえなかった運命として映し出そうとしている。誰でも、自分の快楽のため、幸福のために生きるのではないし、そのように生きられるものではない。鴎外が幸福を味わうことなく、義務の観念によって自己を統制し、禁欲的に生きたとしても、それが優れた精神の証にはならない。鴎外の人生は、成果のない際限のない不満に満ちていたが、それは出世のため、保身のためにすべてを犠牲にした結果である。だから、出世の果実以外には満足も幸福もあり得なかった。臆病に、自己保身的に出世を追求することが、「あらゆる福を生得好かない」という言葉の意味である。この自己保身が陰気で偏狭で不満に満ちた個性をつくりだした。
 鴎外は「ヰタ・セクスアリス」では、自制的な性格のゆえに自分が勝ち残ったと描写していた。それが果実である。そして晩年にいたって、不満に満ちた空虚な精神の姿がはっきりしてきた。これも自己保身的な出世主義の果実である。そして、その空虚な精神が、現状以上の業績を残すことができたはずであるのに、それができなかった、という妄想を生み出している。これも臆病で自制心と几帳面さが取り柄であった出世主義の果実である。自分が深い苦悩を持ち、やるべき仕事があったはずだ、という妄想は、几帳面に出世を追求してきた平凡な官僚の平凡な妄想である。
 鴎外はこの作品で人生を問題にし、死をも見据えているようなことを書いている。人生の終りが見えて来るにあたって、思想に携わる人間として最後の力を振り絞らなければならない年齢になって、自分がいかに沢山の本を読んだかを数え上げ、何かやるべきことがあったはずだという感慨を楽しむのはあまりに不真面目である。
 冷澹には見てゐたが、自分は辻に立つてゐて、度々帽を脱いだ。昔の人にも今の人にも、敬意を表すべき人が大勢あつたのである。
 帽は脱いだが、辻を離れてどの人かの跡に附いて行かうとは思はなかつた。多くの師には逢つたが、一人の主には逢はなかつたのである。
 鴎外は空虚な反省ばかりする。読書をして、敬意を評する人が沢山いた。それはそうであろう。読書の中で「師にはあったが一人の主」にもあわなかったというのは、意味ははっきりしないが、そういうこともあろう。しかし、日本に学問をする雰囲気がないとか、読書をしても主にめぐりあわなかったとか、「真の学問」をしない理由になりもしないような愚痴をこぼし続けるのはなぜであろう。雰囲気が悪くて、主と呼べる著書にあわないことが、「真の研究」をしない理由になって、そのためにあり得た偉大な人生を失ってしまったと嘆く権利が生まれると思っているのだろうか。しかも、こうした人生の嘆きのような愚痴のようなことが、自分のかつての論争についての弁明の手段として使われている。愚痴を言うかと思えばすぐさま強引な弁解をする。自分の人生についても、自分の論争についても、結局正確にどころか、多少とも真摯に認識することができず、強引に、意地づくで偏見に満ちた解釈を下し固執し続けた。この作品もその努力の一つである。虚飾的な自己満足さえこうした無理な弁解なしには味わえない性格である。
 鴎外は、ここですべての思想家より自分の求めているものがすぐれている、自分は従来のどのような思想にも満足できないほど高度あるいは広大である、といいたいのかもしれない。これも無知である。従来の思想に満足できない事が、より高い精神を意味するなら、より高い内容を持っているであろう。満足できないから何もしなかった、というのは嘘である。何もしなかったということだけが事実である。鴎外が書いているこんな感慨は、何も本を読んでいなくても書ける。私はどんな物にも満足できないほど高度であったと主張するのは高度の精神ではなく、無知である。
 それは兎に角、辻に立つ人は多くの師に逢つて、一人の主にも逢はなかつた。そしてどんなに巧みに組み立てた形而上学でも、一篇の抒情詩に等しいものだと云ふことを知つた。
 「知った」と書くが、せっかく知ったのにその知った内容を書かないのは、知ったのではないからである。知っていれば「知った」と書かずに、その「知った」内容を書く事に関心が向くはずである。鴎外には何についても単純に「知る」ことが愚かしいことだということがわからない。苦悶だ、人生はわからない、などといいながら単純に「知る」とも書いている。何もかもわかっているという言いぐさであるが、それは何も理解しなかったということである。
 次はニイチェが出て来る。よくこんな平凡で常識的な思想にいろいろといろづけをするものである。しかも、ニイチェの思想にも総括的に、評価すべきところもあるが、この点は受け入れられない、などと、あたかもなにもかもわかっているようなことを書いている。「自分は一切の折衷主義に同情を有せないので、そんな思潮には触れずにしまつた。」とこれもまたなにもかも理解し尽くしたかのような書きぶりである。自分の知った哲学者の名前を挙げては、数行で内容についての断定を下している。思想的な伝統のない日本によくあるいいかげんな放言である。
 昔別荘の真似事に立てた、膝を容れるばかりの小家には、仏者の百一物のやうになんの道具も只一つしか無い。
 それに主人の翁は壁といふ壁を皆棚にして、棚といふ棚を皆書物にしてゐる。
 そして世間と一切の交通を絶つてゐるらしい主人の許に、西洋から書物の小包が来る。彼が生きてゐる間は、小さいながら財産の全部を保菅してゐるNotarの手で、利足の大部分が西洋の某書肆へ送られるのである。
 これは一つの生きかたであり、趣味である。世間と交通を絶っていて、壁に書物を並べて西洋から書物が送られて来るのが鴎外の趣味である。こうして本を読んで、普通の人間に読めない西洋の本を読んで、自分が優れているという妄想を育てるのが鴎外の趣味である。趣味であって、人生についての知でもないし、深刻な苦悩でもない。本を集めて別荘のようなところに住んで、生きているうちに、自分にはやるべきことがあったはずだができなかった、という感傷に耽るのは平凡な趣味であ知る。こうした妄想や、妄想を生み出す社会とは何かを考察するのが思想である。しかし、それは鴎外にできることではない。そうした反省のためには深刻な自己否定が必要であるが、それは自己保身を至上として鴎外に全く縁のない、考え及ばない精神のありかたであった。
 主人の翁はこの小家に来てからも幻影を追ふやうな昔の心持を無くしてしまふことは出来ない。そして既往を回顧してこんな事を思ふ。日の要求に安んぜない権利を持つてゐるものは、恐らくは只天才ばかりであらう。自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云ふ境地に立つたら、自分も現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかつた。それでかう云ふ心持が附き纏つてゐるのだらうと思ふのである。
 これもまた訳の分からない文章である。「日の要求に安んぜない権利を持つてゐるものは、恐らくは只天才ばかりであらう。」というのは、天才は日の要求に安んぜないで、永遠ばかり見つめていて、それが立派な事だと言うことであろう。ゲーテの言葉は何の為にあったのか。天才が遠い未来のことばかり考えて「日の要求」をないがしろにするのはなまけものの弁解だということである。考える未来が遠く高いほど「日の要求」を日々こなさねばならない。そこには満足も有り、不満も有る。しかし、満足があっても不満があっても、いづれにしろ崇高な義務を果たすには崇高な義務を、崇高な義務として追い求めるのではなくて、日々の要求として、実践的に追求すべきだということである。
 鴎外は若い時代から空虚な理想を掲げることが高度の思想だと考えていた。しかもその理想の内容を考えることすらしなかった。だから現実生活と理想は分離されている。鴎外は、ゲーテのいう日々の要求を、義務や理想や目的と切り離して、たんに日常生活を几帳面に生きるという、鴎外がやってきた人生を肯定する意味に解釈している。ややこしい書き方をしているが、実際はただ、歳を重ねて、定年や死を視野に入れ始めた年齢にふさわしい形で自己のあるがままを弁護し、肯定しようとしているだけでである。そして、理想と現実を分離している鴎外の思想の必然として、鴎外が自分がしっかりこなしてきたと考えている現実生活だけに満足しているわけではなく、常に理想や一般的義務を自己内に持ち続けている、ということによっても自己を肯定しようとしている。しかし、ゲーテの言葉が鴎外の意図を否定している。鴎外は理想や義務を掲げながら、それが何であるわからないし、それがなんであるか理解しようとする意志もないし、したがって、日々の欲求において理想や義務を果たしていこうという意志をまったく持っておらず、もっぱら愚痴っぽい自慢げな反省を楽しんでいるからである。鴎外の言葉が正しいなら、天才でない人間はみんな鴎外のような心持ちにつきまとわれるであろう。しかし、普通は、天才的な仕事ができなかった、と悲しむほど不真面目な自負心は持たないものである。晩年になって、自分が天才でなかったことを悲しんだり責めたりして見せるのは虚栄である。
 少壮時代に心の田地に卸された種子は、容易に根を断つことの出来ないものである。冷眼に哲学や文学の上の動揺を見てゐる主人の翁は、同時に重い石を一つ一つ積み畳ねて行くやうな科学者の労作にも、余所ながら目を附けてゐるのである。(p141)
 ということは、「自分にはそれが出来なかつた」というのは、単なる挨拶だったのか。「冷眼に哲学や文学の上の動揺を見てゐる」というのは、哲学や文学の動揺を上から見下ろすことのできる境地に自分が到達している、ということであろう。こういう文章は、鴎外が日々努力した出世の果実である。官僚としての地位がなければ、これほど不真面目で傲慢な感想を持つ事はできないであろう。しかも、そこに無能があられわれおり、実際は厳しい人生である。「哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出す」天才だけでなく、日々の努力をしておりしなければならない人間なら、こうした愚痴をこぼす暇もなく、義務を果たす為に日々の要求に従うであろう。冷厳に高見から見下ろしてお高く留まっていることができるのは文章を書く高級官僚だからである。誰もが、限られた人生では決して果たすことのできない課題を抱え込んで課題の実現に日々追われるであろう。こんな反省に時間を費やし、こんな反省を思想的な成果であるように披露し拘泥するのは切実な課題を持たず、持たなくて済む境遇にいるからである。鴎外が、本来の果たすべき義務があったと思われるのにできなかった、というのは、理由は別として結果としてはその通りである。しかし、鴎外の深刻な無能は、自分が何事もなさなかったことを理解していないことである。自分は何もできなかったと表明していても、それを明らかにする必要を感じていないから、それは嘘であり、この反省が無能である。
 鴎外はこの妄想が自分の優れた精神のあり方だと思っている。しかし、これは平凡な妄想である。鴎外は、この妄想があまりにも平凡で、公表するのが恥ずかしいくらいに平凡で、怠け者が自分を飾るときに使う平凡な妄想であることを知らなかった。鴎外がこうした愚かしい行為をあえてするのは、官僚の高い地位のために、自分の思想について真面目な反省をする必要に迫られなかったからである。鴎外は保身的に臆病であったが、全力で出世を追求し、それを得たために、こうして下らない思想を小説に描く事ができる境地に到達したのである。

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