『鶏』-1 (明治42年8月) 

  この作品は、鴎外が小倉に赴任した時の経験をもとにしており、その点では漱石の「坊つちやん」に似ている。しかも善悪を問題にしている。漱石の坊ちゃんは平の教員として赴任し、そこで赤シャツや野だいこらと対立する。それが坊ちゃんの正義感である。鴎外もこの作品では田舎での対立を特に善と悪の対立として問題にしているが、それは正義というような広い意味の名前をつけられるようなものではない。それが漱石と鴎外の違いである。鴎外の石田は、高級官僚として小倉に赴任し、そこで彼に仕える別当や下女との対立において自己を肯定している。それが正当であるとしても正義という広がりを持つ事はできない。
 小倉は鴎外のような高官にとっては左遷である。だから、小倉時代の経験には多くのエリート的な矛盾が展開したであろう。しかし、それは鴎外の描くべきテーマではなかった。鴎外は、小倉時代をおえて、出世の頂点まで上り詰めた時に、この小倉時代を、質実に自己を維持したことを描いていて、そこでの矛盾を排除している。これも鴎外らしい意地であり自己肯定である。自己を批判的に見る能力があれば、多くの書くべき内容があったが、鴎外はそれを無視し、それとかかわりのない矛盾の中で自己を肯定することに内容を見いだした。しかし、ここでもやはり自己肯定には無理がある。無理を承知であくまで肯定しつづけることが鴎外の意地でもあり個性でもあり、文学史に残った所以でもある。
 婆あさんは腹の中で、相変らず吝嗇な人だと思った。この婆あさんの観察した処では、石田に二つの性質がある。一つは吝嗇である。肴は長浜の女が盤台を頭の上に載せて売りに来るのであるが、まだ小鯛を一度しか買はない。野菜が旨いといふので、胡瓜や茄子ばかり食ってゐる。酒は丸で呑まない。菓子は一度買って来いと云はれて、名物の鶴の子を買って来た処が、「まづいなあ」と云ひながら皆平げてしまって、それ切買って来いと云はない。今一つは馬鹿だといふことである。物の直段が分らない。いくらと云っても黙って払ふ。人が土産を持って来るのを一々返しに遣る。婆あさんは先づこれ丈の観察をしてゐるのである。(p251)
 石田は真面目な軍人である。贅沢をしない。それは特に我慢しているのではなく、そのような生活が信条として身についている。しかし、ケチではない。金に執着する結果として質実に生活しているのではない。鴎外は思想世界というものを持たなかったので、こうした個性に一般的な意義を認めていた。だから、端的に描写せず、婆さんの観察を使って二重化している。婆さんが、この石田の特徴を、ケチで馬鹿だと、評価する。しかし、実際はケチでも馬鹿でもなく、質実で金に執着していない。つまり、婆さんの認識は石田の行為に届かない、理解できないほど高度である、として石田の個性を高度に描こうとしている。しかも、石田はどう解釈されても問題にしない。自分自身で正当だと信じていれば、自分が自分の信条に一致していさえすればそれで満足である。婆さんの観察という表現を使っていてもこれは鴎外自身の観察である。こうした個性としての特徴を肯定的に描写する必要があったし、またそうしたものが自己肯定の要素になるというのは、鴎外が如何に思想的に貧しい世界に住んでいたかを物語っている。自己自身にのみ関心を持つような自己はやはり狭い精神世界に住んでいる。
 この前段には、戦争でも、石田が略奪を禁止したことが書いてある。それは重要なことである。しかしエピソードとして単純に書かれている事からも、それが限定的な意味しか持っていない事がわかる。そのような信条が大きな意義を持っているかどうかは、その信条が戦争の性質とぶつかる時に問われるが、そうした問題意識をもっていないために、単なる善行の実例としてのみ描かれており、それはこの作品に描かれた幾つかの善的な行動と同一レベルの物として描かれている。
 「こねえな事を言うては悪うごこざりまするが、玉子は旦那様の鳥も生まんことはござりません。どれが生んでも、別当さんが自分の烏が生んだといふのでござりますがな。」
 婆あさんはおそるおそるかう云つて、石田が怒って大声を出さねば好いがと思つてみた。ところが石田は少しも感動しない。平気な顔をしてゐる。婆あさんはじれつたくて溜まらない。今度は別当に知れても好いから怒って貰ひたいやうな気がする。そしてとうとう馬鹿に附ける薬はないとあきらめた。
 石田は暫く黙つてゐて、極めて冷然としてかう云つた。
 「己は玉子が食ひたいときには買うて食ふ。」
 婆あさんは歯痒いのを我慢するといふ風で、何か口の内でぶつぶつ云ひながら、勝手へ下った。(p254)。
 田舎で貧しい暮らしをしている婆さんが卵を気にするのはよく分かる。しかし、石田程の高官が、あるいは鴎外ほどに上り詰めたエリート官僚がこんなことを気にするのは理解しにくい。石田は卵の一つや二つの所有権をめぐって別当と争っているのではない。もっと深刻である。卵を盗むことにどう対処するかについて、婆さんと争っている。この場合さんは鴎外がつくり出した、石田を肯定するための対立物である。卵を取られないように用心すべきだと一方の鴎外である婆さんは考え、他方の鴎外である石田は、そんなことを問題にすべきではない、と考える。一方の鴎外は、馬鹿に付ける薬はない、とか歯がゆいのを我慢するほど卵にこだわっている。他方の鴎外は、「極めて冷然としてかう云つた」として卵を自分で買って食うことに非常に大きな精神的価値を認めている。婆さんと石田の距離の大きさは、鴎外が、石田の卵にまつわる精神を如何に重視しているかを示している。石田が卵を自分で買って食べる事は、石田の収入の多さによるが、石田はそれを冷然たる態度に変える事によって非常に大きな精神的価値であるかのように自己を欺瞞している。卵くらい自分で買えばよい。しかし、卵を自分で買うことによって自分を高く評価するのは不当である。
 鴎外はこの冷然たる態度が好みなようで、トラブルに対して冷然と対処することをこの時期の作品によく書き込んでいる。冷然というのは、超然とした、相手を問題にせずに自己を保持する態度で、この境地が理想であったのだろう。これも鴎外らしい。隣から自分を罵倒している女に対しても同種の態度を示している。
 石田は花壇の前に棒のやうに立って、しゃべる女の方へ真向に向いて、黙つて聞いてゐる。顔にはをりをり微笑の影が、風の無い日に木葉が揺らぐやうに動く外には、何の表情もない。軍服を着て上官の小言を聞いいてゐる時と大抵同じ事ではあるが、少し筋肉が弛んでゐる丈違ふ。微笑の浮ぶのを制せない丈違ふ。
 石田はこんな事を思ってゐる。鶏は垣を越すものと見える。坊主が酒を般若湯といふといふことは世間に流布してゐるが、鵜を鑽籬菜といふといふことは本を読まないものは知らない。鶏を貰つた処が、食ひたくもなかったので、生かして置かうと思った。生かして置けば垣も越す。垣を越すかも知れないといふことまで、初めに考へなかったのは、用意が足りないやうではあるが、何を為るにもそんな eventualite を眼中に置いては出来やうがない。鶏を飼ふといふ事実に、此女が怒るといふ事実が附帯して来るのは、格別驚くべきわけでもない。なんにしろ、あの垣の上に妙な首が載つてゐて、その首が何の遠慮もなく表情筋を伸縮させて、雄辮を揮ってゐる処は面白い。東京にゐた時、光線の反射を利用して、卓の上に載せた首が物を言ふやうに思はせる見世物を見たことがあった。あれは見世物師が余り pretentieux であったので、こっちの反感を起して面白くなかった。あれよりは此方が余程面白い。石田はこんなことを思ってゐる。
 垣の上の女は雄辯家ではある。併しいかなる雄辯家も一の論題に就いてしやべり得る論旨には限がある。垣の上の女もとうとう思想が涸渇した。察するに、彼は思想の涸渇を感ずると共に失望の念を作すことを禁じ得なかつたであらう。彼は経験上こんな雄辯を弄する度に、誰か相手になってくれる。少くも一言くらゐ何とか言つてくれる。さうすれぱ、水の流が石に触れて激するやうに、辯論に張合が出て来る。相手も雄辯を弄することになれば、旗鼓相当って、彼の心が飽き足るであらう。彼は石田のやうな相手には始て出逢つたであらう。そして暖簾に腕押をしたやうな不愉快な感じをしたであらう。彼は「えゝとも、今度来たら締めてしまふから」と言ひ放って、境の生垣の蔭へ南瓜に似た首を引込めた。結末は意味の振ってゐる割に、声に力がなかった。(p257)
 長い無意味な文章であるが、鴎外の特徴を味わうために引用した。これはヰタ・セクスアリスで、鴎外が自分の特徴を悟性が勝っているとしたことの具体例である。情熱のない、冷たい、冷然とした、対象とかかわりを持たない、自己内のみを運動する乾いた精神である。女は自分の畑に石田の鶏が入ってくる事に怒っている。それをクツワムシのように鳴くやかましい女の声だとか、方言のこととか、そしてここに引用した鶏を飼ったことの結果についての理屈っぽい説明や、女の顔を見せ物のように面白がったりした上で、自分の態度が女に与えた効果について描いている。保守的な頑固な人間らしい態度であり精神である。このような人間よりも漱石の赤シャツの方がまだ血が通っていると思える。
 これは鴎外の考える余裕で、漱石と非常に違っている。鴎外の余裕は自己を自己として保持すること、他人に自分の領域に、精神に踏み込ませない事、しかも自分に咎められるような汚点を残さないことでそれを完璧にしようとする。石田は女をまったく問題にしない。しかし、それは石田のサーベルをこわがっている女を無視して自分の鶏の自由を確保するといった単純なエゴイズムではない。石田が女の罵倒を無視して冷然としているのは、女の罵倒か彼の感情や意識に影響を与えないというだけのことであって、石田は女の主張を認め、鶏を籠に伏せておくように言いつけ、実質的には女に譲歩する。
 石田ないし鴎外は、この女の小さな利害によって自己を肯定している。女をサーベルで脅しつけ、女の畑に鶏を追い込めば、それは地位を振りかざした横暴である。鶏は地位によって畑を荒らすのであり、鶏の行動は地位の横暴を代表することで地位の社会的な意味を表現することになる。しかし、卵を自分で買って食うことや、女の罵倒を受け入れて鶏を籠に伏せておくことで、冷然たる自分の精神の全体を肯定するとしたら、それは欺瞞であろう。卵と鶏で自分の地位の本質を覆い隠す事であろう。卵と鶏くらいの譲歩で藩閥政府の保守的な高級官僚が肯定されるては彼らの支配下で苦しんでいる多くの国民にとって公平とは言えないであろう。日本史において高級官僚の果たした巨大な役割があり、また巨大な弾圧的で反動的な役割もある。それらの一切は鶏と卵とは関わりがないはずである。それにもかかわらず石田ないし鴎外はこの鶏と卵で自己を肯定しようとしている。不当であるし虚偽である。
 鴎外自身も自分が超然としていることを地位の力だとは認識せず、自分が僅かの利害を問題にせず、女に譲歩するだけの寛大さを持っていることによる精神的な余裕であると思っている。僅かの利害で自分の道徳的な品格を買い取るのが鴎外の特徴である。このわずかの譲歩によって自己を道徳的に肯定することが温かい知を枯らし、情熱を失わせる。石田の超然とした、冷然とした態度は隣の女との関係の完全な断絶を意味しており、一般的には人間関係に対して超然とする事、孤立を意味している。ただし、この小倉では石田の関係するすべての人物との関係の断絶は、石田にとってなんら痛手ではない。田舎での一時的な、そして、身分の違う連中との関係であるから、もともと深い関係になる必要はなく、かかわり合いにならないようにうまく対処する事が高官らしい力量である。鴎外はこれが余裕であると思う。この冷然が地位を背景にした、地位を肯定する態度であることを理解しない。この関係や精神と地位の関係は認識されず、単に心、精神、道徳の問題だと意識されている。その観点からすると非の打ち所のない対処である。しかし、それが冷然である程超然としているほど寒々としている。
 石田は平生天狗を呑んでゐて、これならどんな田舎に行軍をしても、補充の出来ない事はないと云つてゐる。偶には上等の葉巻を呑む。そして友達と雑談をするとき、「小説家なんぞは物を知らない、金剛石入の指環を嵌めた金持の主人公に Manila を呑ませる」なぞと云つて笑ふのである。
 質実に暮らしているが知識は多い。知識が多くても軟弱ではない。これは鴎外自身もそうであっただろう。しかし、思想はなかった。小説家にとって現実についての実証的な知識は必要である。鴎外はこういう知識をいくらでも知っていたし、よく小説に書き込んでいる。しかし、こうした実証的な知識は前提となる素材についての知識であって内容ではありえないし、小説家らしい無知ではない。小説家が知らねばならない知識は社会関係やそれを反映した精神であって金持ちがどんな葉巻を呑むかなどということはまだ内容にならないし、たとえそんなことを偶然的に知らなくても小説家としての才能に影響はないし致命的ではない。鴎外の思想的な無知は致命的である。だから小説家の無知を笑っている場合ではないが、思想の世界に一歩も踏み込まなかったから、こうした知識についての疑問を持つ事はできなかった。このような余裕は無知によるものである。
 三四日立つてからの事である。もう役所は午引になつてゐる。石田は馬に蹄鉄を打たせに遣つたので、司令部から引掛に、紫川の左岸の狭い道を常磐橋の方へ歩いてゐると、戦役以来心安くしてゐた中野といふ男に逢つた。中野の方から声を掛ける。
 「おい。今日は徒歩かい。」
 「うむ。鉄を打ちに遣つたのだ。君はどうしたのだ。」
 「僕のは海に入れに遣つた。」
 「さうかい。」
 「非常に喜ぶぜ。」
 「そんなら僕も一遍遣つて見よう。」
 「別当が泳げなくちやあだめだ。」
 「泳げるやうな事を言つてゐた。」
 中野は石田より早く卒業した士官である。今は石田と同じ歩兵少佐で、大隊長をしてゐる。少し太り過ぎてゐる男で、性質から言へぱ老実家である。馬をひどく可哀がる。中野は話を続けた。
 「君に逢つたら、いつか言つて置かうと思つたが、ここには大きな溝に石を並べて蓋をした処があるがなあ。」
 「あの、馬借に往く通だらう。」
 「あれだ。魚町だ。あの上を馬で歩いちやあ行かんぜ。馬は人間とは目方が違ふからなあ。」
 「うむ。さうかも知れない。ちつとも気が附かなかつた。」
 こんな話をして常磐橋に掛かつた。中野が何か思ひ出したといふ様子で、歩度を緩めてかう云つた。
 「おう。それからも一つ君に話して置きたいことがあつた。馬鹿な事だがなあ。」
 「何だい。僕はまだ来たばかりで、なんにも知らないんだから、どしどし注意を与へてくれ給へ。」
 「実は僕の内の縁がはからは、君の内の門が見えるので、妻の奴が妙な事を発見したといふのだ。」
 「はてな。」
 「君が毎日出勤すると、あの門から婆あさんが風炉敷包を持つて出て行くといふのだ。ところが一昨日だつたかと思ふ、その包が非常に大きいといふので、妻がひどく心配してゐたよ。」
 「さうか。さう云はれれば、心当がある。いつも漬物を切らすので、あの日には茄子と胡瓜を沢山に漬けて置けと云つたのだ。」
 「それぢやあ自分の内へも沢山漬けたのだらう。」
 「はゝゝゝ。併し兎に角難有う、奥さんにも宜しく云つてくれ給へ。」
 話しながら京町の入口まで来たが、石田は立ち留まつた。
 「僕は寄つて行く処があつた。ここで失敬する。」
 「さうか。さやうなら。」
 石田は常磐橋を渡つて跡へ戻つた。そして室町の達見へ寄つて、お上さんに下女を取り替へることを頼んだ。お上さんは狆の頭をさすりながら、笑つてかう云つた。
 「あんた様は婆あさんがえゝとお云なされたがな。」
 「婆あさんは行かん。」
 「何かしましたかな。」
 「何もしたのぢやない。大分えらさうだから、丈夫な若いのをよこすやうに、口入の方へ頼んで下さい。」
 「はいはい。別品さんを上げるやうに言うて遣ります。」
 「いや。下女に別品は困る。さやうなら。」
 この場面もあまりに鴎外らしくて面白い。蹄鉄をうたせに行ったのでとか、海に入れると馬が喜ぶとか、別当が泳げなければならないとか、の小さな素材がうまく組み合わされている。中野と別れる場面での「僕は寄って行く処があつた。ここで失敬する」などというのは、あまりにもさりげなくてわざとらしさが浮き上がってきて滑稽である。石田は確かに偶然中野に出会ったのであるが、偶然ではない。「魔睡」でも偶然に友達が話をしに来て、ふと医者の悪口を言ってしまうのは確かに偶然であるが、やり小説としては、あるいは鴎外の精神としては偶然ではない。
 別当が卵を盗んでいる事については婆さんが告げ口をする。婆さんが茄子とキュウリを盗んでいる事については中野が真実を教える。医者のことは友人が忠告する。決して本人がそのことに気がつかないのは、主人公は人を疑わない点においても肯定されているからである。鴎外の自分自身に対する道徳的な品格についての厳しさが告げ口をするという方法を必然にしている。疑い深くないから迂闊で、事実を知らず、人に教えられてようやく気がつくという形式も消極性を品性とする鴎外の重要な特徴で、疑い深さを自分に許さないというのも本質的には自分自身が対象と直接的な関係を結ばないという消極性を意味しており、この点から鴎外が人を疑うことについて非常に神経質で、つまりは人を疑う事において、人間不審において非常に深刻な問題を抱えており、同時にそれを漱石のように克服する可能性をまったく持たず、それを持たない心理を理想とするだけの当為にとどまり、人間不審の根を解決する可能性をすでに失っていたことが分かる。この疑いを前提として自己を肯定する場合に、疑いを人に分け与えて自分は素朴でありつづけ、寛大な対処の部分だけを受け持つのである。しかし、小説としてはそういう分担を描いてしまうので小説自体は非常に疑い深い性質の、責任を転嫁した、自分だけが綺麗でいようという意識を反映した人間関係を描写してしまう。
 鴎外は婆さんや中野や友人が告げ口という形式で持つ不信感を根強く持っているために、それを他人に転嫁する。こうした矛盾を持つ事が人間として当然であり、そこれを矛盾の中で超えていくのが精神の発展であるが、自己肯定に厳格で保守的であった鴎外はこうした特徴を自分の中から排除し、それを否定するあるいはそれを持たない精神を自分の特徴としていた。それは、この不信感を温存することであったが、それはこの不信感を超える可能性を鴎外自身が思想的にまったく持たなかったからであり、それは基本的に地位を肯定しているからである。その特徴がこの作品にもよく出ている。鴎外は人を悪く云う婆さんや中野や友達の意識を強く内部に持っていて、それを持たない精神を肯定的自己として他方に持ち、この両者の対立の中に生きて、しかもこの矛盾を発展させようとせず、覆い隠しにかかったために、それを超える契機を見つける事ができなかった。そして冷然たる態度は自己の内面を覆い隠し押し殺す冷たい悟性になった。鴎外はこの矛盾に満ちた社会で、鴎外が感じていた矛盾を解決するにはその矛盾を深化発展する事だけだという漱石の理解とまったく逆に、自分の経験するすべての矛盾を開解消しようとし、解消した自己を求め、それを小説に書き、そこでさらに矛盾を生み出し、さらにその矛盾を覆い隠す努力をした。鴎外が対立的に描写した二つの精神は誰もが内部に持つものであり、その矛盾が深いことが情熱であり感情である。それを押さえ込むのが鴎外の冷たい悟性である。

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