4. 中村光夫氏の批評 1


   b 中村光夫氏の批評

 「浮雲」がすぐれた作品であることは歴史によってすでに判定されている。批評の役目は時間による判定を言葉による判定に翻訳し、読者の直観によるアイデアの把握を理論的把握によって補足することである(1)。  
 (1)従来の批評は「浮雲」を失敗作と結論づけている。歴史の判定に異議をさしはさむ勇気は敬意に値するがこれも実は歴史がしつらえた役所である。「浮雲」と批評の関係に、歴史が自己を織る巧みな技を見ることができる。
 アイデアの論理的把握とは、対象の基本的矛盾を発見し、その矛盾の発展が描く軌跡を規定することである。しかし、すべての対象は無限の対立を内包している。例えば「浮雲」に封建的と近代的、旧思想と新思想、エゴイズムとヒューマニズム、善と悪、アポロ的とデイオニソス的、男と女、等々の対立を発見できる。また、対象も対象の部分も無限の側面を持つのだから、任意の対立を基礎にして作品の内容を一つの構造物に組立てるのも容易な作業である。したがって困難は、無限の対立の中から基本矛盾を抽出し、安易な主観的構成の誘惑を厳しく排除し、諸対立を基本矛盾の発展の契機として位置づけることにある。これが弁証法の核心である。
 思想の力とは対象自身の運動に従う能力である。対象に沈潜できないかあるいは欲しない場合は思想が弁証法の支配をうける。非本質的対立を基礎にした恣意的構成は、主観の必然だけを表現する。「浮雲」のアイデアをどのような対立として規定し、どのような構成物を組み立てるかが批評自身の能力と階級性を表現することになる。
 「浮雲」に含まれる内容の対立は数多く発見されているが基本的には二つの系列に分けることができる。中村光夫氏の倫理と現実、稲垣達郎氏や小田切秀雄氏の官僚機構と文三(の自我)の対立である。無限に発見しうる対立が、この二つの系列に収束するのは理論的必然である。
 中村氏の基本的主張は次のようなものである。
 「正直の理想」はたんに文三の性格の根底を貫いているのみではない。この「理想」を離れて彼にとって生きる道は存在しないのだ。言いかえれば彼のこの理想以外に彼を支える何等の「性格」をも賦与されていない。彼はただ作者の「正直の理想」の体現として、「開豁」なお勢に対しては「朴茂」であり、「卑屈」な本田に対しては「高潔」であり、「我慢勝他が性質の叔母のお政」に対して「篤実温厚」であるにすぎないのだ。したがってこうした人物が作中に人間として現れて他の人物と交渉するとき、当然「正直なる」理想に浮かされて自己の性格を紛失した性格破産者として行動するほかない。(中村光夫『二葉亭四迷論』新潮文庫・昭和三四年 98頁)
 かくて彼にとって自己の思想表現とは直ちに「真剣な科学者的人生報告」と化したのだ。言いかえれば彼はここに自己の理想を説いたのではない。彼はただその「理想」が現実に生きるままの姿を「浮雲」という実生活にない純粋な「実験の場」を通じて見究めたかったにすぎぬ。文三はいはばこの「実験の場」に設定された彼自身の倫理思想にほかならない。(同100頁)
 しかも彼は不幸にして、自己の文学的出発に際して強いられたこの苦悩に満ちた闘いに際して、たんに周囲の文学的伝統から全く孤立していたのみではない。如上の作業に必要な「思想」として唯自己の素朴な倫理を持つのみであったのだ。
 彼は文三なる人物にただ素朴に自己の倫理思想を設定するほかはなかった。言いかえれば彼は文三の創造に当たって、己の倫理そのものの「一般性の外貌」に頼ることを強いられたのだ。(同108頁)
 中村氏は道徳的批判の立場を批判し、その無力を克服することが「浮雲」の意義であるという前述の結論とまったく逆の結論に達している。同じ作品からこれほど対立的な結論が導きだされるのは単純に見える「浮雲」の構成が非常に複雑な歴史的変革期を反映しているためである。評価の難しさは第二篇の描写にあるが、特に第十一回で昇と文三がお勢の目の前で直接対立する場面に鋭く表現されており、中村氏もこの場面に注目している。
 第九回のはじめから、文三の独演についていき、彼と一緒に本田の侮辱をうけ、外出して、もとの同僚に会ったりした読者は、次の「負けるが勝」と題した章で、彼と昇とがお勢を眼前において争論する場面に立会います。
 しかしこの場面の二人の口喧嘩は明らかに文三の負です。昇は文三よりずっと大人で終始冷静を失わず、怒りにまかせた文三の議論を一々正確に反駁するだけでなく彼自身も意識しない文三の感情の正体も誤りなく指摘します。(中村光夫『二葉亭四迷伝』 講談社・昭和五一年1。9頁)
 対立の後の文三を四迷は次のように描いている。
 文三は何と駁して互いか解らなくなッた、唯ムシャクシャと腹が立つ。風が宜ければ左程にも思ふまいが、風が悪いので尚一層腹が立つ。油汗を鼻頭ににじませて、下唇をかみ締めながら、暫くの間口惜しさに昇の馬鹿笑いをする顔を疾視んで黙然としていた。(第一巻 99頁)
 四迷はこのように文三の負けを描いている。そして「しかし、…明らかに文三の負けです」と評価する中村氏と対立的に、明らかに文三の負けを描いた場面に「負けるが勝ち」と題した。四迷の素晴らしいセンスが結びつけた勝ちと負けは、複雑な歴史過程の中で実際にイコールで結ばれている。
 第二篇での文三の負けが勝ちとなるのは、第二篇の文三の道徳批判の立場が、立場として否定さるべきだという四迷の視点による。四迷のこの思想は高度の歴史理論によってはじめて理論化しうるのであり、文三=四迷=倫理性と考える中村氏の頑迷な思想とどれほど対立的であるかは、中村氏が無前提に用いている倫理性や現実性という言葉自体の歴史的意味から説明しなければならない。
 昇の行動を俗物とか卑劣と感じるのは文三だけである。昇は自分を俗物とも卑劣とも感じていないし、お勢は活発と感じお政は如才ないと感じている。昇は出世を自分の能力として誇り、文三の批判を無能な人間のやせ我慢と感じている。もちろん能力という言葉で表現すれば、文三には昇の出世が道徳的批判能力の欠如と感じられるのである。
 この対立が、価値観の相違という意識上の対立にととまれば「大人」の論争によって、いづれかの正当性、あるいは第三の正しい見解に達することができるだろう。しかし現実にはこの価値観の相違について寛容であることはできないし、論争によって価値観の一致に達することもできない。
 昇は「事務外の事務」によって文三との競争に勝ち文三が免職になる。さらに出世を背景に園田家に登場して文三を孤立させる。文三は自分の利害を直接間接に侵害する昇の行動形式を俗とか卑劣と感じ、常にそのような行動をとる立場にいる者を俗物と呼ぶ。昇はこの敗北者に対する優位を自分の能力と呼ぶのである。昇が出世主義者だけを集めて俗物の王国をつくるわけにいかないし文三が誠実な人間だけを集めてユートピアをつくれるものでもない。昇の出世が文三の利害を文三に俗物と感じられる形式を取って侵害するように社会的関係が構成されている。彼らが分離されうるならそもそも俗物とか無能という対立的評価など生れないだろう。文三と昇は同じ現実の中で現実的利害において対立しあい、依存しあい、その中で互いに文三であり昇である。昇なしに文三はないし文三なしに昇はなく、したがって彼らの意識もまたこの関係の中でのみ生れる相対的意識である。
 道徳や信条や価値観は、単なる観念上の相違でも何らかの一般的真理を目指すための様々の見解でもなく、各々の利害から発生し利害を貫徹するための意識形態の一つである(2)。したがって軽蔑や無視や論争ですまされるものではなく、現実的利害での決着に至るまで理論的であれ感情的であれ、あらゆる形式での対立的意識が絶えず発生する。しかも昇のやり方が卑劣で俗であることが文三にとっていかに自明で自分の正当性に疑う余地がないとしても、それを利害の対立者である昇に理解させ論争に勝つことはありえない。昇は対立的利害にもとづいた対立的意識体系を持つからである。
 (2)道徳を表現する言葉は過去から受けついだ普遍的形式をもっている。しかしその具体的内容は各人の実際的活動にある。各人の追及する利害まで降りて行く時はじめて高尚な言葉の具体的内容を理解できる。
 もちろん現実的意識は様々に交錯しており、無数の妥協や決着がありうるが、「浮雲」には「言葉の言廻し、脚色の模様によりて」各々の利害を典型的に意識化した人物が設定されており、各々の意識を一般的意識として論ずることができる(3)。このような設定の中では文三は論争という意識上の対立によって、別の利害の上に立ち別の意識形態を持つお勢、お政、昇の意識を変革することはできない。ただ彼らの意識の基盤である立場=利害の変化によってのみ意識の変化も期待できる。そして現実の利害も意識も今まさに変化の過程にあり、彼らの意識を利害によって理解すれば文三の勝ちもその中に発見できる。
 (3)文三と昇の関係が様々の分野で多数繰り返されることによって、一般的利害の反映である一般的意識も形成される。昇の生き方を俗と感じるか有能と感じるかという一般的風潮も、文三一般と昇一般の現実的力関係や思想的力関係によって決定される。
 お政やお勢は昇との結婚による団子坂での成功を期待しており、昇との利害が一致していると思っている。だから文三には卑劣と見える行動が彼女たちには自分の利害を促進する能力と感じられ如才ないとか活発とか評価する。しかし、第三篇の文三が気付いているように、彼女達と昇の長期的・本質的利害は対立している。出世がお政やお勢の目をくらませるほどの力を持ち、お政が誉めるほどの如才なさが必要であるからこそ、昇は一層の出世のために「権貴な人を親にもった身柄の善い婦人」と結婚し、昇の出世に期待するお勢やお政を見捨て、出世の後には課長婦人の妹をも見捨てる。
 お勢もお政も昇が自分達をも如才なく活発に犠牲にするという現実的利害関係を理解できない。お勢との結婚によって生ずる出世の限界に、出世を最大の欲望にしている昇が満足することはありえないにもかかわらず、お政は自分が文三ほど愚かでなく世渡りがうまいと信じている。彼女達は昇に見捨てられることによってはじめて昇との利害、立場の違いをおもいしらされ、文三の運命がひとごとでないことに気付く。そして苦い経験の後に初めて昇のやり方を、如才ないとか活発とかではない別の言葉で表現したくなるだろう。幸福の幻想が破壊された後ようやく文三と同じように現実の利害関係に対する正しい認識を得る可能性を持つ。認識を得べき立場に立つことができる。歴史は、昇の社会的力を拡大しつつお勢やお政を没落させて大量の文三を生む。このような厳しい教育によって、文三的批判意識を一般的意識として形成していくのが歴史のやり方である。
 彼女達がこの苦い回り道を経由せずに自分の未来を知るにはお勢やお政の破滅が何百万回何千万回と繰返されることによって必然としての力を示し、昇と文三の分離対立が発展すると同時に、その必然を認識する能力が思想として形成されていなければならない。さらに彼女達が文三の立場に立つには、文三に昇と対立しうる現実的利害が確保されていなければならない。お勢やお政のような中間的立場が昇的傾向と文三的傾向のどちらを自分の未来と感じるかは、昇と文三の力関係にかかっている。すでに見たように、昇と文三の分離の未熟、つまりお政やお勢の没落が十分な規模に達していないことが文三の立場を弱くし、文三の道徳的批判意識を生み、お勢の軽薄=昇への無意識的従属を生むのである。
 お政とお勢は立場が確定されていないために、利害関係を正しく理解できず非現実的な意識を持っている。これに対して昇と文三はすでに立場が確定されておりお政やお勢より現実的であるが、この両者の現実性には大きな違い、あるいは対立がある。昇は出世のために必要な現実的手段を心得ており、実行する力を持っている。お政や中村氏の言う「現実的」はこの意味である。文三の立場は昇的成功の道を完全に断たれたことによって確定したのであるから、文三の現実性はお政や中村氏の言う現実性ではありえない。
 現実的であるとは、希望や幻想をすて現実に置かれた立場を正確に知り、それに基づいて行動することであるから、文三の現実性とはまず昇的出世がありえないことを知ることである。そしてこの立場はつねに昇的出世の力によって現実的利害を侵害される(昇の意図とかかわりなく)のであるから出世の不可能を前提した上でなお昇の出世が持つ力に対抗しうる現実的方法を発見しなければならない。この現実的方法は昇個人に対して個人的優位に立つ出世その他の方法ではありえず、昇の出世がもつ社会的な力と対立しうるような一般的社会的力としての、つまりまったく対立的な現実である。彼らの利害は対立しており、したがって彼らの現実性もまた対立する。昇の現実性とは正しくは彼が手段としている俗物的行動ではなく、結果としての出世がもつ社会的力である。だから文三は昇の個性に対してではなく、昇の個性よりもはるかに多くの内容を含む彼の社会的立場が持つ力全体を知り、その全体に対抗する力を獲得することで初めて現実的になる。
 文三はこのような現実をまだ発見していない。そのために昇やお政そして中村氏は文三を非現実的とし、出世のために手段を遊ばぬ昇のやり方だけが現実的と考える。しかし文三の現実がいまだ可能的現実(しかし必然的な)であるとしても、昇の現実性がより現実的であるとは、まして昇だけが現実的であるとは言えない。昇の能力は認識能力でいえば現実のあらゆる事象を出世の観点から構成し、出世の手段として評価しうることである。また手段として利用する実践的能力を持つことである。厳しい現実で勝利するには昇的な抜目のなさが実際に必要であり、これも他に秀でた現実的能力である。しかし現実のあらゆる事象を出世の観点から構成するという、彼を勝利者にするこの能力はこの能力特有の限界を持っている。かれの認識能力は彼の利害である出世以上の規模と内容を持つ現実、つまり歴史的必然や社会的本質といった、文三が発見せねばならず、まちのぞんでいる現実にはまったく届かない。歴史の必然は彼の出世の観点から発見する必要はないし、できもしない。これが彼の利害による社会的能力の限界である。昇はすでに自分の現実性を獲得し享受し、その獲得した現実性によって能力の社会的限界をも獲得したのであるから、この現実性の獲得を誇るわけにいかないのである。
 歴史的必然の力が出世の外部的対立的力として登場するまでは、昇は出世だけが現実であり批判は非現実的であると考え、自分の現実性の限界を知らず無限の可能性を持つと考えることができる。昇は幸い対立的な社会的力にかかわりあう必要のない時代に生きており、彼の現実性は無敵であり、そのためにまた大きな限界を持っている。昇が類型的であると言われるほど俗物でありうるのは彼の現実的力が文三に対して圧倒的に強大であり出世さえ出来ればその他の個人的属性がどのようなものであろうと、お政やお勢をひきつけ、文三にたいして優位を誇ることができるからである。非常な優位にある出世の力が現実性の内容をもっばら上司に対する奴隷的へつらいにしている。
 文三は現実的力を発見できずに苦しみ破滅する。しかし我々は彼の歴史的立場が何であり、彼の苦しみや破滅が歴史とどのような関連を持つかを知ることができる。そのことによってはじめて昇の現実性の意味を知ることができる。「浮雲」の後大量の文三が破滅し、文三の未来である社会的力もまた出現したからである。しかし中村氏は現実性をそのように考えなかった。中村氏は昇とまったく同じ立場にいるが、不幸なことに出世だけを目的にする昇と違ってインテリゲンチヤとして「浮雲」という歴史的作品の歴史的価値を論ずべき立場にいる。そのために出世だけを現実的と考え、現実を出世の観点から見る昇的認識能力の限界、つまり歴史の必然や社会的本質にはとどかない昇の認識能力の非現実性とはどのようなものかを身をもって証明するはめになった。ブルジョアインテリゲンチヤはブルジョアイデオローグとして十分な名誉や地位を与えられるものの、その内容は現実の利害を物質的に貫徹しなければならないブルジョア自身にもはるかに劣る惨めな内容にならざるをえない。

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